第217話 兵庫訪問(その7)
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中立が終わり、秀吉・重秀親子と蒲生賢秀・賦秀親子、長岡藤孝・忠興親子が千宗易のいる部屋に戻ると、後座(茶事の後半のこと。前半は初座と言い、初座と後座の間に中立を挟む)が始まった。
濃茶を飲み回し、干菓子を食べた後、一人一人に薄茶が振る舞われた。今焼の赤茶碗に入れられた茶を飲み終えた秀吉が、おもむろに宗易に話しかける。
「・・・それで、宗匠。先程言われた鋳物師のことじゃが・・・」
「はい。今井宗久殿は摂津国住吉郡にある五箇庄と遠里小野の代官を務めております。その五箇庄には、河内より移住してきた鋳物師達が多くおり、銅や鉄の鋳造を行っております」
河内国丹南郡では、8世紀初頭頃から銅の鋳造が行われていた。その後、平安時代から鎌倉時代にかけて銅や鉄の鋳物師が多く住む地域となり、日本有数の鋳造の拠点となった。
主に鍋や釜、鋤や鍬、梵鐘を作る技術が高く、鉄鍋である『河内鍋』は高級品とされ、また河内鋳物師が作った梵鐘は全国の有名なお寺に納められることになった。また、河内鋳物師は奈良の大仏の修理に参加したり、鎌倉の大仏の製造に参加したりしている。
その後、室町時代になると、より交通の便が良い堺の近くにある摂津国住吉郡五箇庄や和泉国八上郡金太などに鋳物師達が移住、その地が鋳造の拠点となった。
「私めも宗久殿の許しを得て住吉の鋳物師達に茶釜を作らせております。藤十郎様も宗久殿に言って頂ければ、羽柴様のお望みの物が住吉にて作れるかと存じまする」
「おお、それは良い!藤十郎、良かったな!石火矢を増やすことができるぞ!」
秀吉は嬉しそうに言ったが、重秀は複雑な表情を浮かべた。頭の中に一つの懸念が浮かんだからだ。その疑念を重秀は口に出す。
「・・・できれば、鋳物師達を兵庫へ移したいのですが、宗匠の言葉からするに、宗久殿は認めてもらえなさそうですね?」
重秀の質問、というより確認に対し、宗易は微笑みで返す。
「宗久殿も上様に矢銭を納める身なれば、銭のなる木を減らしとうはないでしょう」
「・・・でしょうね」
そう言って苦笑いする重秀。そんな重秀に秀吉が話しかける。
「まあ、とりあえずは宗久殿に会って話してみればよいじゃろう。ちょうど今兵庫に来ているからのう。儂からも口添えしてみようぞ」
秀吉に続いて宗易も重秀に言う。
「私めからも宗久殿に伝えておきましょう。宗久殿も新しいお客ができれば喜びましょうし」
宗易がそう言うと、傍で聞いていた賦秀が呟く。
「・・・それがしも宗及殿に茶釜を頼んでみるかな?今使用している茶釜がどうも気に入らぬ故、いっそ己で作ろうかと思っていたところでござる」
「まあ、拙者は京の鋳物師に何人か知り合いがおります故、その者共に茶釜を頼めますからな」
聞いてもいないのに忠興がそう言っているのを尻目に、重秀が宗易に言う。
「とりあえず、鋳物師達がどのような、そしてどのように鋳物を作るか見てみたいです。お取次ぎをお願いしてもよろしいですか?」
重秀がそう言うと、宗易は「もちろんです」と言って頷くのであった。
千宗易、今井宗久、津田宗及の三茶頭による茶事が終わってしばらく経った後、兵庫城の御座所では酒宴が開かれていた。信長や前久・信基親子を始め、兵庫に来ている織田家家臣と公家衆(甘露寺経元と勧修寺晴豊の二人だけ)、三茶頭が集まっていた。
「右馬允(九鬼嘉隆のこと)、藤十郎」
酒を飲んで上機嫌な信長に呼ばれた九鬼嘉隆と重秀は、「はっ」と言うと、上段の間に座っている信長と前久の前に出た。そして平伏すると、二人の前に金箔の貼られた盃を乗せた三方が置かれた。
「此度の船揃え、大儀であった。これで織田の武威を中国と四国に示せたわ。よって褒美として、盃を取らす」
信長がそう言うと、嘉隆と重秀は平伏したまま「有難き幸せ」と声を出した。そして、二人が盃を持つと、、小姓の森力丸が銚子で酒を注いだ。嘉隆と重秀がそれぞれ飲むと、盃を三方に置いた。
飲み終えた二人が再び平伏すると、信長が重秀に声をかける。
「藤十郎」
「はっ」
「明日は相撲を見せてくれるらしいな」
信長が上機嫌にそう尋ねてきた。重秀が頭を下げながら答える。
「御意にございます。船の上は波で揺れます故、足腰を鍛えなければ船内で倒れまする。足腰を鍛えるならば、相撲が一番でございまする。此度はその鍛錬をお見せ致しとうございます」
「で、あるか。して、汝も参加するのか?」
「御意。私めを始め、私めの家臣はほぼ参加いたしまする」
「で、あるか」
重秀の言葉に対し、満足そうに頷いた信長。相撲好きな信長にとって、相撲を見るのは楽しみの一つであった。
そんな信長は、息子である神戸信孝と甥である津田信澄に顔を向ける。
「三七(神戸信孝のこと)、七兵衛(津田信澄のこと)。汝等も明日の相撲には参加せよ。織田家の一門衆として、藤十郎に勝ってみせよ」
信長の言葉に、信孝と信澄が「承知!」と声を揃えて頭を下げた。信長が更に言う。
「忠三郎(蒲生賦秀のこと)、与一郎(長岡忠興のこと)、汝等も参加せよ。藤十郎、汝の家臣共に伝えよ。三七や七兵衛といった織田の者にも遠慮は無用じゃ。もし手を抜いたならば、余が己の手で切り捨てると」
そう言われた賦秀、忠興、重秀は「ははぁっ!」と言って平伏するのであった。
さて、そんな話が終わり、嘉隆と重秀は自分の膳の前に戻って座った。それを見た信長が、機嫌良く声を上げる。
「さて。船揃えも無事に終え、殿下も内府様も武家伝奏殿も織田の武威を見ることができた。次は、安土で『馬揃え』でもしてみるか」
信長の言葉に、諸将が「おおっ!」と感嘆の声を上げた。信長が堀秀政の方に顔を向けて言う。
「と言うわけで、来年の正月十五日、左義長の催しとして馬揃えを行う。久太郎(堀秀政のこと)、他の奉行衆と談合の上、馬揃えの準備をいたせ」
信長の命に対し、堀秀政が「承りました」と言って頭を下げた。
「前右府殿」
信長の隣りに座っていた近衛前久が、信長に声をかける。
「その馬揃え、麿も出たいのだが?」
「おお、来てくださいますか。是非ご覧になっていただきたい」
そう言う信長に、前久が「いや、そうではなく」と眉を顰めた。
「麿も馬に乗って出てみたいぞよ」
前久の言葉を理解した信長は、苦笑しながら答える。
「承知いたしました。是非とも先関白殿下の御威光、安土にて披露してくだされ」
上機嫌にそう言う信長。そんな信長に秀吉が「恐れながら!」と声を上げた。
「上様!この猿めも馬揃えに参加しとうございまする!」
そんな事を言う秀吉に、信長が冷たい視線を送る。
「・・・猿。汝は参加できるほど暇なのか?因幡の鳥取城を毛利に取られ、塩飽の笠島城と与島城を手放した汝に、左義長に参加できる余裕があるのか?」
厳しい口調で信長からそう言われた秀吉は、思わず「うっ」と声に出した。信長が更に言う。
「猿。許したとはいえ調子に乗るなよ。少なくとも鳥取城を奪還するまで、安土への登城はまかりならぬ。安土の羽柴屋敷は藤十郎に預ける故、汝は早急に姫路に戻れ」
「は、ははぁ!」
秀吉がそう声を上げて平伏した。そして、そそくさと席を立つと、そのまま広間から出ていった。
その様子を見ていた者達は皆唖然とした表情を顔に浮かべていた。そんな中、信長が皆に話しかける。
「・・・さすがは筑前よ。あ奴は失態を犯したとはいえ、すぐに汚名を雪がんと動く。佐久間の牛(佐久間信盛のこと)とは大違いよ。皆も見習うように」
そう言うとその場にいた者達は「ははっ」と言って頭を下げた。信長が重秀に声をかける。
「藤十郎」
「は、ははっ!」
慌てて頭を下げる重秀に、信長は優しい口調で話しかける。
「筑前への褒め言葉、内密にしておけ。あ奴は儂が褒めるとすぐに調子に乗る。汝は口が固いから案じてはおらぬが、一応な」
「しょ、承知仕りました」
重秀が再び平伏すると、信長は満足げに頷くのであった。
酒宴が終わり、それぞれが宿泊先へと戻っていった。信長と公家達、小姓衆や奉行衆、そして三茶頭は兵庫城御座所内の指定された部屋であるが、それ以外の者達は兵庫城外の寺社である。
重秀は自分の住んでいる兵庫城の本丸御殿に戻ろうとしていたが、その途中で今井宗久に声をかけられた。
「羽柴様」
「これは宗久殿。如何なされましたか?」
呼び止められた重秀が宗久にそう尋ねると、宗久は小声で話しかける。
「先程、千宗易殿より住吉の鋳物師に頼み事があると聞きましたが?」
「ああ、はい。実は・・・」
そう言おうとした重秀を、宗久は自分に唇に人差し指を当てながら言う。
「お静かに。すでに皆様部屋に戻られてお休みになられておりまする。ここは、私めの部屋にてお話を伺いとうございまする」
そう言って歩き出した宗久に、重秀は黙ってついて行った。
宗久の宿泊部屋に着いた重秀は、宗久に銅の鋳物師が必要な理由を話した。宗久が「なるほど」と頷く。
「石火矢(フランキ砲のこと)でしたら私めも聞いておりまする。分かりました。喜んでご助力させていただきます」
「おお、かたじけのうございます。できれば鋳造がどのようになされているかを実際に見たいのでございますが・・・」
重秀がそう言うと、宗久は口元を掌で覆いながら笑った。重秀が不思議そうな顔で見つめていると、宗久は笑いを止めて話をし始める。
「これはご無礼をば。いや、噂通りのお方だと思った次第にて」
「・・・どのような噂でございますか?」
重秀が顔をしかめながらそう言うと、宗久は微笑みながら答える。
「何でも自らやらないと気がすまないお方だと聞いております」
そう聞いた重秀は、複雑そうな表情を顔に浮かべた。思い当たることが多いからだ。そんな重秀に、宗久が話しかける。
「そう言うことであれば、如何でございましょう。来年の四月頃にお越しになられては?」
「来年の四月・・・ですか?鳥取城攻めに向かうつもりなので、その時期は難しいのですが・・・。しかし何故?」
「遠里小野で菜の花の種を採取いたします故」
「菜の花の種・・・、ですか?」
重秀がそう言って首を傾げた。菜の花は重秀も知っている。大根や蕪、芥子菜の畑に春に咲く黄色、または白い花だ。蕾のうちに収穫し、味噌汁に入れたり、茹でた物をそのまま食べるのだ。苦くて辛味のある味で小さい頃は苦手であったが、今では苦もなく食べられるようになった野菜である。
―――はて、そんな野菜が鋳造に何の関係があるのだろうか?―――
そう思っている重秀に、宗久が微笑む。
「北近江で桐油を作っておられた藤十郎様なら、必ずや遠里小野の菜の花を気に入ってくださると思いますよ」
宗久の言葉に、重秀はキョトンとした顔つきになった。何故ここで桐油が出てくるのだろうか?
「そのご様子では、藤十郎様は菜種油というものはご存知なさそうでございまするな?」
宗久の質問、というより確認に対し、重秀は首を横に振る。
「・・・いいえ、存じませぬ」
そう言うと宗久は「そうでしょう」と頷いた。
「この油はつい最近唐の国から伝わった油でございます。もっとも、この油を生み出す油菜はその前から日本には有りましたが」
そう言うと宗久は菜種油について話し始めた。
夜遅くまで続いた菜種油の話に、重秀は興味を示した。結局、重秀は鋳物師の仕事ぶりだけでなく、油菜の栽培や菜種油の搾取過程を見学するために、来年の四月初旬に摂津の住吉郡を訪れることになった。
次の日、兵庫城内にある馬場にて、信長と前久のための上覧相撲が行われた。
本来の予定では、相撲はあくまで兵庫在住の羽柴家中の者達だけで行われ、信長や前久達外部の者は見学するだけだった。
しかし、信長が信孝や信澄、賦秀や忠興に参加を命じたため、その他の者達も参加を申し出てきたのだ。信長の前で自分の息子や家臣の強さを見せたいという考えでの申し出であった。
しかも、信長自身も腕自慢の小姓や馬廻りに参加を命じたため、相撲の参加者が大幅に増加。羽柴の参加者を減らす羽目になった。
更に、羽柴からの相撲参加者の一人であった重秀は急遽参加を取りやめることになった。というのも、元々は秀吉が信長の傍に侍り、羽柴の相撲の選手を紹介するはずだったのだが、秀吉が本当に姫路城に帰ってしまったため、代わりに重秀が信長の傍に侍る羽目になったのだった。
そんな予定外のことが起きたものの、上覧相撲は始まってみると盛り上がった。家同士が強い力士を送り込んだため、家対抗の相撲大会となったのだ。応援も身が入るというものであった。
この頃の相撲は戦場で敵兵の首をかき切るための近接戦闘術を競うものであった。さすがに相撲黎明期のような飛び蹴りや目潰し、骨折りといった危険な行為は禁じ手とされていたが、それでも現代の相撲よりは荒々しいものであった。
また、現代の相撲と違い、土俵というものがなかった。土俵の代わりとして、多くの人が円状に立って人垣を作り、その中で相撲を行って人垣に触れたら負け、というルールも当時はあった。しかし、それでは信長が試合の様子が見えない、ということで今回の上覧相撲では人垣を作らなかった。というわけで、試合は倒れるまで続行する、というものであった。当然倒れた者が負けである。
そんな中、多くの力士が勝敗をつけていき、強者の数が残り少なくなっていた。その強者の中に、一人の大柄な老人が含まれていた。それは、三浦義高であった。
「・・・あの老体、確か昨日の船揃えにて見たことがあるな。一体何者ぞ。我が馬廻りにも勝っているではないか」
「あれは我が羽柴の家臣、三浦荒次郎でございまする」
重秀の回答に、信長だけではなく前久も目を剥いた。
「・・・まさか、相模の三浦弾正少弼さんかえ!?生きていたのか!?」
前久が驚愕の声でそう言った。前久は上杉謙信と共に関東を攻めたことがある。その際に『八十五人力』と言われた豪傑、三浦荒次郎義意の逸話を聞いていたのだった。
「いえ、あの荒次郎は殿下の存じ上げておられる者ではございませぬ。あの者は三浦弾正少弼が息にございます。三浦滅亡のおり、密かに脱した三浦の嫡男が播磨まで逃れてきたのでございます」
重秀がそう説明すると、前久は「そ、そうでおじゃるか」と納得したように頷いた。しかし、信長が自分の抱いていた疑問を重秀にぶつける。
「しかし、荒次郎の息子とはいえ、相当歳が入っているのではないか?歳はいくつなのだ?」
「そろそろ六十になると聞いておりまする」
「六十近くであの力か・・・」
そう言って義高を見つめる信長。信長の目には、甥である信澄を容赦なく組み伏せる義高の姿が映っていた。
「・・・藤十郎。あの者を余が所望すると言ったらどうする?」
信長からそう言われた重秀は動揺した。老年だからといって、義高の水軍技術は未だ衰えていない。だから小早四番隊を任せているのだ。抜けられたら困る。
そう思った重秀が「恐れながら・・・」と言って断ろうとした。しかし、それに被せるように信長が言う。
「戯言よ。本気にするな。・・・藤十郎、あのような武将は得難いぞ。大切にしろよ」
「・・・御意」
そう言って重秀は頭を下げるのであった。
信澄だけではなく信孝や忠興、賦秀にすら勝利した義高であったが、織田の次世代を担う若手との連続の取り組みに、体力を消耗したらしい。池田元助との取り組みで初めて土がついた。
結局、元助が信長の小姓衆や馬廻衆に勝利したため、優勝は元助となった。信長からは刀と銀子が与えられる一方、見事な立会を披露したとして、義高にも信長から短刀を与えられたのだった。
その後、信長が義高と相撲を取って投げ飛ばされたり、父前久に命じられて飛び入り参加した信基を、対戦相手だった福島正則が締めてしまい、気を失わせてしまうというハプニングがあったが、概ね好評のうちに終わらせることができた。
信長の一代記では、信長の兵庫訪問で鷹狩と船揃え、そして上覧相撲の様子が詳しく記載されている。その様子から、信長が如何に楽しんだかが記述から分かる。
一方、この日を境に信長の対長宗我部外交が変わっていった。その変化によって、織田と長宗我部が対立していくのであるが、その対立が鮮明になるのは、年が明けた天正九年(1581年)からである。