第213話 兵庫訪問(その3)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。
特に過去の細かい誤字脱字の報告には大変助かっております。厚く御礼申し上げます。
天正八年(1580年)十二月中旬。織田信長と近衛前久・信基(のちの近衛信尹)親子が兵庫城にやってきた。これに従う兵力3千。その中には奉行衆である堀秀政、福富秀勝、右筆である武井夕庵、小姓である森成利(前の森乱丸)、森長隆(前の森坊丸)、森力丸(のちの森長氏)などが従っていた。
また、神戸信孝や津田信澄、丹羽長秀や池田恒興・元助親子、長岡藤孝・忠興親子、蒲生賢秀・賦秀親子、そして三好康慶も自身の家臣を連れて随行していた。
更に、京で合流した堺の商人達も同行していた。その中には千宗易、今井宗久、津田宗及の三茶頭も加わっていた。
また、堺からは堺代官である松井友閑と、堺に駐屯していた九鬼水軍の指揮官である九鬼嘉隆も参加していた。
一方、近衛前久・信基親子に随行している公家は武家伝奏の甘露寺経元と勧修寺晴豊の二人だけであった。他はそれぞれの伴として家宰や青侍が十数人付き従うのみであった。公家衆筆頭の近衛家に随行する公家が二人だけ、というのは重秀にも予想外のことであった。
「・・・ここだけの話、先関白様(近衛前久のこと)は公家の先例を無視した行動を取られるお方。そのため、京の公家達から変わり者扱いされています。
・・・それに、関白殿下(九条兼定のこと)は前関白様(二条晴良のこと)のご長男であらせられます。先関白様と前関白様の確執は藤十郎殿もご存知でしょう?」
後で忠興から説明を聞いた重秀。ところが重秀は近衛前久と二条晴良の確執はよく知らなかった。
そこで忠興に聞いてみると、忠興は「ご存じなかったのですか?何でも知っているものと思ってましたが」と驚きつつも重秀に説明をし始めた。
永禄八年(1565年)、第13代室町幕府将軍の足利義輝が居住する京都二条御所が、三好三人衆と三好義継、松永久通が指揮する軍勢に攻め込まれた。結果、義輝は殺害された。
その後、三好三人衆等は将軍弑逆の罪から逃れるべく、また足利義栄を第14代室町幕府将軍にするべく、当時関白であった近衛前久を頼った。
近衛前久にしてみれば義輝は従兄弟。血縁を殺されて良い顔ができるわけがないのだが、義輝の正室が前久の姉であり、しかもその姉が三好三人衆によって保護されていたため、止むを得ず前久は三好三人衆達を助け、足利義栄を将軍職に推薦した。
ところが永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、三好三人衆等と義栄が京から逃げ出すと事態が一変する。第15代室町幕府将軍となった義昭が、自分の兄である義輝殺害の黒幕が前久である、と疑いの目を向けてきたのである。
実は義昭の裏には前久の前の関白であった二条晴良が関わっていると言われている。そんな事もあって前久もまた義昭によって朝廷から追放されてしまった。
その後、京から離れた前久は流浪の身となった。しかも、関白も解任させられてしまった。次に関白になったのは二条晴良であった。
それから5年後の天正元年(1573年)、義昭と信長が対立。その結果、義昭が京から追放されると前久の前途が好転した。義昭派の重鎮であった晴良と信長が対立するようになると、前久は信長に近づいていった。元々前久は反義昭・反晴良だっただけで信長と対立する気はなかった。その信長が反義昭・反晴良になった以上、信長と対立する理由がなくなったのである。
信長も反義昭・反晴良である前久と手を組むことは特に抵抗なかったので、天正三年(1575年)に帰洛を許した。
その後、信長と前久は鷹狩という共通の趣味で急速に接近していったのだった。
説明を聞いた重秀はここで一つの疑問が湧く。
「与一郎殿(長岡忠興のこと)、確か前関白様は天正六年(1578年)に身罷られましたよね?でしたら、朝廷内は先関白様が優位なのではありませぬか?それに従う公家も多かろうと存ずるが」
「おっしゃるとおりなのですが、今の関白殿下が二条家の出でござる。未だ二条家の影響は大きゅうございます。それに、先程申し上げたように先関白様は・・・、その・・・、有り体に申さば変人でござる。そのため、積極的に関わりたいという公家はなかなかいないのです。武家伝奏のお二方だって、あれは上様に従っているのであって、先関白様に従っているわけではありませぬ」
忠興の説明を聞いた重秀は、ただ「なるほど」と頷くことしかできなかった。
話は前後したが、兵庫城本丸にある御座所に案内された信長と前久達。その内部の豪華絢爛さに一同は感嘆の声を上げる。重秀が先導する中、一行は大広間に向かって歩いていた。
大広間に着いた信長と前久は並んで上段の間に座った。そして随員達は大広間の左右に並んで座り、最後に重秀とその家臣―――前野長康と山内一豊、浅野長吉、木下家定が下段の間の真ん中、大広間の出入り口である障子の近くに座った。
上段の間に座った前久がキョロキョロと大広間を見渡しながら信長に言う。
「・・・いや、見事なもんであらしゃいます。安土の御殿や天主も見事なもんであらしゃいましたが、ここ兵庫城の内装も見事なもんであらしゃいます。さすがは織田殿であらしゃるなぁ」
「お褒めに預かり恐悦至極。しかしながら、この兵庫城を造りしは拙者にあらず。御前に侍るあの若人、羽柴藤十郎にござる」
信長からそう言われた重秀は、心の中で「いや、違うんですけど」と呟いた。しかし、重秀のそんな思いを知らない信長が、視線を重秀に向けた。
「藤十郎。近う寄れ」
「ははぁ!」
信長から呼ばれた重秀が前に進み出て下段の間の真ん中よりやや後方に移動した。その場で平伏する。
「この者は羽柴藤十郎。我が重臣羽柴筑前守が息にて我が養女婿でござる。織田家の将来を担う若人でござれば、殿下にもお見知り頂きとう存ずる」
信長が前久にそう言うと、今度は重秀の方を見る。
「藤十郎。殿下に名を名乗れ」
「は、ははぁ!」
そう言って重秀は頭を更に下げた。そして頭を少し上げると、恐る恐る自己紹介した。
「ご、御前に侍りまするは羽柴筑前守が息、羽柴藤十郎重秀にございまする。若輩の身でありながらご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ上げ奉りまする」
緊張気味に言う重秀に、前久は嬉しそうに話しかける。
「おお。その方が羽柴さんの息子殿であらしゃいますか。名前は公家方の間でも広まってます。何でも、そこの兵部大輔殿(長岡藤孝のこと)の息子さんと一緒に百人一首のカルタを作られたとか。それに、前に烏丸さん(烏丸光宣のこと)や柳原さん(柳原淳光のこと)、日野さん(日野輝資のと)や広橋さん(広橋兼勝のこと)を須磨にお招きし、かの在中納言さん(在原行平のこと)の古跡を巡ったとか。えらい評判であらしゃいました。
・・・そして、この見事な御殿まで造るとは。筑前殿はええ跡取りを得ましたな。しかし、このような見事な御殿に麿より先に滞在した者がいるとは。いやはや、羨ましいことであらしゃいますなぁ」
前久の嫉妬の混じった声に信長が反応する。
「左様でございますな。元々拙者の御座所であったのに、公家とは言え拙者より先に使わせるとは。許しがたいことにござるな」
前久と信長の言葉に重秀が「え゙っ!?」と思わず声に出して顔を上げた。重秀の目に、扇で口元を隠しつつも目尻が下がった前久の顔と、信長がニヤニヤした顔が入ってきた。信長が、いたずらに成功した子どものような声で重秀に言う。
「戯言よ。そんな青い顔をするな。まあ、かく言う儂もここまで立派な御殿とは思ってもみなかった。襖と壁には見事な絵が描かれており、欄間も見事な彫りよ。金銀も使われているが、かといって過度ではない。見事な物よ。汝にこのような才があるとは思いもしなかったぞ」
そんな事言われても、と重秀は思った。実際造ったのは前野長康であり、重秀ではない。なので重秀はその旨を正直に話した。
「・・・ほう、そうなのか。まあどちらにしろ、殿下を嫉妬させるほど見事な御殿を造ったことは見事であった。汝と将右衛門には儂より褒美をやろう。さて、何が良いか・・・」
そう言った信長に対し、前久が信長の耳元で何かを囁いた。それを聞いた信長は、視線を重秀に向けると信長が高い声で聞いてきた。
「藤十郎。汝は鷹を持っているか?」
「いえ、持っていません」
重秀の回答に、信長と前久だけではなく、左右に分かれて座っていた者達からも驚きの声が上がった。
「鷹を持っていないのか?では鷹狩をしておらぬと申すか?」
信長の質問に重秀が答える。
「はい。そもそも、鷹狩は禁止されております故」
軍事訓練として大規模に行われる鷹狩は、領民への負担が大きい。そのため、領民への配慮のため、信長自身が家臣達が鷹狩をすることを原則禁止にしていた(ただし、例外として認められる場合もあった)。なので重秀は鷹狩をしていなかったのである。
「ただ、狩りそのものでしたら弓や鉄砲で狩りを行っておりました。海では潜って貝を採ったり、魚を釣ったり、水軍の鍛錬として鯆を獲ったこともございます」
「何。ここでは鯆が獲れるのか?」
「たまにですが、数匹から十数匹の群れが兵庫津に迷い込んできます。それを追い込んで銛を打ち込みまする」
重秀の回答に信長が「ほう・・・」と呟いた。目には好奇心旺盛な光が輝いていたが、そんな信長に前久が囁く。
「前右府殿。今は鯆よりも鷹でおじゃる」
「ああ。そうでしたな」
信長がそう言って頷くと、再び視線を重秀に向ける。
「藤十郎。見事な御殿を築いた褒美として、余の鷹をやろう。鷹の扱いは知っておるな?」
「はっ。岐阜のお城で小姓だった時に上様の鷹匠から教わっておりますが・・・」
そう答えた重秀であったが、正直鷹の扱い方なんてほぼ忘れていた。鷹狩をしていない以上、いくら優秀な重秀でも忘れてしまうものである。
そんな重秀に信長が命じる。
「で、あるか。では須磨での鷹狩に汝も参加するように。確か、鷹狩は明日であったな?」
「は、はい。明日から三日間行われまする」
拙い、練習する時間がない、と内心焦りながらも答えた重秀。そんな重秀に信長が高いながらも柔らかい声で話しかける。
「そんな顔をするな、藤十郎。初めてならば初めてなりにすれば良い。失敗したとて恥と思うな。初めてやって失敗するのは当然なこと。むしろ、失敗から学ぶことが肝要ぞ」
信長の教えに重秀は「お言葉、肝に銘じまする」と言って平伏した。そんな重秀の耳に、信長の声が入る。
「羽柴藤十郎、並びに前野将右衛門。両名に褒美として鷹を一匹づつ与える」
信長がそう言った後、広間中に「おめでとうございます!」と言う声が響いた。
「初めて、と言えば、我が息も鷹狩は初めておじゃる」
広間が一旦静かになった後、前久がそう言うと、持っていた扇をパチンと閉じた。そしてその扇で広間の左側、上段の間に一番近いところで座っている者を指した。
「羽柴殿。あれが我が息、内府であるぞよ」
そう言われた重秀が扇の指された先に視線を移すと、そこには狩衣を着た、重秀よりも年若い公家が座っていた。重秀が身体をその若い公家に向けると、礼儀正しく平伏した。
「羽柴藤十郎でございます。お見知り置きくだされ、内府様」
「こちらこそ、お頼み申し上げる。羽柴殿」
前久の息子―――従二位内大臣である近衛信基が見た目と違って武家言葉で重秀に挨拶した。彼は父前久と共に地方へ降り、多くの武士と会話をしてきた。そのため、彼の口調は武家言葉に変化していたのである。そんな信基が話を続ける。
「羽柴殿と同じように、それがしも鷹狩は初めてでござる。初めて同士、共に学んでいこうぞ」
信基からそう言われた重秀は、そんな言葉をかけられるとは思っていなかった。なので唖然としながらも再び平伏する。
「ははっ。勿体なきお言葉。しかと先関白様と上様の鷹狩を拝見し、我が糧と致しとう存じまする」
「ああ、そう言えば」
平伏している重秀に、信長が高い声をかける。
「汝の父はどうした?」
「父筑前は備前石山城に行っておりました。兵庫には明後日には着くと報せがありました」
「で、あるか。石山城となると、和泉守(宇喜多直家のこと)と何か話し合いか?」
「御意。父筑前は塩飽と鳥取城を失ったことを痛恨事と思い、その失態を埋めるべく、東奔西走しておりまする。美作方面から鳥取城へ毛利の援軍が来ないよう、和泉守様と談合している、と聞いております」
重秀は秀吉から来た手紙に書いてあった内容をそのまま信長に伝えた。しかし、それは嘘ではないが本当のことではない。
秀吉が石山城に向かったのは、宇喜多直家を見舞うためであった。この頃直家は『尻はす』と呼ばれる病に冒され、石山城で寝込んでいた。
秀吉は直家を見舞うと同時に、直家の弟の忠家と美作方面の毛利との戦いについて色々と話し合っていたのだった。
「で、あるか。まあ、猿・・・筑前のこと。汚名を雪がんと発奮しているのであろう。しかし、明後日には来るだと?」
信長の言葉に重秀が答える。
「父もたまには鷹狩がしたいと申しておりました」
重秀の回答に信長が「で、あるか」と言って頷いた時だった。隣りに座っていた前久が何かを思い出したかのような顔をした。そして信長に囁いた。それを聞いた信長が重秀に問う。
「して、須磨の狩り場はどうなっておる?獲物は居るのであろうな?」
「冬鳥がすでに須磨に来ておりまする。鶴を始め、鵠、鴨、雁、鷺、朱鷺、千鳥が見受けられます。また、海に近いため、都鳥も見受けられまする。更に、山には雉、山鳥もおりまする」
「獣は?」
「狢と狐、猪と鹿が多く見受けられまする。しかしながら、兎はあまり見受けられませぬ」
「・・・で、あるか」
「そうなると、須磨では鳥を競うことになりますのう」
前久が面白くなさそうな声でそう言った。そんな中、信基が前久に言う。
「須磨と言えば千鳥。その千鳥がいると言うだけでも十分でございます」
千鳥とは、チドリという名の鳥がいるわけではない。川や水辺に居る小さな鳥の総称として、千鳥と言われていた。例えばコチドリ(チドリ科)やタシギ(シギ科)、ケリ(チドリ科)、タゲリ(タゲリ科)等である。(ケリを千鳥に入れない場合もある)
「千鳥如きを狩ったところで、面白くもなんともないのう・・・。大物を獲って、此度こそ前右府殿に勝ちたいのだがのう・・・」
前久がまだ文句を言うと、信長が苦笑しながら言う。
「いやいや。此度も拙者が勝たせていただこうと存ずる。出羽の最上から献上された熊鷹を初めて出しもうす。いや、あの鷹は大きくて羽も美しい。鷹匠が言うには最高の鷹だと申しておりました。あの熊鷹には活躍してくれなければなりませぬな」
さり気なく良い鷹を貰った事を自慢する信長に、前久も負け時と鷹の自慢をしてきた。そして、皆が見守る中、信長と前久はしばらく互いの鷹の自慢をするのであった。
その日の夕刻。御座所では酒宴が開かれていた。前野長康を始めとする重秀の家臣と与力達の指揮の下、侍女や下男が酒や食事の配膳を行っていたり、宴会芸をするために呼んだ猿楽の担い手や幸若舞の踊り手が大広間で舞ったり歌ったりしていた。
前久や信長が兵庫津の海の幸を喜んで食べ、播磨のお酒を痛飲していた中、重秀は隣で酒を飲んでいる忠興から興味深い話を聞いた。
「え?与一郎殿は具足を自ら作ろうとしているのですか?」
重秀の言葉に、忠興が「左様」と答えた。
「信貴山城を始め、丹波丹後攻めでは多くの戦を経験してきました。そのたびに具足の至らぬ部分に気が付き、気になってまいりました。今は新たな領地である丹後を固める時期故、戦がないうちに新たな具足について考えようと思いまして」
「なるほど」
そう言いつつも重秀は内心舌を巻いていた。古今和歌集の歌をカルタに載せようと考えたように、忠興は創意工夫に優れた武将である。そんな武将が作る具足なら、それは素晴らしいものになるのではないか。重秀はそう思った。
そんな重秀に、忠興が尋ねる。
「藤十郎殿も摂津や播磨で戦をしてきた身。何か、具足に不満なところがあるのではありませぬか?もしよろしければ、参考のためお聞かせ願いたい」
「そうですね・・・」
そう言われた重秀は、盃を口元に付けている忠興に、自分が欲しい具足を言ってみた。
「しからば、水に浮いて、それでいて燃えない具足が欲しいですね」
重秀の言葉を聞いた忠興は、思わずむせてしまった。重秀に謝りながら、口の周りの酒を袖で拭く。
「・・・それはまた難しいことをおっしゃいますな」
「水軍を指揮するために船に乗りますから。海に落ちた時に身体が浮く方が泳ぎやすいですし、船軍では火攻めが常套ですから。燃えやすい具足は困るのです」
「な、なるほど・・・」
重秀の話を聞いた忠興が難しそうな顔でそう言った。重秀が話を続ける。
「最近読んだ『三国志演義』という漢籍によれば、『藤甲兵』なるものがいたそうで。何でも、藤の蔓を編んで油を塗った具足で、刀や矢を通さず、しかも軽いそうです」
「ほう・・・。藤の蔓ですか」
「ただ燃えやすいんです。藤甲兵の軍勢は火計を食らって全滅したそうで」
「あははっ。それは駄目ですな」
笑いながらそう言った忠興につられて笑う重秀。その後二人は新しい具足を肴に酒を酌み交わすのであった。
注釈
『鶴』とは、冬に日本にやってくるタンチョウヅル、ナベヅル、クロヅル、マナヅル等のことを指すだけでなく、形がよく似ているコウノトリも含まれる。
注釈
『鵠』とは白くて大きな鳥のことである。なのでハクチョウのことを指すとされているが、一方でコウノトリも白くて大きな鳥であることから、コウノトリのことも指す。
注釈
『都鳥』とは、ユリカモメのことを指す。これは『伊勢物語』に、都鳥とは「白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚を食ふ」という説明があり、この説明に該当する鳥がユリカモメだからである。
ちなみに、ミヤコドリというチドリ科の鳥がいる。冬に日本に飛来してくるが、その数は少数である。