第208話 塩飽危機(その8)
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山内一豊と長宗我部信親が話し合っていた頃、重秀は尾藤知宣と大谷吉隆、寺沢広高と護衛の兵を引き連れて笠島城に入っていた。
笠島城には城番の森本金太郎以下羽柴の兵約30人と、佐々木新右衛門等船方衆とそれに従う本島の住民約100名、そして新右衛門の孫娘のくまがいた。
「・・・くまはよく笠島城に入れたな。包囲されていたのではなかったのか?」
重秀の質問に、くまは笑いながら答える。
「勝手知ったる笠島城。抜け道ぐらいは知っているさ」
そんな話を交わした後、重秀は金太郎と新右衛門等に今後のことを話した。
「・・・というわけで、羽柴勢は塩飽から退去することとなった」
「てことは、今後は香川様が塩飽治めることになるんか?」
新右衛門がそう尋ねると、重秀が「まあ、そうなるな」と頷いた。
「ただ、福田又次郎の件は不問となった。今後は香川がその件で船方衆を害することはないだろう。とは言え、香川の統治を不満に思う者もいると思う。そういった者を姫路か兵庫に移せるよう、船は用意したが?」
重秀がそう言うと、新右衛門が首を横に振る。
「くまからその事は聞いた。儂も城内に逃れた笠島の船方衆に聞いてみたけど、大体の船方衆は離れとうないと言ってきおった。儂も住み慣れた島から離れる気はなぁ。若殿様の気持ちだけ頂いとくわい。ただ、若い衆で島出たい言よる者はいた。そういった者達連れて行ってくれんか?」
新右衛門に続いて、くまが話し始める。
「笠島の船方衆は島から離れる事を望むものはいなかったけど、泊浦の船方の一人、小坂七兵衛が兵庫に移りたい、と言っていた。彼は船大工もやっているので、兵庫で造られている南蛮船の作り方を学びたいと言っていた。彼とその家族、弟子を兵庫に連れて行ってくれないか?」
そう話を聞いた重秀が「相分かった」と言って頷いた。
「では兵庫に移りたいという者は船に乗せるとしよう」
重秀がそう言うと、新右衛門とくま、そして船方衆達が頭を下げた。そして新右衛門が頭を上げると、重秀に尋ねる。
「ところで若殿様。養蚕と製油は如何相成りますでしょうや?」
「ああ、そのことか」
重秀がそう言うと、眉間に皺を寄せながら重秀は答える。
「油桐と桑はすでに塩飽の島々で栽培が始まっている故、これらは島の者達に任せる。しかし、蚕と製油の道具は塩飽に提供しないこととした」
重秀の言葉に、新右衛門達は「ええっ・・・」と失望の声を漏らした。重秀が話を続ける。
「絹と桐油は羽柴にとって銭のなる木。それを香川と長宗我部に譲りたくはないのだ。申し訳ないが、塩飽での養蚕と製油は中止だ」
重秀にしてみれば、長浜にいた頃から養蚕と製油に心血を注いでいた。そんな苦労してものにした養蚕と製油の技術を、いくら信長の同盟相手だからといって長宗我部や香川に譲りたくないのだ。
そんな想いを汲み取ったのか、新右衛門が溜息をつきながら重秀に言う。
「致し方ありませぬな・・・。ということは、羽柴様への年季奉公は・・・?」
「あれも中止だ。元々年季奉公の対価として蚕と油を提供しようとしたのだ。対価が払えぬ以上、年季奉公を中止するのが筋であろう。
ただし、香川も長宗我部も塩飽の船方衆を羽柴と織田が使うことは妨害しないと言ってきている。また、兵庫や堺での優先権、塩飽以東の航海については塩飽の勝手次第というのも香川と長宗我部は了解している。なので我等が今後、毛利攻めの際に塩飽の船方衆を使うことになるやもしれない」
重秀が残念そうな顔でそう言うと、新右衛門が頷く。
「承知いたしました。その際には手伝わせていただきます。儂等塩飽の者は船が入り用であれば誰の依頼も受けまする。それは羽柴様でも変わりませぬ。今後とも、我等のことをよろしゅうお頼みいたします」
そう言って平伏した新右衛門。くまや他の船方衆も平伏すると、重秀は「うん」と言って頷くのであった。
天正八年(1580年)十月三日、未の刻(午後1時頃から午後2時半頃)。笠島城に長宗我部信親とその弟(のちの香川親和)、谷忠澄と福留儀重、そして数人の武者が入った。
―――なんだ?羽柴の足軽の格好は。皆一緒の装いではないか―――
信親が言うとおり、足軽は皆同じ格好をしていた。簡素な陣笠と桶側胴を身に着けており、陣笠と桶側胴には五三の桐の紋様が描かれていた。
―――良く見れば、簡素ながらも造りはしっかりとしているようだ。多少の汚れはあるものの、壊れていたり綻んでいたりするものはなさそうだ。我が一領具足は、身につける具足が皆違うからなぁ・・・―――
長宗我部が誇る一領具足の装備は自前である。なので、見た目も種類もバラバラであり、統一性がない。特に、最近は戦が続いているために修復するための時間がなく、壊れたままの具足を身に着けているものが多い。そのため、正直言ってみすぼらしくなっていた。
一方、羽柴の兵達、というより織田の兵達は統一された装備で身を固め、その装備もしっかりと手入れをされていた。これは足軽や雑兵への武具防具は羽柴家より貸し出されたものであり、返す時は原状回復するよう義務付けられていたからである。そのため、足軽や雑兵はあらゆる手段で武具防具を原状回復させていた。
具体的には自分で直したり、手先の器用な同僚に頼んだり、報酬で受け取った銭で鍛冶屋に直させていた。鍛冶屋は主に兵達を率いる足軽大将が雇っていたり、銭目当てで自発的に軍勢について来た流れの鍛冶師であった。
中には仲間の足軽や雑兵から盗んだものを返還したり、戦場の味方や敵の死体から剥ぎ取った武具や防具を返還するものもいた。貸した側も個別に管理していないため、特に気にせずに受け入れていたのであった。
なにはともあれ、統一された装備に身をまとった兵達は一種の連帯感を持つようになる。これが士気の向上や指揮のしやすさに繋がり、結果織田兵の強さに繋がるのだが、信親にはそこまで気が付かなかった。
そんなこんなで笠島城の中を進む信親達。3つある曲輪のうち、もっとも高いところにある曲輪の門に来ると、そこには数人の小具足姿の武士が立っていた。その中で、中心に立っていた若武者が、信親達に近づいてきた。
信親の前を歩いていた儀重が身構えるが、後ろから信親が「隼人」と声をかけた。
「控えよ。あれが羽柴の嫡男ぞ」
信親の声で歩みを止めた儀重。そんな儀重を追い越すと、信親が先頭になった状態で若武者―――重秀と対峙した。
一方の重秀は信親に近づいた。しかし、刀が届かない絶妙な位置で止まると、そこで頭を下げながら信親に挨拶する。
「ようこそ、笠島城へ。お待ち申しておりました」
「これは羽柴殿。かたじけのうござる。長宗我部弥三郎にござる。お懐かしゅうござるな」
信親からそう言われた重秀が一瞬だけ驚いたような顔をした。しかし、すぐに表情を戻すと、顔を上げながら言う。
「・・・一昨年の惟任(明智光秀のこと)屋敷以来でございますな。息災で何よりでございます。それにしても、見違えるほど大きゅうなりましたな」
「もう五尺六寸(約170cm)を超えました。一昨年元服して以降、急に背が伸びましてな。ここ二年は夜寝ていると足が伸びる痛みで目を覚ますほどでござる」
笑いながらそう言う信親を見ながら、重秀は思う。もう少し背が欲しかった、と。しかし、そんな事をおくびにも出さずに信親に言う。
「・・・立ち話も何ですから、どうぞ本丸御殿へ。羽柴と香川、そして織田と長宗我部との間に起こったこの諍いを終わらせましょう」
重秀の言葉に、信親が頷いた。そして重秀の招きに応えるように本丸曲輪の門をくぐるのであった。
笠島城の本丸御殿の広間では、重秀と信親との間で誓紙の交換に関する儀式が行われていた。広間の上座には祭壇が置かれ、そこにはお供え物を乗せた三宝や和鏡が置かれていた。そして祭壇の前では、重秀を始めとする羽柴の代表団と、信親を始めとする長宗我部・香川の代表団が対面で座っていた。
そして重秀と信親の前には、三宝が2つづつ置かれており、その上には誓紙が広げられて置かれていた。
「それでは、これより誓紙の交換を行います」
そう言って誓紙交換の儀式の開始を宣言したのは、急遽儀式の司会に駆り出された専称寺の住職であった。
笠島城の近くにある専称寺は、建永二年(1207年)に浄土宗の開祖である法然上人が讃岐に流された際、塩飽本島を訪れた際に滞在した庵跡に建立された寺である。
そんな専称寺の住職によって儀式が始まった。まずは祭壇に向かって読経が行われ、次に誓紙に血判が行われる。
血判、というと血によって拇印がなされることをイメージされやすいが、実際はそうではなく、名前と花押を書いた後にそこに自らの血を垂らすだけである。
さて、重秀と信親が用意した誓紙には、すでに羽柴秀吉や長宗我部元親、香川信景(香川之景のこと)の署名と花押、それに血印がなされているのだが、これに重秀と信親、そして信親の弟の署名と花押、そして血印が追加される。これは、秀吉と元親と信景の署名と花押と血印が本物であることを証明するためのものである。
そして重秀と信親、信親の弟が署名と花押を書き、血印を為すのを確認した住職によって、誓紙を乗せた三宝が交換された。
その後、重秀と信親が三献の儀を行い、誓紙交換の儀式が滞りなく終わったのであった。
誓紙が交換された後、重秀達羽柴の代表団と信親等長宗我部と香川の代表団は酒を片手にしばらく歓談をしていた。
「・・・羽柴殿は塩飽の船方衆にやたらと気を使われておられる。年貢を全面的に免除するどころか、桑の木や油桐を植えておられたとか」
「瀬戸内の海は潮の流れ激しく、また風も複雑です。島も多く、浅瀬や岩礁は数え切れませぬ。そんな海を航行するのに、塩飽の船方の経験や技術は羽柴水軍にとって重要です。彼等を重用しなければ、村上水軍を抱える毛利には勝てませぬ。
そこで彼等に年季奉公を課す代わりに、男手を取られた女子供老人でも銭が稼げるような物を作れるようにした。それが絹と桐油でした。菅浦という村で実際にやっていたことを塩飽に持ち込もうとしたのです。
もっとも、塩飽には塩というものがあったので、塩の年貢を免除するだけでも十分賄えたみたいですが」
信親の発言に対し、重秀がそう返した。信親が頷く。
「なるほど。よくお考えですな。確かに、毛利の力は陸だけではなく海の上でも侮れぬもの。我等も毛利の水軍には讃岐や伊予で痛い目に遭わされた。それに対抗するには、ここいらの海をよく知る塩飽の船方衆を取り込む必要があったわけですな?」
「それだけではありません。塩飽は一時期村上水軍の影響下にあったことがあります。そんな塩飽を再び村上の影響下に置くわけには参りません。村上以上に塩飽の益になることを提案できなければならなかったのです」
重秀の返答に信親が納得したような顔で頷いた。そんな信親の後ろから、香川景全が声をかける。
「それでは、今後は塩飽でも絹や油が採れると?」
景全が期待を込めた声でそう言うと、知宣や吉継が眉をひそめた。景全の発言に「塩飽の富が香川の手に入る」という想いがにじみ出ているのを感じたからだ。
しかし、そんな景全の期待を打ち砕くように重秀が言う。
「残念ですが、桑の木と油桐は植えましたが、植えたばかりで育ってはおりませぬ。そして、香川のものになった塩飽に、羽柴がどうして手を出せましょうか。蚕と油を搾る道具を羽柴が提供することはできませぬ。
・・・まあ、香川が自前で用意するというのであれば何も言いませぬが」
重秀の言葉に景全は黙ってしまった。油を搾る道具は手に入るかもしれないが、蚕が手に入るとは思えなかったからだ。
『延喜式』によれば、平安時代では讃岐国と隣の阿波国は共に絹の生産地であった。しかし他の地域と同じく時代が下るにつれて養蚕は衰退し、今では農家個々で細々と続けられている程度であった。当然、生糸や練糸は作られず、屑繭から紬糸か真綿を取り出す程度しかできなかった。
むろん、讃岐全土からかき集めれば多少の量は確保できて塩飽に送り込めるかもしれないが、香川も長宗我部も讃岐を完全に支配下には置いていなかった。
不機嫌そうな雰囲気を出す景全に気がついた信親は、話を変えるべく重秀に話しかける。
「ときに羽柴殿。実は父より尋ねてきて欲しいと言われたことがあるのだが・・・」
「尋ねてきて欲しいこと?何でしょうか?」
重秀がそう聞くと、信親は手に持っていた盃を膳の上に置いた。
「うん。今年の四月ぐらいか。勝瑞城に雑賀衆と思われる軍勢が入ったことがあった。去年、前右府様(織田信長のこと)が石山本願寺との和議を結ばれたことはこちらも聞いている。その際、雑賀衆も前右府様に従うこと聞いたが、此度の勝瑞城入城は前右府様のご指示か?」
信親からそう言われた重秀は面食らった。雑賀衆が四国入りした話は聞いたことがないからだ。
「いえ、その様な話は初耳です。ただ、あの雑賀衆ならば、さもありなん、と思いますがね」
「と、言いますと?」
信親がそう聞いてきたので、重秀は説明をし始めた。
雑賀衆、と一括りに言っても中身は複雑で内部で対立や内紛がよくあるのだ。雑賀衆は雑賀荘、十ヶ郷、中郷、南郷、宮郷の5つの地域に住む地侍や百姓によって組織されている。これらの郷が宗教や産業によって対立し、または結びついていた。
土橋胤継率いる雑賀荘と鈴木孫一率いる十ヶ郷の地侍達は石山本願寺と結びついて信長と戦う一方、中郷、南郷、宮郷は根来寺との結び付きが強く、その根香寺が信長と結びついていたため、中郷、南郷、宮郷は信長側に付いていた。重秀が天正五年(1577年)に紀州攻めに参加した際、一緒に戦っていた三緘衆は中郷、南郷、宮郷の地侍達のことである。
さて、石山本願寺が信長と和議を結ぶと、浄土真宗の信者であった孫一は、本願寺の指示に従って自分を支持する十ヶ郷の地侍達と共に信長と和解した。しかし、浄土宗の信者であったとされる胤継と彼を支持する雑賀荘の地侍達は信長と和議を結ぶ事を拒否していた。また、信長に抵抗を続けている教如上人を支持する一部の浄土真宗の雑賀衆の地侍達も加賀や播磨に移って抵抗を続けていた。そのうち、播磨に移った者達は海の上や英賀城で重秀と戦っていた。
そんな説明を重秀は信親に話した。そして重秀は更に自分の考えを言う。
「これは私の考えなのですが、勝瑞城に渡った雑賀衆も英賀城へ向かった雑賀衆と同じなのではないでしょうか?勝瑞城には確か十河(十河存保のこと)がいたはず。あれは毛利と誼を通じていたため、十河を介して毛利へ向かおうとしていたのではありませぬか?もしくは、織田側の長宗我部から毛利側の十河を守るべく手を貸した、とか。そんなところではありませんか?」
重秀の話を聞いた信親とその家臣達は「う〜む」と一斉に呻いた。そして両腕を組むと考え込んでしまった。その後、信親が再び口を開く。
「・・・それなら合点が参る。少なくとも、前右府様が我等長宗我部を敵対視しておらぬ、と言う事ができるな」
―――それはどうかな?―――
信親の話を聞いた重秀がそう思った。重秀はすでに信長から長宗我部が敵に回る可能性を聞かされていたからだ。
そんな事を重秀が思っていると知らない信親が、親しみを込めた笑顔で重秀に声を掛ける。
「・・・羽柴殿。我等は共に前右府様の為に戦っている仲。今後とも良しなに付き合っていただければ、この弥三郎望外の喜びにて」
そう言って盃を掲げる信親を見て、重秀は一瞬だけ躊躇するような表情を顔に浮かべた。しかし、すぐに表情を戻すと、重秀も盃を掲げる。
「私めも長宗我部の嫡男とこのように言葉を交わせるは祝着の極み。今後ともよろしくお頼み申し上げます」
そう言った重秀と信親は、掲げた盃を一緒に口元に運ぶと、一気に中の酒を喉に流し込むのであった。
それから重秀と信親は雑談を行った。その内容は多岐に渡った。互いの生まれ育ちから戦での戦いぶりまでを長い時間かけて話し合った。
そんな中、特に信親が話したのは今まで学んできたことであった。信親は元親の計らいで京からわざわざ公家や高僧を招いて高度な教育を受けていた。元親にしてみれば次期長宗我部の当主にふさわしい教育を受けさせたかったのであろう。そして信親は元親の期待によく応えた。
しかし、信親は学んだ知識を披露することはなかった。披露しても周りの家臣達がついていけなかったからだ。信親はそのうち自分の知識を話すことを諦めてしまった。
そんな信親の知識についていけたのが重秀であった。重秀もまた高度な教育を受けていたので、信親の知識についていくことが可能だったのだ。
信親は自分と同じレベルの知識を持つ重秀との会話を楽しんだ。その会話は会談終了予定時間を遥かに超えて、夜遅くまで続けられた。結果、信親は泊城に戻らず、笠島城に泊まることになってしまったのだった。
注釈
誓紙とは『起請文』の別の言い方であり、『起請文』とは人が契約を交わす際に、神仏に対して誓約する内容を記した文書のことを指す。
神仏に誓約する内容を記すため、使用する紙は牛王宝印と呼ばれる護符を使用しなければならない。この護符の裏に内容を記すのである。
記される内容にも決まりがあり、まずは『前書き』が記される。これは誓約内容である。今回羽柴は長宗我部と香川の両方に誓紙を出すことになっているため、その内容も両家に沿った内容となっていた。
これらの『前書き』の次には『神文』(『罰文』とも言う)と言われる文章が記される。『神文』とは『前書き』に書かれた誓約を破った場合に神仏の罰を受けることを誓う文章のことである。
一般的には梵天、帝釈、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)の名を記した後にお互いの信じる神仏の名を記すことで、書かれた神仏の罰を受けることを誓い、誓約性を高めていた。
上では一般的には、と書いたが、もちろん例外もある。甲斐武田家は自分の信じている神仏の名を『御旗楯無』と記していた。『御旗楯無』とは甲斐武田家の祖である新羅三郎義光(源義光のこと)が使用した旗(御旗)と鎧(楯無)のことである。甲斐武田家はこの『御旗楯無』を神格化していたため、誓紙を書く際にも『御旗楯無』を『神文』に記したのである。
さらに例外として、キリシタン大名の誓紙がある。唯一神教であるキリスト教では他の神の存在を認めていない。なので、キリシタン大名は誓紙を書く際、相手方の神仏の名前を書かないのである。
さらに言えば、誓紙に使われる牛王宝印の護符もキリシタン大名は使わなかった。なのでキリシタン大名とそうでない大名とで誓紙を交わす際は結構揉めたという話が現代にまで伝わっている。