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第223話 住吉にて(中編)

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「駄目とは・・・それはどないな意味でございますか?」


「菜種油は羽柴が欲する油ではない、ということだ」


 今井兼久(のちの今井宗薫)の質問に対して、重秀がそう答えた。その傍では清正も同意するかのように頷いていた。


「な、何故菜種油が羽柴様の望む油ではないのでございますか!?菜種油は灯明としては桐油や荏胡麻油と遜色ないものと思います!」


 興奮気味に言う兼久に対して、重秀は落ち着いた口調で話す。


「灯明として使うのであれば、な。しかし、羽柴が欲する油は灯明だけに使うわけではない。船や建物、そして油紙にも使うのだ。桐油、それに荏胡麻油ならばこれらの物に使えるが、菜種油では使えないよ」


 油には、乾性油と半乾性油、そして不乾性油という3つの分類に分けることができる。乾性油とは空気に触れると酸化し、固化する油のことを指す。ちなみに半乾性油は固化はしないものの、流動性が少なくなる油で、不乾性油は酸化しても固化しない油のことを指す。

 そして乾性油は物に塗ることで固化し、防水性と防腐性を高めることができる。そこで、船や建物の材木に乾性油を塗ることで、防水性と防腐性を高めるのであった。また、乾性油を紙に塗ることで、油紙を作ることができた。


 そして、桐油と荏胡麻油が乾性油なのに対し、菜種油は不乾性油であった。


「羽柴で使う油は灯明用はもちろんだが、より多く使うのが船と油紙だ。特に船では材木の隙間を埋めるために、槇や桧の皮をほぐして柔らかくしたものに桐油を浸して乾かしたものを隙間に詰め込んでいるんだ。

 また、油紙は紙早合や紙合羽を作るのに使っている。これらは乾く油ではないと作れないんだ。菜種油はいくら経っても固まらなかった。そんな油が材木や紙に使えると思うか?」


 重秀がそう言うと、兼久だけでなく居間にいた庄屋の一家までもがしゅんとしてしまった。重秀が更に言う。


「菜種油は灯明にはいいと思う。が、羽柴が欲する油ではない。摂津では油桐の栽培が始まっているし、播磨では宇喜多領で作られている荏胡麻油が手に入る。米の裏作では麦が重視されているから、油菜を栽培する余裕はないだろう。

 ・・・紹介してくれた今井殿には申し訳ないが、羽柴は菜種油に手を出さないことにしよう」


 重秀がそう言った時だった。「恐れながら」と言う声が重秀の耳に入った。その声は、兼久の声ではなかった。


「恐れながら、羽柴の若殿様。何卒、この老いぼれの話を聞いたってくれやしまへんか?」


 そう声をかけてきたのは、居間の隅で座っていた一人の老人であった。


「・・・ご隠居はん。ここは控えてぇな。羽柴様やぞ」


 兼久がそう言って老人を宥めた。しかし、老人は構わずに話し続ける。


「今井の坊っちゃん。ここはわてに話させてくれへんか?羽柴様に、わて等の仇討ちの話を聞いてほしいんや」


 老人の発した言葉に、重秀が反応した。思わず老人に尋ねる。


「仇討ちとは穏やかではないな。どういうことだ?」


 そう訪ねた重秀に答えたのは老人ではなく兼久であった。


「あ、いや、羽柴様に聞かせるような話では・・・」


「何を言う。こういう古老から聞く昔話は意外に役に立つことが多いのだぞ?それに、なかなか面白いしな。菅浦では古老の話した大浦との諍いについて、楽しく話が聞けたぞ」


 重秀が楽しそうにそう言ったが、兼久は「し、しかし・・・」と言って戸惑っていた。そんな兼久に、今度は清正が声を掛ける。


「今井殿。長兄がこうなった以上は止めても無駄だ。ここは、そこのご隠居の話を聞かせた方が良いぞ」


 清正の言葉に、兼久が黙り込んだ。そしてしばらく考え込んだ後、口を開く。


「分かりました。ほな、この若野恭助めの話を聞いとくんなはれ」


 兼久がそう言うと、重秀がご隠居―――若野恭助に声を掛ける。


「ご老体。仇討ちについて話を聞こうか。ささ、近う寄れ。直言直答を許す故、詳しく話してくれ」


 重秀がそう言うと、恭助は「恐れ多いことでございます」と言いつつも座っていたところから重秀が座っている囲炉裏の側の反対側に移動した。そして恭助はゆっくりと遠里小野の昔話を語りだした。





 遠里小野では神功皇后の時代よりはしばみの種から製油がなされていた、と言われている。もっとも、現代の最新の研究によれば、榛ではなくはじかみの種ではないか、と考えられているが。

 起源や原料はともかく、遠里小野の油は灯明用として、最初は住吉大社に納められていたが、のちに朝廷にも納められるようになった。その後、平安時代から鎌倉時代にかけては油商人達や種を取って油を搾る農民、そして住吉大社の神人によって油座が成立。その独占権を確立した。

 しかし、南北朝時代になると、新興勢力である大山崎油座が勢力を拡大する。大山崎油座は育てやすい荏胡麻と、当時画期的な搾油機であった長木を使って荏胡麻油の大量生産を実現。更に硬軟分けた交渉術で室町幕府と朝廷からの特権を得る一方、幕府と朝廷の力を背景に他の油座を駆逐していった。そしてその駆逐された油座の一つに、遠里小野の油座があった。

 さて、遠里小野の油座が大山崎油座に敗北した頃、すでに野菜として中国からやってきた油菜の種から油が取れることが中国より伝えられた。遠里小野では野菜として油菜を育てていたこともあり、さっそく菜種から油を取ることにした。これが日本での菜種油生産の始まりであった。


「・・・なるほど。ご老体の言う仇討ちとは、大山崎の油座に対する意趣返しか」


 重秀がそう言うと、恭助は「おっしゃるとおりでおます」と答えた。


「わて等のご先祖様は油を作って住吉様や京の帝に納めとりました。そら、わて等遠里小野の百姓にとっては誉れでございました。せやけど、それが大山崎の神人や油商人に奪われたんでございます。わて等はその悔しさを代々受け継いできたんでございます」


 恭助がそう言うと、重秀は「なるほど」と言った。しかし、清正はあまり納得していないようだった。


「・・・しかし、そんな話を長兄に話してどうするんだ?大山崎は衰えたとはいえ上様(織田信長のこと)ですら無視できない力を未だに持っておるのだぞ。羽柴がどうこうできる相手ではない」


「・・・わて等は百姓ですさかい、大したことはできまへん。せやかて、大山崎の連中の鼻を明かしてやりたいんですわ。昔、わて等より多くの油を作ってきた大山崎の連中に、荏胡麻よりも多くの油が取れると言われてる油菜でひっくり返したいんですわ。ただ、大山崎の連中は公方様や天子様の御威光を笠に着て、諸国の荏胡麻を買い占めとるんですわ。遠里小野の油菜だけでは太刀打ちできまへん」


 清正に恭助はそう言った。続けて兼久が重秀に言う。


「・・・遠里小野の菜種油を見た父上(今井宗久のこと)は、未だ力を持つ大山崎の油座の力を削ぐことができると考えましてん。せやけど、油菜を多く育てているのはこの遠里小野とその周辺だけですわ。まあ、菜の花を育てているところはぎょうさんあると思いますが・・・」


「菜の花だからといってそれが油菜とは限らないからな。ひょっとしたら大根の花かもしれないし」


 重秀がそう言うと、兼久は「おっしゃるとおりでございます」と頷いた。


「そこで、わて等は考えましてん。菜種をぎょうさん作れそうな土地を持つ大名で、大山崎と対立している、油に詳しいお方に味方になってもらおうと」


「・・・なるほど。それが羽柴か」


 納得したかのように言う重秀。しかし、傍にいた黒田長政はよく理解できていなかった。なので思わず口に出してしまう。


「・・・な、何故そこで羽柴が出てくるのでございますか?」


 急に話に入ってきた長政に驚く重秀と兼久。清正も驚いたような顔を長政に向けていた。長政が思わず平伏する。


「こ、これは差し出がましいことを申し上げました!平に、平にご容赦くだされ!」


「・・・いや、良い。吉兵衛(黒田長政のこと)が疑問に思うことももっともだ。それに、私も不思議に思ったことがある。羽柴の領地・・・、播磨、摂津、但馬は菜種が取りやすい土地なのか?」


 重秀の質問に、兼久が答える。


「へぇ。実は油菜はあまり水気の多い土地では育ちにくいようなのでおます。米の裏作として育てるのであれば、田が乾きやすい地域で植えるのがよろしいかと」


「ああ、そうなると播磨と摂津は良いな。共に梅雨時期と秋の嵐の時期以外はあまり雨が降らないからな」


 姫路で秀吉や石田三成と話した播磨の土地の特徴を思い出しながら、重秀はそう答えた。兼久が頷く。


「へぇ。油菜は稲刈りが終わった後に種を撒き、田植えの前に刈り取ります。その間雨の少ない播磨や摂津は油菜を育てるにはちょうど良い場所なんですわ。

 ・・・それに、羽柴様も大山崎の油座には思うところがあるのではありませぬか?」


 兼久の言葉に、重秀が、いや重秀だけではなく清正と長政も渋い顔つきになった。重秀が忌々しそうに言う。


「・・・確かに、桐油を兵庫や姫路に入れるのに、だいぶ苦労しているからな・・・」


 羽柴が北近江を支配した後、菅浦を中心に北近江では油桐の種から搾った桐油が増産されていた。この時当然大山崎の油座の存在が問題となった。

 もっとも、この頃の大山崎の油座の力は北近江からは衰退しており、また下剋上で成り上がった浅井家が大山崎油座を無視して地元の油商人を保護したため、羽柴が桐油を増産した頃には大山崎油座を無視することができた。

 さらに、織田信長が足利義昭と対立して義昭を京から追放すると、幕府から認められた特権が否定され、更に信長による楽市楽座政策によって京の油市場の独占が否定されると、北近江の桐油はじわじわと京へ進出し始めた。そのため、大山崎油座はいづれ自分達を駆逐するかも知れない信長と桐油で利益を上げる長浜の油商人、そして長浜でその利益を手に入れている羽柴を目の敵にしていた。

 そんな羽柴の知行が播磨、摂津、但馬に移り、北近江から摂津や播磨に桐油が運ばれるようになった。北近江の桐油は長浜から船で瀬田まで行き、そこで荷揚げした後は京に入って西国街道を通って摂津へと向かうのである。しかし、摂津国と山城国の国境には、山崎と呼ばれる宿場町がある。この山崎こそ、大山崎油座の本拠地であった。


 さて、北近江の桐油を兵庫や姫路に運ぼうとした人夫達は、必ずといっていいほど山崎の周辺で野盗の襲撃にあった。桐油の入った樽は奪われ、それを乗せていた車は破壊された。人夫や車を牽いていた牛には特に被害はなかったが、それでも襲撃や逃走の際に怪我を負う者が多かった。

 結果、人夫達は桐油の運送を拒否し、兵庫や姫路に桐油が届かなくなってしまった。当然この状況に対して重秀は激怒した。父である秀吉にこの状況を報せると同時に、浅野長吉、石田正澄を山崎に派遣し、野盗の取り締まりを要請した。

 しかし、大山崎の油座は「分かった」と言うものの動かず、また周辺の国衆は見て見ぬふりをした。また、大山崎油座の構成メンバーである大山崎石清水八幡宮(今の離宮八幡宮)の神人達が野盗を説得して襲わなくさせる、という起請文を長吉と正澄に手渡したものの、その後も桐油を運ぶ人夫達が襲われる事件が相次いだ。

 当然、重秀は抗議したが、抗議以上のことはできなかった。大山崎の油座は「野盗に逃げられた」と言い訳をしてきたし、周辺の国衆は大山崎油座から莫大な金銭で買収され、動こうともしなかった。大山崎石清水八幡宮にも抗議したが、源氏の氏神様であり、全国の武士から信仰を集める八幡様を祀る相手に対して抗議以上のことはできなかった。

 このことは重秀から京都所司代の村井貞勝を通じて信長の耳にも入った。信長は大山崎の油座と周辺の国衆に野盗の取り締まりを貞勝を通じて命じたが、命じただけであった。昔の尾張の国主という立場ならともかく、事実上の天下人となった信長に、一地域の野盗ごときに自らなにかしようという気はなかった。

 結局、重秀は長浜からの桐油を運ぶ人夫達を護衛するための兵を派遣することにした。野盗の被害は無くなったものの、兵を送る手間と銭が掛かるようになったのであった。


「あれは絶対大山崎の油座が裏で糸を引いているよな」


 重秀がそう言うと、清正と長政は頷いた。そして兼久も頷く。


「連中がしそうなことでんな。大山崎の油座、正確には離宮八幡宮と石清水八幡宮は強訴をしては朝廷と代々の公方様を悩ませてきましたさかいに」


 兼久の言葉を聞きながら、重秀は考えた。


 ―――正直言って、桐油は灯明用だけでなく船や建物の材木に塗ったり油紙に使ったりと摂津や播磨ではとても足りない状態だ。播磨では宇喜多領で荏胡麻油が作られているし、羽柴領では元からあった油桐から桐油を精油しているが、とても足りない。灯明だけなら魚油もあるのだが、魚は食料としての優先度が高い。灯明のためだけに油菜を米の裏作として栽培し、菜種油を作るのはありなのではないだろうか?

 ・・・しかし、問題は播磨での裏作を麦から油菜に変えてもよいのだろうか?―――


 そう悩んでいる重秀に対し、兼久が囁く。


「・・・恐れながら羽柴様。腹は空いておりまへんか?」


 そう言われた重秀は、思わず腹をなでた。確かに空腹感はあった。


「まあ、減っているといえば減っているな。そういえば、そろそろ夕餉か?」


「明日は河内鋳物師達が多く住む五箇庄へ向かうことになっとりますが、今宵はこの庄屋の屋敷に泊まることになっとります」


「ああ、宿泊するのはこの屋敷だったか。では、ちと早いが夕餉にするか」


 重秀がそう言うと、同じく腹を空かせていた清正や長政、そして何故か若野恭助とその家族も喜んでいた。


「・・・何故ご老体とその家族が喜んでいるのだ?そんなに腹を空かせていたのか?」


 重秀がそう尋ねると、恭助ではなく兼久が答える。


「いえいえ、ご隠居が喜んでんのは、菜種油を使った料理をお出しすることができるからでおます」


「菜種油を使った料理?」


 重秀がそう尋ねると、兼久は嬉しそうな顔で更に答える。


「へぇ。しかも、南蛮渡来の食べ物ですさかい、きっと羽柴様も喜んでいただけるかと」





「・・・これはまた変わった調理方法だな・・・」


 重秀は目の前の囲炉裏を見ながらそう呟いた。囲炉裏の中心には、自在鉤からぶら下げられた鉄鍋があり、中では菜種油が湯気を上げて熱せられていた。そこに、兼久が水で溶いた小麦粉を満遍なくつけた野菜や魚の身を入れていた。入れられた瞬間、油は小さな爆発を起こし、野菜や魚の身を取り囲むように泡立った。まるで水面に小石を投げ入れたときのように、無数の泡が具材の周りに広がっていった。

 小麦粉の衣はすぐに膨らみ始め、油の中で軽やかに踊った。泡立つ音が、囲炉裏の周りに響き渡る。その音は、衣が黄金色に変わる過程を物語っているかのようだった。分厚い衣は揚げていくにつれ、その色はますます美しく、食欲をそそる黄金色へと変わっていった。

 数分が過ぎ、揚げられた野菜と魚の身は油から引き上げられる。衣はカリッとし、ほんのりとした香ばしい香りが漂った。兼久はそれを数個、皿の上に乗せると、重秀の前に置かれている膳の上に乗せた。


「さあ、どうぞ。南蛮より伝わった揚げ物でおます。南蛮人は普段は獣肉を食しとりますが、てんぽおら?という祭日には肉を絶ち、魚や野菜を食すと聞いとります。その時に食すのがこの揚げ物でおます」


 兼久の説明に、重秀が「へぇ〜」と声を上げた。


「すでに塩で味付けしておりますさかい、そのままお食べ下さい」


「あ、ああ。頂こう」


 そう言って重秀は箸を揚げ物に伸ばそうとした。しかし、清正が「お待ちを」と言った。


「長兄、ここはそれがしが毒見を」


 清正の提案に、重秀が「あ、ああ」と答えた。すると、横から長政が口を出す。


「お、お待ち下さい!毒見は小姓であるそれがしが・・・」


 長政がそう言うが、清正は拒否する。


「ならん。そなたは黒田官兵衛殿から預かった身。毒見で死なせるわけにはいかぬ。まあ、そこで見ておけ」


 そう言うと清正は、箸で揚げられた野菜をつまむと、口の中に放り込んだ。しかし、すぐに吐き出した。


「あっつ!」


 そう言った清正に対し、重秀は「まあ、そうなるな」と呆れたような表情で呟いた。


「あれだけ熱せられた油の中に入れられてたんだ。熱いに決まっているだろう」


 重秀がそう言うと、清正は落ちた揚げ物を手で掴み、フーフーと息を吹きかけた。そして再び口の中に入れた。咀嚼した後、清正は飲み込み、そしてしばらくじっとしていた。


「・・・どうだ?」


「・・・美味いですな。周りのうどん粉に味がついておりますし、その中から出てくる野菜に火が通っております故、柔らかくなっております。ただ、少し苦みがあるのが気になりますな」


「ああ、それは油菜の葉故、苦みがあるんですわ。でも生で食うよりは甘味がありますさかい、食べやすいと思いまっせ」


 兼久がそう言うと、清正は「そう言うことか」と言って納得した。


「では、私は魚を食すことにしようか」


 重秀がそう言って、魚の揚げ物に箸を伸ばした。





 重秀が食べた南蛮渡来の揚げ物。のちに日本食を代表する料理『天ぷら』と呼ばれるようになるのは、重秀―――豊臣秀重が亡くなってからである。


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― 新着の感想 ―
重秀の死因も天ぷらの食べ過ぎじゃないよね
徳川家康がシュバってきそう。
大山崎というのがまた因縁深い地ですね。
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