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第222話 住吉にて(前編)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


今後の更新についてのお知らせを活動報告に記しております。ご一読いただけたら幸いです。

 天正九年(1581年)四月二日。重秀は加藤清正、黒田長政そして護衛の侍十数人と共に摂津国住吉郡の遠里小野おりおのに来ていた。そこには、見渡す限りの菜の花畑が広がっていた。


「・・・先月の初め頃までは辺り一面黄色い花が咲き乱れておりましたが、今では花はすべて落ち、種を持つさやを収穫しとるところでございます」


 今井宗久の息子で、堺から住吉郡まで重秀達を案内してきた今井兼久(のちの今井宗薫)がそう説明した。重秀達が見ている中、確かに菜の花畑では、黄色いさやをつけた菜の花を農民が刈り取っていた。


「さやは茶色くなると割れて中から種が出てきます。そうなる前に刈り取り、さやを摘んで筵の上で叩くと種が取れます。後はざるで種のみ取り出します」


 そう言うと兼久は「こちらへ」と言って別の畑に案内した。そこはすでに菜の花が刈り取られており、土が見える状態であった。そこでは百姓が刈り残っていた菜の花ごと土を耕していた。


「菜の花・・・、いや、油菜あぶらなを刈り取ったあとは、土を耕し、搾り滓を肥やしとして蒔きます。その後、水を張って田植えを行います」


「なるほど、米の裏作か。播磨では麦を裏作で作るが、ここいらは菜の花・・・、油菜を育てるのだな」


 重秀がそう言うと、兼久が「御意にございます」と言った。


「・・・菜の花というから、てっきり大根などの花のことかと思ったのですが、油を取るための菜の花というのがあるのですね」


 長政が畑を見ながらそう言うと、兼久は笑いながら応える。


「まあ、油菜も他の菜の花と同じく、蕾や葉を食すことは可能です。古より油菜は菜の花の一種として日本ひのもとでも食べとりました」


「らしいな。あまり気にしたことはないが・・・」


 清正がそう言うと、重秀達は頷いた。


「ほな、次に種を取り出し、油を搾るところを見てみまひょ」


 兼久がそう言って歩きだすと、重秀達は後ろからついて行った。





 その村の庄屋の屋敷の一角では、収穫された油菜のさやから種を取り出す作業が行われていた。村の女や子供達が筵の上にばら撒かれたさやを棒で叩き、中の種を出していた。そして、その筵を広げながら運び、笊の中にさやと種を移していた。笊を持っていた男が笊を振ると、口の広い桶の中に種がどんどん入っていった。


「桶の中の種はあそこのかまどの上にある鍋で煎ります。そして水気を飛ばします」


 兼久の説明を聞きながら、重秀は顎を擦る。


「へぇ。桐油を作る際に種を乾かすのは知っていたが、菜種は煎るんだな」


 重秀の呟きを聞きつつ、兼久が次の工程を見せる。


「煎った後の種は石臼で皮を取ります。こうすることで、油を搾りやすうします」


 兼久の言うとおり、そこでは菜種を唐臼と呼ばれる石臼で菜種をついていた。唐臼とは杵をてこの原理で足を踏んで動かしてつく石臼のことである。主に籾を取るのに使われるが、他にも搾油の際にも使われる。


「あれは桐油を作る際でも使うな。油桐の種を砕いて皮を取り除くのに使っていた。で?その後は?」


「その後は菜種を蒸します。少し水分と熱を加えることで、油をより絞り易ういたします」


「・・・そうなんだ。桐油ではそんな事しなかったのだが・・・。桐油でもやってみよう」


 重秀の呟きを聞きながら、兼久が重秀に最後の工程を説明する。


「蒸した菜種は麻の布で包み、この『長木』を使って油を搾ります」


 長木とは、当時使われていた搾油機のことである。てこの原理を使って人力で油を絞る道具である。


「長木は桐油絞りでも使っていたな。・・・で、宗久殿から、『長木に変わる油を搾る道具が欲しいのでご助力願いたい』と聞いたのだが?」


「へぇ。菜種からは荏胡麻より多くの油が取れる、と聞き及んでおります。せやけど、実際は荏胡麻と変わらへんかそれより少のうございます。堺に来た唐人の話では、どうも絞る際の力が足りへんのでは?と言われました。

 ・・・そこで、最近長浜で桐油絞りに使われている新しい道具を使ってみてはどうや、というのが父の話でございます」


 兼久が期待を込めたような目で重秀を見つめた。重秀は分かったような顔で頷く。


「うん。そこで、現物をここに持ち込もむべく、長浜の油問屋と交渉したのだが、今は安土向けの油の生産が追いつかず、絞るための道具を手放せぬと報せてきた。なので、絵図だけ持ってきたから、あとはこちらで作ってもらいたい」


 そう言って重秀が懐から紙を取り出そうとすると、兼久がそれを制した。


「恐れながら。ここは油を絞る場所にて、長話をするには不向きと存じます。庄屋の母屋を借りてますさかい、そちらで話しまひょか」


「庄屋の母屋・・・」


 長政が思わず呟くと、清正が首を傾げながら長政に言う。


「どうした?吉兵衛(黒田長政のこと)。何かあるのか?」


「ああ、いえ。何でもありません、虎・・・之助殿」


 長政の様子のおかしさに清正はますます首を傾げたが、重秀と兼久がすでに母屋に向かっていたため、何も言わずに重秀の後を追った。そして、長政も清正の後を追うのであった。





 庄屋の母屋にある居間では、囲炉裏を囲んで重秀達が座っていた。ちなみに、ここの庄屋とその妻子、そしてご隠居と思われる男の老人が少し離れた所で緊張気味に座っていた。


「・・・ほう、これが北近江で使われている絞り器でございますか・・・。何と言いますか・・・、変わった形をしておりますなぁ・・・」


 囲炉裏の前で複数の紙を手にしながら兼久は思わず口に出した。確かにその絵図には、今まで見たことのない搾油機が描かれていた。


 まず、下には木材が敷かれていた。その上には二本の柱が立っており、その間には木の桶があった。木の桶の上には、木の桶の口とほぼ同じ大きさの木の重しがあり、その上には横木が柱を貫くように横たわっていた。恐らく、柱が動かないように固定するための梁であろうということは、兼久にも分かった。

 兼久が変わっているな、と思ったのは、その横木に一本の黒くてやや太い棒が突き刺さっていたことである。横木の下の木の重しまで伸びた黒い棒は、恐らく横木を貫いているようだった。そして、黒い棒の頂点には、これまた黒い棒が横に取り付けられていた。


「・・・この梁を貫く黒い棒はなんでっしゃろか?」


 兼久がそう尋ねると、重秀が答える。


「それは鉄製の螺子ねじだ」


「螺子・・・?螺子ぃ!?」


 兼久が急に大声を出して驚いた。そして重秀の顔を唖然とした表情で見つめていた。


 螺子の起源は極めて古く、その起源には諸説あるほどだ。一応、古代ギリシアの時代には螺子があったことは確実で、螺子の螺旋機構を利用した揚水機がアルキメデスによって発明されていたり、螺子の上下運動を利用してオリーブオイルやワインを絞る圧搾器は古代ギリシアや古代ローマではありふれたものであった。

 さて、古代ギリシアやそれ以前の文明によって発明された螺子は、何故か古代中国では発明されなかった。なので中華文明の影響を多大に受けた日本人もまた、螺子というものを知らなかった。そんな日本に螺子が伝わったのは、通説では天文十二年(1543年)、鉄砲伝来と同時だと言われている。というのも、鉄砲の銃身の後ろを塞ぐのにボルトが使われており、これが日本人が見た初めての螺子だったと言われている。

 口承では種子島の刀鍛冶、八板金兵衛は螺子の構造を理解できず、その構造をポルトガル人から教わるために娘をポルトガル人に嫁がせたと言われている。

 そんな苦労の中で日本人は螺子を習得したのだが、意外にも鉄砲の銃身の後ろを塞ぐ事以外に日本人は螺子を利用しなかった。他の使い道が思いつかなかったのである。


 兼久は鉄砲の生産が盛んな堺の商人である今井宗久の息子として、当然螺子は知っていた。しかし、他の日本人と同じく、螺子は鉄砲の銃身の後ろを塞ぐだけに使うものだと思っていた。そのため、螺子を油を絞るために使うとは思わなかったのである。


「・・・こ、この螺子をどのようにして使うのでございますか・・・?」


 声を震わせて尋ねてきた兼久に対して、重秀は説明をし始める。


「ああ。この黒い棒は国友で作られた鉄の雄螺子(ボルトのこと)だ。そしてこの横木は穴が空いており、そこが雌螺子(ナットのこと)となっている。

 雄螺子の上部には、回転させるための鉄の棒が取り付けられていて、この鉄棒にはさらに長い竹や木の棒を括り付ける。棒の両端には、人や馬、牛などの動物を繋ぎ、この装置の周りを回らせるんだ。そうして棒が回転すると、鉄の雄螺子も一緒に回って徐々に下へと降りていく。

 雄螺子の下にある木の重しが押し下げられることで、木桶の中に入れられた材料から油が搾り出され、桶の底にある穴から油が流れ出てくる、という仕組みだ」


 重秀の説明を聞いた兼久は唖然としていた。しばらく口を開けっ放しにして重秀を見つめていたが、我に返るとその場で重秀に身体を向けて平伏した。そして大きな声で重秀に言う。


「羽柴様!お噂では聞いとりましたが、まさかここまでの才をお持ちとは!さすが、『羽柴の麒麟児』でございます!わては感服仕りました!」


「あ、いや、これは私が考えたのではないのだ」


 重秀がそう言って否定した。すると、兼久が「へっ!?」と間の抜けた声を上げた。重秀が話を続ける。


「実はこれは南蛮から来た葡萄酒を作るための道具を見た者が思い付いたんだ」


 そう言うと、重秀は詳しく話し始めた。


 天正四年(1576年)、長浜城下に南蛮寺ができて以降、長浜には数多くの南蛮渡来の品が入ってきた。そしてその中には葡萄酒―――ワインも含まれていた。

 キリスト教圏ではワインは耶蘇(イエス・キリストのこと)の血と同一視され、それを飲むことは耶蘇と同一の身体を得るものとして神聖視していた。なので、伴天連達は多くのワインを持ち込み、自分達で飲んでいた。

 そんな伴天連達は、日本の支配者層がお酒をよく飲むことに目をつけ、布教の許可を得るためにワインを献上しまくった。その献上先の一人に、羽柴秀吉がいた。

 無類のお酒好きな秀吉は当然ワインを好んだ。しかし、同時に長浜で作れないか、と考えた。そこで伴天連達に相談してみた。

 伴天連達は秀吉と重秀をキリシタンにすべく、二つ返事で長浜でのワイン製造に手を貸すことになった。南蛮からブドウの種とワインを作るための道具を取り寄せた中に、螺子を使ってブドウを絞るための道具、いわゆるワインプレス機が含まれていた。

 結論から言うと、長浜でのブドウ栽培は失敗に終わった。上手く育たなかったからである。一方、ワインを作るための道具は残った。道具の処分に困った伴天連達はそれをそのまま南蛮寺(カトリック教会のこと)に置いといたのだが、その一つであるワインプレス機を偶然見つけた油商人が、ワインプレス機をヒントに螺子で油を搾る道具を考えたのであった。


「・・・私も螺子そのものは国友の鉄砲鍛冶の工房で見たことがあったが、ああいう使い方ができるのかと驚いたものだ」


 重秀がそう言って話を締めると、兼久は納得したような顔で頷いた。しかし、すぐに首を横に傾げた。


「せやけど、おかしいでんな。南蛮渡来の葡萄が育たないとは。山や藪に行ったら葡萄はいっぱいおますでしょうに」


「あの葡萄は違うんだと。そもそも、そこらで取れる葡萄は食えたもんじゃないだろう」


 兼久と重秀が言っている葡萄とは、ノブドウ(野葡萄)のことである。ノブドウは日本古来から自生しているブドウ科ブドウ属の植物であるが、現代の我々が知っているブドウとは別種である。

 ノブドウは重秀の言った通り、その果実はとても渋くて苦みがある。これは、果実に虫が寄生するからだと言われている。そのため、生食で食べることができない(ただし毒ではない)。一方、葉や茎は蛇葡萄じゃほとう、根は蛇葡萄根と呼ばれ、主に関節痛に効く生薬として重宝されていた。馬にも薬として与えたことから、別名ウマブドウとも呼ばれる(他にもカラスブドウ、イヌブドウとも呼ばれる)。


「・・・しかしまあ、南蛮の葡萄酒を作る道具から油搾り器を考えるとは。北近江には頭の良い方がおりまんなぁ」


 兼久が感心したように言うと、重秀がそれに応える。


「搾るという点では、葡萄も油も同じことだ。それに、南蛮ではおりいぶ?という木の実からも油を取るらしい。実や種を潰して搾るときに、やはり螺子を使った搾り器を使うそうだ」


「その油はわても聞いたことがありますねん。せやけど、実物は見たことおまへんなぁ」


 記録によれば、いわゆるオリーブオイルが日本に伝えられたのはもう少し後である。なので、南蛮人との付き合いがある重秀や兼久でも、オリーブオイルは話には聞いていたが見たことがなかった。


「ま、なにはともあれ、今井殿が言っていた羽柴の油搾り器については話したぞ。あとはそちらで頑張って作ってくれ」


 重秀からそう言われた兼久。しばらく手元の紙を眺めていたが、あることに気がついた。


「・・・羽柴様。この雄螺子は鉄でなければあきまへんか?」


「いや、そんなことはない。そもそも南蛮の搾り器の雄螺子は木製だった。ただ、螺子を作れる木彫り職人が長浜にいなかったし、国友には螺子を作れる職人がいたからな。国友の職人に頼んだら鉄の雄螺子ができたと言うだけだ。もっとも、鉄の雄螺子があったおかげで、木の雌螺子が楽に作れるようになったのが幸いだったな」


 当時、鉄の雄螺子は鉄の棒に蔓や縄を螺旋状に巻き付け、それに合わせてやすりで削って作られたと思われる。一方、雌螺子の方は、一旦鉄を熱して熱膨張で大きくなった穴に雄螺子を挿入させる。その後はハンマーで叩いて鍛造していたと考えられている。

 一方、木の雌螺子は単純である。雄ネジよりやや狭く開けた穴に雄螺子を回転させながら雄螺子を挿入すれば、ネジ山によって穴の内部に谷ができるのである。


「・・・やったら、雄螺子も木製でよろしいのでおまへんか?」


「まあね。まあ、それはそちらに任せるよ。好きに作ってくれ。しかし、分かっていると思うが・・・」


 重秀がそう言うと、兼久は「分かっとります」と言って頷いた。


「一台作るごとに銭を支払うのでございますな?確か、日野の殿様(蒲生賢秀のこと)が日野で鉄砲を作る際に、国友の鉄砲鍛冶に教わる代わりに、羽柴の殿様(羽柴秀吉のこと)に鉄砲一挺ごとに銭を納めるように言うておりましたな」


「うん。まあ、今回は長浜の油商人達に銭を渡すから、羽柴には入らないんだけどな」


「そうなんでっか?」


 兼久が意外そうな顔でそう言うと、重秀は渋い顔をしながら言う。


「あのなぁ、長浜の油商人にしてみれば、住吉に新たな油売りの新興勢力ができることになるんだぞ?商売敵をわざわざ増やすようなことを連中がすると思うか?」


 そう言われた兼久は「確かに」と頷いた。


「衰えたとはいえ、未だ京周辺では荏胡麻油は大山崎の油座が独占しておりますからなぁ。お陰で北近江の桐油は京での商売では劣勢だと聞いとります。そんな中でさらに菜種油が大量に売り出されるとなると、桐油の商売は上がったりでんな」


「まあ、桐油のほとんどは安土で売られているから、京に廻す量がないってだけなんだけどな。それより・・・」


 重秀はそう言うと、興味深そうな視線を兼久に送る。


「肝心の菜種油を見せてもらいたいのだけど?」


「へぇ。こちらにございます」


 そう言うと、兼久は脇においてあった大徳利とかわらけを重秀の前に置いた。兼久が大徳利を持って傾け、かわらけの中に深い黄色の液体を注ぎ込む。そして大徳利を脇に置くと、今度はかわらけを持って重秀に差し出した。


「こちらが菜種油でございます。桐油と違うて毒はありませんさかい、舐めていただいてもかましまへん」


 兼久はそう言ったが、重秀はかわらけを鼻に近づけて臭いを嗅ぐだけで、後はじっとかわらけを見つめるだけであった。たまにかわらけを揺すって菜種油を揺らしたり、指先につけた後にじっと指先を見つめたりしていたが、油を口に運ぶことはなかった。

 しばらく油を見ていた重秀。周りが黙って息を呑む中、重秀がボソリと呟いた。


「この油は・・・、駄目だな」


注釈

乾燥地帯原産のブドウであるが、実は奈良時代にはすでに中国から日本へ伝わっていたとされている。しかし、やはり根付くことはなかったようである。

だが、文治二年(1186年)甲斐国八代郡にて、雨宮勘解由なる神主が珍しい蔓の植物を育てたところ、それがブドウであったという伝説がある(他にも奈良時代に行基か同地にブドウを持ち込んだと言われている)。

それ以来、甲斐国八代郡のごく一部(勝沼、上岩崎、下岩崎)でのみブドウの栽培が行われていた。このブドウがのちの甲州ブドウである。


注釈

日本に自生するブドウとして、ノブドウの他にヤマブドウがある。これもブドウ科ブドウ属の植物であるが、ブドウやノブドウとは別の植物である。

ヤマブドウの果実には虫が寄生しないため、甘みがあり生食が可能である。また、ワインやジャムといった加工食にすることも可能。蔓は編んでカゴなどにして利用されることもある。

ヤマブドウは冷涼地で生育するため、日本では本州以北の高原や山に分布している。

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― 新着の感想 ―
ヤマブドウと言えば、古事記によれば、イザナギノミコトがヨモツシコメから逃げる際にヤマブドウを生やして食わせたとかありましたな
菜種油は乾性油ではないですからねえ 他に使えそうなのは……荏胡麻油とかかなあ
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