第219話 京都御馬揃え(表)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。
天正九年(1581年)二月二十八日。兵庫城本丸御殿の『表』にある表書院。ここには城の主である重秀ではなく、その父親である秀吉が縁ととら、そして夏と七と牧がいた。
「おお、おおっ!藤は真に愛らしい姫じゃのう!見ないうちに大きくなって!お〜、よしよし」
秀吉は相好を崩しながら腕に抱いた赤ん坊をあやしていた。それを見た縁が話しかける。
「義父上様は本当にお子がお好きなようで」
「それはそうじゃ!儂にとっては初孫なんじゃからのう!」
秀吉はニヤニヤしながらそう答えると、自らの頬を藤の頬に擦り寄せた。
「おお、気持ちの良い肌じゃ!若い女子の肌に頬を寄せるのはよくあったが、これほど良い肌はなかった!」
秀吉の気持ち悪い発言に、縁達の顔が歪んだ。七が咳払いをしながら秀吉に言う。
「恐れながら大殿様。孫娘に欲情するのは如何なものかと・・・」
「阿呆!そんなつもりで言うたわけではないわ!さすがの儂でも自分の孫娘に手を出すような鬼畜の所業はせぬわ!」
慌ててそう言った秀吉は、藤を牧に手渡した。そして咳払いを一つすると、縁達に威厳よく(?)伝える。
「藤が元気よく育っているのはよく分かった。引き続き、大事に育てるようにっ」
秀吉がそう言うと、縁達が「承りました」と言って平伏した。次に秀吉が夏に尋ねる。
「ときに、お主の娘・・・、照だったか?体の様子はどうじゃ?」
「照も腹の子も異常ございません。医者の見立てでは、来月には子が生まれるものと思われまする」
夏の回答に、秀吉が満足そうに頷いた。
「うむ。今後はとらにも子を成してもらわなければならぬのう。それに、縁もじゃ。もう次の子を成すことはできるのであろう?」
秀吉が縁にそう尋ねると、答えたのは縁ではなく夏であった。
「はい。ですが医者が申すには、御姫様はあまり体力のないお方故、年ごとに子を成すのは身体の負担が大きく、子が流れる虞があるとか。長い期間をおいて子を成す方が良いと申されておりました」
夏の言葉に秀吉の顔が一瞬だけ曇った。正室との間に子が成せないとなると、跡継ぎ問題でこじれるからだ。しかし、秀吉はすぐに笑顔になると縁に話しかける。
「まあ、実際子は成せたのじゃ。医者の言う通り、身体のことを慮りながら作れば良い。子ができないわけではないし、子ができても縁が死ねば藤十郎が悲しむ。それにとらもおるしのう。縁よ、焦らずにゆるりと励むが良い」
秀吉がそう言うと、縁は「はい」と言って頷いた。七が秀吉に話し続ける。
「恐れながら。若殿様は日野殿(とらのこと)とは褥を共にしておりませぬ。先月に一度共にして以来、若殿様が日野殿の寝所を訪れてはおりませぬ」
「・・・それは真か?」
秀吉が七ではなくとらに尋ねると、とらは黙って頷き、そして俯いた。秀吉が首を傾げる。
「おかしい・・・。とらのような美しい姫に手を出さないとは、儂の息子とは思えぬ所行じゃ」
秀吉の目から見れば、重秀の妻の中で一番美しいのはとらであった。どうやら当時の人々もそう思っていたらしく、史料に少ないながらもそのように記されている。そんな美人のとらと一回しか目合っていない、という重秀の行動に疑問が湧いた秀吉であったが、すぐにその原因が分かったような気がした。
秀吉がとらに優しい声で慰める。
「とらよ、案ずることはない。藤十郎は縁に嫡男をもたせようとしているのよ。正室との間に嫡男が生まれれば、奥向も安定するからのう」
秀吉は重秀が縁との子作りを優先していると考えた。まあ、正室との間に生まれた男児が嫡男になれば、家の内部での争いがなくなるので、至極もっともな考えである。
しかも、縁は織田信包の娘で織田信長の養女である。羽柴家としては主家より嫁いできた姫に嫡男を挙げてもらうのが色々都合が良い。
秀吉は重秀がそういった合理的な考えから、とらをあまり抱かないようにしているのではないか、と考えたのだった。
「まあ、藤十郎が京より戻ってきたら、儂からもしっかりと話しておく故、しばらくは辛抱しておれ。とらには決して悪いようにはせぬ」
秀吉がそう言うと、とらは「・・・はい」と言って平伏した。
「・・・恐れながら、大殿様は若殿様が京よりお戻りになられたらお話すると申されておりましたが・・・。まさか、それまで兵庫にご滞在あそばされるのでございますか?」
夏がそう尋ねると、秀吉は「なんじゃ、悪いのか?」の聞き返してきた。
「いいえ、そういうわけでは・・・。ただ、十八日より兵庫に滞在しておりますれば、姫路の方は大事無いのかと案じておりまして・・・」
しどろもどろに答える夏に秀吉は気色ばむように言う。
「仕方なかろう!藤十郎は今、京にて行われておる馬揃えに参加しておるのじゃ!儂だって真は出たかったのに、上様の命で出ることができなかったんじゃ!せめて、せめて出ることを許された藤十郎から話を聞きたいではないか!それに、帝の御前に罷り出でるのじゃぞ!事前にどのような準備をするか、儂が見たほうが良いじゃろ!」
興奮気味に言う秀吉の声があまりにも恐ろしかったのか、それまで大人しくしていた藤が火がついたように泣き始めた。
「おお、おおっ!藤、すまんのう、すまんのう!」
秀吉がそう言って藤を抱いている牧に近づこうとしたが、牧が頭を下げながら秀吉に言う。
「申し訳ございませぬ、大殿様。藤姫様を別室に下がらせ、お休みしていただくようしなければなりませぬのに、気づかずに表書院に残りましたのは私めの罪にございます。如何様なる罰もお受けいたします」
牧の言葉に、秀吉は泡を食ったような表情になる。
「何を言うとるんやが。儂がいきなり怒鳴ったのが悪かったんじゃ。ささ、早う寝かしに行ってやれ」
秀重の言葉に従い、牧は藤を抱き抱えたまま表書院から出て行った。そしてその様子を見た秀吉が、縁に改めて謝る。
「いやぁ、すまなんだ。ついつい大声を出してしもうた」
「いえ、それよりも義父上様は余程馬揃えに出たかったのでございましたのですね」
縁が微笑みながらそう聞くと、秀吉は大きく頷く。
「それはそうであろう。帝の御前で行われる馬揃えなど、今まで聞いたことがないからのう。さだめし、華やかなものになろうというものよ。そういう催し物には是が非でも参加したかったものじゃ。
・・・全く。毛利が鳥取城を、長宗我部が塩飽にちょっかいをかけなければ、儂も行けたのじゃがのう」
天正九年(1581年)二月の始めの頃。織田家中に信長から衝撃的な命令が伝えられた。それは、二月二十八日に京にて、帝の御前で馬揃えを行うために参加せよ、という命令であった。今まで前例のない命令に、織田家中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
一方、その命令は秀吉にも伝わったが、秀吉にはまた別の命令が伝わった。
「羽柴筑前守は姫路防備の任のため参加に及ばず。ただし、子息は参加させるべし」
要は秀吉ではなく重秀を参加させよと命じてきたのである。お祭り好きな秀吉にとっては受け入れがたいのであったが、鳥取城攻めの準備で京に行く暇がなかったため、泣く泣くこの命令を受け入れることとなった。
なお、似たような命令は池田恒興や長岡藤孝も受けており、特に秀吉を遠ざけたいための命令というわけではない。
「此度の馬揃え、惟任日向守殿(明智光秀のこと)が総奉行となり、各地から織田家中の者共が京に集結して行うからのう。その中で羽柴の武威を帝の御前でお披露目したかったのじゃが・・・。まあ、儂より藤十郎の方が見栄えが良いじゃろうて」
秀吉はそう言うと、視線を天井に向けた。ただ、その目は天井を見ているのではなく、更に遠くの空を見ているような目であった。
「・・・今頃、藤十郎は上様から拝領した名馬に乗って帝の御前に出るのじゃ・・・。できることなら、ねねにも見せてやりたかった・・・」
そう呟く秀吉を、縁達は何とも言えないような表情で見つめていた。それに気がついた秀吉が視線を天井から下ろして慌てたような口調で喋り出す。
「ああ、いや、すまぬのう。つい湿っぽくなってしまった!・・・そうじゃ!儂はこれから将右衛門(前野長康のこと)や弥兵衛(浅野長吉のこと)達と鳥取城攻めについて話し合わなければならぬ!じゃによって儂は忙しい!縁達は気を使わなくて良いからの!」
「そのように慌てなさらなくとも、万事心得ておりまするよ」
七がそう言うと、表書院に秀吉の豪快な笑い声が響いたのであった。
天正九年(1581年)三月一日。京都御馬揃えに参加していた重秀が、共に参加していた山内一豊、尾藤知宣、脇坂安治、福島正則、加藤清正、加藤茂勝、大谷吉継、そして従っていた兵と共に兵庫城に帰還した。
重秀は共に参加した者達を連れて、本丸御殿の表書院にて秀吉や秀吉についてきた石田三成、そしてそれぞれの知行から秀吉に呼ばれて兵庫城にやってきていた前野長康などの重秀の与力達と対面した。
「父上。只今戻りました」
「おお!よう戻ってきたのう!して、京の馬揃え、如何であった!」
表書院の上座に座る秀吉が、下座にて平伏して帰還の挨拶をした重秀にそう声をかけた。いきなり本題に入る秀吉の行動に動じることなく重秀が応える。
「二十八日に行われた馬揃えは晴天に恵まれ、京には織田の軍勢のみならず、見物人が奈良や近江といった近隣から集まり、その数、十万人と相成りました」
重秀の言葉に、秀吉を始め、兵庫に残っていた者達が感嘆の声を上げた。
「ほうほう、それで?」
秀吉に促された重秀は、詳しく説明をし始めた。
京にて帝の御前で馬揃えをする。という一大イベントは、元々朝廷から織田側に開催を持ちかけたことが発端であった。
天正九年(1581年)一月十五日に安土城で行われた左義長での馬揃えを見た近衛前久・信基親子が京に戻り、正親町天皇とその息子である誠仁親王に話すと、天皇と親王は馬揃えを見たいと欲した。
また、正親町天皇の典侍にて誠仁親王の母親である新大典侍(万里小路房子のこと)が天正八年(1580年)十二月二十九日に亡くなり、その結果新年の宮中行事が全て中止・縮小になってしまったことから、そろそろ派手なイベントで京を盛り上げたいという朝廷の考えもあった。
そういったことから、一月二十日頃には朝廷から織田側に馬揃えの開催を要請。京都所司代の村井貞勝が承諾したことから、京での馬揃え開催という運びとなった(その前から水面下で馬揃え開催の計画があったという説がある)。
一月二十五日に馬揃えの開催が正式に決まると、織田信長は明智光秀を総奉行として準備がなされ、また準備が進むにつれて開催の噂が京より外へ流れた。
そして二月二十八日の10日ほど前から諸将の軍勢や見物人が集結。当日は10万人が京に集まっていたと言われている。
そんなこんなで始まった馬揃えは、本能寺付近を起点に京の通りを騎馬武者と徒士が北上、内裏の東側にある陣中と呼ばれるところで正親町天皇と誠仁親王、公家衆と女房衆が見守る中、行進していった。
先ず先頭を進む集団は丹羽長秀が率いる一番隊。丹羽長秀とその配下である若州衆、池田恒興の代わりに参加している池田元助率いる摂州衆、そして羽柴秀吉の代わりに参加している羽柴重秀率いる播州衆と革島一宣率いる西岡衆(山城国西部の国衆のこと)のグループである。
長秀を始め、多くの騎馬武者が麻の素襖や大紋を着て参加している中、重秀を始め山内一豊、尾藤知宣、脇坂安治の騎馬武者は絹の直垂を身に纏い、福島正則、加藤清正、加藤茂勝とそれに従う徒士は紬の肩衣袴の姿で行進した。
「ふむ。藤十郎が出発前に言っていたとおり、唐絹物ではなく日本の絹物を使った着物で馬揃えに参加したのだな。では特に大事なかったのか?」
秀吉の質問に対し、重秀が答える。
「はい。事前に総奉行の惟任日向守様(明智光秀のこと)や京都所司代の村井長門守様(村井貞勝のこと)にお見せしたところ、帝の御前に罷り越すのに大事無し、との言質を頂きました」
「それは重畳至極。で?馬揃えはその後どうなったのじゃ?」
秀吉からそう言われた重秀が、馬揃えの様子を話し続けた。
一番隊の次は蜂屋頼隆率いる二番隊である。蜂屋頼隆を先頭に、河内や泉野の国衆と根来衆、佐野衆が参加していた。
その次は三番隊。明智光秀率いる丹州衆(その中には長岡忠興と一色満信も含まれる)を始め、大和衆、上山城衆が参加していた。
次は四番隊。村井貞成を先頭に、根来衆と上山城衆が参加していた。
これらの部隊の次は、連枝衆の大行列である。織田家当主の織田信忠率いる馬廻80騎と美濃衆、尾張衆を先頭に、北畠信意(のちの織田信雄)率いる馬廻30騎と伊勢衆が続き、更に織田信包率いる10騎、神戸信孝(のちの織田信孝)率いる10騎、津田信澄率いる10騎が続いた。そしてその後からは織田長益を先頭に織田の一門とその馬廻りが多く続いた。
連枝衆の大行進が終わりと、次は公家衆による行進が始まった。近衛前久を先頭に、乗馬に自信のある公家衆が多く参加した。その中には烏丸光宣や日野輝資といった重秀に関わり合いのある公家も参加していた。
公家衆の後は馬廻衆、小姓衆が続き、その後には柴田勝家率いる越前衆が行進した。越前衆は前田利家を始め、先年の加賀平定に活躍した柴田勝豊、柴田勝安(のちの柴田勝)、不破光治、金森長近、原長頼も参加していた。
本来、柴田勝家は上杉への抑えとして越前に残るべきだったのだが、この頃の上杉はいわゆる御館の乱が終わった直後で混乱が続いていた。特に、乱を制した上杉景勝は自らの支配を確実にするため、自らの出身母体である上田衆と呼ばれる国衆を優遇し、上杉景虎側についた国衆はもちろん、景勝側についた下越地方の揚北衆すらも冷遇した。そのため、揚北衆の中でも有力であった新発田家との摩擦が増加していた。このような状況であったため、勝家は佐々成政、佐久間盛政等を残して馬揃えに参加することができたのであった。
もっとも、これは加賀・能登を平定し、長年忠勤を果たしてきた勝家に対する、信長からのボーナスという見方もできた。
「・・・ふんっ!儂だって播磨や但馬を平定したというのに!何で修理亮殿(柴田勝家のこと)が馬揃えの参加に許されて、儂が許されぬのじゃ!」
「父上。我等は鳥取城を失いました。それに、塩飽の一件をお忘れでございますか?」
秀吉の不満に対して重秀がそう言うと、秀吉は「・・・そうであったな」と溜息をついた。
「まあ、修理亮殿についてはもうええわ。で?それで馬揃えは終わりではないのであろう?」
秀吉の質問に、重秀が「はい」と答えると、重秀は話を再開した。
越前衆の次に行進したのは平井久右衛門と中野又兵衛(中野一安のこと)率いる弓衆であった。その後は力士でありながら信長に召し抱えられ、厩奉行となった青地与右衛門が率いる名馬6頭と中間衆が続き、その後に武井夕庵、楠木長安(楠木正虎のこと)、長雲軒妙相、松井友閑等坊主衆が続いた。
そして坊主衆の後から、織田信長とその小姓が大トリとして行列に参加した。この時の信長の衣装は唐織物に長岡忠興から献上された小袖、袴には虎の毛皮で覆われていた。頭には唐冠を被り、更には見栄え良くするために背中に花を付けた梅の枝を肩に付けていた。
「おお・・・。さすがは上様じゃ。さぞ派手な装いじゃったようじゃのう」
喜ぶ秀吉に対し、重秀はあまり嬉しくなさそうに話を続ける。
「上様のみならず、殿様(織田信忠のこと)を始めとした連枝衆は唐物の派手な絹織物で身を纏っており、その豪華絢爛さは公家衆や京童共の話題となりました。おかげで、羽柴の絹と藍染めはさほど注目されませんでした」
重秀の話に、秀吉が「それは仕方あるまい」と諦めたような顔になる。
「いくら羽柴の絹の質が上がったとはいえ、その数は少ない。そもそも、唐絹物は糸自体の質もさりながら、その染付や織物の豪華絢爛さが売りじゃ。ただ生糸を藍染めしただけの播磨の、いや羽柴の絹物では唐絹物には勝てぬ」
糸から着物にするには数多くの工程を経る必要がある。その工程一つづつに腕の良い職人が関わることで高級な着物ができていくのだ。
そう考えると、北近江の生糸を播磨の蓼藍で染め上げただけの糸で作った重秀達の直垂は、いくら国産の中でも品質の高いもので織られた物であったとしても、目の肥えた京の人々から注目が集まらなかったのは当然であった。
その後、秀吉は重秀から馬揃えについて詳しく聞いた。それは、行列のことだけでなく、それを見ていた帝や公家衆、町衆の様子なども聞いていた。さすがに御簾の裏側にいた帝の様子は重秀にも分からなかったが、公家衆や町衆が歓声を挙げて行列を見学していた様子を聞かされた秀吉は、若干の悔しさを顔に滲ませつつも満足げに聞いていた。
重秀が当日の様子を余すことなく話終えると、秀吉は嬉しそうに言う。
「藤十郎。お主が羽柴の者として帝の御前で行われた馬揃えに参加できたこと、父として誇らしく思うぞ。今後もより一層に励むようにな」
秀吉の言葉に、重秀は「ははぁ!」と言って平伏した。そんな重秀に、秀吉が話しかける。
「さて。馬揃えの話はここいらでよかろう。で、藤十郎よ。事前に話していた儂の命は遂行できたのであろうな?」