第216話 兵庫訪問(その6)
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一条家は藤原北家の嫡流の出で摂政・関白に任命されうる摂関家の一つであり、公家社会の頂点に立つ家であった。一方、西園寺家は藤原北家閑院流の出で摂関家に次ぐ清華家の地位にあった。
さて、一条家と西園寺家には多くの庶流の家があったが、その中には地方で武家として地域領主化した家があった。それが土佐一条家と伊予西園寺家であった。
土佐一条家は応仁の乱の時に前関白であった一条教房が、それまでの避難先であった奈良より自分の荘園があった土佐国幡野郡にある幡多荘へ避難してきた。そして教房の次男である一条房家がそのまま土佐に居着いたことから土佐一条家が始まった。
ちなみに京の一条家は教房の弟である一条冬良が養子となった後、京に戻って一条家の跡を継いでいる。
伊予西園寺家は鎌倉幕府滅亡時から南北朝時代の混乱期に西園寺家の一部の者が荘園からの年貢を確保するために、荘園のあった伊予国宇和郡にやってきたことが始まりとされている。この頃は西園寺家そのものも混乱の中にあった。というのも、西園寺家が後醍醐天皇の暗殺を計画したり、それがバレて当主である西園寺公宗が処刑されたりした結果、西園寺家そのものが南北に分裂するという混乱状態にあったのである。
なにはともあれ、伊予宇和郡にやってきた西園寺家の人々は、松葉、立葉、来村という3ヶ所に分かれて土着するようになった。その後、3ヶ所の西園寺家は小競り合いをくり返した後、松葉の西園寺家が他の2ヶ所の西園寺家を抑えてトップに立った。これが伊予西園寺家である。
土佐一条家も伊予西園寺家も公家としてのステータスの高さを武器に周囲の国衆を傘下に取り入れ、いわゆる戦国大名化していった。が、残念ながら両家とも『土佐の出来人』と呼ばれた長宗我部元親による侵攻で衰退していった。
特に土佐一条家は当主であった一条兼定が若年であった事と、筆頭家老である土居宗珊とその一族を殺害した事から傘下の国衆が離反。長宗我部の侵攻を受けて重臣達が兼定を強制的に隠居させるという事件が起きた。
その後、元親と一条家宗家の一条内基が話し合い、兼定を九州に逃す事と土佐一条家を兼定の嫡男である一条内政に継がせて内政を土佐国主にする事で同意した。それ以降、元親は土佐の実権を握ることになる。
「ところが、今年の五月以降、土佐中将様(一条内政のこと)と連絡が取れなくなり、左府様(一条内基のこと)が案じている、という訴えが長門(村井貞勝のこと)と宮内卿法印(松井友閑のこと)より聞かされております」
織田信長からそう言われた近衛前久は唖然とした顔つきになった。そんな前久に、信長が更に話しかける。
「更に、西園寺家については未だ長宗我部に降ってはおりませぬが、それでも度重なる侵攻で思うように年貢を宗家に送ること難しくなっております。西園寺宗家は拙者を介して伊予の西園寺を救って欲しい、と長門や宮内卿法印に懇願しております。
・・・先関白殿下、一条様と西園寺様を脅かす長宗我部の行い。見過ごすわけには参りませぬ」
信長の話を聞いていた前久はしばらく黙っていた。しばらく経って、前久が溜息を一つつくと信長に言う。
「・・・分かりました。長宗我部へは麿より取り次ぎまひょ。一条さんと西園寺さんが関わっているとなると、近衛としても見過ごせまへんからな」
前久がそう言うと、信長は「かたじけのうございまする」と頭を下げた。
そんな様子を見ていた重秀。おぼろげながらも信長が須磨にやってきた理由が分かったような気がした。
―――上様は、先関白殿下を動かして長宗我部の膨張を抑えるのが目的で鷹狩を催したのか。そして、瀬戸内の海運を担う兵庫津の近くの須磨で鷹狩を行うことで、少しでも長宗我部・・・、いや毛利を含めた西国大名に織田家と近衛家・・・、いや朝廷との結びつきを見せつけることで、織田家の権威が鞆の公方様(足利義昭のこと)よりも上であることを示したかったのか―――
重秀がそう思っていると、不意に自分を呼ぶ声が聞こえた。重秀が声をする方に慌てて顔を向けた。何故ならば、声を掛けたのが信長だったからだ。
信長が機嫌良さそうに高い声で重秀に言う。
「藤十郎。明日の・・・、船揃えと言うべきか?楽しみにしているぞ」
次の日、兵庫津には朝から大勢の人が集まっていた。しかし、それらは兵庫津の住人ではなかった。信長とその家臣、そして前久とそれに従ってきた公家達とその従者が集まっていたのだ。
彼らの目的は『船揃え』と呼ばれる、今で言う観艦式に参加するためであった。
『船揃え』とは元々水軍が出撃する際に一旦湊に集結することを指す。同じような用語に『馬揃え』があるが、これも元々は出陣前に兵馬が一定の場所(主君の館など)に集結することを指した。
しかし、集結した兵馬の動きや装備を主君が観閲したことから、次第には出陣前ではなく平時における観閲となり、更には軍事パレードとしての側面も有するようになった。
そしてそれは、『馬揃え』だけでなく『船揃え』にも当てはまるようになった。とは言え、現代のような観艦式のように観閲艦艇と受閲艦艇を交差させるように航走させて行うことどころか、停止した受閲艦艇の周囲を観閲艦艇が航走させて行うということすら当時の操船術では難しかった。
そこで、当時の『船揃え』は湊に集結した受閲艦艇を観閲する人が陸上からただ眺めるという形が取られていた。
今回、兵庫津で行われた船揃えもまた、他と同じような船揃えであった。すなわち、信長や前久・信基親子を始めとした観閲者達が、湊から停泊している羽柴と九鬼の軍船をただ眺める、というものだった。
「・・・真のことを申さば、上様や先関白様、内府様を船に乗せて我が水軍を見ていただきたかったのでございますが・・・」
船揃えの説明をし終わった後、そう呟いた重秀の言葉を、前久は聞き逃さなかった。
「それは良き趣向でおじゃるな。しかしながら、何故そうしないのでおじゃるか?」
前久の発言に対し、答えたのは重秀ではなく信長であった。
「殿下。それは難しいというものにございます。羽柴の船はそうそう沈みませぬが、万が一にも殿下を乗せた船に何かございましたら、殿下や内府様の御身が危のうございます。特に、殿下も内府様も泳げるとは聞いておりませぬ。そのようなお二方を軽々に船に乗せることは、我等としてはご遠慮申し上げとうございます」
信長が申し訳無さそうにそう言うと、前久と信基は不満げに呟く。
「・・・麿も船に乗ってみたかったのう」
「ええ、父上。それがしも乗ってみとうございました」
「・・・一応、『村雨丸』には乗れるようにはしております。航走はいたしませぬが」
重秀の言葉に対し、前久は溜息をつく。
「できれば、風を受けて海原を走らせてもらいたかったのだがのう・・・」
「・・・申し訳ございませぬ。平にご容赦を」
そう言って頭を下げる重秀。そんな様子を見ていた信長が、助け舟を出すかのように前久に言う。
「殿下。お気持ちはごもっともなれど、あまり藤十郎を責めまするな。これも殿下と内府様の御身を案じてのこと。それに、冬の海は風が冷とうございまする。殿下と内府様が風邪を引かれては、藤十郎も困りましょう。何卒、お控えあれ」
「分かっておる。まあ、走れなくとも船の内部を見せてもらえるだけでも良しとしまひょか。では早速始めなはれ」
前久からそう言われた重秀は、「はっ」と返事をすると、船の説明をし始めた。
重秀が最初に説明したのは高原水軍から派遣された小早であった。毛利の領地である備中に近いため、毛利に備えるために水軍を動かせない高原であったが(実際、より備中に近い児島の高畠水軍は船の派遣を諦めている)、それでも二隻の小早を船揃えのために送り込んでいた。信長に味方であることをアピールすることで、戦後の領地安堵を狙っていたため、小早にはそれぞれの家紋を記した旗印を必要以上に乱立させていた。
高原水軍の紹介が終わると、次に重秀はフスタ船『曙丸』と『暁丸』を紹介した。『曙丸』と『暁丸』にはそれぞれ梶原左兵衛と三浦義高が乗っており、『曙丸』と『暁丸』、それに続く小早には両家の家紋を記した旗印が翻っていた。
「ほう、小さき南蛮船も作ったのか。これは何故か?」
信長の質問に、重秀が答える。
「小早を複数指揮する場合、鐘や太鼓の音を使いまするが、複数の太鼓の音色や叩く回数にて指揮を行いまする。小早で指揮を取ると太鼓や鐘の数を多く乗せることができないため、やや大きめの船を造りました。フスタ船なのは、小早と違って船軍をしやすくするためにございます」
重秀が淀みなく答えると、信長は「で、あるか」と感心したような声で言った。そしてじっと『曙丸』と『暁丸』を見つめていた。いや、船そのものではなく、左兵衛と義高を見つめていた。
この時、左兵衛と義高は大鎧を身に着けていた。また、船に乗る兵達は腹巻を身に着けていた。信長の隣りにいた前久は、「おお、古の鎌倉武士のような出で立ちじゃ!」と喜んでいた。
しかし、信長は前久と違い、喜んだような表情は見せていなかった。その代わり、難しそうな顔つきで重秀に小声で尋ねていた。
「・・・あの者達は何故古めかしい格好でいるのだ?」
「あの者等は播磨の国衆、梶原と三浦の者達でございます。上様と先関白様に水軍をお見せすると伝えたところ、『鎌倉時代から続く梶原と三浦の名を知らしめる!』と勇んでおりました」
重秀の話を聞いた信長は、ただ一言「で、あるか」と小馬鹿にしたような物言いで呟いた。どうやら信長の目には古臭さしか感じなかったようであった。
重秀の案内はいよいよ『村雨丸』へと移っていった。羽柴水軍の主力である村雨型ということもあり、『村雨丸』『春雨丸』『五月雨丸』『時雨丸』が湊に泊まっていた。
「これより『村雨丸』を案内いたします。渡板を使って船に入りますれば、足元にお気をつけくだされ」
重秀が注意した後、信長達は重秀が先導する中、『村雨丸』に入っていった。
「ほうほう!これが南蛮船か!」
興奮した口調でそう言う前久。その隣では信基が目を輝かせて船内を見ていた。そして前久や信基だけでなく、信長や秀吉、重秀以外の織田家の重臣達が驚きと好奇心の溢れる目で船内を見ていた。
そんな彼等に対し、重秀は丁寧に説明していったが、当然質問が飛んできた。前久はもちろん、信基や神戸信孝、津田信澄、蒲生賦秀や長岡忠興なんかも質問を多くしてきた。重秀はそう言った質問にも丁寧に答えていった。おかげで、『村雨丸』の見学だけで2刻も掛けてしまったのだった。
『村雨丸』から降りた信長達は、次に『吹雪丸』を見学した。吹雪型も羽柴水軍の主力となる関船であったため、『吹雪丸』『深雪丸』『初雪丸』『白雪丸』の4隻が湊に停泊していた。しかし、外見はジャンク帆を持つ従来の関船であり、しかもジャンク帆は畳まれていたため、その見た目からは信長や前久達からはまったく注目されなかった。
ただ、そのお陰で『吹雪丸』『深雪丸』に乗っていた淡河定範と別所友之が気付かれることはなかった。二人は一応三木城で切腹したことになっていたため、生きていることが信長にばれると羽柴がお咎めを受けることになる虞があったからである。もっとも、二人の顔は織田家中には知られていなかったので、バレるということはなかったのだが。
こうして重秀による羽柴水軍の軍船の説明は終わった。後は九鬼嘉隆による九鬼水軍の軍船の説明に移っていった。重秀は精神的な疲れを感じつつ、信長達の見ていないところで安堵の溜息をつくのであった。
船揃えが終わった後、信長と前久達は兵庫城へと戻っていった。そして、兵庫城御座所では茶会が催された。
千宗易、今井宗久、津田宗及の三茶頭が茶を点てる大規模な茶会である。もっとも、三茶頭三人が同じ部屋で茶を点てるわけではない。それぞれ別室に分かれて茶を点て、信長や前久達は事前に割り当てられた部屋で饗しを受けるのである。
重秀は秀吉の他に蒲生賢秀・賦秀親子、長岡藤孝・忠興親子と共に千宗易の茶を受けることになった。
勝手知ったる宗易の茶事である。重秀を始め、部屋にいる者達は皆リラックスした様子であった。そんな中、宗易の茶事が始まった。
「冷たい潮風にさらされて体が冷えておりましょう。温かい料理で体を温めくだされ」
そう言って出された一汁三菜の料理は、確かにすべてが温かかった。その温かさに、冷えて強張った体中の筋肉が緩んでいく。と同時に、料理を食べた者すべての表情が緩んだ。自然と口も軽くなっていく。
「・・・羽柴と九鬼の水軍は見事なものでございましたな。特に、南蛮造りの船は実に興味深い。我ら丹後水軍でも取り入れたいものでござる」
忠興がそう言うと、秀吉が何かを思い出したかのような顔つきになった。そして藤孝と忠興に平伏する。
「そう言えば、我が羽柴の要請に応えていただけるようで。この筑前、付して御礼申し上げる」
秀吉がそう言うと、重秀も慌てて平伏した。藤孝が「いえいえ」と首を横に振る。
「同じ織田家臣として応えるのは当然でござる。それに、百人一首のカルタでは我が愚息が筑前殿の御子息に大変世話になっていると聞く。ここで恩を返すのは長岡家も望むところにござる」
藤孝がそう言うと、秀吉は「かたじけない」と言って再び頭を下げた。そんな話を聞いた賢秀が思わず口を挟む。
「・・・失礼ながら、一体何の話でござるか?」
「ああ、これはご無礼を。何、丹後水軍を来年の鳥取城攻めにお借り願いたいという話にござる」
秀吉の回答に、賢秀が「丹後水軍を?」と尋ねた。秀吉が更に言う。
「左様。山陰を支配する吉川(元春)には、隠岐や石見や出雲の水軍を動員できます。しかしながら、羽柴の水軍は瀬戸内にあって山陰にはないのでござる。一応、但馬の垣屋が水軍を持っておりますが、いささか心もとなく、止むを得ず丹後の水軍にお力添えを願った次第にて」
秀吉の解説を聞いた賢秀が「なるほど」と言って頷いた。そんな秀吉が重秀に尋ねる。
「ときに藤十。上様から貰った石火矢(大砲の一種。フランキ砲のこと)。あれどうしたのだ?船に載せているのか?」
「ああ、あれですか。載せておりませぬ。あれ、意外に使い勝手が悪いのですよ」
重秀の言葉に、賦秀が口を出す。
「ほう?上様の話では、あれで村上の安宅船を沈めたと聞いたが?」
「確かに、右馬允様(九鬼嘉隆のこと)の大安宅船に載せていた時には敵の安宅船を破壊するのには役に立ちました。が、あれは大安宅船に載せたのと、数が総勢十八門という多さがあったからでござる」
そう言うと重秀は更に説明をする。
「石火矢の破壊力は従来の鉄砲や大鉄砲とは比較になりませぬが、さりとて多数の小早と焙烙玉を使用する毛利の水軍を相手にするならば、石火矢を撃つ遅さは欠点にございます」
石火矢は事前に子砲と呼ばれる弾倉に砲弾と火薬を詰め込んだものを後方から挿入して発射する。そのため、子砲を数多く用意すれば装填速度は当時の前装砲よりも速くなるはずである。しかし、そもそも重秀が持っている子砲が少ないため、その速射性を発揮できないでいた。
これでは素早く動く毛利や村上の小早に当てることができない。元々命中率の低い石火矢で小早の素早さに対抗するには、数で弾幕を張ることしかなかった。
「そして問題は石火矢を作るための銅の鋳造ができる者が、摂津や播磨にはいないということなのです」
重秀がそう言うと、賦秀が何かを思い出したかのように呟く。
「・・・銅の鋳造ならば、清洲城下でやっていると上様から聞いたことがある。清洲は意外にも梵鐘作りが盛んだからな。それに、若狭や越前でも銅の鋳造は行われていると聞いたことがあるな」
20世紀後半に旧清洲城の城下町跡地を発掘され、そこから銅(正確には青銅のこと)の金属滓や坩堝または取鍋と呼ばれる鋳造に必要な道具が大量に出てきた。このことから、戦国時代、清洲城下では銅の鋳造が盛んに行われていたものと考えられた。
また、若狭や越前では梵鐘が多く作られていた。梵鐘は青銅を鋳造して造られるため、若狭や越前には多くの銅の鋳物師が住んでいた。
そんな話をしていると、それまで黙っていた宗易がおもむろに口を開いた。
「・・・鋳物師でございましたら、今井宗久殿をお頼りになられては如何でしょうか?」
宗易の言葉に、皆が一斉に「今井宗久殿に?」と声を上げた。
「それは一体どういうことですか?宗匠」
重秀がそう尋ねたが、宗易は答えなかった。
「その前に、中立(茶事の途中に挟む休憩のこと)でございます。まずは別室でお寛ぎ下さい。話は後座(茶事の後半のこと)の際にお話いたしまする。