第215話 兵庫訪問(その5)
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羽柴秀吉が備前石山城から播磨姫路城を経由して須磨にやってきたのは、鷹狩の三日目のちょうど正午であった。
須磨にある松風村雨堂が織田信長の本陣となっており、鷹狩用のコスチューム姿の秀吉がその本陣に入ると、信長と近衛前久達が休息を取っていた。
「上様。羽柴筑前にございまする。遅参の儀、何卒お許しくだされ」
床几に座っている信長の前で片膝を付いて跪いた秀吉がそう言うと、茶を飲んでいた信長が茶碗を下ろして秀吉に言う。
「猿か。大儀である。しかしいささか遅かったな。鷹狩は昼前に終わったぞ」
「はぁ?しかし、予定では夕刻まで行われるのではないのですか?」
「予定ではな。しかし、一刻ほど前に山に熊が出てのう」
「熊・・・でございますか?冬なのに?」
「どうやら籠もっていたところを我等の鷹狩で起こしてしまったようじゃ。物見の者共を襲ったせいで、鷹狩は中止。急遽熊の討伐になってしまった。で、その熊討伐は藤十郎を中心とした羽柴勢に、三七(神戸信孝のこと)や七兵衛(津田信澄のこと)、忠三郎(蒲生賦秀のこと)、与一郎(長岡忠興のこと)と言った若手が加わっておる」
信長が眉間に皺を寄せながらそう言うと、秀吉が疑問符を頭に浮かべながら尋ねる。
「上様。如何なさいましたか?何か、お困りの様子でございますが・・・?」
「その熊討伐に内府様(近衛信基のこと)が加わってのう。内府様に何事もなければよいのじゃが」
信長がそう言うと、傍にいた近衛前久が済まなそうな顔で信長に言う。
「前右府殿(信長のこと)、相済まぬのう。我が息が勝手に加わってしまい・・・。あ奴は自分が武士であると思いこんでおるようじゃ。・・・皆の迷惑になってなければよいのじゃが・・・」
そう言われた秀吉はなんと言って良いのか分からずに黙ってしまった。信長も前久も他の者達も黙ってしまい、沈黙が流れる本陣に、森成利が入ってきた。
「申し上げます。熊の討伐、完了いたしました。狩った熊が届いておりますが、ご覧になりまするか?」
成利が片膝を付いて跪いてそう言うと、信長が「で、あるか」と言った。更に続けて言う。
「熊を持ってくるように言え。ついでに、藤十郎に父親も来たことを報せるのじゃ」
信長の命令を聞いた成利が「承知いたしました」と言って本陣から出ていった。しばらくして、成利に先導された近衛信基と神戸信孝、津田信澄と蒲生賦秀、長岡忠興、そして重秀が本陣に入ってきた。そして重秀の後ろから、熊を乗せた板を持ってきた福島正則、加藤清正、加藤茂勝、大谷吉隆の4人が続いて本陣に入ってきた。
信基がすぐに前久の傍らに侍ると、4人が熊を乗せた板を下ろして跪いた。そして、4人の前に出ていた信孝、信澄、賦秀、忠興そして重秀が片膝を付いて跪いた。そして代表して信孝が信長と前久に報告する。
「申し上げます。狩り場に出現し、物見の者を襲った熊を成敗いたしました」
「で、あるか。誰が仕留めた?」
信長の質問に、信孝が「羽柴藤十郎とその家臣でございます」と答えた。
「ちょうど羽柴勢が探索していた場所に現れました。後ろに控えし四名が槍で熊と戦い、隙が生じたところを藤十郎が鉄砲で仕留めた由」
信孝の説明に、信長以外の者達から「おお〜っ」と感嘆の声が上がった。信長が視線を信孝から熊に移した。そして熊に近づいていった。秀吉や前久、他の重臣達も信長に続いて移動した。
その熊は五尺(約151cm)のツキノワグマであった。標準的な大きさであり、信長も昔鷹狩の最中に目撃した熊と大体同じ大きさであった。
「なんや。熊というのは凶暴な獣と聞いとったが、思ったより大きゅうないのう」
広げた扇を口元に当てながら前久がそう言うと、信長が応える。
「・・・外見だけで実力を判断するなといういい見本でございまする、殿下。熊は人より小さいながらも、その力は人の何倍もございます。腕の一振りで、人の頭をもぎ取ると申しまする」
北海道に住むヒグマ(体長170cm〜220cm)と違い、本州に住むツキノワグマ(体長110cm〜160cm)は決して大きくない(共にオスの場合。メスは一回り小さい)。
しかし、体重が見た目以上に重い。ツキノワグマの体重はオスで60kg〜150kg。人間の場合、身長110cmの標準体重が26kgで身長160cmの標準体重が56.3kg。つまり人の倍以上の体重を持つのだ。
そんな重量の生き物が体当たりなり押し倒したりしたら、人は為すすべもなく倒されるか吹っ飛ばされる。そして強力な腕と鋭い爪で引っ掻いたり、強力な顎と大きな牙で噛みついてくるのである。人一人が素手で立ち向かえる相手ではないのだ。
狩られた熊の死体を見ていた信長。しばらく見ていた後、おもむろに口を開く。
「・・・藤十郎」
「はっ」
重秀が即座に返事を返すと、信長は視線を熊から重秀に向ける。
「熊を討ち取ったこと見事。大儀であった」
「ははっ、有難き幸せ」
重秀が頭を下げるのを見た信長が、今度は視線を熊の死体を乗せた板の周りに侍る正則達に目を向ける。
「そこな四名。名を名乗れ」
そう言われた正則達は動揺しつつも緊張の面持ちで名乗り始める。
「羽柴が臣、尾張二ツ村が出、福島市兵衛!」
「同じく羽柴が臣、尾張中村が出、加藤虎之助!」
「同じく羽柴が臣、三河永良の出、加藤孫六」
「・・・同じく羽柴が臣、近江小谷の出、大谷紀之介でございます」
「で、あるか。大儀であった。よく励めよ」
信長の言葉をもらった四人は「有難き幸せ!」と声を揃えて頭を下げた。信長が重秀に顔を向ける。
「藤十郎。鷹狩で獲った獲物ではない故、此度の鷹狩の功には数えぬ。その熊は余に納めずとも良い。汝等で食せ」
「ははっ、有難き幸せ」
そう言って再び頭を下げる重秀。しかし、重秀は熊を食べる気はさらさらなかった。
これは別に重秀が信長に反発したとか、急に菜食主義者になったとかそういう訳ではない。重秀はこの熊を解体して売り飛ばそうと考えていた。
熊の部位は利用価値の高いものばかりであった。毛皮は防寒具として利用され、肉や内臓、骨や血は薬として重宝されていた。特に、胆嚢は『熊胆』という生薬であり、漢方薬の原料となっていた。
重秀は熊を解体し、これらの部位を売り飛ばすことで少しでも信長や前久の接待費用の回収を考えていた。
しかし、重秀のこんな考えに、冷水を浴びせる発言が前久から発せられた。
「羽柴殿。その熊、我が近衛家に献上してくれまいか?熊は薬になったり毛皮になったりと使い勝手が良い。近衛家に熊を献上してくれれば、京で便宜を図り事もできようぞ?」
前久の発言に、重秀は思わず舌打ちした。献上したら銭にならないからだ。しかし、その舌打ちが周囲に聞こえることはなかった。何故ならば、秀吉が大声を上げたからだ。
「いやいやいや!殿下お待ちくだされ!羽柴は上様の家臣!その家臣が上様の頭ごなしに殿下に熊を献上すれば、上様の面目が立ちませぬ!何卒、ご容赦を!」
そう言いながら前久の前で平伏する秀吉。そんな秀吉の言葉を聞いた重秀も、信長の面目を失わせるような要求だったことに、肝を冷やしていた。
さて、そんなやり取りを見ていた者達は、自然と信長の顔に視線を移していた。信長がどういう決定をするか固唾を呑んで見ていたのだ。そんな中、信長が口を開く。
「殿下。熊一匹の献上では近衛の名が軽うなりまする。熊でしたらそれがしが毛皮、熊胆、骨を多く持っておりまする故、後日織田より献上いたしまする。今日はその辺りでお許し願えぬか?」
信長の言葉に前久が「まぁ、それでもよいの」と言いながら扇をパチンと閉じた。
結局、熊は重秀達に下げ渡された。解体され、胆嚢は干されて熊胆に、骨は粉末にされて打ち身・捻挫の薬にされた。毛皮は重秀がもらい、内臓は捨てられた。残った肉は正則達の腹に入ったのだった。
冬眠中の熊が起きてしまうというハプニングがあったため、鷹狩は予定より早く終わった。兵庫城に戻った信長と前久、そして鷹狩に参加した者達は、兵庫城の御座所で三日間の鷹狩の結果を評価し合い、優秀だった者達が信長から下賜された獲物や報償の金銀銭、名物、刀などを受け取った。
ちなみに重秀は鷹狩では小鳥一匹も獲ることはできなかった。『新丸』と名付けられた鷹との信頼関係を築くのが第一だったため、狩りをする余裕がなかったのである。まあ、鷹も鷹で重秀から餌をもらっていたため、狩りをする意欲が全く湧かなかったのも原因の一つであったが。
さて、鷹狩の論功行賞(?)が行われた後、御座所の大広間では大宴会が催された。最初は信長や前久の手前、お行儀よく飲んでいたが、お酒が入って話が進むうち、皆が自分の膳から離れ、盃と銚子を持って思い思いの場所に移って談笑しながら飲んでいた。
「結局、藤十と与一郎殿は鷹狩では一匹も仕留められなかったか」
並んで座っている重秀と忠興の前で、呆れたような顔をしながら蒲生賦秀がそう言うと、重秀と忠興は視線を反らした。
「まあ、藤十の方は初めて鷹を持ったということもあるから、狩れなくても致し方無い。が、与一郎殿は鷹が合わぬのではないか?熊鷹は大きくて初めての者には扱いにくいぞ」
鷹を放つ場合、鷹が羽ばたくタイミングに合わせて腕を前に勢いよく出す必要がある。こうしないと、鷹が飛べないのである。鷹が航空母艦から発艦する戦闘機ならば、人の腕は空母のカタパルトの役目を持っているのだ。
腕を勢いよく前に出すタイミングがずれれば、鷹は腕から飛べずに地面に追突することになる。そうなれば鷹は怪我を恐れて人の腕から飛ばなくなってしまうのである。
忠興の鷹はクマタカであった。大型の鷹であるクマタカは当然重いため、腕から飛ばすには相応の力が必要であった。
忠興にはその力はあった。が、鷹を飛ばす際、その力を出すタイミングが鷹の羽ばたきと合わず、上手く飛ばすことができなかった。結果、獲物を捉える機会を逃し、獲物を得ることができなかったのである。
「・・・面目次第もございませぬ。長岡の名に恥じぬよう、丹後に帰ったら放鷹の鍛錬を行う所存でござる」
そう言って項垂れる忠興から重秀に視線を移した賦秀は、重秀に明日のことを尋ねる。
「そう言えば、明日は兵庫津にて船を見るのだったな?」
「はい。羽柴水軍と九鬼水軍、そして瀬戸内で我等に従う高原水軍の軍船を上様と先関白様に見ていただくことになっております」
重秀がそう答えると、忠興が顔を上げて重秀に尋ねる。
「そう言えば、羽柴には一昨年に木津川の河口で毛利の水軍に勝利した大安宅船があるとか。それがし大安宅船を見るのは初めてにござる」
「・・・もうないですよ」
重秀の答えに、忠興が「ええっ!?」と声を上げた。そこで重秀が大安宅船のデメリットを説明した。
「・・・という訳で、狭い瀬戸内では大安宅船は扱いにくく、また水夫や兵を大安宅船に集めるのは四万石の領地では維持が難しいのでござる」
「なるほど・・・。船は作っておしまいという訳ではないですか」
「まあ、城も修繕して維持するのに銭がかかるからな。船もそうなのであろう」
忠興と賦秀がそう言って頷いた。しかし忠興が溜息をつく。
「しかし、惜しいですな。それがし、一度でいいから大安宅船も見とうござった」
そう言う忠興に、賦秀が思い出すかのような口調で話す。
「堺の宗匠(千宗易のこと)の元に行った際に大安宅船を見たが、あれは確かにすごかった」
そう言った賦秀を羨ましそうな目で見る忠興。そんな忠興を慰めるように重秀が言う。
「与一郎殿。明日は羽柴水軍と九鬼水軍をお見せできます。大安宅船『龍驤丸』は解体しましたが、その材料と人は新たな関船や小早に振り分けて建造いたしました。明日はそれをお見せできるものと存じます。大安宅船とは違う羽柴水軍の武威を御覧いただきたい」
重秀がそう言ったときだった。遠くから「藤十郎!」と言う声が聞こえた。声のする方へ顔を向けると、上段の間に座っている信長と前久の前に座っていた秀吉が手招きをしていた。
重秀が忠興と賦秀に会釈をした後、立ち上がって秀吉の傍まで行くと、座って信長と隣りに座っている前久に平伏した。その後に顔を上げて秀吉に話しかける。
「父上。お呼びでしょうか?」
「うむ。まあ、呼んだのは上様じゃがのう」
秀吉がそう言うと、信長が空になった盃を持ちながら重秀に言う。
「藤十郎。此度の鷹狩、大儀であった。余は満足であった。労をねぎらい、酌を取らす」
そう言って信長は空の盃を重秀の前に差し出した。重秀がそれを受け取ると、自分の膳の横にあった銚子を持って差し出した。重秀が盃を前に持っていくと、信長自ら銚子から酒を注いだ。
「有難き幸せ」
そう言いながら盃を口元に持っていくと、中の酒を一気に口の中に流し込んだ。
「おお、見事な飲みっぷりであらしゃいますのう。さすがは筑前殿の子息じゃ」
前久が上機嫌にそう言うと、重秀ではなく秀吉が「恐れ入りまする」と言って頭を下げた。信長が重秀に言う。
「して、明日の準備はどうなっておる?」
「羽柴の水軍は準備万端にございます。九鬼の水軍も準備万端である、と右馬允様(九鬼嘉隆のこと)よりお伺いしております」
「で、あるか」
重秀の回答を聞いた信長がそう言うと、顔を重秀の方から前久の方へ向ける。
「殿下。明日は我が水軍の一端をお見せ致すことができるかと存じまする」
「そのようじゃの。しかし、織田の水軍を見せて、どないしようと思ってあらしゃいますか?」
そう言って開いた扇で口元を隠した前久。眉間に皺を寄せているところを見せつけるような扇の使い方に、信長への猜疑心が垣間見えた。
そんな前久を見つつ、信長は何でもないかのような口調で言う。
「織田の水軍も中々のものである、ということを毛利と長宗我部に知らしめるのでございます」
「毛利と、長宗我部・・・?」
前久が首を傾げながら言うと、信長が更に話を進める。
「瀬戸内を織田のものとし、海運を確かなものとする。そのためには、毛利と長宗我部が邪魔なのでござる。水軍を見せつけることで毛利と長宗我部を抑えとう存じまする」
「しかし、長宗我部殿は前右府殿と懇意だと聞いておったが・・・?」
前久がそう言うと、信長が「御意」と答えた。
「しかしながら、昨今の長宗我部の伸長ぶりはいささか過剰にて。瀬戸内の島々にまで手を伸ばされては甚だ迷惑というものにござる。そこで」
そう言うと、信長は前久の目を見ながら再び口を開く。
「殿下は長宗我部と昵懇と聞いたことがございます。何卒、長宗我部への取次をお願いしたい」
信長の言葉に、前久だけではなく秀吉や重秀、そして近くで酒を飲んでいた丹羽長秀が驚いたような顔をした。長秀が信長におずおずと聞く。
「・・・上様。長宗我部への取次は、惟任日向守殿(明智光秀のこと)の役目でございますが・・・?」
「日向だけには任せておれぬ。日向にはこれまでも多くの役目を与え、また丹波一国を与えたことで奴は多忙よ。これ以上奴に負担をかけるのはどうかと思ってのう。それに、早急に四国の一件を片付けたい。特に、塩飽を香川に握らせておくには織田としても見逃せぬものよ。
・・・まあ、誰かが素直に塩飽を明け渡さなければこのようなことにはならなんだが」
これを聞いた秀吉は思わず首を竦めた。そんな様子を横目に見ながら、信長が前久に話しかける。
「それに・・・。実は近頃は長門(村井貞勝のこと)と宮内卿法印(松井友閑のこと)より、左府様(一条内基のこと)から土佐中将(一条内政のこと)についての問い合わせがありまして。また、西園寺家からも伊予の一門についての問い合わせがございました」
「・・・一条さんと、西園寺さんからであらしゃいますか・・・?」
困惑気味に言う前久に、信長が軽く頭を下げながら言う。
「はい。それ故、殿下のお力添えが必要なのでございます。公家に関わることなのですから」