第203話 塩飽危機(その3)
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天正八年(1580年)九月二十五日。重秀は大谷吉隆と寺沢広高を連れて、秀吉と共に姫路城に来ていた。ここで長宗我部と香川の使者との話し合いに参加するためであった。
―――こう言っては何だが、やはり海の上を船で行ったほうが早かったな・・・―――
そう内心でボヤきつつも、重秀は父秀吉と黒田孝隆、蜂須賀正勝、そして石田三成と姫路城本丸御殿の表書院で話し合いを行っていた。
「今回姫路にお越しになった使者は、香川中務丞殿(香川之景のこと。この頃は香川信景と名乗っていた)の弟御である観音寺又五郎殿(香川景全のこと)と、長宗我部宮内少輔様(長宗我部元親のこと)の家臣の谷忠兵衛殿(谷忠澄のこと)でござる」
孝隆がそう言って事前に仕入れた長宗我部と香川の使者について説明した。
「香川は弟御を寄越してきたのか。香川は本気だな」
重秀の隣りに座っている蜂須賀正勝がそう呟くと、孝隆が「はい」と言って頷いた。
「そして長宗我部の使者、谷殿は元は土佐の神官だったのを宮内少輔様が見出し、家臣にしたとか。今では長宗我部と他家との交渉を担う重臣だと伺っております」
「では、長宗我部もまた本気の交渉をしてきたというのか?」
正勝の言葉に、孝隆が「いいえ」と首を横に振った。
「調べましたるところ、長宗我部家が本気で他家と交渉する際は実弟の香宗我部内記様(香宗我部親泰のこと)を遣わすとのこと。もっとも、内記様がお相手してきたのは上様のみでしたので、上様の家臣たる羽柴家とは相手しないのではないでしょうか」
孝隆の言葉に、正勝と三成は顔に怒りの表情を浮かび上がらせた。長宗我部は羽柴を下に見ている、と孝隆が言ったようなものだからだ。
その様子を見た重秀が、二人を落ち着かせるべく口を開く。
「長宗我部家は東の徳川家と同じ上様の盟友となっている。その上様の家臣たる羽柴に使者を派遣する場合、格差をつけるのは当然でしょうね」
重秀の言葉に、正勝等怒りの表情を浮かべていた者達の表情が若干和らいだ。それを見計らって、重秀が話を変えるべく秀吉に尋ねる。
「それで父上。我等は如何致しましょうか?」
重秀の言葉に対し、秀吉は脇息に両腕を乗せた格好のまま黙っていた。何か考え事をしているようであった。
「・・・父上?」
重秀が再び声をかけると、秀吉はゆっくりと口を開く。
「・・・長宗我部と香川の使者の話を聞いてみないことには何とも言えぬ。ここは、直接会って話をするべきであろう。だが、その前に官兵衛の意見を聞きたい」
秀吉がそう言いながら視線を孝隆に向けた。重秀達もつられて孝隆に目を向けると、秀吉が孝隆に話しかける。
「すでに、使者から要件を聞いているのであろう?官兵衛はどう思った?」
秀吉の質問に、孝隆が答える。
「そうですな・・・。あの二人は、『塩飽は香川の領地故、笠島城と与島城を返して欲しい』と申しておりました。それだけなら香川だけの使者が来れば良いだけのこと。何故長宗我部の使者も一緒に来ているのかが解せませぬ」
「・・・香川は長宗我部に降ったと上様から聞いたことがありますが・・・」
重秀がそう口を挟むと、孝隆が眉間に皺を寄せながら話を続ける。
「・・・それでも長宗我部の使者がやってくる理由にはならないでしょう。あくまでこれは香川と羽柴の問題なのですから」
孝隆がそう言った時だった。秀吉がおもむろに口を開く。
「・・・威嚇だな」
秀吉の言葉に、皆が「威嚇?」と一斉に声を上げた。秀吉が話を続ける。
「香川は儂等に『後ろに長宗我部がいるんだぞ』と示しているのよ」
「・・・それはまるで『虎の威を借る狐』ですね」
秀吉の話を聞いた重秀が、昔竹中重治から教わった『戦国策』の逸話を思い出しつつそう言った。孝隆が頷く。
「なるほど。筑前様の言う事こ゚もっともでございますな。しかも、厄介なことに長宗我部と織田は盟を結んでおり、香川自身も織田に友好的な家にございます。羽柴がおいそれと手を出せる相手はございませぬ」
孝隆の言葉に、正勝が舌打ちをする。
「ちっ、足元を見やがって・・・」
そんな正勝を見ながら、秀吉が重秀に尋ねる。
「・・・藤十郎。仮に笠島城と与島城を香川に明け渡した場合、羽柴に何か不都合はあるか?」
「塩飽の島々に羽柴の兵がいるのは、毛利の水軍が再び塩飽に入りこまないようにするため。そして毛利の水軍が東進してきた場合に備えて見張る為にございます。毛利の水軍に対応するため、塩飽から兵を引き上げるのは有り得ぬことと存じます」
重秀がはっきりと言うと、正勝が「若殿の言う通りだ!」と声を上げて頷いた。
「・・・官兵衛はどう思う?」
秀吉の問いかけに、孝隆が「左様ですな・・・」と両腕を組む。
「香川か長宗我部が塩飽や讃岐方面で毛利の水軍を見張ってくれるのであれば、笠島城や与島城を引き渡しても良いと思いますが」
「待ってください」
孝隆の発言に重秀が異を唱える。
「毛利にはあの公方様(足利義昭のこと)がいらっしゃるのです。播磨や摂津、大和で色んな方々を織田方から毛利方に寝返らせたのは公方様との噂がございます。香川や長宗我部を毛利方に引き込む恐れはないとは言えないのではありませんか?」
重秀がそう言うと、三成が「若殿の言う事ごもっともでございます」と賛意を示した。重秀が更に言う。
「それに、これをご覧あれ」
重秀がそう言いながら懐から2通の書状を取り出した。それは、重秀がくまから預かった朱印状であった。
「これは、塩飽に発行された朱印状でございます。一通は父上が塩飽に発行した朱印状で、これには羽柴と塩飽の船方衆との約束事が記されております。
そしてもう一通でございますが、これは上様が堺奉行の松井様(松井友閑のこと)に発行された朱印状の写しでございます」
そう言いながら重秀は信長の朱印状を開いた。皆がその朱印状を覗き込んでいる間、重秀が話を続ける。
「ここには、堺に入る塩飽の船を守る事を命じる文言がございます。これは、織田方の船として瀬戸内の海を航行する塩飽の船が、村上水軍や雑賀水軍から護るよう、松井様に命じたものと聞き及んでおります」
「・・・確かに書状からはそう読めますな」
孝隆がそう言うと、秀吉達も頷いた。重秀が今度は羽柴からの朱印状を広げてみせる。
「そしてこれは父上が発行された朱印状。これにも塩飽の船を護る旨の文言がございます」
重秀の説明に、秀吉が「それはそうじゃろう」と言った。
「塩飽の船は毛利討伐の際に瀬戸内の海で武器や兵糧、兵を運ぶのに重要になるんじゃ。それに、水夫や案内人の協力も必要になる。塩飽を我らの手中に収めんと、毛利攻略が覚束なくなる・・・」
秀吉がそこまで言うと黙り込んでしまった。秀吉には分かってしまった。塩飽を手放すと毛利との戦で不利になるということを。そしてその考えは秀吉以外にも分かってしまった。
「・・・となると、塩飽を香川に明け渡すのは無理だな」
正勝がそう言うと、孝隆も三成も、当然重秀も頷いた。更に重秀が皆に言う。
「それに、逃れてきたくまの話では、代官であった福田又次郎の不慮の事故について、香川は船方衆によって謀殺されたと考えているようです。まあ、実際はそうなんですが、厄介な事に謀殺に関わった船方衆は佐々木新右衛門を始め、羽柴に友好的な船方衆で且つ船の扱いに長けた者ばかり。これらを香川が仇討ちと称して処すれば、羽柴としては貴重な船方を失いかねません」
重秀の言葉に、秀吉が「相分かった」と言いながら膝を叩いた。
「塩飽を香川や長宗我部に引き渡すのは拒否しよう。毛利との戦では塩飽の船とその船乗りは重要じゃ。これを香川や長宗我部に委ねては、毛利と戦するたびに両家にお伺いを立てなければならなくなる。それではこちらの勝手に戦ができなくなる!」
そう言って声を上げた秀吉に、重秀はもちろん、孝隆と正勝、三成が頷いた。秀吉が意を決し、檄を飛ばそうと口を開きかけた。
しかしその時、表書院の縁側にある障子の向こうから、誰かが声をかけてきた。
「申し上げます!因幡の山中鹿介様より、火急の早馬が来ております!大殿へのお目通りを求めております!」
障子越しに聞こえた声の内容に、重秀が訝しる。
「・・・因幡の山中殿が父上に直接報せをもってきたのですか?尼子式部少輔様(尼子勝久のこと)ではなく?」
「・・・因幡で何かあったのやもしれぬのう。・・・苦しゅうない!入れ!」
秀吉がそう言って声を上げると、障子が開いて一人の埃まみれの男が入ってきた。重秀が広げた書状を片付けて場所を作ると、その男はその場所まで来て、両膝を畳につくような感じで座った。そして頭を下げて秀吉に言う。
「お目通り叶いまして恐悦至極!山中様より、書状をお預かってまいりました!何卒お目通しを!」
そう言うと男は懐から書状を取り出した。孝隆が受け取り、それを秀吉に渡した。秀吉が書状を開き、中身を黙読すると、みるみるうちに顔が青ざめていった。
「・・・父上。如何なされましたか?」
嫌な予感を感じつつも、重秀がそう尋ねた。秀吉が声を震わせて書状の中身を読み上げると、表書院に重秀達の驚愕の悲鳴が鳴り響いたのであった。
その日の夕刻。二人の小具足姿の男が、副田吉成の案内で姫路城本丸御殿の広間へと向かっていた。
「やれやれ。やっと筑前守様とご面会でござるか。予定では昼頃に面会だったのに」
小具足姿の一人である香川景全が歩きながらそう呟くと、並んで歩いていた谷忠澄がなだめるように呟く。
「そう申されるな。いきなり自分たちの城を明け渡せと言われれば、評定にかけるのが当然であろう。そこで話し合いが揉めれば、結論を出すのに長くなるというのは当然であろう」
「しかし話し合いが長引いたとは言え、我等との面談が今日中になったということは、羽柴の結論は『否』でしょうかな?」
景全が若干侮蔑するような表情でそう言うと、忠澄は眉をひそめながら返事を返す。
「愚かなことだ・・・。そうなれば羽柴は前右府様(織田信長のこと)よりお叱りを受けることになるぞ」
忠澄から見れは羽柴は織田信長の家臣である。いくら播磨、但馬、摂津に領地を持っていようとも、信長の盟友たる長宗我部元親から見れば同盟相手の家臣に過ぎない。そんな家が元親に逆らうということは、信長と元親の盟を破ることになるのだ。信長がそんな事を許すわけがない、と忠澄は思っていた。
「殿様(長宗我部元親のこと)は前右府様に従って四国を平定しているのだ。塩飽は昔より讃岐の一部であった。当然、殿様が平定しても良い場所である。羽柴筑前にそれが分からない訳はなかろう」
忠澄がそう言うと、景全が「左様ですな」と相づちを打った。
そんな会話を交わしているうちに、二人は広間の前の縁側に到着した。吉成が片膝を付いて跪くのを見て、二人も同じように跪いた。
「申し上げます!谷忠兵衛様、観音寺又五郎様、お見えにございまする」
吉成が障子の向こう側にそう声をかけると、障子の向こう側から「苦しゅうない、入れ!」という声が聞こえた。と同時に、障子が勝手に開かれた。
「お二方、どうぞ」
吉成の言葉に促され、忠澄と景全が広間に入った。広間の左右に分かれて座っている羽柴の家臣団の真ん中を進む二人は、下段の間の中心に座ると、深々と平伏した。
「お目通り頂き恐悦至極。御前に侍りまするは長宗我部宮内少輔が臣、谷忠兵衛にございます。こちらに侍るは香川中務丞殿の家臣、観音寺又五郎殿にございまする」
「観音寺又五郎にございます」
忠澄と景全がそう言って挨拶をした。すると、上段の間から、若々しい声が聞こえた。
「役目大義。面をあげられよ」
その声につられて顔を上げる忠澄と景全。そして上段の間に座っている人物を見て、二人は思わず目を見張った。
そこにいたのは、猿顔の小男であった。まあ、姫路城の城主たる羽柴筑前守秀吉が猿顔の小男であることは事前の調査で知っていたからまだ良い。二人が思わず目を見張ったのは、その猿顔の小男がこれでもかと言わんばかりの眩しい笑顔で忠澄と景全を迎え入れていたからだ。まるで、二人が来たことが嬉しくてしょうがない、という感じでニッコニコしていた。
―――おかしい。塩飽から手を引けと言われることは分かっているだろうに。何をそんなに喜んでいるのだ?こいつは阿呆なのか?―――
忠澄がそう訝しんでいると、二人から向かって右側、上段の間に一番近い所に座っている男―――事前に会って話をしたことのある黒田孝隆が声をかけてきた。
「忠兵衛殿、又五郎殿。御前におわしますは前右府様が重臣羽柴筑前守様にございます」
短く紹介をした孝隆に続いて、上段の間に座っている小男―――秀吉が口を開く。
「やあやあ!儂が羽柴筑前守である!遠路はるばる骨折りでござった。よもやそれがし如きの猿めに土佐の国主たる長宗我部様と、西讃岐の有力な国衆たる香川様がご使者をわざわざ姫路城までお遣わしになるとは、この羽柴筑前、誉れでござる!」
秀吉が笑顔で言った言葉に、忠澄が困惑しつつも頭を上げながら言う。
「・・・我等が急に訪問したる段、平にご容赦を」
「なになに。どうぞお気になさらずに!して、此度はどのようなご要件でわざわざ姫路までお越しになられたのかな?」
やたらとテンションの高い秀吉に、若干引きつつも忠澄が口上を述べる。
「・・・我が主宮内少輔様と、その盟友たる中務丞様は、前右府様の命に従って讃岐と阿波に巣食う三好とその一派を討たんとしておりまする。特に、十河存保は毛利と手を組み、筑前守様や前右府様へ敵対する不届き者にございますれば、これを討つ我等は実質的に筑前守様のお味方と言えるのではないのでしょうか?」
忠澄がそう言うと、秀吉は「うんうん」と機嫌よく頷いた。
「『土佐の出来人』と呼ばれし宮内少輔様と、西讃岐の有力な国衆である中務丞様よりそのように言われるのは我等にとっても誉れでござる」
そう機嫌良く言った秀吉であったが、次の瞬間笑顔を止めて忠澄と景全を睨みつけた。その視線の鋭さに、先程まで秀吉を内心舐めていた忠澄と景全が思わず身震いをした。
秀吉が言葉を続ける。
「しかしながら・・・。此度のお二方が姫路に来られた要件。官兵衛からさっき聞いたが、いささか織田という盟友に対する要求ではないと心得るが。
・・・のう、官兵衛?」
秀吉がそう言うと、孝隆が頷いた。そして孝隆が口を開く。
「左様ですな。羽柴の城、それも二つの城を明け渡せとは。これが盟を結んでいる相手の家臣に要求することではございませぬな」
孝隆がそう言うと、忠澄が驚いたような顔をわざとしながら孝隆に言う。
「これは異な事を仰る。笠島城主で塩飽の代官であった福田又次郎殿が亡くなって代官が居なくなり、誰も支配しなくなった塩飽に後任の代官を送ろうと、中務丞様の要請を受けた宮内少輔様が兵を派遣いたしました。ところが、笠島城に羽柴の兵がいるではありませぬか。塩飽はいつから羽柴のものになったのでございますか?」
忠澄の言い方に孝隆の片眉が上がった。しかし、すぐに冷静な顔つきになると、忠澄と景全に言う。
「その事につきましては、若殿が自ら両人に説明したいとおっしゃられた故、これより若君が申し上げられる。両人共どうぞお聞きくだされ」
孝隆がそう言うと、視線を忠澄と景全から別の方に向けた。忠澄や景全がその視線を追うようにして顔を向けた。視線の先、二人が座っている場所から見て右側、上段の間に一番近い場所に座っている所に、日に焼けた青年が姿勢正しく座っていた。その者が身体を孝隆の方から二人が座っている方へ向けると、軽く頭を下げた後、声を上げる。
「お初にお目にかかりまする。羽柴筑前が息、羽柴藤十郎にございます。塩飽について、若輩者ではございますが私めより説明しとうございます」
そう言うと、重秀は塩飽が如何に羽柴にとって重要な場所なのかを説明し始めるのだった。