第201話 塩飽危機(その1)
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天正八年(1580年)九月二十二日の早朝。兵庫城本丸天守内にある広間では、上段の間に秀吉と重秀が座り、下段の間には小一郎や尼子勝久、山名豊国といった城主クラスの人物を始め、羽柴家の家臣や与力がズラリと座っていた。そして各々の前には、膳が置かれており、その上には温かな飯と汁物、そして焼いた魚を乗せた皿や椀が置かれていた。
皆の前に膳が置かれていることを確認した秀吉が、大きな声で話し出す。
「皆の衆!烏丸様(烏丸光宣のこと)と柳原様(柳原淳光のこと)と日野様(日野輝資のこと)と広橋様(広橋兼勝のこと)への饗応、誠に骨折りであった!あの方々も大変喜ばれておった!今朝は藤十郎が皆のために朝餉を用意いたした!久々に、皆で羽柴流の朝餉を楽しもうではないか!」
そう言うと、秀吉は飯の入った椀を左手で持ち上げると、「さあ、頂こうぞ!」と大声を上げた。直後、皆が朝餉を摂り始めた。
「いやぁ、藤十郎。此度はまっこと骨折りだった!公家を四人も相手するのは疲れただろう!」
そう言いながら秀吉は隣りに座っている重秀に話しかけた。重秀が疲れ切ったような顔で秀吉に言う。
「全くにございました。饗応しながら歌や書を学ばなければならないと言うのは、中々難しゅうございました。頭の中を絞り出された気分です」
「いや、全くじゃ。儂も権中納言様(烏丸光宣のこと)から書を習ったが、なかなか難しかった・・・。あれをスラスラ書けるお主も中々のもんじゃが」
「広橋様からしっかり学んできましたから」
そんな会話をしつつも食事を続ける重秀と秀吉。そんな二人の前に、さっさと食べ終えた小一郎と勝久と豊国、そしてついて来ていた藤堂高虎などの家臣達がやって来て座ると、平伏しながら言う。
「大殿、若殿。朝餉を馳走して頂き有難き幸せ。ご無礼とは思いますが、我等は先に因幡に戻りまする」
「おお、小一郎。式部少輔殿(尼子勝久のこと)と中務大輔殿(山名豊国のこと)の護衛をしてくれて骨折りだったのう」
「まったくじゃ。因幡から強行軍で兵庫城に来たんじゃからのう!・・・まあ、式部少輔殿と中務大輔殿が喜んでくれたから良いのじゃが」
小一郎がそう言うと、勝久が申し訳無さそうに言う。
「申し訳ござらぬ、小一郎殿。京で僧籍にあった儂としては、あの烏丸様から書の指導が受けられるというのは望んでも得られぬ機会だった故、居ても立ってもいられなかったのじゃ」
「左様。あの烏丸様から書を習うというのは、山名でも中々機会を得るのは難しいものぞ。いや、文書を書かれているところを見ることすら一生に一度あるかないかの貴重なもの。それを見れただけでも僥倖というものでござる」
続けて豊国が満足げな顔でそう言うと、小一郎は「そう言うものかのう・・・」と首を傾げた。しかし気を取り直すと、秀吉と重秀に改めて向き直る。
「まあ、そう言う訳で、早う因幡に戻りたい。儂等は先に出る故、ここでお暇させて頂く。それと、見送りは無用じゃ。兄者も藤十郎も疲れておるじゃろう。今日はゆっくりと休め」
そう言うと小一郎達は頭を下げた。そして立ち上がろうとした時だった。広間の入口から「ご無礼仕る!」と言う大声が聞こえた。皆が広間の入口を見ると、そこには一人の侍が片膝を付いて跪いていた。それは重秀に仕える家臣の一人であった。
件の家臣が再び声を上げる。
「申し上げます。兵庫津に塩飽から来た船が入りました。笠島城からの伝令と、船頭のくまなる女性が若殿様へ早急の面談を望んでおりまする。如何なさいましょうや?」
「伝令と・・・くまが?」
家臣からの報告を聞いた重秀が思わず訪ねた。重秀が横にいる秀吉の顔を見ると、秀吉もまた重秀の顔を見ていた。秀吉が何かを感じたような顔つきで頷いた。
重秀が件の家臣の方へ顔を向けると、「通せ」と言った。件の家臣が「はっ」と言って一旦広間から出た。それからしばらくすると、件の家臣がくたびれた姿の伝令と、くまとくまの手に引かれた男児と、数人の船乗りらしき男達が入ってきた。
くま達の姿を見た重秀達は、思わず目を見張った。くまを始め、全ての者が疲れ切ったような顔をしており、身につけた着物は濡れていたり汚れていたりしていた。彼女達が近くを通った場所に座っていた者達は、くま達から発する潮の香りと湿った臭い、そして体臭の混じった臭いに思わず顔を顰めたほどであった。
小一郎等が左右に分かれ、その中に伝令やくま達がやって来ると、重秀と秀吉の前で崩れ落ちるかのように座り込んだ。そして、床に吸い込まれるかのように平伏した。
「若殿様・・・。お助けください・・・。塩飽が、塩飽の島々が・・・」
くまがまるで蚊が鳴くような声でそう言うと、嗚咽し始めた。くまだけではない。くまの隣りに座っている男児と、くまの後ろに座っている男達も泣き始めた。
突然のことに唖然とする重秀。そんな重秀の脇腹に、軽い衝撃があった。思わず衝撃のあった脇腹の方に顔を向けると、秀吉が重秀の脇腹を肘で小突いていた。秀吉の行為で我に返った重秀が、顔をくまに向けて尋ねる。
「・・・いっ、一体何があったのだ?」
皆が相変わらず唖然とした顔つきの中、重秀がそう尋ねると、答えたのはくまではなく伝令であった。
「も、申し上げます!い、今から三日前に、本島の泊浦に香川と長宗我部の軍勢が上陸してまいりました!更に、笠島城が両軍によって包囲されております!」
「な、何だと!?」
報告を受けた重秀が思わず大声を上げて立ち上がった。その時に膳を蹴飛ばしてしまい、上に置かれた皿や椀が中身をぶち撒けながら転がった。
驚いたのは重秀だけではない。山内一豊や福島正則はもちろん、普段は冷静な尾藤知宣や石田正澄までも思わず立ち上がった。それ以外の者達も驚愕の表情を顔に貼り付けていた。それほど驚きの報告だった。
そんな中、秀吉だけは別であった。落ち着いた、というよりは冷たい声で伝令に尋ねる。
「・・・香川と長宗我部の軍勢だと?間違いないのだな?」
秀吉の冷たい声に圧倒されながらも、伝令は頷く。
「ま、間違いございません!連中の旗印は九曜巴と七つ片喰でございました!」
九曜巴は西讃岐を支配している香川家の家紋で、七つ片喰は土佐の支配者である長宗我部家の家紋である。
伝令の話を聞いた秀吉が呟く。
「・・・おかしい。香川と言えば、香川中務丞(香川之景のこと。この頃は香川信景と称していた)であろう?あ奴は織田に臣従し、上様より”信”の字を頂いていたはず。それに、長宗我部宮内少輔(長宗我部元親のこと)も上様と盟を結び、嫡男(長宗我部信親のこと)は上様から”信”の字を頂いていたはず。何故香川と長宗我部が織田方に付いた塩飽に兵を送り込むのじゃ?
・・・いや、そもそも香川と長宗我部はいつの間に共に軍勢を出せる仲になったのだ?」
そう言って訝しる秀吉の言葉には、有無を言わさぬ冷たさがあった。あくまで現実を見つめようとする冷静な秀吉の発した言葉に、重秀はそれまで驚愕と怒りで混乱していた頭が急激に冷えていくのを感じた。と同時に、理性が戻っていくのも感じていた。落ち着いて座り直すと、重秀は秀吉に言う。
「そう言えば、安土にて上様(織田信長のこと)から話を聞きました。長宗我部は阿波と讃岐に兵を送り込み、二国を手中に収めんとしていると。そして、確か香川は長宗我部に降ったと聞いております」
「・・・なるほど」
重秀の話を聞いた秀吉がそう呟くと、秀吉の顔が脳裏に何かが閃いたような顔になった。その顔つきのまま、秀吉が重秀に尋ねる。
「藤十郎。確か、塩飽には香川の代官がいたと言っておったな?」
「はい。福田又次郎なる者がおりました。香川の一族衆の一人で、笠島城を居城としておりました。天正五年(1577年)に海で溺れたようです」
「ああ、確か、圧政を敷いていた又次郎なる代官は、本島の船方のまとめ役達によって溺死させられたと言っていたな」
「父上。一応、不慮の事故となっております」
重秀がそう言って注意したが、秀吉がそれを無視して自分の考えを重秀に言う。
「これは儂の推論じゃが、ひょっとしたら船方衆に殺された又次郎なる者の仇討ちではないか?それと、香川が塩飽を再び治めんとして、長宗我部に泣きついたのじゃなかろうか?長宗我部の援軍を受けて、塩飽を攻めたのかもしれんのう」
秀吉の言葉に、重秀が「まさか・・・」と口に出した。そんな重秀の耳に、くまの声が届く。
「・・・大殿様の言う通りだ・・・。アイツ等、笠島の湊に乱入すると、船方を尽くひっ捕らえやがった・・・。『謀反を起こした罪により、引っ捕らえる!』と言いまくっていた・・・」
今まで聞いた事のないくまの弱々しい声に、重秀は思わず驚いた。と同時に、同情の念を抱いた。そんな重秀をよそに、秀吉がくまに直接尋ねる。
「くまよ、一体何があった?話てくれぬか?」
秀吉がそう尋ね、くまが口を開いた時だった。広間に誰かが走ってくるような足音が聞こえた。重秀が広間の入口に目をやると、二人の武士が広間の入口にやってきた。一人は重秀に仕える武士の一人であったが、もう一人は埃まみれの侍だった。その場に居た者達は、それが使番だというのが分かった。
重秀の家臣たる武士が広間の入口で片膝を付いて跪くと、大声を上げる。
「申し上げます!姫路城より火急の使者が参りました!」
「何?姫路城から?」
家臣からの報告を聞いた重秀が思わず訪ねた。現在、姫路城主の秀吉は重秀の隣りに座っている。姫路城を預かっているのは留守居役の黒田孝隆であった。その孝隆が兵庫へ使者を飛ばしてきたのだ。これは何か良からぬことが起きたのではないか?
胸騒ぎを感じつつも、重秀は「苦しゅうない、近うよれ」と言った。使番が小走りでくま達が座っている場所よりさらに上段の間に近い場所に座ると、平伏しながら重秀と秀吉に言う。
「・・・申し上げます!昨日、讃岐の香川と土佐の長宗我部より使者が姫路城に来られました!・・・黒田官兵衛様がお会いしたところ、塩飽の笠島城と与島城の引き渡しを要求してきました!」
使番が息絶え絶えになりながらそう伝えると、重秀だけではなく秀吉や小一郎を始め、その場にいた者達が一斉に「何だと!?」と声を上げた。
「それは塩飽を香川に引き渡せということか!?何故羽柴が塩飽を手放さなければならん!?」
重秀が怒り心頭な表情でそう声を上げると、使番は躊躇いながらも答える。
「そ、それが・・・。使者の話では、『前右府様(織田信長のこと)より、四国切取次第の朱印状を頂いている故、讃岐の一部である塩飽より手を引かれよ』とのことにございました・・・」
使番の言葉に、重秀が思わず「はあぁ!?」と声を上げた。その隣では、秀吉が顔を顰めながら首を傾げる。
「・・・おかしい、儂ゃそんな話を上様から聞いておらぬし、久太(堀秀政のこと)や藤五(長谷川秀一のこと)からも報されておらぬぞ?藤十郎、何か聞いておるか?」
「いえ、四国のことについては上様から色々聞いておりましたが、そのような話は全く聞いておりません」
重秀が首を横に振りながらそう話した。そんな中、それまで黙っていた小一郎が口を開く。
「兄者、藤十郎。これは由々しき事態じゃ。一旦、姫路に向かって直接長宗我部と香川の使者から話を聞いたほうが良いじゃろう」
小一郎の言葉に、秀吉が頷くが重秀は頷かなかった。その代わり、重秀は秀吉に言う。
「父上。それよりもくまから話を聞きませぬか?塩飽で何があったのかを聞きとうございます」
重秀がそう言うと、秀吉はチラリとくま達の方を見た。弱々しい姿のくま達から、腹をすかせた音が微かに聞こえた。秀吉が眉をひそめながら重秀に言う。
「・・・いや、その前に伝令とくま達は休ませよ。見たところ、腹をすかせているようじゃ。恐らく、飲まず食わずで兵庫まで来たみたいじゃからのう。話を聞くのはそれからじゃ」
「・・・はっ」
くま達が腹をすかせた状態であることに気が付かなかった重秀は、恥じ入る表情をみせながらも視線をくまに向ける。
「くま、話はすぐ後に聞く。取り敢えず、別室で飯を食うが良い。話はそれからだ」
重秀がそう言うと、項垂れていたくまが顔を上げて言葉を発する。
「で、でもそれじゃあ塩飽が手遅れになる・・・っ」
そう声を上げたくまが、更に話そうとするが、隣りに座っていた男児が「母ちゃん!腹減ったよう!」と泣きながら叫んだ。それを見たくまが顔を歪めた。そして、他の水夫達のひもじそうな表情を見たくまが重秀に向かって頭を下げる。
「すまねぇ、若殿様。お言葉に甘える・・・っ」
「分かった。市(福島正則のこと)、虎(加藤清正のこと)、伝令とくま達を本丸御殿の『表』の囲炉裏の間に連れて行ってやれ。そして厨(台所のこと)に命じて飯を出してやれ。私も後で行く」
重秀が正則と清正にそう命じると、二人は「承知!」と言ってくま達を広間へと連れ出していった。
その様子を見ながら、秀吉が小一郎に話しかける。
「小一郎。すまぬが急ぎ因幡に戻ってくれ。長宗我部と香川の事が伝われば、因幡の連中がどんな動きをするか分からぬからのう」
「分かった。すぐに式部少輔殿(尼子勝久のこと)と中務大輔殿(山名豊国のこと)を連れて因幡に戻ろう。兄者はどうする?」
「儂もすぐに姫路に戻る。が、その前に佐吉(石田三成のこと)に上様への早馬の準備をさせる。さすがに塩飽に長宗我部と香川が攻めてきたことを報せなければならんからのう。それに、権兵衛(仙石秀久のこと)と官兵衛(黒田孝隆のこと)に早馬を出して出兵の準備をさせる。一旦姫路に集結させた後、飾磨湊から船で塩飽に兵を送り込む。また、官兵衛から高原久右衛門(高原次利のこと)に水軍の準備をさせる」
秀吉がそう言うと、小一郎が息を呑んだ。
「兄者。まさか長宗我部と香川と事を構えるつもりか?長宗我部も香川も織田の味方だぞ?」
「とはいえ、笠島城と与島城が長宗我部と香川の軍勢に囲まれておるのじゃ。連中は手を出さぬやもしれぬが、万が一ということもある。用意するに如くはない」
秀吉の言葉に、小一郎は「・・・それもそうじゃな」と頷いた。
塩飽の島々には数は少ないが城がある。その中でも本島の笠島城と与島の与島城(与島城山城とも言う)は、羽柴の兵が常駐する城である。
与島城については、何時誰が建てたか不明な城であるが、笠島城は鎌倉時代にはすでに存在していたと記録されている。その後、色々あった後は香川家の一族であった福田又次郎の城となり、天正三年(1575年)には上洛途中の島津家久(島津貴久の四男)が立ち寄ったとされている。
今年に入り、重秀と塩飽の船方衆との間に取り決めが定められ、笠島城と与島城に羽柴の兵が常駐していた。これは別に塩飽を我が領地にしたいがためではなく、毛利の水軍が東に向かうのを監視するためのものであった。そのため、常駐している兵は20人から30人程度であり、城番も足軽組頭という身分の者であった。
そして万が一毛利水軍が現れた場合、狼煙を上げたり船を借りて姫路や兵庫に伝えるという役目を持っていた。
秀吉と小一郎が話し合っていると、二人に重秀が話しかける。
「父上、兵庫の水軍を動かしてもよろしいでしょうか?先日公家衆にお見せした故、兵庫津には羽柴水軍の軍船がすでに集結中です。本来ならば本日から水夫達には休みを取らせるつもりでしたが・・・」
重秀がそう話すと、秀吉が答える。
「そうじゃな。何があるか分からぬからな。よし、藤十郎は水軍・・・、いや、全軍を以て姫路に参れ」
「ぜ、全軍でございますか?将右衛門(前野長康のこと)と市助(一柳直末のこと)と茂助(堀尾吉晴のこと)と孫平次(中村一氏のこと)の軍勢は因幡から帰ってきたばかりでございますが」
重秀がそう言うと、秀吉は自らのおでこを右掌でパチンと叩いた。
「あー、そうじゃった。すっかり失念しておったわ・・・。あまりこき使うと使い潰すことになるのう。やむを得ん。そいつ等の動員は無しじゃ。藤十郎の家臣で因幡や美作に行っていない者を中心に姫路に寄越せ」
「承知しました。ときに父上、お願いしたき儀があるのですが」
重秀がそう言うと、秀吉の片眉が上がる。
「・・・なんじゃ?」
「父上と共に姫路に参りたいのです。共に長宗我部と香川の使者の言い分を聞きとうございます」
重秀の言葉に、秀吉は「ふむ・・・」と言って少し考えこんだ。そして重秀に伝える。
「・・・そうだな。時が惜しい故、藤十郎も儂と共に来い。すぐに出る故、さっさと準備しろ」
秀吉がそう言うと、重秀が「承知しました」と言って頭を下げた。そして重秀は山内一豊を始めとした自らの家臣団を呼びつけるのであった。