第210話 そして歴史が変わる(後編)
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天正八年(1580年)十月下旬。秀吉は兵庫城にいた。信長から叱責を喰らい、姫路城へ帰る途中で兵庫城に寄ったのであった。
そして秀吉は、重秀から信長の叱責を吹き飛ばすほどの吉報を聞かされた。
「何と!また子ができたと申すか!?」
兵庫城本丸御殿の『表』にある表書院で重秀からそう聞かされた秀吉は、驚きと喜びの表情を顔に浮かべながらそう声を上げた。
「はい。照が確実に身籠っております。すでに四ヶ月を過ぎ、流産の虞も無くなっております」
「そうかそうか!いや、ようやった!めでたいのう、めでたいのう!」
そう言って小躍りする秀吉に、黒田孝隆や石田三成が「おめでとうございまする」と言って祝いの言葉を述べた。
一頻り踊った秀吉は、重秀の前に座ると息を整えつつ重秀に言う。
「ふむ、これで男児が産まれたなら照にはたっぷりと褒美をやらねばのう!おお、そうじゃ。もし照の家の者で羽柴に仕えたいという者あらば、高く取り立てようぞ!」
そう機嫌良く言う秀吉に、重秀が「そんなことより」と言った。
「上様からは鳥取城攻めの許しは得られたのでございますか?」
重秀の質問に、秀吉は「あ、ああ」と答えた。そしてさっきまでとはうって変わって真面目な口調で答える。
「上様のご勘気を食らって直接命じられはしなかったが、惟住様(丹羽長秀のこと)の取り成しで何とか鳥取城攻めのお許しはいただけた。また、惟住様の計らいで若狭の商人も使えるようになった」
「それでは、鳥取城の兵糧攻めは・・・」
重秀がそう言うと、秀吉は頷く。
「ああ。やるぞ。今度こそ鳥取城を我がものとし、二度と毛利の手に渡らぬようにしてくれるわ」
そう言った秀吉の目には、決意の炎が灯っていた。ただし、それもすぐに消える。
「ただのう・・・。上様は『鳥取城攻めは羽柴家とその与力だけでやれ』と言うているそうじゃ。つまり、織田家からは援軍は来なさそうじゃ」
そう言って溜息をついた秀吉に、重秀が慰めるように言う。
「しかし、少なくとも父上を罰せずに鳥取城攻めの総大将を任せたのです。上様はまだ父上を見放してはおられないのでしょう。ここは鳥取城を奪還することだけを考えましょう。功を挙げれば、上様も父上をお許しになられるでしょうから」
「そうじゃな。藤十郎の言う通りじゃ。ここで何もせねば上様の儂等への信頼は失われ、右衛門尉殿(佐久間信盛のこと)のようになるだけじゃ。ここは気張らねばのう」
秀吉がそう言うと、重秀だけではなく孝隆や三成も頷くのであった。
兵庫城で秀吉が重秀達と鳥取城攻めについて話をしていた頃、安土城天主にある広間では、丹波亀山城から呼び出された明智光秀が信長と面談を行っていた。
奉行衆に囲まれた明智光秀は、そこで信長から長宗我部に対して戦をすることを聞かされた。
当然驚いた光秀は、何とか信長を諌めようとする。
「お、お待ちくだされ!宮内少輔様(長宗我部元親のこと)と戦を構えるとなれば、毛利、上杉、武田に加え、長宗我部までも敵に回すことになりまする!そうなれば、お家にとっても不利となりまする!」
光秀が真剣な表情でそう訴えると、信長は「で、あるな」と答えた。
「先日猿めに長宗我部との戦を、とは言ったものの、汝の言うとおり新たに敵を作るのは得策ではない。しかし、長宗我部のやったことは見過ごせん。余の朱印状を悪用し、塩飽に香川の兵と共に出兵して猿めの兵を撤退させたこと、余の顔に泥を塗るが如し。こんなことを続ければ、天下に対して余の面目が立たなくなる」
信長が機嫌悪くそう言うと、光秀は恐る恐る信長に尋ねる。
「し、しかしながら、たかが瀬戸内の小さな島々を香川に譲ったところで上様の面目が潰れましょうや?それに、播磨、但馬、摂津二郡を有する羽柴一門から見ても、小さな島を失ったところで毛利攻めには影響ありますまい」
光秀がそう言った瞬間、信長は側にあった脇息を鷲掴みにし、光秀に向かって投げつけた。光秀は思わず顔を守るべく両腕を顔の前で交差させた。脇息はその交差させた腕に当たった。
痛みに顔を顰める光秀に、信長が怒声を浴びせる。
「この痴れ者がっ!塩飽の島々は毛利の水軍が東へ向うのを防ぐ拠点ぞ!それに、塩飽の船方衆は村上水軍に勝るとも劣らぬ操船の名人!彼等が長宗我部に好きにされては、羽柴の水軍の力が削がれるだろうがっ!
しかも、瀬戸内は九州と繋ぐ海の道!九州より先の唐朝鮮、南蛮から来る絹や陶磁器や硝石は瀬戸内の海を通って我等の下に来るのだぞ!ただでさえ毛利に抑えられている瀬戸内の海を、さらに長宗我部に抑えられるわけにはいかぬ!」
信長の激怒した声に光秀だけでなく、周囲にいた者達も恐怖で平伏した。信長が光秀に罵声を浴びせ続ける。
「金柑頭!汝の白髪頭はその様なことすら分からぬのか!猿めの息子ですら瀬戸内の海の重要さを理解しているというのに!汝の代わりは羽柴藤十郎で十分だ!汝なんぞ織田からいなくなっても構わぬのだぞ!」
「・・・も、申し訳ございませぬ。この件、早速宮内少輔様にお伝えし、速やかに塩飽を羽柴に返還するよう、交渉いたしまする」
震える声で光秀がそう言うと、信長は落ち着いたのか、今度は叫ばずに光秀に言う。
「金柑。塩飽だけではない。長宗我部は未だに讃岐と阿波の三好勢を攻めておる。とりあえず宮内少輔にはこれ以上三好勢を攻めるなと伝えよ。また、伊予西園寺家に対して圧を加えるなとも伝えよ。また、宮内卿法印(松井友閑のこと)や長門(村井貞勝のこと)からの話では、最近土佐中将(一条内政のこと)が音信不通である、という話を左府様(一条内基のこと)が言っておったらしい。土佐中将についても知っていることを申すよう、伝えよ」
そう言われた光秀は、「承知いたしました」と言って平伏するのであった。
安土にある明智光秀の屋敷に戻った光秀は、屋敷で留守番をしていた女婿の三宅左馬助(のちの明智秀満)を呼ぶと、安土城天主の広間で会ったことを話した。
「・・・それでは、上様は長宗我部を誅伐されると仰られたのでございますか!?」
左馬助が驚いて声を上げると、光秀は首を横に振りながら答える。
「いや、すぐに討つとは申しておらなかった。とりあえず、塩飽から兵を引き、三好勢を攻めぬよう説得し、更に伊予西園寺を保護し、土佐中将様の安否を報せるようお伝えするつもりだ」
「・・・ならば、すぐに内蔵助殿(斎藤利三のこと)と兵部少輔殿(石谷頼辰のこと)にお伝えし、早急に長宗我部に取り次がなければなりませぬ」
斎藤利三は光秀の重臣であり、石谷頼辰は室町幕府の奉公衆であった石谷光政の養子であったが、室町幕府将軍の足利義昭が追放されて以降は光秀に従っていた。そしてこの二人が光秀と長宗我部家を繋ぐ交渉役であった。
というのも、元々頼辰は美濃の斎藤利賢の長男として生まれていた。そしてその弟が利三であり、二人は血を分けた兄弟であった。
そして、養子先の石谷光政には姉妹がおり、姉は頼辰に嫁ぎ、妹は長宗我部元親に嫁いでいた。つまり、元親は頼辰の義兄弟であり、利三とも縁戚関係にあった。
左馬助の言葉に、光秀は「うむ」と言った後、黙り込んだ。そして何かを考えるように両目を瞑った。左馬助が訝しげに見つめる中、考え込んでいた光秀の両目が開く。
「・・・左馬助。明智は羽柴より劣るか?」
光秀の突拍子もない質問に、左馬助は思わず「はぁ?」と返してしまった。そして、主君であり義父でもある光秀にすぐに頭を下げて謝罪する。
「へ、変な声を上げてご無礼仕りました!殿が筑前守(秀吉のこと)に劣るなど、ありえぬ話にございます!
そもそも、殿は上様の信任厚く、また朝廷からも覚えめでたきお方。丹波近江の領民だけでなく、京童からの評判も高うございます。しかも、畿内の織田の軍勢を指揮なされております。筑前守如きに、殿が劣るということなどありえませぬ!」
左馬助が憤慨して発した言葉に、光秀は「そうか・・・」と言った。
「だがしかし、我が息子の十五郎(のちの明智光慶)は未だ十三歳。すでに摂津二郡を治める筑前殿の子息に比べれば、どうしても見劣りしてしまう」
光秀の言葉に、左馬助は黙ってしまった。光秀の言う通り、羽柴の嫡男たる重秀の名は、織田家中では高く評価されていたからだ。
しかし、左馬助は光秀を慰めるべく口を開く。
「し、しかしながら、十五郎様は今では学問をよく修め、また坂本城にて政にもよく耳を傾けておいででございます。このまま修行をお積みすれば、必ずや筑前の嫡男にも負けぬと存じまする」
そう言う左馬助。それに対し、光秀の顔の表情が曇ったままであった。気になった左馬助が光秀に尋ねる。
「・・・殿。上様より何か言われましたか?」
左馬助がそう聞いたが、光秀は答えなかった。代わりに別の話をしだす。
「・・・それよりも、これからはより一層、上様への忠勤を果たし、明智家をより大きくしなければな。儂も何時まで生きていられるか分からぬ。せめて十五郎(のちの明智光慶のこと)とお主達家臣が路頭に迷わぬよう、手を打っておきたいものよ」
穏やかな表情でそう言う光秀。その様子を見た左馬助の身体に悪寒が走った。左馬助が心配そうな顔で光秀に言う。
「・・・如何なされましたか?そのようなことを申されるのは、殿らしくありませぬぞ」
左馬助の心配そうな顔を見た光秀は、安心させるかのように笑って答える。
「はっはっはっ、その様な顔をするな。何。長宗我部を説得し、四国を安んじることができれば、明智は安泰よ。我等は外に味方ができるし、播磨を牽制もできる」
「播磨・・・にございますか?」
左馬助がそう尋ねると、光秀は「いや、何でもない」と答えた。そんな光秀に、左馬助は不安を覚えた。それ故、左馬助は光秀に真摯に訴える。
「・・・殿。拙者は槍働きしかできぬ武辺者なれど、殿のお役に立ちたいと思う気持ちは他の者達には負けませぬ。殿の姫君を妻に迎えた拙者は、いうなれば殿の子であり十五郎君の兄でもございます。何卒、拙者をお頼りくだされ。生命を賭してでも明智家を守ってみせまする」
そう言って平伏する左馬助を、光秀は優しい目つきで見つめるのであった。
光秀が左馬助と話をしていた頃、信長は安土城天主にある茶室で、ある人物から茶を点てられていた。
その茶は濃茶であった。よく練られた濃茶を信長は作法通り飲んでいった。3口ほどで飲み、最後はすすって音を出して茶碗を空にすると、茶碗を畳の上に置いた。
「・・・相変わらず汝の茶は美味いな、山城守」
「恐れ入ります。炭手前(炭を継ぎ足すこと)を行います故、しばしお待ちを・・・」
そう言って茶を点てていた三好康慶が立ち上がろうとした。しかし、信長が引き止める。
「良い。そのまま薄茶を点てよ。汝も何か余に言いたげだったしな」
「・・・お察しでございましたか」
康慶がそう言うと、信長は「で、あるな」と答えた。それを聞いた康慶が薄茶を点てながら言う。
「阿波の岩倉城の城主である我が息子、徳太郎(三好康俊のこと、と言われている)とはすでに我等に通じております。上様の命あらば、何時でも上様の側へ寝返らせること可能にございます」
「で、あるか・・・。他にもあるのか?」
「讃岐の十河より上様への取次を依頼されております。孫六郎(十河存保のこと)の奴も、やっと上様の力を信じられるようになったようでございます」
「と言うより、毛利の力が信じられなくなったのじゃろう」
面白くなさそうな表情でそう言う信長。康慶が笑いながら話を続ける。
「他にも、阿波や讃岐、そして淡路の国衆がこぞってそれがしの元へ上様への取次を願う文を出してきております。まあ、香川からは来てませんが」
「香川はすでに長宗我部に降っておるわ。そのお陰で猿めが過ちを犯した」
「塩飽の一件でございますか」
「で、あるな。瀬戸内の海はこれからの織田に必要な海の道。その島々を抑えてこそ、織田が栄え、天下が収まると思っておったのだが・・・。猿めには藤十郎がいる故、そのこと重々分かっていると思ったのだが。藤十郎め・・・、猿には話さなかったか」
「しかしながら、上様の発した『四国切取次第』の朱印状を出されては、羽柴様は手も足も出ますまい」
康慶がそう言うと、信長は忌々しげに言う。
「だからといってすぐに要求を呑むやつがあるか。それに、あの朱印状は三好を攻めるために発したのであって、織田を脅すために発したのではない。宮内少輔め、小賢しい真似をしおって。それ故、朱印状を無かったことにしたのだ。彼奴にこれ以上乱用されてはたまらぬわ」
そう言う信長に、康慶が話しかける。
「何にせよ、このことで羽柴は塩飽の船方衆の協力は得られ辛くなりました。聞いた話では、香川は羽柴に塩飽の船方衆を勝手に使うことを許しておるようですが、香川が理由をつけて妨害する虞もございます」
「で、あるな」
「そこで、羽柴様へのご助力、それがしにお任せ願えませぬか?」
康慶がそう言いながら、点てた薄茶を差し出した。信長がその薄茶を作法に従って飲んだ。
そして飲み干した茶碗を畳の床に置くと、「もう一杯所望する」と言った。康慶が茶碗をお湯ですすいでいると、信長が話しかける。
「・・・汝の言うご助力とは?」
「讃岐、阿波、淡路の水軍を持つ国衆を羽柴様の下に送り込みまする。そうすれば、水軍を率いる上様の養女婿殿も喜びましょう」
そう答えた康慶が再び信長の前に茶碗を差し出した。信長はそれを手に取ると、中の薄茶を覗き込みながら考え込んだ。それは、長い長い考察であった。
信長があまりに長く考え込むので、康慶は思わず声を掛ける。
「・・・上様、何かそれがしの点てた茶に不審な点が・・・」
康慶の言葉に信長が反応する。
「・・・いや、そういうわけではない。・・・山城。阿波、讃岐、淡路の国衆への調略、しばらく待てぬか?」
「それは構いませぬが・・・。何故?」
「金柑めが宮内少輔を説得する予定だ。それまで宮内少輔を刺激させたくない。長宗我部と戦することは厭わぬが、相手が相手故こちらも準備しておきたい。そのために時を稼いでおきたいのよ。それに、先に毛利を降したいのよ」
「毛利でございますか?しかし、毛利に対抗するには筑前様に水軍が必要と存じますが」
せっかく水軍の協力を条件に秀吉の後ろ盾を得られた康慶にとって、その水軍を構成する四国の国衆を調略できないのは痛手であった。何とか信長を翻意させようと説得を始めようとする康慶。しかし、説得する前に信長が自らの考えを言う。
「猿めは鳥取城を兵糧攻めにしようとしている。せっかく寝返った鳥取城を毛利が見殺しにすれば、毛利に従う国衆は毛利を信用しなくなるであろう。すでに摂津や播磨を見捨てておるし、宇喜多も我等に加担しておるからのう。嫌でも鳥取城へ救援に向かわなければならない。そして後のない毛利は、恐らく右馬頭(毛利輝元のこと)が総大将となって両川(吉川元春と小早川隆景のこと)を引き連れて来るだろう。そうなればもっけの幸い。余が自ら大軍を率いて毛利に決戦を強いることができる」
「・・・毛利との決戦の地を鳥取といたす所存でございますか?」
「で、あるな。とすると、ちと拙いことになったな・・・」
信長はそこまで言うと、急に発言を止めた。康慶がおずおずと尋ねる。
「・・・上様?如何なされました?」
「・・・怒りに任せて猿めを姫路に追い返してしまった。まあ、今言った策は後で久太(堀秀政のこと)か竹(長谷川秀一のこと)から伝えればよいであろう」
「・・・もしよろしければ、拙者が姫路に参り、筑前殿にお伝えいたしましょうか?」
康慶の提案に、信長が「で、あるか」と言うと、手に持っていた茶碗を口元に持っていき、中の薄茶を一気に飲み干した。そして茶碗を床に置くと、康慶に言う。
「考え込んでいたら、茶が温うなった。もう一杯貰おう」
「では、熱いお茶に致します故、炭手前を行いまする」
そう言って康慶は立ち上がると、水屋(茶の湯の準備をする別室のこと)に入っていった。
そして、康慶が水屋に入った後、信長は一人茶室で考え込む。
―――毛利はともかく、長宗我部と四国の国衆共に余の力を見せつける必要がある。まあ、武力なら毛利を叩き潰せば他の大名は震え上がるだろう。しかし、それ以外で織田の権威を長宗我部や四国の国衆に見せつける方法はないのか・・・―――
しばらく考え込んでいた信長の脳裏に、何かがはらりと舞い降りた。それは先日、先関白である近衛前久から届いた手紙の内容であった。
―――そう言えば、先関白殿下からの文に、嫡男(近衛信尹のこと。当時は近衛信基と名乗っていた)が十一月に内大臣になると書いてあったな。儂から”信”の字を贈った先関白殿下の嫡男殿を祝ってやりたい。ついでに久々に先関白殿下と共に鷹狩がしたいのう。
・・・そうか。儂と先関白殿下、そして内府となられる嫡男殿と一緒に西国に向かえばよいのか。朝廷の実力者である先関白殿下と西国で鷹狩をすれば、長宗我部はもちろん、四国の国衆や毛利、更には九州にまで儂の権威と武威が伝わるようになるか―――
そんな事を考えていた信長は、炭を持って水屋から茶室に戻ってきた康慶に、自分の考えを聞かせるのであった。