第200話 四人の公家
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
誤字脱字報告ありがとうございます。お手数をおかけしました。
今年の投稿はこれにて最後になります。今年もご愛読していただきありがとうございました。来年もよろしくお願い致します。
それでは良いお年を。
天正八年(1580年)七月。秀吉と小一郎は播磨と但馬の軍勢を率いて因幡国に侵攻。西因幡の諸城を攻め落とすと、因幡守護の山名豊国の居城である鳥取城を包囲した。
そして八月。秀吉は山中幸盛に対し、鳥取城を攻め落とす際の先陣を命じた。というのも、幸盛は一度鳥取城を攻め落としたことがあったからだった。
山中幸盛率いる尼子復興軍は、天正元年(1573年)に山名豊国を因幡守護にするため、当時因幡を支配していた武田氏の居城である鳥取城を攻め落としたことがあった。よって、尼子勢は鳥取城の弱点をよく知っていたのだった。
しかし、幸盛は最初この命令を拒否した。
「恐れながら申し上げます。確かにそれがしは鳥取城の弱点を知っており、その弱点を突いて鳥取城を落城せしめました。しかしながら、その時には山名中務大輔(山名豊国のこと)がお味方でございました。今、鳥取城主となられた山名中務大輔がその弱点を放置しているとは考えられませぬ。必ずや対策を立てているものと考えまする。何卒、ご再考を」
そう言って翻意を促す幸盛であったが、秀吉は命令を変えなかった。結局は幸盛率いる尼子勢が先陣を務めることとなってしまった。
結果、幸盛が予想していた通り、鳥取城の弱点は豊国によって克服されており、尼子勢の攻撃は失敗に終わった。もっとも、幸盛もこの事は予想できていたため、早めに見切りをつけて撤退していた。そのため、尼子勢の損害は最小限で済んだのだった。
秀吉は鳥取城の力攻めが失敗したと分かると、すぐに兵糧攻めに切り替えた。夏は去年収穫した米が少なくなり、次の収穫時期である秋まで米が手に入らないため、兵糧攻めをするのに最適な季節であった。
しかも、豊国へ援軍を送るべき毛利は宇喜多と南条への対応に手一杯であり、鳥取城へ援軍を送ることはできなかった。
秀吉と参謀の黒田孝隆は鳥取城の降伏はそう遠くない未来だと確信していた。
さて、今回の鳥取城攻めには重秀は参加していない。摂津の軍勢で参加しているのは、前野長康、堀尾吉晴、中村一氏といった重秀付きの与力達であった。彼等は宇喜多の美作平定に駆り出されたものの、秀吉の判断で戦わずに姫路に引き上げた後、そのまま秀吉と一緒に因幡へ攻め入ったのだった。そのため、重秀は彼等のために摂津から兵糧をせっせと送り込んでいた。
だが、鳥取城攻めが兵糧攻めに変わると重秀は因幡に出兵中の羽柴軍全体のために兵糧を確保する役目を言い渡された。彼は兵糧をかき集めるために、家臣達を各地に派遣する一方、自らも兵庫津や姫路、堺、京や果ては長浜の商人達と兵糧の購入のための交渉を行っていた。
重秀は手紙ではなく、自らが出向いて商人達と交渉を行った。そしてそのたびに重秀は長谷川信春(のちの長谷川等伯)が作った百人一首カルタを手土産に持っていった。この手土産が良かったのか、それとも重秀の交渉の上手さからか、兵糧は滞りなく手に入れることができた。
もっとも、兵糧購入のせいで百人一首カルタからの利益のほとんどを手放さざるを得なかったのだが。
そして天正八年(1580年)九月。重秀の頑張りが良かったせいか、3ヶ月続いた鳥取城攻めが終わった。兵糧攻めに音を上げた山名豊国が森下道誉や中村春続等家臣団の反対を押しのけて降伏したのだった。
秀吉は豊国とその家臣団を助命し、因幡守護としての地位を保証するよう、信長に要請した。しかし、豊国の領地を大幅に減らした。そして尼子勝久、垣屋光成といった者達に分け与えた。特に尼子勝久には鹿野城と因幡国多気郡1万2千石を与えることによって、西因幡を抑える一方、東伯耆の南条家への支援と西伯耆への調略を命じたのだった。
そして秀吉は因幡での残務を弟の小一郎に押し付けると、姫路へと戻っていった。
さて、因幡平定が終わり、重秀の兵糧集めが終わったことで、重秀は一息つけると思っていた。しかし、重秀に安息の時は来なかった。何と歌と文書の師である日野輝資と広橋兼勝が兵庫を訪問すると連絡が来たのである。
一応、二人は『重秀に歌と文書(書道のこと)を直接指導する』という名目で兵庫に来るのだが、須磨へ行くことも希望したため、どう考えても観光であった。
しかも、日野家と広橋家の親戚という理由で、柳原淳光(従二位前権大納言)と烏丸光宣(従三位権中納言)も兵庫にやって来ることになっていた。
この報せを聞いた時、兵庫城内は大騒ぎとなった。何と言っても文字通りの雲上人が4人もやってくるのだから、その饗応の準備は相応のものとなった。
「よりによってなんでこんな時に来るんですかね・・・」
兵庫城の本丸御殿の表書院で、普段は温厚な石田正澄が思わずぼやいていた。彼はわざわざ生まれ故郷の近江の商人たちと交渉するため、長浜と兵庫を往復していた。さらに、姫路にて兵糧の監督をしていた弟の石田三成と話し合いするために姫路にも行っていたのだ。
そんな忙しい日々を過ごしてきた正澄にやっと安息の時がやってきたと思った矢先にこれである。正澄がぼやいたとしても仕方がなかった。
「・・・権中納言様(日野輝資のこと)と参議様(広橋兼勝のこと)はかねてより須磨へ来ることを望んでおられた。たまたまそれがこの時期になった、ということだ」
重秀がうんざりしたような顔つきでそう言うと、表書院に集まっていた家臣達は一斉にげんなりとした顔つきになった。
「・・・して、如何なさいまするか?お受けされるのでございますか?」
山内一豊がそう尋ねると、重秀は頷く。
「当然だ。ここでお断りしては、公家衆から侮りを受けることになる。私だけなら我慢はできるが、羽柴家、いや織田家の面目を潰しかねぬ。ここは四人の公卿をお迎えするべきであろう」
重秀がそう言うと、表書院に集まっていた者達は一斉に平伏した。主君たる重秀がそう決めた以上、家臣はその決定に従うだけであった。
そんな中、浅野長吉が顔を上げて重秀に言う。
「若殿。これは兵庫だけではなく、羽柴全体に関わる問題と考える。大殿(秀吉のこと)や小一郎殿にもお報せし、お二方の援助を受けるべきであろう」
長吉の言葉に重秀が頷く。
「うん。それに、宗匠(千宗易のこと)や隆佐殿(小西隆佐のこと)にもご助力をお願いしようと思う」
「ああ、堺の商人達なら公家衆の饗しも慣れているであろう。それは良い考えだ」
長吉がそう賛意を示すと、正澄が横から口を出す。
「恐れながら、この件、兵庫津の者共も関わらせるべきかと。堺の商人だけに任せては、兵庫津の商人はへそを曲げるやもしれませぬ」
正澄の提案に、長吉も頷く。
「確かに。他の湊の商人が公家の饗しをしたと聞けば、兵庫津の商人共は今後は我等に従わぬやもしれぬ。それに、兵庫津の商人も公家衆との結びつきは持ちたかろう。公家衆と兵庫津の商人達と結びつきを介してやれば、運上や冥加を取りやすくなるやもしれない」
長吉の話を聞いた重秀は、「それはもっともだ」と頷いた。そして、正澄を介して兵庫津の商人達に協力を要請するのであった。
こうして、4人の公家を兵庫に迎えるというプロジェクトが始まったが、さっそく問題が起きた。4人の公家をどこに泊めようか、ということであった。
「須磨についてはすでに福祥寺(須磨寺とも言う)に貴人が宿泊できる屋敷を建てている。が、それはあくまで須磨で短期滞在をするためのもので、長期滞在を考えて建てられたものではない。とすると、兵庫津内で複数の公家衆をお泊めできる御殿を造らなければならない」
「しかし、銭は先の因幡平定の際の兵糧集めで散財してしまった。もう出せる銭は逆立ちしても出て来ぬぞ」
木下家定の発言に対して一豊が返した。そんな二人の会話を聞いていた重秀が、「心配はいらない」と言ってきた。
「実は上様より、『御座所』を兵庫や須磨を訪れる公家衆のために使って良い、という言質を取っている」
重秀が安土城天主で信長から宇喜多調略の許しを得た時、信長からの提案で兵庫城にある信長専用の御殿である『御座所』を公家衆の宿泊施設として利用することは認められていた。
「おお、それならば公家衆を兵庫城にお泊めすることができまするな。いや、あの無駄に広い『御座所』をやっと有効活用できる日が来るとは」
一豊の発言に、重秀が「口を慎め」と苦笑いしながら言った。
「あれは上様の西国平定に必要な所。それに、『御座所』は兵糧や武器弾薬の貯蔵にも使っているんだ。毛利との決戦では、兵庫城は重要な拠点となるのだから、そんな事を言ってはいけない」
重秀の注意に、一豊が「はっ、申し訳ございませぬ」と言って頭を下げた。そんな一豊を見ながら、重秀が口を開く。
「とは言え、須磨にて公家達を饗すにはちと物足りない。そこで、須磨に建てたいものがあるんだ」
重秀がそう言うと、表書院にいた者達が重秀の方を見た。皆が真剣な眼差しで重秀を見ている中、当の本人が口を開く。
「まず、月見山に庵を作ってもらう。あそこは昔、在中納言(在原行平のこと)が須磨に流された折、夜な夜な歌を詠んだ場所である。恐らく公家達も在中納言の故事にあやかりたいと思っているだろう。庵で歌を詠んでいただこう」
重秀はそう言うと、一旦言葉を止めた。皆の反応を見ると、どうやら納得したようである。顔には「庵くらいなら銭も時も掛からなそうだ」と言いたげな表情を浮かべていた。
重秀が話を再開する。
「もう一つはお堂を作りたい。『松風村雨伝説』によれば、在中納言と別れた松風、村雨姉妹は出家して小さな庵を作り、そこで在中納言を想いながら余生を過ごしたらしい。その後、その庵は観音堂となったようだ。『松風村雨伝説』は有名な話だし、観音堂も実在していたようだから、再建してそこで休息ができるようにしたい」
松風・村雨の姉妹が住んだ跡地に建てられた観音堂は、その後戦乱と天災で跡形も無くなっていた。重秀はその観音堂を復活させようと言ったのだ。
表書院にいた者は一様に複雑な表情を顔に出した。「観音堂となると、立派に造らなければならないのだろうか?銭と時は足りるのだろうか?」そんな事を言いたげな表情をしていた。
重秀が笑いながら言う。
「そんなに難しく考えることはない。跡地を見に行ったことがあるが、とても狭い場所であった。まあ、辻堂(道端にある仏堂のこと。道の休憩場として利用される)くらいの大きさで良いと思うぞ。それと休息場としての草庵茶室も造れば、公家の方々も喜ばれよう」
重秀の言葉に、皆が一様にホッとした表情を浮かべるのであった。
その後、重秀はこの事を秀吉だけではなく、小一郎や千宗易、小西隆佐、堀秀政など、取り敢えず頼れる人達に手紙を出した。更に堀秀政を通じて信長にも手紙を出した。兵庫城の『御座所』を輝資等の宿泊所にするための許可を得るためである。一応、前に安土城で許しを得ているとはいえ、やはり一言断っておいた方が良い、という重秀の判断があった。
また、重秀は長岡忠興を通じて有職故実に詳しい長岡藤孝にも協力を仰いだ。藤孝は忠興を通じて重秀にアドバイスを送った。また、忠興自身も重秀に丹後の名産を送ったりと協力してくれた。重秀と忠興の仲は更に深まったのだった。
そして、饗応のための食材を仕入れるため、重秀と家臣は再び動き出した。
と言っても、兵庫は湊町であるため、各地から食材が集まっていた。また、兵庫の海や隣の播磨明石郡の近くにある明石海峡からは新鮮な魚介類が豊富に水揚げされており、食材に苦労することはなかった。更に、この頃には兵庫津近辺では鶏の数が増えていったため、鶏肉の確保には苦労しなかった。
また、摂津や播磨は酒の名産地を抱えており、兵庫津には多くの酒が集まっていた。そのため、酒を集めるのには苦労しなかった。
こうして4人の公家を招く準備が急ぎ行われていった。
そして九月十一日。ついに4人の公家が兵庫城にやってきた。重秀とその家臣団は、4人の公家を十日間饗すという大ミッションを開始することとなった。
兵庫城の『御座所』では連日宴会が催され、摂津や播磨、但馬の珍しい食べ物が出され、摂津や播磨、そして南蛮のお酒が提供された。この宴席には兵庫津のほとんどの商人が協力したが、それは公家との繋がりを作りたいという商魂たくましい理由からであった。
九月十三日、この日は『十三夜』といって、十五夜に次いで月が美しい日とされていた。
というわけで、「須磨で名月を愛でながら歌を読みたい」という公家達のリクエストに答えるべく、重秀は4人の公家を須磨へと連れて行った。福祥寺や綱敷天神、一の谷などの名所を案内した後、松風村雨堂で茶会を催した。
松風村雨堂は観音菩薩像を祀ったお堂だけでなく、側に3畳の草庵茶室も建てられていた。重秀はここで茶会を催した。
かの有名な松風村雨伝説の所縁の地での茶会は4人の公家を満足させた。そして重秀と4人の公家は、夜になる前に在原行平が月を愛でたという月見山へと登った。そこには当然饗しのための庵が作られていた。銭と建築時間の圧縮のため、公家を迎えるにはいささかみすぼらしい庵であったが、それがかえって流された在原行平を思い起こさせた。4人の公家はこの庵を大変気に入り、心ゆくまで晴れた夜空に浮かぶ月を愛でつつ、多くの歌を詠んでは競い合っていた。そして、重秀もこの歌会に参加させられ、しっかりと4人の公家からご指導を受けることとなった。
九月十四日に兵庫城に戻った4人は、九月二十一日まで滞在した。その間、4人の公家は兵庫城の本丸御殿で重秀だけではなく家臣団や希望する商人や僧侶といった人々に歌と文書を教えていった。当然、謝儀(授業料のこと)目当てである。
しかし、烏丸光宣と言えば尊朝流と呼ばれる書流の大家であり、また柳原淳光もまた家業は文書であった。そのため、兵庫城の本丸御殿や御座所では文書を学びたいという武士や商人、僧侶や神主が各地から集まった。その範囲は、重秀が治める摂津二郡に留まらず、隣の池田恒興領の摂津や秀吉の治める播磨、そして遠くは備前や堺から船に乗ってやって来る者もいた。
また、当時の記録から、重秀だけではなく秀吉や因幡で残務処理を行なっていた小一郎、摂津伊丹城主の池田元助、因幡鹿野城主尼子勝久、そして織田に降伏したばかりの因幡鳥取城主の山名豊国までもが兵庫城にて文書の指導を受けていた事が分かっている。
そして歌を家業とする日野輝資と烏丸光宣(烏丸家の家業は元々歌道である)による歌の授業や連歌会も盛況であった。
そんなこんなで兵庫城は、一時巨大な書道と和歌の学校となっていた。そのため、学びたいという人々で兵庫城下町は賑わいを見せた。4人の公家を饗すために散財した重秀と兵庫津の商人達は、4人の公家から学びたいという人々の莫大な宿泊代や食費代で、赤字を補填することができたのだった。
九月十六日。大潮だったこの日は午の刻(午前11時頃から午後1時頃)に新しい船の船卸し(進水式みたいなもの)があった。フスタ船の建造経験のある長浜の船大工の指導の下、金村久太郎を中心とした塩飽の船大工が作り上げた弁財船『春日丸』が、重秀や秀吉、そして4人の公家が見守る中、厳かに行われた。初めて見る船卸しや、南蛮船と同じ三角船を有する『春日丸』を見て興奮した4人の公家は、他の船も見たいと言い出した。
当然断ることもできず、重秀は関船『村雨型』と『吹雪型』、小早の『松風型』、そして最新のフスタ船『雷型』を見せた。また、訓練中の新鋭船『初雪丸』に乗って、短い時間ながらクルージングを楽しんでいた。
更に小規模ながら複数の船による行進や陣形構築などが公開され、4人の公家を楽しませたのであった。
そんなこんなで、お祭り騒ぎは九月二十一日、4人の公家が京に戻っていったことで終わった。重秀の忙しい日々も同時に終わり、やっと安息の日が訪れることを期待した。
しかし、安息の日は来なかった。何故ならば、直後に歴史の転換点に巻き込まれることになるのだから。