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第211話 兵庫訪問(その1)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。

 天正八年(1580年)十一月一日。重秀は脇坂安治、加藤茂勝、宇喜多八郎(のちの宇喜多秀家)、黒田松寿丸(のちの黒田長政)、竹中吉助(のちの竹中重門)と兵庫津の近くにある神戸村という村に来ていた。ここにはつい最近できた船たで場があった。


 船たで場とは、船を陸に上げて修理する場である。満潮時に船たで場の特定の場所まで船を進めた後、そこに停泊させる。そして潮が引いていくと、事前に置いてあった木の台の上に船が乗って船底が露わになる。そして干潮時には完全に陸揚げされるのだ。


 さて、重秀の目の前では正に船たで場に陸揚げされた『春雨丸』が船底の掃除がなされていた。

 船の整備は『春雨丸』の水夫の他、兵庫津の船大工や神戸村の漁民達が手伝っていた。そんな中、船の整備を手伝っていた松田利助が重秀に経過説明をする。


「すでに船底にこびり付いていた貝や富士壺(フジツボのこと)は削ぎ落としております。後は船底の側で藁を燃やして燻して船虫(フナクイムシやキクイムシのこと)を殺すだけです」


 松田の説明に重秀が頷く。


「うん。燻すのは丹念にやれよ?『村雨型』にはまだまだ働いてもらわなければならないのだからな」


 重秀の言葉に松田は「承知しております」と言って頭を下げた。しかし、すぐに頭を上げると、ボヤくように重秀に言う。


「それにしても、海の船とは厄介なものですな。琵琶湖ではこんな事しなくても良かったのに」


 フジツボもフナクイムシもキクイムシも共に海の生物である。なので淡水の琵琶湖には生息していない。従って船底を燻すという作業は琵琶湖ではしていなかったのである。


「・・・真に船の修理は手間がかかる。いや、陸の建物も雨で木が腐ったり、虫に穴を開けられたりするが、陸にある故修理がしやすい。しかし船だとそうはいかない。一旦陸に上げなければならないからな。まあ、小早や関船はなんとかなるが、『龍驤丸』のような大安宅船だと陸に揚げる方法がない。それ故『龍驤丸』を解体せざるを得なかった。今後、『龍驤丸』よりも大きな安宅船を持ちたいが、なんとかして船虫を駆除できる方法はないものか・・・」


 重秀がそう言って嘆いていると、松田が何かを思い出したかのような声を上げた。そして重秀に言う。


「恐れながら若殿。船虫を滅する方法が他にもありました」


「お?そうなのか?燻す以外にもあるのか?」


「はい。川を遡上する船に船虫は付きにくいそうです。なんでも、船虫は川では生きられないそうで。ならば、船を川上に遡上させ、長い時をかけて置いておけばよろしいかと」


 実際、淡水ではフナクイムシもキクイムシも死んでしまう。海で生活する生物は、浸透圧の関係で真水領域で生活できないようになっているからである。そこで、小さい船などはフナクイムシやキクイムシの駆除方法として、川を遡上させて船底を淡水に長時間漬けるという方法も取られていた。

 ただし、フナクイムシもキクイムシも少量の塩分濃度でも生きていけるため、河口などの汽水域ではあまり意味がないのだが。


「なるほど。では小早などは兵庫津の北を流れる湊川を遡上させれば良いな。いや、いっそ川上に小早用の湊を造るか」


「しかし若殿。小早や関船はともかく、『龍驤丸』のような大安宅船を遡上させるのは難しゅうございますぞ。川底が浅ければ、十分な遡上は難しいかと存じますが」


 安治の言葉に重秀は「う〜む」と唸った。そんな中、松田が更に重秀に話しかける。


「あの、若殿。川を遡上させる以外にも方法・・・、方法?がありますが」


「なんで疑問形なんだよ」


 重秀が思わずそう聞くと、松田は右手を頭の天辺に乗せながら言う。


「いやぁ、実は兵庫津の船大工や水夫達が『そんな事聞いたことがない』と言って疑問視しているのですから、ひょっとして間違っているのでは?と思いまして・・・」


「間違っているかどうかは聞いて判断する。取り敢えず話してみろ」


 重秀からそう言われた松田がおずおずと話し始める。


「羽柴水軍は琵琶湖の丸子船の影響を受けて、船体に銅板を貼り付けております」


「ああ。確かにな」


「実は前に『村雨丸』の船底から貝や海藻を削ぎ落とした時にございます。船底に打ち込まれた銅(かすがい)(のちのダテカスガイ)には富士壺や貝、そして海藻の数が木造部分よりも著しく少のうございました。もちろん、銅鎹に覆われた部分は船虫に食われておりませぬ」


 琵琶湖に浮かぶ丸子船にはいろいろな特徴がある。その一つとして、『ダテカスガイ』と呼ばれる銅の板鎹がある(ダテカスガイは後世に付けられた名称)。

 元々は材木を繋ぎ合わせるための鎹としての役目があったものの、そのうち船を造った大工達が自分たちが造った船であるという証として、船首に板状の銅鎹を貼り付け、それで特徴あるデザインにしてしまったのである。

 そして、そんな琵琶湖の船大工が兵庫に移り住み、そこで作った羽柴の軍船にもまた、銅鎹が遣われた。特に、墨で塗った銅鎹は羽柴水軍の軍船の特徴である虎柄の一部を構成していたため、銅鎹が大量に使われていた。


「へぇ〜。そうなのか」


 素直に感心した重秀に、松田が更に話す。


「それで今回引き上げた『春雨丸』を調べましたるところ、『春雨丸』の船底で使われた銅鎹も同じく富士壺はほぼ付いておりませんでした。以上から、銅板を船底に貼り付ければ、富士壺など船にこびり付く生き物が付かなくなりまする」


 船底や船側など、およそ海水の浸かる部分に銅板や鉛板を貼り付けてフジツボ等の付着生物を予防するというやり方は、実は古代ローマの時代から行われていた。銅イオンと鉛イオンが付着生物の育成を阻害していると言われており、そのため現代では環境負荷が少ない亜酸化銅を、船底を始めとする喫水線下の部分に塗って付着生物を予防している。


「・・・松田の言うことが正しければ、船底に銅板を貼り付ければ船底を掃除することはなくなるな。富士壺や貝や海藻が付かなくなれば、船を苦労して陸に揚げる必要はない」


 重秀がそう言うと、安治が懸念の声を上げる。


「お言葉ながら、船底を始めとする海水の浸かる部分に銅板を貼り付ければ、その分費用が高くなると思われます。羽柴軍の軍船全てに付けるのは不可能でござる」


「・・・銅板を付けるのは大安宅船だ。小早や関船だったら陸に揚げたり川を遡上させたりすればよいだろう。それらのできないほど大きな船に銅板を使えば良い。それなら銭はかからないだろう」


 そう言う重秀であったが、どことなく不満そうな顔をしていた。茂勝がそれに気付いて重秀に尋ねる。


「若殿。まだ何か不満がありそうっすね?」


「・・・船たで場はただ砂浜に木の板を敷いただけの場所。満潮時には海になり干潮時には陸になる。それ故船を陸に上げることができるのだが・・・。満潮になる前に修理や燻しを終わらせる必要があるし、『龍驤丸』の様な大安宅船を陸に上げるのは難しい。

 ・・・もっと手軽に船を修理できたり燻せたりできる場所が欲しいのだが・・・」


 そう呟いた重秀だったが、急に何かを思い出したかのような顔をすると、その思い出したことを口にする。


「・・・そう言えば、伴天連から聞いた話では、南蛮でも船たで場のようなものがあるらしい。それは水門と石垣で囲まれており、満潮のときに船を水門内に入れた後、干潮で水門から潮が引いたところを見計らって水門を閉め、水門内の水を汲み出すらしい。そうすれば、潮が満ちても水門で石垣内に潮が入らないから、潮の満ち引きを気にすることなく船の修理ができるそうだ」


 重秀の話した『南蛮の船たで場』は、いわゆる乾ドックである。乾ドックの歴史は古く、プトレマイオス朝時代のエジプトを始め、古代ギリシャや古代ローマにも存在しており、また、11世紀頃の中国にも似たような施設が長江にあったと記録されている。


 重秀の話を聞いた茂勝が重秀に言う。


「それならうちらでも作れそうっすね。石垣なら穴太衆(近江を拠点とした石工集団のこと。石垣造りに長けていた)との繋がりが未だあるし、水門なんかも作れる大工もいるでしょうし」


「ただ、実際にどうやって造ればいいのかが分からない。教えてくれた伴天連も姿形は知っていても、造り方は知らないと言っていたしな。それに、船をどうやって入れるとかとか、実際の使い方もよく分からないし」


 そう呟いた重秀に、松寿丸が話しかける。


「恐れながら若殿。まずは小さなものから作ってみては如何でしょうか?小早くらいの船が入れるほどのものでしたら、大した銭も材料もいらぬと存じますし、失敗しても特に大事にはなりますまい」


 松寿丸の提案に、重秀が頷く。


「うん。悪くない。試しに小さい物から作っていけば、改善点なんかもすぐに見つかるだろうな。さすがは官兵衛殿の息子だ。よく気がついた」


 重秀の言葉に、松寿丸ははにかみながら「恐れ入ります」と言って頭を下げたのだった。





 神戸村での船たで場の様子を見学した重秀達は、神戸村の庄屋で休んでいた。庄屋の囲炉裏の周りで暖を取っていた重秀達は、囲炉裏の中から牡蠣を取り出しては、牡蠣の熱さに四苦八苦しながらのみで牡蠣の口をこじ開けてた。


「牡蠣は美味いのは良いんだけど、熱いしこじ開けるのが大変だなぁ」


 重秀がそう言うと、安治が笑いながら言う。


「しかし若君。この牡蠣が食えるのは冬のうちでございますぞ。春になれば、こんな美味いものが食えなくなるのでござる。食べられるときに食べておきましょう」


「左様。それに、この牡蠣は『村雨丸』や『春雨丸』にこびり付いていた不届き者。食べて成敗いたすのも一興でございましょう」


 安治に続いて松田がそう言うと、重秀達は笑った。牡蠣もまた、船底に付着する固着動物である。材木に穴を開けることがないので牡蠣が付着したからと言って船が浸水するわけでは無い。しかし、牡蠣が群れて付着すると抵抗力が大きくなり、船の速度が遅くなることから、早急に剥がす必要がある。


「船に牡蠣が着くのですか。それでは食べ放題ですね!」


 松寿丸がそう言いながら熱々の牡蠣を口に運んだ。あまりの熱さに口の中で牡蠣の身を転がしてハフハフ言っている松寿丸に、松田が話しかける。


「まあ、実際のところ、船に付く牡蠣はほとんどが食えるまで大きくなる前に削ぎ落としてしまうので、食べることはないのですが」


「え?では今食べているのは?」


 吉助が尋ねると、松田が答える。


「それらはそこいらの海の岩で取れたものでございます」


 松田の言葉に、熱い牡蠣の身を何とか食べた松寿丸が「なぁんだ」とがっかりしたように言った。その様子を見て重秀は笑ったが、何かを思い出したらしくすぐに真面目そうな顔つきになる。


「・・・そうだ。皆に話しておきたいことがある」


 重秀がそう言うと、皆が一斉に重秀に視線を向けた。重秀が話をし始める。


「・・・船同士の交信をもっと考えないといけないと思っている。過去の戦で分かったのだが、鏡や旗振り、太鼓や鐘の音を使ったやり取りのうち、読み間違い、聞き間違いが多くあった。特に回数の間違いが多かったのが問題だ」


 羽柴水軍では、船同士の通信方法を数多く生み出してきた。結果、日の浅い水軍でありながら統率が取れていた。しかしながら、通信内容を間違えるということも数多く発生していた。

 戦後の調査で、回数を間違える者が多くいたことが分かった。3回鳴らしたのに2回しか聞こえていないとか、そういう事が多くあったのだ。


「回数を数えるのが間違えるのであれば、回数で伝える方法を止めればよろしいのでは?」


 松寿丸がそう言うと、重秀が眉を八の字にして困惑したような顔つきになる。


「そうなると、鏡で光を送る方法は廃止となるな。あれは長短と回数しか変化がない。回数での伝え方を止めるとなると、長短だけになるが、それだと長いか短いかの二通りだけになる」


 重秀がそう答えると、安治が「ああ、確かに」と唸った。


 鐘や太鼓の場合は、叩く回数ではなくリズムやメロディで変化をつけることができるし、旗振りも振る回数を止めても旗の色や模様、そして複数の旗の組み合わせで伝えることができる。しかし、鏡を使った光の通信方法では、光らせる回数を廃止すると光らせる長さのみで伝えることになる。これはこれで見間違える可能性が高くなる。


「旗や鐘や太鼓は異なる種類を多く乗せる必要がありますが、その分の搭載をするために大きな船でなければなりませぬ。一方、鏡を光らせる場合、小さくても遠距離に届く光を発するので、小早などの小さい船では使い勝手が良いのです。鏡の廃止はすべきではないと思いますが」


 松田の言葉に、皆が悩み始めた。そんな時、重秀が「あ、そうか」と呟いた。


「鏡も複数使えば良いんだ。例えば三つほど横に並べたり縦に並べたりして光を反射させるんだ。また、一つ二つだけとか三つ全て光らせるとかもできる。それなら回数を光らせるわけじゃないから、読み間違いもなくなるだろう」


「それならば、いっそ十字の木の板か棒に鏡を縦と横に三つづつ並べさせまするか?そして光を反射させる場合に、布か板で鏡を覆えば、光る鏡と光らない鏡で意味をもたせることが可能になりまする」


 松田の提案に、重秀が「それは良い!」と声を上げた。こうして羽柴水軍では引き続き鏡を使う通信方法が使われることになった。そして、この十文字の鏡の通信方法は、当時中国から伝わった籠提灯を利用した通信方法に応用されることになる。





 牡蠣をたらふく食べて兵庫城に戻った重秀達。そんな重秀達に、石田正澄が近づいてきた。


「弥三郎(石田正澄のこと)か。どうした?」


 急いで近づいてくる正澄に訝しみながらそう尋ねた重秀。そんな重秀に正澄が片膝を付いて跪きながら言う。


「申し上げます。高屋城城主、三好山城守様(三好康慶のこと)が兵庫城に参っております。今は本丸御殿の客間でお待ちでございます」


「山城守様が?」


「御意」


「・・・事前に受けた連絡では、明日来る予定だったよな?」


「御意。それがどうも早く来られたようで」


「・・・まあ、いいか。今は共に上様にお仕えする身。会ったら何かしてくるという事はないだろう。弥三郎、山城様は客間と言っていたな?では客間に参ろう」


 そう言うと重秀は、松寿丸と八郎、吉助と別れ、正澄と共に客間へと向かった。


 その後、兵庫城本丸御殿にある客間では、重秀と正澄、安治と小姓の木下大蔵(のちの木下勝俊)が、三好康慶と面談を行っていた。


「ずいぶんとお早いご到着でした」


「ご迷惑でしたかな?」


 重秀の発言に対してそう答えた康慶に、重秀は「とんでもない」と言って首を横に振った。


「到着の遅い早いでもてなしが変わるわけではありませぬ故、どうぞお気になさらずに」


 重秀がそう言うと、康慶はニコニコしながら言う。


「さすがは羽柴筑前様のご嫡男。そして千宗易のお弟子さんでございますなぁ。何時でも人を饗さんと備えておられる」


「お褒め頂き恐縮でございます。して、此度の兵庫訪問は姫路に向かう途中に立ち寄られたとか?」


 事前に康慶の使者から聞いていた事を改めて康慶に聞く重秀。それに対して康慶はニコニコ顔を止めた。もっとも、口元は緩んでいたが。


「はい。それがし筑前様と誼を通じるべく姫路に向かおうとは思っておりました。実際、先日筑前様とそれがしが出会った時に意気投合しましてな。羽柴様より『おお、共に毛利を叩き潰しましょうぞ!そして山城殿に再び阿波と讃岐の守護になって頂きましょう!』と言ってくださいましてな。いづれお互いの城へ遊びに行きましょう、とお約束いただいたのです」


「はぁ・・・」


 これから鳥取城攻めで忙しくなるのに、と思いつつ重秀は話を促す。


「それでわざわざ姫路まで来ていただけるとは・・・。羽柴家の誉れにございます」


「そう言って頂ければ幸いでござる。で、実はそれ以外にも兵庫を訪れた訳がございましてな」


 そう言って頭を下げる康慶。重秀が若干の胡散臭さを感じつつ康慶に尋ねる。


「それは一体?」


「はい。実は上様が須磨にて鷹狩をお望みでございます。その際、先関白様(近衛前久のこと)とその御子息(近衛信尹のこと。この頃は信基と名乗っていた)を須磨にご招待すると申しておりました。

 藤十郎殿には、上様と先関白様の親子を兵庫にて饗すよう、上様が申しておられました」


注釈

フジツボは元々漢字で『藤壺』と書く。これは中国ではフジツボの形が藤で作った壺の形に似ているからとも、フジツボがプランクトンを捕食する際に出す触手が藤の蔓に似ていることからとも言われている。

日本に『藤壺』の漢字が伝わった後、鎌倉時代に『富士壺』と名を変えたのは、フジツボの殻が富士山に似ているからと言われている。


注釈

2006年、フィリピンの川で淡水に住むフナクイムシが発見された。食性は木ではなく石で、川底の石灰岩に穴を開けて生活していることが分かった。


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関白親子の接待とか荷が重すぎる
銅板の胴だと!愛媛県新居浜市の別子銅山ですね。 そこは長宗我部の傘下の金子氏が治めています! まだ戦国期には未発見であり!江戸期に銅山が発見されまして東洋一の採掘を誇っていましたが!昭和後期になり採…
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