第209話 そして歴史が変わる(前編)
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天正八年(1580年)十月三日。塩飽諸島は再び香川の支配下に入った。とはいえ、塩飽の船方衆は今まで通り織田方の舟手衆として瀬戸内の東側の海運を担うことになるのは変わらない。また、香川は羽柴に代わって毛利への監視を行うことになったため、一応瀬戸内海の東側の制海権は織田が引き続き支配することになっていた。
しかし、羽柴が香川に塩飽諸島を譲ったことは、この後の歴史に多大なる影響を及ぼすことになるとは、塩飽で長宗我部信親と会見を行っていた重秀には分かる訳がなかった。
天正八年(1580年)十月四日。重秀と信親はお互いに塩飽から離れることになった。
笠島城から泊城へ帰る長宗我部信親が、笑顔で重秀に言う。
「羽柴殿、いや藤十郎殿。昨晩は大変楽しかった。今まであのように自ら学んだことを言葉に発したことはなかった。それに、百人一首を使ってカルタなる遊びを考えつくとは。この弥三郎感服仕った。今後とも藤十郎殿と互いに学んだことを更に話し合いあっていければ、この弥三郎望外の喜びでござる」
そう言いながら信親は重秀の右手を両手で握った。重秀も空いた左手を信親の両手の上に乗せながら答える。
「弥三郎殿。長宗我部が上様と誼を通じる限り、我等は何時でも話に花を咲かせることが可能です。もし、安土にお越しの際は是非兵庫へお立ち寄り下さい。私自ら、日本でも名高い湯山温泉(のちの有馬温泉)をご案内いたします。
それと、百人一首カルタについては、長岡与一郎(長岡忠興のこと。のちの細川忠興)に頼んで後日贈らせていただきます」
「おお、それは楽しみですな。それではカルタと安土に行った際は良しなにお願い致しますぞ」
笑顔でそう言う信親を見て、重秀は顔に笑みを貼り付けつつ、内心は複雑な想いを抱いていた。夜遅くまで言葉を交わした信親に、重秀は親しみを抱いていた。何のしがらみもなければ友人として付き合えたかもしれない。
しかし、すでに信長からは長宗我部を仮想敵にする事を聞いている。また、鳶に油揚げをさらわれるように塩飽が香川の手に移ったのである。信親個人に親しみを抱いても、香川と長宗我部に良い感情は湧かなかった。
お互いの感情がすれ違いつつ、重秀と信親の会談は終わった。その後、長宗我部・香川側から山内一豊が返還され、重秀達は笠島城を退去したのだった。
重秀達は本島から退去する前に、笠島の湊にある佐々木新右衛門の屋敷に入った。そこで船方衆と最後の打ち合わせを行った。
「では、我等はこれで塩飽を後にするが・・・。誠にくま達を兵庫に移してよいのか?」
重秀が新右衛門にそう尋ねると、新右衛門は深く頷いた。
「へぇ。くまと船乗り達、それに金兵衛が兵庫におってくれたら、儂も心置きのう塩飽に残れるというもんでございます。それに、久太の家族と弟子を兵庫に送り出すのに、儂の家の者は塩飽に残れるんは心苦しいもんがございます」
塩飽が香川の支配下に戻る際、香川に迫害されそうな船方衆を兵庫に移すことを考えた重秀は、事前にくまを塩飽に送り込んで本島だけではなく他の島に住む船方衆にも声をかけた。しかし、そのほとんどの船方衆が「生まれ故郷を離れたくない」という理由で拒否した。
例外は島の外に出たいと常日頃思っている若い次男、三男坊であった。家の労働力としてしか見られないことに不満を持っている者達が、新天地に行きたいと思うのはよくある話であった。
また、本島の南にある泊浦と呼ばれる湊で船方をしている小坂七兵衛なる者も兵庫に移ることを希望した。彼は船大工も兼ねており、自分も南蛮船の作り方を学びたいと思っていた。そこで、これを機に家族と弟子、そして配下の水夫達と共に兵庫へ向かうことにしたのだった。
更に、すでに兵庫に渡っていた金村の家族も兵庫に移ることになった。これは、すでに南蛮船の技術を習得している金村を塩飽本島に戻せば、その技術が香川や長宗我部に流出する恐れがあったため、それを防ぐために金村を兵庫に留めることにしたのである。
しかし、そんな事をすれば兵庫にいる金村がかえって望郷の念を呼び覚ますことは確実である。そこで、重秀と新右衛門が話し合い、金村の家族と弟子を兵庫に移すことにしたのである。そして、金村の不満が出ないよう、くまと息子、水夫達が兵庫に移ることにした。そうすることによって、本島の有力者である佐々木家が金村家に気を使っているという態度を示したのである。
「爺ちゃん・・・。本当に良いのかい?アタシ等が居なくちゃ、爺ちゃんの身の回りはどうするんだい?」
「阿呆。己の身ぐらい己でなんとかできるわ。それに、親戚の富田ん所が面倒見ると申してくれとる。案ずることはねぇ」
そう言ってくまを安心させようとする新右衛門。新右衛門は更に言う。
「それに、羽柴の若殿様はくまのために新たな店を持たせてくれると言っておった。実は堺と塩飽の間に中継地が欲しいと思っておったところじゃ。兵庫はちと堺よりじゃが、それでも中継地にはふさわしい湊じゃ。そこに信じられる孫娘が居るというのは儂等としても嬉しいのじゃ」
そう言われたくまは、心配そうな顔をしつつも「分かったよ」と頷いた。
「爺ちゃんがそこまで言うなら、兵庫でしっかりと稼いでくるよ。それに、金村の家の者も気になるからな」
「おう。金村の者達を頼んだぞ」
新右衛門とくまが別れの挨拶を交わした後、くま達は三角帆で走る『潮丸』に乗るべく、湊へと向かった。本来くまの船は『八幡丸』なのだが、『潮丸』の秘密を守るべく、兵庫へ持っていくことになったのだった。
そして重秀達羽柴勢は、軍船と弁財船に分かれて乗ると、塩飽を離れていった。それからしばらく経って、笠島城と与島城に残る兵を残した長宗我部と香川の軍勢が、信親達と共に塩飽から離れていった。
天正八年(1580年)十月六日。重秀は姫路城で秀吉と面談を行っていた。
「藤十郎、此度は骨折りであった。とりあえずこれで長宗我部や香川と戦せずにすんだわ。これからは鳥取城攻めに注力していくことになるのじゃが・・・」
疲れたような顔でそう言った秀吉。重秀が心配そうな顔で秀吉に言う。
「父上。何か案じられることがございましょうか?」
重秀の質問に、秀吉が溜息をつきながら答える。
「うむ。上様より安土に呼び出されておる。久太(堀秀政のこと)の文によれば、上様はお怒りのようじゃ・・・」
「それは・・・」
秀吉の言葉に重秀も思わず顔を顰めた。秀吉が話を続ける。
「まあ、鳥取城が毛利に寝返ったからのう。上様がお怒りになるのは当然じゃ。これから上様に叱られに行くとなると、気が重いのう・・・」
そう言って秀吉がまた溜息をついた。重秀が話しかける。
「・・・私も参りましょうか?」
重秀の提案に、秀吉は首を横に振る。
「子が親に余計な気を回さんでよい。それに、上様に叱られるのは慣れておる。なぁに、すでに官兵衛が策を考えておったろ?その具体的な話をすれば上様のお怒りはすぐに収まるじゃろうて」
そう言って重秀を安心させようとする秀吉。秀吉は更に言う。
「それに、若狭の商人を介して因幡中の米を買い漁るんじゃ。その事について惟住様(丹羽長秀のこと)と話し合わねばならぬ。どちらにしろ、安土に行かにゃあならん。
・・・藤十郎は、来年の鳥取城攻めに備え、摂津で兵馬を養っておけ」
「承知仕りました。では、山内勢も兵庫に戻してもよろしいので?」
「うむ。権兵衛(仙石秀久のこと)の軍勢も林ノ城に戻すつもりじゃ」
秀吉がそう答えると、重秀は胸をなでおろした。
「そうでございますか。これで伊右衛門(山内一豊のこと)は千代殿の傍に居られますね」
重秀の言葉に秀吉が反応する。
「ん?何かあったのか?」
「千代殿の出産には立ち会えそうだと思いまして」
「おおっ、そう言えば千代殿が妊娠したとはお主の文で知っていたが、もうそこまで育っていたのか。それはめでたいのう!」
我が事のように喜ぶ秀吉。笑顔で喜んでいる秀吉を見て、少しでも気が晴れたのかと思った重秀もまた、笑顔になるのであった。
それからおよそ10日後。秀吉は安土城天主の広間に居た。下段の間の真ん中あたりで座っていた秀吉は、左右に分かれて座っている織田家臣団の顔ぶれを見て、そっと溜息をついた。
―――随分と顔ぶれが代わったのう―――
秀吉が感じたように、信長の周りに居る者達の顔ぶれは大分変わった。
それまで重臣として信長が座る上段の間に一番近い所に座っていた佐久間信盛と林秀貞の姿が無くなっていた。二人共信長から追放されてしまったのだ。信盛は去年12月、そして秀貞は今年の8月であった。ちなみに秀貞だけでなく、安藤守就と丹羽氏勝も追放されている。
そして居なくなった二人の席には丹羽長秀が座っていた。本当は丹羽長秀と柴田勝家の二人が座るはずなのだが、柴田勝家は現在北国平定のために加賀にいるため、現在安土城にはいない。
それ以外の面子は全て信長の奉行衆、馬廻衆であった。福富秀勝、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼、毛利良勝など、信長の側で政務を担当して吏僚化した武将であった。
「上様の、おなぁ〜りぃ〜」
小姓の声で広間にいた者全てが平伏した。当然秀吉も平伏した。そんな秀吉の耳に、上段の間に近い障子の開く音が聞こえた。そして、足音や座る音が聞こえた直後、低い声が秀吉の耳に入る。
「大儀。面を上げよ」
そう言われて顔を上げる秀吉。その瞬間、秀吉の顔に何かが飛んできた。秀吉が避ける間もなくその何かが額に当たった。大した痛さではなかったが、秀吉は思わず「痛っ!」と声を上げてしまった。
その瞬間、上座から怒声が鳴り響いた。
「猿っ!汝は何ということをしてくれたのだっ!」
上段の間から放たれた主―――織田信長の声に、秀吉は「ごもっとも!」と言っておでこを畳の上に叩きつけた。その際、信長が投げつけた扇子が落ちていた所におでこを叩きつけたせいで、信長の扇子が叩き潰されてしまった。
しかし、そんなことも気にせずに秀吉が声を上げる。
「この度は因幡鳥取城を毛利方に寝返らせたる段、誠に弁明の余地なく!上様におかれましては誠に申し訳なく、この羽柴筑前・・・」
「たわけぇ!そんなことを聞いているのではないわぁ!」
秀吉の謝罪を遮るように信長が甲高い声で叫んだ。秀吉の謝罪がピタリと止まると同時に、広間にいた者達の視線が一斉に秀吉から信長に移った。
信長の叫び声が続く。
「どうせ汝のことよ!鳥取城を奪還するための策はもう立てているのであろうが!」
「ぎょ、御意にございます!此度は短期間での兵糧攻め・・・」
「鳥取城をどう攻めるかは猿に任せる!と言うか、そんな事はどうでもいい!」
いや、どうでもいいことは無いだろう、と秀吉は心の中で思ったが、それを口に出せる空気ではなかった。平伏したままの秀吉の頭上から、信長の叫び声が降り注ぐ。
「それより、何故塩飽の二つの城を香川、いや長宗我部に渡したぁ!?」
そう言われた秀吉は思わず顔を上げた。赤くなったおでこをそのままに、秀吉はポカンとした顔で信長の方を見ていたが、恐る恐る信長に言う。
「お、恐れながら申し上げまする。長宗我部の使者より、『前右府様(信長のこと)より、四国切取次第の朱印状を持っている』と言われ申した。また、塩飽の代官を出しておった香川は上様より通字を賜った家で、上様に属する家でございます。手切れしたという話を聞いていない以上、羽柴が塩飽から手を引けと言われれば、これを拒むすべがございませぬ。それに・・・」
「やかましい!」
信長がそう叫びながら立ち上がり、秀吉の傍まで歩いていった。そしてそのまま秀吉の顔面を足蹴りした。思わず秀吉の体勢が崩れた。周囲の者達が驚く中、信長の叫び声が響く。
「『四国切取次第』の朱印状なんぞ、無視しろ!」
信長の叫び声に、痛みを堪えて起き上がった秀吉だけでなく、丹羽長秀や秀政などの奉行達が唖然となった。信長の叫びが続く。
「良いか!たった今より、長宗我部とは手切れぞ!長宗我部とは戦じゃ!汝等そう心得よ!」
信長がそう言い放つと、秀吉を始めその場にいた者全てが「ははぁっ!」と言って平伏した。信長が平伏している秀吉にもう一発蹴りを食らわす。
「猿!この痴れ者が!余の面目を潰しおって!汝の顔は見たくない!さっさと姫路に帰れ!」
そう言うと信長は広間から出ていった。太刀持ちであった森長隆(前の森坊丸)が慌てて信長の後を追った。
信長が居なくなった広間はしばらく沈黙の中にあった。誰も喋らない状態の中、長秀が口を開く。
「・・・筑前。上様には儂が取りなしておく。とりあえず、今日のところは屋敷に帰れ」
そう言われた秀吉は黙って頷いた。しかし、すぐに長秀の方へ身体を向けると、平伏しながら秀吉は言う。
「恐れながら惟住様。それがしに鳥取城を攻め落とす策がございます。上様への取りなしついでに、その策を上様にお伝え願えぬでしょうか?」
秀吉のお願いに長秀の片眉が上がる。
「・・・それは、上様のお怒りを解いてから直接お話すればよいではないか?」
「いえ。この策、惟住様のご助力なければ成すことできませぬ。どうぞお聞きくだされ」
そう言われた長秀は「ふむ」と言うと、周りを見ながら秀吉に言う。
「相分かった。しかし、他の者は他の役目もあろう。この場を解散とし、お主とは控えの間にて話を聞くことにしよう」
秀吉が長秀に鳥取城の兵糧攻めの策を話し終えた後、秀吉は自分の屋敷に戻っていった。そして、屋敷に残っていた黒田孝隆に先ほどまであった出来事を話した。
「なんと・・・。上様は長宗我部との戦を口になさいましたか」
「うむ。『四国切取次第』をなかったことにしおったわ。・・・官兵衛よ」
「はい」
「儂ゃ思うんじゃが、ひょっとして上様ははなっから長宗我部との戦を望んでおったのか?塩飽に香川と長宗我部が攻めてきたのを機に、戦を仕掛けるつもりじゃったのか?」
信長に蹴られた顔を痛そうに撫でながらそう言う秀吉。孝隆はそんな秀吉の疑問に答えることはできなかった。孝隆にも信長の真意が読めなかったからであった。
そんな時であった。部屋の外から石田三成の声が聞こえた。
「殿。佐吉にございます」
「おう、入れ」
秀吉がそう言うと、障子が開いて三成が入ってきた。
「申し上げます。三好山城守様(三好康慶のこと)が殿にお目通りを願っておりまする。如何なさいましょうか?」
「何?三好山城守じゃと?」
三成の報告に秀吉が思わず聞き返した。孝隆が口を挟んでくる。
「・・・殿。三好山城殿と言えば阿波三好家の生き残り。そのような方が一体殿に何用でございましょうか?」
首を傾げながらそう言う孝隆に、秀吉は笑いながら言う。
「さあな。しかし、話を聞いてみる価値はありそうじゃ」
そう言うと秀吉は三成に康慶を入れるように命じた。
それからしばらくして、秀吉は孝隆と三成と共に客間にやってきた。客間には三好康慶とその家臣が待っていた。
「お待たせいたしましたな、山城守殿」
そう言いながら康慶の前に座る秀吉。そんな秀吉に康慶が平伏する。
「お忙しい中、お会いいただきかたじけのうございます、筑前殿」
「何、お気になされずに。して、此度は何用にござるか?」
秀吉がそう話しかけると、康慶は顔を上げて秀吉に言う。
「筑前殿。筑前殿が長宗我部の圧力に負けて塩飽の城を明け渡したる段、すでに畿内では噂として広まっております」
康慶の話に秀吉と孝隆が眉をひそめた。噂として流れるのがあまりにも早いからだ。二人がそう思っている中、康慶が話を進める。
「聞けば、毛利が鳥取城を寝返らせたとか。毛利という強敵と対峙している中、新たに長宗我部と事を構えたくないという筑前殿のお考え、この山城よく分かりますぞ」
そう言ってうんうんと頷く康慶に、秀吉は渋い顔をして尋ねる。
「・・・山城殿はそのような嫌味を言うためにわざわざ来られたのでござるか?」
秀吉の言葉に、康慶は「まさか」と言って笑った。
「この三好山城守、筑前殿のご無念を少しでも晴らすべく、何かお手伝いできるようなことがあればと思い、罷り越してござる」
「ほう・・・。一時期は京や畿内を制圧し、天下にその名を轟かせた三好の長老殿のお力を借りられるは羽柴としてもかたじけなし。して、その見返りは?」
秀吉が康慶を眼光鋭く見つめながらそう尋ねると、康慶は「ばれましたか」と後頭部を叩きながら笑った。しかし、すぐに真面目そうな顔になると、秀吉に顔を近づけながら言う。
「それがしは阿波と讃岐を治める三好家の一門でござる。未だその名声は彼の地に根付いておりますれば、それがしが一声掛ければ、三好派の国衆を糾合することができます。そして、その中には阿波や讃岐の水軍が含まれます。
・・・もし、それがしの四国復帰を支持していただければ、阿波と讃岐の水軍、尽く筑前殿の御子息に馳せ参じましょう」