第196話 但馬の統治
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秀吉はその後も播磨の産物を重秀に紹介した。公文書用の紙として鎌倉、室町幕府で使用された杉原紙。沿岸で大量に生産される塩。姫路で作られる牛革。播磨の各地で細々と作られていた真綿と紬糸。糸を褐色(ここでは褐色のことではなく暗い藍色のこと)に染めるための蓼藍。そして荏胡麻油である。
「荏胡麻油って・・・。播磨で荏胡麻油が作られていたのですか?」
「佐用郡の中津川というところが産地らしい。何でも、大山崎の油座と昔大喧嘩して、それ以来油座の影響下に置かれない独自の油の産地となったようじゃ」
大山崎の油座とは、中世日本では最大規模を誇る油の座であった。元々山城国の山崎にある石清水八幡宮の末社である離宮八幡宮の神人(神社で働く人のこと)は、石清水八幡宮やその末社の照明用の油を管理していた。そして鎌倉時代初期、神人と近隣の油商人が手を組み、油座を作り上げていった。
その後、その油の原料である荏胡麻の取引や運送、製油した後の油の運搬や販売を行うにあたり、足利幕府から免税や関所の免除、油製造の独占権が与えられた。その独占権が及ぶ範囲は、西は伊予国から東は尾張国まで及んでいた。
ただし、播磨では地元の油商人が大山崎の油座の妨害や訴訟を食らってもしぶとく抵抗していた。
足利義昭が織田信長によって京から追い出されると、足利幕府の権威が無くなった大山崎の油座は衰退した。そして、信長によって洛中の油座が破棄されると、もはや大山崎の油座は風前の灯と化していた。
「なるほど。しかし、佐用郡は宇喜多の領地。我等とはあまり関わり合いがないのではありませぬか?」
重秀がそう言うと、秀吉が呆れたような表情で言う。
「阿呆。荏胡麻はどこでも生えるんじゃ。佐用郡以外に西播では荏胡麻は作られておるし、油も取っておるぞ」
「・・・ということは、播磨では荏胡麻を育て、油桐を育てないということですか?」
重秀がそう言うと、秀吉は首を振りながら答える。
「いや、数は少ないが播磨にも油桐はあるようじゃ。ただ、それからは油は取っていないようじゃがのう」
「では両方育てればよろしいではありませんか。荏胡麻油も桐油も口にできるかできないかの違いしか無いのですから」
重秀がそう言うと、秀吉は「ふむ」と言いながら右手で顎をさする。
「油の用途は灯明が主じゃからのう。それに、荏胡麻油も桐油も共に防水、防腐のために船に塗るし、油紙にも使うからのう。多いに越したことはない、か。では、油桐の実と荏胡麻の種は年貢として納めさせ、我等の息のかかった油商人に製油と販売を独占させて冥加(営業許可と引き換えに利益の一部を納めさせる税金のこと)を納めさせよう。
・・・佐吉、その様に取り計らえ」
秀吉がそう言うと、書院の後方で控えていた石田三成が「承りました」と言って平伏した。
秀吉が重秀に播磨の産物を紹介した次の日。小一郎が木下昌利を連れて姫路へとやってきた。さっそく、秀吉と重秀と面談を始める。
「小一郎よ。過日使者から聞いたが、但馬の国守を辞めたいそうじゃのう」
秀吉が優しくそう尋ねると、小一郎は平伏しながら秀吉に言う。
「兄者。儂に一国の大名は無理じゃ。尼子衆や宮部衆、荒木衆が補佐してくれているし、善祥坊殿(宮部継潤のこと)が儂の多忙さに見かねて田中久兵衛(田中宗政のこと。田中吉政とも言う)を儂の家臣にと推挙してくれたものの、まだまだ家臣が少ない。これでは上様や殿様(織田信忠のこと)のご期待に沿えかねる」
「しかしのう。儂に辞めたいと言われても、儂が任せたわけではないからのう。辞めるには安土の上様・・・だけではなく、岐阜の殿様のところまで行って許しを得なければならぬぞ。そもそも、後任はどうなるんじゃ?」
「それは上様か殿様に決めてもらおうかと・・・。儂としては、式部少輔殿(尼子勝久のこと)が良いと思うんじゃ。あの方は尼子の当主じゃからのう。一国の太守として相応しいと思っておる」
小一郎がそう言って溜息をついた。疲れ切った表情の小一郎を見た秀吉と重秀は、小一郎に同情した。
小一郎も農民の出である。秀吉以上に信頼できる家臣が少ない。小一郎の温厚実直な人柄で家臣や与力を何とかまとめ上げているようなものである。また、十万石を越える程度の但馬の領地は、与力や織田方に与した国衆の知行によって細断化しており、小一郎の知行は朝来郡竹田城の周辺と養父郡の一部だけの2万石しかなかった。当時、大名の直轄領が全領土の3割から4割程度だったことを考えると、小一郎の但馬における影響力の小ささが伺える。
秀吉は小一郎が苦労していることは理解した。しかし、但馬は毛利攻めで重要な山陰道ルートの出発点である。そこをもっとも信頼できる小一郎から外すのは、秀吉にしても痛い。それに、小一郎は生野銀山の代官も兼ねている。もし但馬の国守を辞めるとすれば、生野銀山から産出される銀や銅のおこぼれに預かれないのである。
これは別に小一郎が銀や銅を横領しているという話ではない。生野銀山の運営のため、産出された銀と銅のうち、一部は小一郎の収入として受け取ることが認められていたのだった。
銀は秤量貨幣として軍資金に、銅は仏具の材料や輸出品として売り飛ばせるため、これまた羽柴の資金源となっていた。
そんな儲かる役職についている小一郎を但馬から離すわけにはいかない秀吉は、小一郎を翻意させるべく説得を始める。
「小一郎、気持はよく分かる。儂も北近江を頂いた時は一門や家臣の少なさに苦労したものじゃ。じゃが、それを乗り越えて今の地位にいるんじゃ。今は辛抱のときじゃ。頼む!但馬の国守の座を降りるなどと申すな!それに、小一郎が但馬の国守を降りたら、生野銀山の代官職も降ろされるのじゃぞ?そうなれば、儂等の儲けが無くなるではないか!?」
大声を出す秀吉に対して、小一郎は黙ったままであった。しかし、その眼差しは秀吉の目を捉えており、臆するような態度を取ることはなかった。そんな小一郎の態度を訝しんだ秀吉が尋ねる。
「・・・小一郎、どうした?何か、考えがあるのか?」
秀吉の質問に、小一郎は小声で「兄者」と声をかけた。
「すまぬが、ちと近くで話してよいか?あまり大きな声で話したくないんじゃ。藤十郎もじゃ」
そう言われた秀吉と重秀は、互いの顔を見やると、言われたとおりに小一郎に近づいた。三人が額を寄せ合うと、小一郎は懐から巾着を取り出した。
「兄者。これを見てくれ」
そう言って巾着を秀吉に手渡す小一郎。受け取った秀吉が巾着の紐を緩めて中を覗き込むと、何やら砂のようなものが入っていた。しかし、重秀も覗き込んでいるため、光が巾着の中に入らないので中身がよく見えない。そこで、秀吉は巾着の中に右手を突っ込むと、砂状のものを摘んで取り出した。そして左掌に乗せて見た。それは、黄金色に輝く砂であった。
「おい、小一郎・・・。これはひょっとして・・・?」
ゴクリと喉を鳴らした重秀を横目に秀吉が小一郎に尋ねると、小一郎は大きく頷く。
「ああ。砂金だ」
「砂金って・・・。叔父上はこれをどこで?」
重秀がそう質問をすると、小一郎はより一層声を低めて話し始める。
「天正元年(1573年)頃。但馬国養父郡に流れている八木川の上流、大日淵という場所で百姓が砂金を見つけた。それ以来、その周辺では砂金掘りが行われていたんじゃ。儂がその話を聞いて、生野銀山の山師(ここでは鉱山技師のこと)に調べさせたところ、中瀬山というところで金脈を見つけたのじゃ」
「では、養父郡では金が取れると?」
重秀の言葉に、小一郎が頷いた。そして話し始める。
「調べてみたら、養父郡と朝来郡には明延山と神子畑山と呼ばれる山があって、そこでは昔から銅や鉛、錫が採れたらしい。しかし、今は銀が取れないということと、生野銀山に人手を集中させとるということで、誰も手を付けておらん。
・・・実はな、兄者、藤十郎。儂はこれらの山々を上様から隠れて掘りたいんじゃ。そうすれば、羽柴の財となろう。上様から目をつけられた羽柴が力をつけるには、これらの金や銅が必要となると考えるんじゃ」
小一郎の言葉に、重秀が唖然としながら呟く。
「それは・・・。上様に対する反逆ではございませぬか・・・」
重秀の呟きに気がついた小一郎が答える。
「無論、儂も上様に逆らう気は毛頭ない。しかしな、兄者や藤十郎を守るには、財がいるのよ。儂は、その財を増やしたいのじゃ」
小一郎が重秀そう言うと、重秀は息を呑んだ。小一郎の目には、並々ならぬ決意の火が灯っていたからである。そして、秀吉も小一郎の本気度を理解していた。しかし、秀吉はあえておどけてみせる。
「あっはっはっ!小一郎よ、但馬で冗談の言い方でも学んだか?なかなか面白い冗談じゃのう!」
「兄者、儂は本気・・・」
小一郎がそう言おうとするが、秀吉が右手を上げて制止した。小一郎が黙ると、秀吉は小一郎の目をしっかりと見ながら話す。
「小一郎。儂や藤十郎を想う気持ちはよぉく分かった。しかしのう。良く考えてみよ。儂等は上様の引き立てあってここまで来たのじゃ。上様は我等を信じて、播磨や但馬、そして摂津二郡を委ねてくれたのじゃ。信じてもらった身なのに、隠れて蓄財などすれば、それこそ上様は裏切られたと思って儂等は追放されるぞ!余計なことはせんで良い!」
秀吉がそう大声を上げた。続いて重秀も小一郎に語りかける。
「叔父上。前に申し上げた堀様(堀秀政のこと)の話を思い出してください。上様が但馬の国守と生野銀山の奉行を叔父上にお任せしたのは、今後の毛利との戦いにおいて、山陽、山陰の二方面より反撃してくるであろう両川(吉川元春と小早川隆景のこと)と連携して戦わんとするため。その上様のご期待に沿えられるのは叔父上しかおりませぬ。
・・・それに、但馬の金銀銅、そして鉛や錫は、これから先羽柴を支える重要な物となるのは同意いたしますが、それらが手に入るのは叔父上が但馬にいてからこそ。そのような産物を出す但馬を他者に引き渡せば、但馬の財が我等に全く入らなくなります。そうなれば本末転倒にございましょう。何卒、叔父上には但馬の国守として留まって頂きとう存じます」
重秀に続いて秀吉が更に話しかける。
「小一郎。お主が金山や銅山に力を入れたいというのは分かった。じゃが、だからといって生野銀山から離れることはできぬ。生野銀山の山師の力なくて他の金山銅山を掘るのは無理じゃ。それに、小一郎以外の者が但馬や生野に入ってみろ。すぐに上様に知られるぞ。金山や銅山を隠せるのは小一郎ぐらいなものじゃぞ」
秀吉がそう言うと、重秀がうんうんと頷いた。それを聞いた小一郎は両目を瞑り、両腕を組んでそのまま黙っていた。しばらくして、小一郎の口が開く。
「・・・今から前田様(前田利家のこと)に変わってもらえぬかなぁ・・・。藤十郎が前に言っていたように、あの方なら兄者との連携は取れるだろうし、守銭奴だから羽柴の儲けを少し流せば上様に黙ってもらえるんじゃないかな・・・?」
前田利家は若い頃に信長から追放処分を受けてだいぶ金に苦労した。そのため、羽柴の支援で初めた養蚕で得た利益を全て蓄財に回していた。そのせいか、今では倹約家を通り越して守銭奴という評判が織田家中で出回っていた。
そんなことをぼやく小一郎に対して、重秀は眉を顰めながら小一郎に言う。
「叔父上。前田の父上はこれから柴田様と共に加賀平定へと向かわれるお方。今更但馬を治めろと言っても無理でしょう」
「そうじゃのう。それに、又左のことじゃ。手柄も挙げてないのに一国を貰うということはしないじゃろう。むしろ、馬鹿にされたと思って断ってくると思うぞ」
重秀に続いて秀吉がそう言うと、小一郎は「う〜む」と言って唸った。秀吉が更に言う。
「小一郎。お主のことは儂が何とか支える。佐吉(石田三成のこと)や仁右衛門(増田長盛のこと)を遣わしてお主の但馬支配を手伝わせよう。だから、但馬から離れないでくれ」
「叔父上。私も摂津から政に詳しい者をお送りいたしましょう。弥兵衛の叔父上(浅野長吉のこと)は父上の与力故、父の命があれば但馬へ送れます。
・・・父上、何卒、叔父上のために弥兵衛の叔父上を但馬へ送ることをお許しくだされ」
重秀がそう言って秀吉に頭を下げると、小一郎が「待て待て」と止めた。
「二人の気持ちはありがたいが、政や算術に詳しい者達を儂が独占しては、播磨や摂津の支配に支障をきたす。気持ちだけ受け取っておく」
そう言うと小一郎は溜息をついた。そしてしばらく黙った後、再び口を開く。
「・・・致し方ない。もう少し但馬の国守と生野銀山の奉行を務めるとするか。久兵衛だけではなく、新介(小堀正次のこと)や六蔵(羽田正親のこと)はもちろん、最近は次郎(堀秀村のこと)や与八郎(水野利忠のこと)、与一郎(木下吉昌のこと)や与右衛門(藤堂高虎のこと)も政を手伝ってくれているからのう」
「与右衛門も政に駆り出しているのですか・・・?
重秀が心配そうにそう言うと、小一郎の顔はそれまでの疲れ切ったような表情から微笑んだ表情に変わった。
「与右衛門はいいぞ。安土城の縄張から普請を手伝わせて分かったが、あやつは儂が『やってみよ』と言われたことを真面目にやってくれる。それでいて自分の知識として身につけている。あのまま育てれば、一廉の大名になれる逸材じゃ。儂にはもったいない家臣じゃ」
小一郎がそう言うと、今度は秀吉が質問する。
「与一郎もお主を手伝っていると聞いたが、身体の方は大事ないのか?」
秀吉がそう尋ねると、小一郎は「ああ」と答えた。
「最近は大きな病にかかることはなくなっている。じゃが、相変わらず季節の変わり目には体調を崩すがのう」
「そうか・・・」
秀吉はそう言うと複雑そうな顔をした。与一郎昌吉が本当に小一郎の息子かどうかは疑問を持っている秀吉であったが、それでも小一郎が大事に思っている若者が病に弱いと聞かされたら、心配せずにはいられなかった。
小一郎がそんな秀吉を見て話しかける。
「兄者、どうかしたのか?ひょっとして、なにか心配事でもあるのか?」
「いや、無いから心配するな。しかし小一郎よ。お主の顔、いつの間にか憂いの取れた顔つきになっておるのう」
秀吉の指摘を受けた小一郎が、自分の顔を右手で触りながら答える。
「そうか?いや、なんというか、兄者に色々話したら、なんだか気分が軽くなったんじゃ。多分そのせいじゃろう」
「よくよく考えたら、儂と小一郎、そして藤十郎は互いの領地支配のために離れ離れだったからのう。こうやって家族で話し合うこともなかったんじゃ。他人に話しづらいこともあろうて」
「・・・儂の場合はそこの将監殿(木下昌利のこと)には愚痴っておったがのう・・・」
小一郎がそう言いながら昌利の方を見ると、昌利は黙って頭を下げた。それを見た秀吉が話しかける。
「いやぁ、将監には世話になっておる。今後も小一郎を頼みましたぞ」
秀吉の言葉に、昌利は「ははっ」と言って平伏した。それを見た秀吉が、何かを思いついたような声を上げる。
「そうじゃ。せっかく揃ったんじゃ。今宵はおっ母や姉ちゃん、あさを呼んで家族で夕飯を摂ろうぞ!久々に囲炉裏を囲んで、飯を一緒に食おうではないか!家臣に聞かせられない愚痴を皆で出し合って、その愚痴を肴に酒を飲もうぞ!たまには身内で愚痴をこぼそうではないか!」
陽気に言う秀吉に、その場にいた者達は一斉に頷くのであった。