第206話 塩飽危機(その6)
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天正八年(1580年)九月二十九日。谷忠澄と香川景全は讃岐国天霧城へ帰還した。
元々香川家の有事の際の拠点として築かれたこの城には、香川信景(香川之景のこと)の他に、長宗我部の首脳陣が滞在していた。
すなわち、当主たる長宗我部元親を始め元親の弟である香宗我部親泰、元親の嫡男である長宗我部信親とその弟(のちの香川親和)といった一門衆、そして元親の重臣達が勢揃いしていた。
元親の前で平伏している忠澄と景全から塩飽の事について話を聞いた元親は、安堵の表情を浮かべていた。
「そうか。筑前殿(羽柴秀吉のこと)は了解してくれたか」
そう言った元親の傍で、香川信景が不満そうな顔で口を開く。
「とはいえ、我が甥である福田又次郎の仇を討てぬのは口惜しゅうございます」
「中務丞殿(香川信景のこと)、お気持ちは察するが、ここで羽柴と事を構えては、今度は織田と戦うことになる。さすがに織田と事を構える気は拙者にはござらぬぞ。
それに、塩飽の支配が戻ったのでござるから、良いではござらぬか」
元親がそう言って信景を宥めた。信景が不満そうな表情を顔に残しつつ、「分かっております」と言って頭を下げた。
元親がそれを見て頷くと、顔を信景から忠澄の方へ向ける。
「して、塩飽の引き渡しには、向こうは筑前殿の嫡男を遣わすとか?」
「はっ。羽柴水軍を率いてやってくるようでございます。すでに飾磨湊に羽柴水軍が集結しておりました」
「軍容は?」
信景が尋ねると、景全が躊躇しなから答える。
「・・・関船が十二隻、小早と弁財船が合わせて四十隻ほど。しかし、関船の大きさが我等の有する関船より一回り大きく、また、関船の形も我等の知っている形とは全く違うものが多数おりました。また、小早の中にも変わった形の船がいました。どのようにして戦うかは分かりませぬが、我等の知っている船軍とは異なる戦い方をするように思えました」
「ほう・・・?」
元親がそう言いながら首を傾げた。変わった形の船、と言われてもあまりピンときていない様子であった。そんな元親に、忠澄が更に話す。
「それと、これは姫路城におられた黒田官兵衛殿からお聞きしたのでございますが、羽柴の水軍は播磨や摂津の水軍だけでなく、備前の直島や児島の水軍衆を傘下に加えたとの由。恐らく直島の高原や児島の高畠の水軍を動員するやもしれませぬ。そうなると、羽柴水軍の数は多くなるかと」
忠澄がそう言うと、元親の傍らにいた弟の香宗我部親泰が元親に話しかけてくる。
「・・・そうなると、兄上。いささか厄介なことになりますな。我等の水軍は未だ讃岐に達しておらず、頼みの香川水軍は数が少ない上に小早と弁財船が主な水軍。この状態で塩飽に行こうものなら、羽柴の連中に笑われまする」
親泰がそう言うと、元親は微笑みながら応える。
「構わぬ。馬鹿にされるのは香川の水軍であって長宗我部のではない。いづれ、瀬戸内に長宗我部の水軍を入れ、羽柴の度肝を抜いてくれるわ」
若干香川水軍を馬鹿にしつつそう言った元親に、信景は何も言う事ができなかった。そんな信景の様子を気にせずに元親は話を続ける。
「それよりも、塩飽に遣わす者を決めねばならぬ。羽柴の嫡男が来ると言っていたが、それと見合う者を派遣せねばならぬ。まあ、前右府様(織田信長のこと)の家臣の嫡男ならば、忠兵衛(谷忠澄のこと)でも十分見合うと思うのだがな」
元親がそう言うと、当の忠澄が反論する。
「恐れながら。羽柴筑前の嫡男は兵庫城城主にて摂津国八部郡と有馬郡の二郡を治める大名。しかも前右府様の女婿でございますれば、それがしのような者では釣り合いませぬ」
忠澄からそう聞かされた元親は目を丸くした。そんな元親に、元親の傍にいた息子の信親が話しかける。
「父上。それがしも天正六年(1578年)に安土に赴いた際、日向守様(明智光秀のこと)から伺ったことがございます。確か、前右府様の養女を娶ったとか。ただ、養女と言っても前右府様の実弟の大姫(貴人の長女のこと)だそうで。そう考えると、羽柴筑前の嫡男・・・藤十郎殿でしたか。その織田家中の地位は侮れぬものと考えます」
信親の言葉に、元親は「むむむ」と唸った。親泰が話を続ける。
「まあ、前右府様の家臣とは言え、播磨、但馬、摂津を有しているのだ。並の大名とは一線を画すのは当然であろう。とすると、儂が出るしかないか・・・」
「あいやしばらく、叔父上」
親泰の話に信親が割って入った。そして、それまで座っていた床几から立ち上がると、元親の前に移動し、その場で片膝を付いて跪いた。
「恐れながら申し上げます。父上、塩飽へはそれがしをお遣わし下さい」
信親の言葉に、親泰を始めとした長宗我部の家臣達は一斉に「おおっ」と声を上げた。
「さすがは若君!物怖じせずに乗り込むとは、まさに長宗我部の嫡子に相応しきお方にて!この隼人、お供仕る!」
信親の傅役であった福留親正の息子で、信親から兄貴分として慕われていた福留儀重がそう声を上げた。他の者達も信親の大胆さを褒めたが、元親は眉間に皺を寄せながら心配そうに言う。
「何を言うか。羽柴がお主を暗殺するやもしれぬではないか」
「父上。相手は羽柴でございますよ?織田家の重臣でございますよ?前右府様(織田信長のこと)の面目を失わせることを羽柴がする訳無いではありませぬか。それに、宇喜多と違って羽柴がその様な事を得手にしているとは聞いたことがございませぬ」
「し、しかしなぁ。塩飽に行くには船に乗るのであろう?もし船に乗って転覆でもしたら・・・」
「いや、父上。それがしは泳ぎは得手でござるが・・・」
「いやいや、船の上は海の水で濡れておる。それで足を滑らせて頭を打って死んだらどうするのだ。それに、美女な船幽霊が出てきてお主を拐かすかもしれぬではないか」
「そんな事あるわけ無いでしょう・・・」
―――まぁた始まったよ。父上の心配性が―――
そう思いながら信親が元親に言うが、元親は納得してないかのような表情で言う。
「何を言うか!昔から言っておろうが!『だろう』と考えず、『かもしれない』と考えろと!大体お主は・・・」
「兄上、兄上!もう弥三郎(長宗我部信親のこと)もいい大人なのですから、そんな小言を言わなくてもよろしいではありませぬか」
元親が小言を言おうとしたところを止めた親泰。そんな親泰を恨めしそうに見つめた元親であったが、親泰には何も言わずに視線を忠澄に移す。
「・・・忠兵衛。羽柴の嫡男はどんな奴だ?」
「一言で言えば良き若武者かと。父親である筑前殿は猿顔の小男でございましたが、その倅は似ても似つかぬ美丈夫にござる」
「それがしも会うた事がありましたが、内心『誠に親子か?』と思いましてございます。日向守様が言うには、母親似だそうでございます」
忠澄に続いて信親がそう言ったので、元親の目が再び丸くなった。元親が信親に尋ねる。
「何?弥三郎は筑前の息子に会ったことあるのか?」
「安土に赴いた時に日向守様の屋敷にて。会話はさほどしておりませんでしたが、聡明そうな方でした。会えるならじっくりと話しとう存じます」
「そうか・・・」
目を輝かせながら答えた信親の見つつ、元親が答えた。そして溜息をつくと、視線を儀重に移す。
「・・・隼人(福留儀重のこと)、弥三郎を頼んだ」
元親の頼みに、儀重は「お任せください!」と強く頷いた。元親が不安げに頷くと、今度は香川信景に視線を移す。
「・・・長宗我部は嫡男を出すが、中務丞殿は誰を出す?弟御の又五郎殿(香川景全のこと)か?」
元親の質問に信景が答えようとした。しかし、その前に信親が話に入ってくる。
「父上、香川からは我が弟を出しては如何でしょうか?」
信親の提案に、元親だけでなく、信景や他の者も驚きで目を丸くした。信親が話を続ける。
「我が弟は中務丞殿の婿養子になり、名を五郎次郎と改める予定です。香川から出すには相応しい者かと」
「お待ちくだされ。いくら羽柴の嫡男と釣り合わすためとは言え、殿の御子息を二人も塩飽に送り込むのは如何なものかと。何かあれば取り返しのつかぬことになりますぞ」
忠澄の言葉に皆が頷いた。そんな時だった。元親が「あっ」と声を上げた。
「そうか。そいつのみ遣わせばいいんだ。そいつは長宗我部と香川の代わりの者を兼ねることができる。儂の子であり、中務丞殿の婿殿なのだから」
自分の息子をそいつ呼ばわりした元親に、信親が「父上っ」と注意した。
元々長子である信親には過保護気味に接してくるのに、弟達にはやたらと冷たい元親に、信親は常日頃から苦言を呈していた。
―――まあ、千熊(千熊丸のこと。のちの長宗我部盛親)には甘い顔するけど、あれはまだ幼児だからな―――
そう思いながらも信親は更に元親を説得する。
「父上。弟はもう十四歳。来年には香川家へ婿養子になると同時に元服いたします。羽柴の嫡男にお披露目することで、羽柴、いや織田に香川が長宗我部と縁戚になったことを報せることができます」
「・・・ふむ。我等と香川は共に織田家と盟を結ぶ仲。そんな両家が縁戚になれば、前右府様もお喜びになられるであろう・・・。相分かった。連れて行け。ただ、供の者を増やさねばならぬのう・・・。中務丞殿」
元親がそう言うと、信景が「ははっ」と返事を返した。元親が言う。
「香川からも豪の者を何人か出せるか?こちらも隼人の他に何人か出そうと思う」
「承りました」
信景がそう返事をすると、元親は頷いた。その後、元親は再び信親の方へ顔を向けると、不安そうな顔で信親に言う。
「そうだ・・・。弥三郎よ、塩飽に渡って羽柴の嫡男に会ったら、聞いて欲しいことがあるのだが」
「何でしょう?父上?」
信親がそう尋ねると、元親は最近阿波で起きたある出来事を話した。
「・・・というわけで、この件について羽柴が何か掴んでいないか聞いてきて欲しい。織田の重臣である羽柴ならなにか知っているだろう」
「承知しました、父上。聞いてきましょう」
信親はそう言って頷くのであった。
それから数日経った十月三日。信親とその弟が儀重と忠澄、景全等と共に香川水軍の関船に乗って塩飽へと向かった。
関船の周りには小早が二十隻近く護衛に付いていた。また、関船には元親が自ら選び抜いた一領具足の精鋭を乗せていた。
一領具足とは、元親の父である長宗我部国親が考案したと言われている軍事組織である。
特徴としては、平時は農耕に従事し、有事の際には軍務につくことが義務付けられていた。こう聞くとただの足軽と同じだと思われるが、足軽と異なるのは長宗我部家より領地(というか開拓地)を与えられていたため、長宗我部家に対する忠誠心が高いことにあった。
また、一領具足には必ず馬が1疋与えられていた。そのため、ただの足軽よりも機動力の高い軍事組織でもあった。
話が逸れたが、信親達はそんな感じで塩飽へと向かった。天霧城のすぐ近くにある多度津から出帆した信親の船団は、1刻程で塩飽の本島へ到着した。そして本島の南、泊浦の砂浜に上陸した信親達は、すでに接収されている泊城に入った。
泊城とは本島の南にある城である。もっとも、城と言っても屋形を土塀と空堀が一重に囲っているというだけのものであり、城と言うにはおこがましい規模であったが。
信親達が泊城に入ると、泊城にいた香川の将から衝撃的な話を聞いた。
「何?羽柴はもう来ているだと?」
「昨日の昼頃に笠島の湊の沖に羽柴の船団が着きました。その後、使者を寄越して笠島城へ入れるよう要求してきました・・・」
香川の将がそう聞かされた景全がその将に尋ねる。
「で?それからどうなった?まさか、容認したのではあるまいな?」
「無論断り申した。そしたら、『香川と長宗我部による前右府様の女婿への仕打ち、余すことなく前右府様へ言上申し上げる』と申しまして・・・」
そう言ってうなだれる将に、景全が「たわけぇ!」と叫んだ。
「それでは羽柴方の兵が笠島城に入った事になるではないか!しかも羽柴の嫡男が城に入ったのだぞ!士気が高まり、笠島城を力で落とせぬではないか!場合によっては、我等が塩飽から叩き出されることになるのやもしれぬのだぞ!」
景全の言葉に、その将は「も、申し訳ございませぬ!」と言って土下座した。しかし、すぐに顔を上げると、景全に伝える。
「その、羽柴方の使者は『我等に長宗我部殿と香川殿との約上を破る気はない。その証として羽柴方より人質を差し出しましょう』と言われまして・・・」
恐る恐るそう言った将に、景全が「たわけぇ!」と叫んだ。
「そう言うことは先に言えぇ!」
「も、申し訳ございませぬ!」
景全の叱責に、件の将が「申し訳ございません!」と言って土下座した。さらに言い募ろうとする景全に、信親が話しかける。
「まあ、その辺でいいだろう。それよりも、人質はどこだ?」
信親がそう尋ねると、件の将が土下座状態のままで答える。
「はっ!客間にてお待ちいただいております!」
「人質とは言え、我等から見れば客人。粗略に扱っておらぬだろうな?」
信親の質問に、件の将は「丁重に扱っておりまする!」と声を大にして答えた。信親は景全や忠澄等と顔を見合わせ、呟くように言う。
「・・・まあ、向こうは人質を差し出してきた。こちらとの約束を違える気はないのであろう・・・」
信親はそう言うと、左手で顎をさすりながら上目で考え込んだ。儀重が声をかける。
「若君?如何なさいました?」
「・・・気が変わった。その人質に会ってみようと思う」
信親の言葉に皆が「はあぁ!?」と声を上げた。信親が皆に言う。
「羽柴がどのような人質を送ってきたのか。また、その人質から見て羽柴の嫡男はどのような人物か。その為人を聞き出す良い機会ではないか」
信親の言葉に、景全は「なるほど」と納得したが、儀重は「しかし・・・」と躊躇した。そんな儀重に信親がさらに話しかける。
「それほど案ずるのであれば、お主も来ればよかろう?『福留の荒切り』と呼ばれし父飛騨守(福留親政のこと)にも劣らぬ武を持つお主がついてくるのであれば、儂も案ずることができる」
儀重の父である福留親政は長宗我部国親の代から仕えており、元親の股肱の臣とも言える存在であった。その武勲も素晴らしく、感状は21回にも及び、また元親不在の岡豊城が安芸国虎に攻められた時は、20人から37人の敵兵を斬り伏せ、その戦いぶりから『福留の荒切り』と称される猛将として知られるようになった。
しかし、残念なことに天正五年(1577年)、伊予攻略戦の最中に戦死してしまった。
そんな親政の息子が儀重である。彼もまた父に似て武勇優れた若武者であった。彼も後に『蛇もハミ(マムシのこと)もそちよれ、隼人様のお通り』と唄われるようになる。
「では行くぞ、隼人」
信親がそう言って歩き出した。儀重がそれについて行き、二人は客間へと向かっていった。その二人を忠澄が早足で追いかけていった。
泊城の客間。信親と儀重が許しを得て中に入ると、二人の小具足姿の武士が対面で座っていた。信親と儀重の姿を見ると、その二人は身体を信親の方へ向け、姿勢正しくするときれいな平伏をしてみせた。
「苦しゅうない、楽にせよ。長宗我部弥三郎である。こちらにいるは福留隼人と谷忠兵衛じゃ」
「福留隼人正にござる」
「谷忠兵衛にござる。以後お見知りおきを」
信親と儀重がそう言って自己紹介した。二人の武士は驚いた顔をすると、上げていた顔を再び下げて平伏する。
「ご丁寧なご挨拶痛み入りまする。それがし、羽柴筑前が臣にて、嫡男藤十郎様の傅役、兵庫城家老の山内伊右衛門と申す。こちらに侍るは我が臣の祖父江勘左衛門にござる」
平伏していた一人の武士―――山内一豊がそう言ったのを聞いた信親は、思わず一豊に尋ねる。
「なんと・・・。貴殿は藤十郎殿の傅役で家老だというのか?そんな重要な臣を人質に出したのか?お主の主君は」
信親の問いかけに、一豊は「ははっ」と言って首肯した。そんな一豊に、昨日あった出来事が脳裏に浮かんでいたのだった。