表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
227/265

第226話 鳥取城の戦い(その2)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


 天正九年(1581年)六月二十六日。重秀は姫路城二の丸御殿の『奥』にある書院で秀吉と話をしていた。


「・・・本丸御殿は『御座所』にしてしまったんですね」


「ああ。上様が毛利との決戦に来られる際、姫路城は上様の宿泊所になるからな。元々本丸御殿は御座所としての役目を兼ねられるようにしとった。まあ、長浜城と同じじゃな」


 秀吉が笑いながらそう言った。そして真面目そうな顔をしながら重秀に尋ねる。


「して。文では伝わっているが、お主の口から直接聞きたい。住吉はどうであったか?」


「はい。遠里小野では菜種油を、五箇庄では銅の鋳造について見学してきました」


「菜種油を荏胡麻油の代わりに栽培。それをもって大山崎の油座を屈服させるとは。宗久殿(今井宗久のこと)は中々考えるのう」


 感心したような口調でそう言う秀吉に、重秀が話しかける。


「宗久殿の考えを実現するには、大量の菜種油を流行らせる必要がございます。そのために、摂津や播磨での油菜栽培の助力を頼まれました」


「うむ。その事は藤十郎の文で知っておるが・・・。藤十郎、お主はどう思う?」


 秀吉が興味深そうにそう尋ねてくると、重秀は悩みながらも答える。


「・・・今後、桐油は造船や建築、油紙製造でより多く必要となります。灯明に回せぬ以上、代わりの油が必要になります。菜種油は米の裏作としては素晴らしいものと思いますが、播磨で行われている麦作の代わりにしてよいのか、という想いはあります。食い物の確保はまつりごとをする者にとっては重要な役目の一つにて」


「確かにな。しかし、そう二者択一に考えることはない」


 秀吉の言葉に、重秀はかすかに首を傾げた。秀吉が分かりやすく言う。


「摂津と播磨全土の米の裏作を麦から油菜にする必要はない。摂津の重秀の知行だけ油菜とし、播磨は麦とすればよいであろう。とりあえずそれで様子を見れば良い」


 秀吉の考えに、重秀が「なるほど」と頷いた。重秀は更に尋ねる。


「ただ、摂津で油菜を作るとして、それから菜種油を採ってどうするか、が問題でございます。兵庫津の商人に扱わせるのか、それとも今井殿に任せるのか」


「宗久殿は何と?」


「まずは菜種油を流行らせるのが先だと申しておりました。そのために、領外に油を売る際に今井家にお任せいただければ、と申しておりました」


 重秀がそう言うと、秀吉は顎を右手で擦りながら「ふむ・・・」と呟いた。しかし、すぐに考えがまとまったのか、秀吉は顎から右手を離して重秀に言う。


「・・・そうだな。いっそ、藤十郎の領地の菜種は全て今井家に委ねてよいのではないか?」


「・・・よろしいのでございますか?」


 重秀がそう言うと、秀吉は頷く。


「我等は宗匠(千宗易のこと)や小西隆佐殿との繋がりはあるが、織田家筆頭茶頭の宗久殿とはあまり繋がりがない。ここで繋がりを持っておけば、今後何らかの役に立つだろう。ここは、宗久殿に恩を売ってもよいじゃろう。ただし・・・」


 秀吉はそう言うと、声を潜めて話を続ける。


「・・・宗久殿とは菜種油と鋳物のみの結びつきだけにしておけ。それ以上結びつくと宗匠や隆佐殿がへそを曲げるでの。それに、桐油はすでに長浜の商人や北近江の百姓と結びついておる。更に播磨でも桐油の生産が始まったばかりじゃ。播磨の油商人や百姓が関わってきているところに宗久殿が首を突っ込んでくるのはよろしくないからのう」


 重秀もまた、秀吉の言った事に反対することはなかった。宗易や隆佐との結びつきは重要であった。また、灯明以外に使い道の広い(但し食用には使えない)桐油は、造船や油紙等、羽柴の軍事に関わるため、自らの手でコントロールしたい油だった。


「分かりました。では、その様に宗久殿には伝えておきます」


 重秀がそう答えると、秀吉は「うむ。任せた」と言って頷いた。次に秀吉は銅の鋳造についても聞いてきた。


「それで、新たな石火矢は作れそうなのか?」


「石火矢ではなく、大筒にしようと思っております。作りやすいうえ手間がかからぬ分、安く作れるとのことにございました」


「おお、それは良いな。銭がかからぬのは良いことよ」


 秀吉がそう喜んだ。重秀が更に話を続ける。


「そう言えば、五箇庄の鋳物師達の要望により、石火矢を一挺送りました。参考にしたいとか」


「そうなると重秀の持っている石火矢は五挺か?此度の鳥取城攻めで使うのではなかったのか?」


 秀吉の問いかけに、重秀は渋い顔で答える。


「一応、全部持ってきております。が、山の中を通る因幡街道を突破できるか不安です」


「・・・まあ、此度の鳥取城攻めでは石火矢がなくても勝てるとは思うが・・・。しかし、せっかくあるんじゃから、使ってはみたいものよのう」


 秀吉が呑気にそう言ったため、重秀は思わず顔を顰めた。重秀は兵庫に来る伴天連から、石火矢は元々攻城兵器だという話は聞いていた。しかし、重量のある石火矢を運ぶのに苦労したのである。整備された西国街道ですら牛と大人数の人夫を使って運んだことにうんざりしていたのに、これから山の中を通る因幡街道を運んでいくと考えると、重秀は未来の苦労に辟易していた。

 そんな想いを抱く重秀に、秀吉は明るい声で語りかける。


「そんな顔をするな。戦というものは事前に苦労した者が勝つのじゃ。儂が武功を挙げられたのは、儂が戦をする前に調略を行ったり必要なものを十分揃えたりしたからじゃ。石火矢の運搬に苦労すれば、それだけ城攻めは楽になるのやも知れぬ。男子おのこは度胸!何でもやってみるものじゃ!」


 そう言って笑う秀吉。重秀もまたそれまでの渋い顔をやめ、興味で輝いた目を秀吉に向けて言う。


「・・・分かりました。せっかく上様から頂戴した石火矢です。どのように役に立つか見極めたいと思います」


 その後、秀吉と重秀は姫路城二の丸御殿の『奥』にある居間へと移動。御祖母様と久しぶりに夕餉を共にすると、秀吉と共に近況を語り合うのであった。





 天正九年(1581年)六月二十七日。姫路城より羽柴軍が出陣。一路鳥取城を目指した。

 同年七月二日には若桜鬼ヶ城に入城。付近でくすぶっていた反織田の国衆を改めて掃討した後、若桜鬼ヶ城を出発。七月十二日に鳥取城下に到着した。

 その頃には七月五日に鳥取城下に到着していた羽柴小一郎長秀の率いる但馬勢によって、鳥取城の北部、特に丸山城が包囲されていた。


 秀吉は鳥取城の東側、高山(帝釈山とも言う。今の本陣山)と呼ばれる場所に本陣を置くと、諸将を集めて軍議を開いた。


「この山を中心として、鳥取城を包囲するように附城を作る。総奉行は加藤作内(加藤光泰のこと)とする。官兵衛(黒田孝隆のこと)が附城の具体的な位置等をこれより話す」


 重秀の指揮―――実際は前野長康の指揮の下、重秀勢と兵庫から連れてきた大工衆によって本陣となる陣城の造営がなされている中、黒田孝隆が小一郎と但馬勢の諸将と、鹿野城からやってきた山中幸盛と亀井茲矩に今後の策を話した。


「・・・以上が附城についての説明でござる。そして、附城を造るのと同時に行ってほしいことがあります。それは、付近の村々を焼き討ちすることでござる」


 孝隆の言葉に、小一郎を始めとした但馬勢の諸将と幸盛、茲矩が驚きの表情を顔に浮かべた。孝隆が「これも兵糧攻めの策の一つ」と言って解説したので、皆は納得したのだが、幸盛が懸念を口にする。


「・・・事前の話では、鳥取城落城の後、鳥取城は我が殿(尼子勝久のこと)に譲られ、因幡守護をも任せるとのこと。百姓をむやみに傷つけては、今後の因幡支配に支障をきたすのではないだろうか?」


「鹿介殿(山中幸盛のこと)のご懸念ごもっとも。然れども、鳥取城を早期奪還し、尚且つ毛利右馬頭(毛利輝元のこと)と両川(吉川元春と小早川隆景のこと)を早期に鳥取城へ引き釣りだすには、鳥取城を早急に落城の危機へと陥らせる必要があります。そのためには、多少の犠牲はやむを得ないものと考えます」


 孝隆の言葉に、幸盛は少し黙った後、不本意そうな顔で「・・・承知した」と応えた。そんな幸盛に、秀吉が声を掛ける。


「鹿介。お主等尼子勢は鹿野城で毛利からの援軍と兵糧物資の阻止という重要な役目がある。あまり尼子勢を失いとうない故、貴殿等は早々に鹿野城へ帰還してもらいたい」


 秀吉がそう言うと、幸盛が首を横に振る。


「いえ。附城を早急に造らなければ、鳥取城内からの妨害で遅くなるやも知れませぬ。そうなれば、鳥取城を包囲すること難しく、かえって戦が長引きまする。早期に決着をつけたいのであれば、我等尼子衆もお手伝いして附城を一つでも多く造るべきであり、また羽柴勢だけに村の焼き討ちの汚名を被せるわけには参りませぬ。何卒、尼子勢もお使いくだされ」


 幸盛の提案に、秀吉はしばらく考え込んでいた。そして口を開く。


「・・・相分かった。しかしながら鹿野城が気になる故、鹿介殿には早急にお戻りいただきたい。附城と焼き討ちは他の者に任せていただきたい」


 秀吉の提案に、幸盛は今度は提案を受け入れるような表情で「承知した」と頷いた。


「ここにいる亀井新十郎(亀井茲矩のこと)に兵を預けてここに置いていきまする。拙者の養女婿むすめむこなれば信厚き者。どうぞ存分にお使いくだされ」


 幸盛はそう言って隣りに座っていた亀井茲矩を紹介した。茲矩が自己紹介する。


「それがし、尼子家家臣の亀井琉球守茲矩と申しまする。以後、よろしくお頼み申し上げまする」


 笑顔の髭面の男の自己紹介に、秀吉だけでなく他の者も面食らってしまった。





「・・・亀井、琉球守りゅうきゅうのかみ?」


 高山での軍議が終わり、しばらく経った後、本陣となる陣城構築の報告に来た重秀は、秀吉から軍議での話を聞いた。そこで、重秀は亀井茲矩のことも聞いた。


「なんです?琉球守って?」


「読んで字の如く、琉球の国司ということじゃろう?そんな官職があるのか知らぬが」


「ありませんよ。そもそも、琉球国は日本ひのもとではありませんし、あそこには王がいたはずです」


 当時の琉球は琉球王国であった。明王朝の冊封国であり、日本とは別の国とされていた。当然、律令制には琉球守なんて官職はなかった。


「琉球守殿の話では、『これからの尼子の行く先は海にある』らしい。山陰の山奥に引き籠もるより、海に出て異国との交易に活路を見出すよう、常日頃から鹿介や式部少輔殿(尼子勝久のこと)に言っているらしい」


 秀吉の言葉に、重秀が首を傾げる。


「・・・そんな事言ったら、出雲や石見の旧領回復を願う鹿介殿に嫌われませんか?」


「いや、石見の銀山を元手に交易したいんだと。南方との交易の中継地として、琉球が欲しいみたいじゃ。ま、そんな訳で、船好きのお主とは話が合うやも知れぬ。機会があったら、お主に会わせることにしよう」


 秀吉の言葉に、重秀はただ「はぁ」と答えるしかなかった。船に興味はあるし、大海原に出て遠くに行きたいと心の内には秘めていたが、今は鳥取城での戦に勝利することで頭がいっぱいであった。なので、重秀は秀吉に附城、特に高山に築かれる陣城について聞いた。


「姫路にて官兵衛殿から本陣の陣城について聞いておりましたが、御座所はともかく天守や庭園はいりますか?いくら上様をお迎えするとはいえ、そこまでする必要ありますか?」


「無論じゃ。上様は従二位前右大臣じゃぞ。天下人が来るにふさわしい陣城でなければならぬ。それに、毛利の大軍が来た場合に、天守を見せることでこちらの武威を毛利に見せつけることで敵の士気を挫くこともできよう。

 ついでに、庭園の池は籠城の際の水源にもなるじゃろうが。高山ではあちらこちらに湧き水が出て沢を作っておるが、その水を貯める池は作らねばならぬ。どうせ造るならば、庭園の池としたほうが見た目が良いであろうが」


 秀吉の言葉に重秀は驚いた。そこまで秀吉が考えているとは思っていなかったのだ。


「・・・この藤十郎。考えが浅はかでございました。父上のお考えどおりに陣城を造りまする」


 そう言って頭を下げる重秀に、秀吉は頷く。


「うむ。よくぞ申した。陣城ができたあかつきには、お主は鳥取城攻めの総大将として、この陣城から采配を振るがよい」


 秀吉がサラッと言ったので、重秀は「ははっ!」と返事をするだけであった。しかし、秀吉の言葉を脳内で繰り返すうち、重秀は事の重大さに気がついた。慌てて秀吉に言う。


「・・・ま、待って下さい!なんで私が鳥取城攻めの総大将なんですか!?」


「大事ない。小一郎が補佐する」


「いや、そう言うことじゃなくて!鳥取城攻めの総大将は父上でしょう!?」


「儂は官兵衛とやらねばならぬことがある」


 秀吉がこともなにげにそう言うと、重秀は「はあ?」と声を上げた。秀吉が話を続ける。


「藤十郎。儂と官兵衛は毛利右馬頭と両川を鳥取城に誘い込むには、鳥取城を包囲するだけでは足りぬと思うておるのじゃ。そこで、儂と官兵衛の軍勢は、鹿野城の尼子勢と共に羽衣石城へ向かおうと思っておる」


「羽衣石城って・・・。伯耆国の羽衣石城ですか?」


 重秀が唖然とした状態でそう尋ねると、秀吉は頷いた。


「うむ。毛利攻めの総大将である儂が官兵衛と尼子勢を引き連れて、伯耆へ行くことで毛利を焦らせるのじゃ。伯耆は昔は尼子の支配下にあった国。そこに尼子式部少輔殿を連れていけば、伯耆の国衆はもちろん、隣国の出雲の国衆も動揺するであろう。そうなれば、吉川駿河(吉川元春のこと)だけでは抑えきれぬ。必ず、毛利右馬頭と小早川左衛門佐(小早川隆景のこと)も出てくるじゃろう。そうなれば、上様にご出馬を願い出ることができる」


「それはつまり、父上と尼子を餌に毛利を釣り出そうということでございますか?そして毛利の主力が山陰に集結した頃を見計らって上様を鳥取城までご足労いただくと」


 重秀がそう言うと、秀吉はニヤリと笑った。


「さすがは儂の子よ。よく分かっているではないか。上様が織田の主力を率いて鳥取城まで攻めてくれば、右馬頭も両川も後には引けぬ。引いたら国衆の信頼を失うからのう。後は鳥取城で毛利と織田が決戦を行う、ということになるのう」


 ここまで秀吉の作戦を聞いた重秀は、ふと姫路で聞いた話を思い出した。


「・・・父上。父上の手勢と黒田勢が附城築城や村々の焼き討ちに参加しないのは、羽衣石城へ向かうための温存ですか?」


 重秀の言葉を聞いた秀吉が笑う。


「あっはっはっ、そう思ったか。そうじゃ、と言いたいところじゃが、実は羽衣石城に向かうか否かは鳥取城に着いてから決めたのじゃ」


「え?そうなのですか?」


「うむ。実は鳥取城だけでは餌としての旨味が少ないのでは?と官兵衛は思っておったらしい。儂に相談してきおったが、儂も良い案が浮かばなくてのう。そのまま鳥取城まで来たところ、鹿介の奴の顔を見たら思いついたのじゃ」


「では、官兵衛殿にはまだ話していないのですか?」


「いや、大体のことは伝えている。今後、附城の造営と村の焼き討ちをしている間に策を詰めるつもりじゃ」


 秀吉の言葉に、重秀はホッとした。秀吉と孝隆が策を練っている間、秀吉の主力部隊と黒田勢は鳥取城近くに在陣することになる。ということは、少なくともその間は予定通り築城中の部隊を護衛してくれるのである。これなら鳥取城からの妨害を防ぎつつも附城を完成させることができそうだった。

 そんな事を考えていた重秀は、その事を秀吉に伝えると、秀吉は頷く。


「お主の言うとおりじゃ。特に、鳥取城の吉川は兵の士気を鼓舞するために遠くない日に打って出る虞がある。それに備えにゃならんからのう」





 結論から言えば、吉川経家による鳥取城からの襲撃はあった。しかし、それは秀吉が着陣した次の日。すなわち七月十三日の夜であった。秀吉も重秀も城内の敵が士気を鼓舞するために附城築城中の味方を攻めるとは思っていたが、ここまで早く攻めてくるとは思ってもいなかった。

 しかも、狙われたのは鳥取城の正面、大手門の前を流れる湊川(今の袋川)の対岸に陣を張っていた黒田孝隆の陣であった。大手門の前ということもあり、最大限の警戒をしていた黒田勢であったが、鳥取城方の夜襲が行われた時は、ちょうど孝隆が秀吉と羽衣石城進出作戦について話し合っていたため不在であった。そのため、夜襲時にはちょっとした混乱が見られた。

 夜襲自体は短時間で終わったため、黒田勢の損害は軽微であった。しかしながら、夜襲を成功させた吉川勢の士気は上がった。


 羽柴の報復はすぐに行われた。と言っても鳥取城を攻めるのではなく、予定通り鳥取城周辺の村々を焼き払うだけである。但し、当初は焼き払うだけであったが、実際は百姓に暴行を加えて追い払い、鍬などの農作業用の道具だけを略奪した。これは、附城を造る際に使用する道具を確保するためでもあった。その他の物、例えばなけなしの食料などは容赦なく焼き払われた。

 こうして羽柴勢に村から文字通り叩き出された百姓達は、羽柴勢が鳥取城以外の方向へ向かうことを許さなかったため、やむを得ず鳥取城に逃げ込んだ。城督である吉川経家は百姓保護のため、鳥取城内へと引き入れた。しかし、その数の多さに驚愕し、後に後悔することになるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
重秀という優秀な後継者を得た事で秀吉の自由度が上がり、結果として毛利家が史実より早く追い詰められてゆく訳ですか。 はてさて毛利輝元は史実の通り生き残れるのかそれとも…?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ