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第195話 豊穣の国・播磨 (後編)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。


感想数が500を超えました。いつも感想を書いていただきありがとうございます。個別返信は控えさせていただいておりますが、しっかりと読んでおります。今後ともよろしくお願いいたします。

 大麦と小麦。共に日本に伝えられたのは弥生時代だと言われている。同じ時代に伝わったため、暫くの間は同一視されていたが、8世紀頃には大麦と小麦に分けられていた。

 大麦と小麦は実は粒の大きさ等に差異はない。では何故大麦と小麦には大小という漢字が使われているのか?

 小麦については諸説あるが、大麦については『価値の大きい麦』という意味が込められている、という説で一致している。日本においては、小麦より大麦が重視されていたのだ。


 米は籾から外皮(籾殻のこと)を剥がせば玄米となる。そして玄米でも十分食べることが可能である。また、胚乳部分が固く、内皮(糠のこと)が剥がれやすいため、少しの労力で白米にして食することが可能である。つまり、米は粒食が可能な作物なのである。

 一方、麦の場合は外皮が硬く、しかも胚乳部分に食い込んでいるため剥がすのが難しい。しかも、小麦は胚乳部分が柔らかいため、粒の状態のまま外皮を剥がすことが不可能であった。そのため、外皮ごと小麦を挽いてふるいで外皮を取り除いた粉を加工して食する方法が取り入れられることとなった。いわゆる小麦粉である。

 大麦もまた、外皮が硬く、剥がしにくい作物であった(剥がれやすい品種もある。いわゆる裸麦のこと)が、胚乳部分が硬いため、頑張れば粒のまま外皮を剥がすことは可能であった。しかも小麦と違い、吸水性があるため米のような炊いたり蒸したりするといった調理方法が使えた。

 日本では米が主食となり、米と同じような調理方法で食せる大麦が重宝される一方、一旦粉にしなければ食べられない小麦は敬遠されるようになった。こうして、日本では他国と違い、小麦を重視しない国となったのであった。そして二毛作が全国に広がると、大麦の生産量は多くなるものの、小麦の生産量は低いままであった。


 しかも、大麦と小麦では成長速度が大麦のほうが早い。稲刈りの後に大麦を栽培した場合、田植え前に収穫することが可能なのに対し、小麦の収穫時期は田植えの時期にバッティングしてしまうのだ。これでは米を重視する当時の日本人には受け入れることのできない問題であった。


「大麦は米と共に食せる一方、小麦は粉にしなければなりませぬ。また、米の裏作としては大麦のほうが都合が良いのでござる。したがって、播磨で作られる麦はほとんどが大麦で、小麦は大して作られていないのでござる」


 黒田孝隆の説明を重秀は興味深く聞いていた。両腕を組みながら重秀は言う。


「なるほど。大麦と小麦の違いが分かりました。そして、小麦はあまり作られないのも納得がいきました」


 ちなみに、小麦(ライ麦やエン麦を含む)を食する文化で麦粉を使った料理は、その手間と労力から贅沢品とされていた。従って、パンを食せるのは上流階級であり、庶民は外皮ごと砕いた麦の粥を食していた。とても不味いらしい。


「南蛮人は麦を粉にしたものを加工して食するようですが、ひょっとしたら麦は小麦のことなのでしょうか?」


 重秀の質問に孝隆が「さあ・・・?」と首を傾げた。さすがの知将黒田官兵衛も、南蛮の食べ物事情はよく知らなかったようだ。横で聞いていた秀吉が口を挟む。


「南蛮人との付き合いの深いお主が知らないのに、南蛮人と付き合いのない官兵衛が知るわけなかろう。それはお主が調べればよかろう」


 秀吉の言葉にハッとした重秀は、秀吉と孝隆に「その様に致します」と言って頭を下げた。秀吉が話題を変える。


「まあ、とりあえず今後は播磨中で二毛作を推奨し、多くの麦を作ってもらおう。しかし、小麦と大豆も多く作る必要があるのう」


「・・・小麦と大豆でございますか?なんでまた」


 重秀がそう質問をすると、秀吉は口の形をへの字にした後、不満げに答える。


「二毛作ができる土地にも限度がある。海沿いの平野はともかく、山間部は田が作りにくい。それでいて雨が少ないからのう。そういったところには米ではなく、小麦か大豆、そして蕎麦しか作れないじゃろう。・・・まあ、桑の木や油桐を植えるということも考えたが、せっかく小麦や大豆を使った産物があるんじゃ。それを増やしたほうが儲かるし、手っ取り早いじゃろう」


 そう言うと秀吉は、先程までの不満顔を止めて、ニヤニヤと笑い始めた。重秀が怪訝そうな顔で見つめていると、秀吉が前に置かれていたものから、徳利を一つ手に取った。


「藤十郎。播磨の産物の一つじゃ」


 そう言って秀吉は徳利を重秀に手渡した。手渡された時、重さが移動するのが感じられた。どうやら中身は液体らしい。重秀が徳利の蓋をとり、中の匂いを嗅いだ。どこかでかいだような匂いであるが、それが何かは思い出せなかった。

 重秀は徳利を傾け、掌の上に乗せてみた。中から液体が出てきた。色は薄い茶色であるが、透き通っており、掌の皺が見えた。


「・・・なんですか?これ?」


「舐めてみよ。言っておくが、毒ではない」


 そう言われた重秀は、恐る恐る舐めてみた。塩辛さを感じたが、それ以外にも味を感じた。そして、口の中に良い香りが広がった。


「これは一体・・・」


 重秀がそう呟くと、秀吉が答える。


「龍野で作られている醤油よ」


「醤油?ああ、たまりのことですか」


 重秀の言う「たまり」とはたまり醤油のことである。尾張、三河、美濃、伊勢では豆味噌づくりが盛んであり、その副産物としてたまりも生産されていた。この「たまり」を醤油と呼んだのが、ちょうど天正年間頃だと言われている。

 ちなみに、現代では豆味噌とたまり醤油は別々に作られている。


「たまりとはちと違うんじゃがのう。まあ、どう違うかは儂にも分からん。しかし、龍野と言われる場所ではこの醤油が作られ始めておる」


 播磨国揖西(いっさい)郡にある龍野と呼ばれる町がある。赤松政広が城主を務める鶏籠山城の城下町で、古くから酒造で盛んな町であった。

 しかし、龍野の酒は原料の水が軟水であるため、長期保存に適していない。そのため、遠距離にて売られにくい酒であった。そこで、酒の代わりに何か新しい産物を作ろう、ということで酒造職人が試行錯誤の上、酒ができる前の甘酒にもろみを加えて作ったのが醤油であった。


「たまりとは違うこの醤油。京や安土に売り出せば、良い商売になると儂は睨んでおるのよ」


「なるほど。新しもの好きな連中にはよろしいかもしれませんね」


「ただできたばかりの産物故、まだ数が足りぬ。また、安定した量を未だ作り出しておらぬのよ。さらに言えば、龍野殿(赤松政広のこと)の城下町。儂が口出しできぬのよ」


「・・・でしたら、姫路で作られては如何ですか?甘酒から作られるのでしょう?」


「それもそうじゃのう・・・。よし、龍野から杜氏を何人か召し抱えて醤油を姫路で作ってみるか。藤十郎、兵庫でも作るか?」


「・・・酒造は兵庫でもやっておりますが、大豆と小麦は作っていなかったような・・・。帰ったら調べて検討いたしまする」


「まあ、小麦と大豆は他国から買ってもよかろう。それよりも、播磨にはまだまだ産物が多いぞ。次はこれじゃ」


 そう言うと秀吉は、自分の前に置かれていた金物を手に取ると、重秀に手渡した。重秀が手に持った金物を見ると、それはのみであった。


「・・・この鑿がどうかされたのですか?」


「これは三木で作られた鑿よ。今や三木は鍛冶の町と化しておるのよ」


 元々、三木は古来より天目一箇神あめのまひとつのみことを祖神とする鍛冶職人の多い土地であった。そんな三木に、5世紀頃に百済から亡命してきた王子が連れてきた渡来系の鍛冶職人がやってきて技術交流が始まった。その後、三木は鍛冶の地として有名となった。

 そして、三木で作り出した大工道具を使う大工が美嚢郡吉川(よかわ)にて発生した。三木の大工道具を使うその大工達の技術は高く、奈良時代には多くの寺社を建てている。この時の大工の棟梁の姓が日原だったことから、後に『日原大工』として有名になる。

 三木の鍛冶職人と日原大工達は三木合戦時には逃散していた。そこで秀吉は三木城主の加藤光泰に命じて三木城城下町を年貢や夫役の免除を行うことで、三木城下町を再び復活させようとしていた。


「また年貢免除ですか?父上、長浜で永年の年貢免除をして苦労したではありませぬか」


 重秀が呆れたような顔をしながら言うと、秀吉は言い訳するような口調で話す。


「しかしのう。三木の殿様だった別所家に保護されていた鍛冶職人や大工を呼び戻すには、別所以上の事をせねばならん。まあ、永年とは申しておらんから、いづれ年貢を課すことになろうて」


 しかし、秀吉の考えとは異なり、三木城下町の年貢免除は19世紀後半まで続くのであった。無論、そこまで続くとは、秀吉や重秀が知る由もない。


「・・・父上。三木が鍛冶の町となったということは、刀鍛冶や鉄砲鍛冶もいるということでございますか?」


 重秀の質問に対し、秀吉は首を横に振る。


「いや、あそこには刀鍛冶や鉄砲鍛冶はいない。本来ならば、国友から刀鍛冶や鉄砲鍛冶を連れてきたかったのだがな・・・」


 それを聞いた重秀が呟く。


「国友からの職人を連れ出すのは、上様から禁じられておりましたから・・・」


 秀吉の国替えの際、国友は信長の直轄地となり、その管理は奉行たる堀秀政に託されていた。そして秀政を通じて国友の鉄砲鍛冶職人を播磨へ連れて行くことを禁じていた。

 秀吉や重秀に対しては甘い顔をする秀政であったが、さすがに国友の鉄砲鍛冶職人を播磨に連れて行くことは見逃してくれなかった。秀吉も秀政と仲が悪くなることを避け、国友から職人を引き抜くことを諦めたのだった。


 残念そうな声で呟いた重秀に対し、秀吉は何故か勝ち誇ったような笑みを顔に浮かべながら話しかける。


「そんな顔をするな、藤十郎。いづれ久太郎(堀秀政のこと)が、いや、忠三郎(蒲生賦秀のこと)や上様も、儂等に頭を下げる時が来る」


 秀吉がそう言うと、重秀だけでなく孝隆以外の者達が思わず「はっ?」と声を上げた。秀吉が目の前に置かれていた鉄の塊を持つと、それを重秀に渡した。

 重秀がそれまで持っていた徳利や鑿を脇に置き、秀吉から鉄の塊を受け取った。やや白く光って見える鉄の塊であった。


「・・・これは?」


「播磨は宍禾しさわ郡(のちの宍粟しそう郡)にある千種ちぐさと呼ばれる地域で作られた鋼よ。最近作ることに成功した鋼でのう。良い刀を作れるのじゃ。

 ・・・藤十郎、国友の鉄砲鍛冶職人から聞いたこと無いか?鉄砲に使う鉄で一番良い鉄は何処の鉄が相応しいか」


「確か、出雲と播磨の鉄が一番良いと・・・」


 そこまで言った重秀が気がつく。


「まさか、鉄砲の鉄の産地は、千種でしたか!?」


 千種を含む宍禾郡の製鉄の歴史は古い。『播磨国風土記』にはすでに記されているほどであるから、8世紀にはこの地にたたら製鉄の技法が伝わっていたことが分かっている。その後、脈々と作られた良質な鉄は、三木の大工道具や備前長船の刀の原料として重宝された。そして、鉄砲伝来で全国で鉄砲が作られるようになると、硬くて不純物の少ない出雲と播磨の鉄が鉄砲用の鉄として重宝されるようになった。

 そして、この頃千種では、後に『玉鋼』と呼ばれるようになる刀専用の鋼『千種鋼』が発明されていた。


「そういうことじゃ。儂等は鉄砲の、いや刀の元を握っておるのじゃ。国友も日野も堺も、そして備前長船も儂等に頭が上がらないということじゃ。儂等が鉄を売らなければ、皆干からびるだけじゃからのう」


 秀吉の言葉に重秀は衝撃を受けた。鉄の生産を握るだけで、鉄砲を始めとする武器の生産地の生殺与奪を握ることになるのだ。いや、三木の大工道具を考えれば、その影響力は計り知れない。

 後に名言となる「鉄は国家なり」という言葉の意味を、重秀はここで知ることになるのであった。


「・・・父上。お尋ねしたいことがございます」


 そう言うと、重秀は頭を垂れた。秀吉が訝しむ。


「如何致した?そんな改まって」


「播磨には、鋳物師いもじはおりましょうや」


「鋳物師・・・?」


 秀吉はそう呟くと、孝隆の方を見た。孝隆が首を横に振る。


「恐れながら若君。播磨には鋳物を生業とした者はおりませぬ。少なくとも、先程申した三木のように職人が集まっている地は無いものと存じまする」


 孝隆の言葉に、重秀が「そうですか・・・」と溜息混じりに言った。


「なんじゃ、鋳物師なんか欲しいのか?そりゃあ、鉄が作れるとなれば、鋳物師を集めて茶釜を作るのも悪くないが・・・」


 この時代、茶の湯の流行で茶釜の需要が高くなっていた。そのため、各地で茶釜が鋳物師達によって作られていた。特に、『東の天命、西の芦屋』とまで言われた下野国佐野郡天命の鋳物茶釜と筑前国遠賀(おんが)郡芦屋の芦屋釜は茶釜の代名詞となった。他にも京にも数多くの鋳物師がおり、京釜と呼ばれる茶釜を作っていた。


 秀吉は、重秀が兵庫か播磨で茶釜を作りたいから鋳物師が欲しかったのか、と思った。しかし、重秀は驚くようなことを告白した。


「いえ、私が欲しいのは石火矢(フランキ砲のこと)にございます」


「石火矢?確か、上様から貰った大きい鉄砲のことか?」


「はい。上様から貰った石火矢は銅でできておりました。また、貰った際に石火矢を扱っていた者に聞きましたところ、どうも鋳造でできたものらしいのです」


 鋳造とは、砂や金属でできた型に液状化した金属を流し込み、冷やして形状を定める加工法のことである。日本では弥生時代に伝わった加工法で、銅鏡や銅鐸、梵鐘など主に銅(ここで言う銅とは青銅のこと)を加工する際に用いられる加工技術である。

 無論鉄でも鋳造は可能であるが、銅や青銅よりも融点が高く技術的には難しいため、茶釜など比較的小さな鉄鋳物しか作れなかった。


「銅は錫と混ぜることで鋳造しやすいのは良いんですが、高価故手が出せませぬ。その点、鉄ならば安くて作りやすいかと思ったのですが・・・」


 重秀がそう言うと、後ろの方から「あの・・・」という声が聞こえた。振り返ると、石田三成がおずおずと話し始める。


「恐れながら・・・。鉄の鋳造ではなく、鍛造で石火矢を作ればよろしいのではございませぬか?すでに、国友では若殿様の指揮の下、大鉄砲が作られました。石火矢も同じように作ればよろしいのでは?」


 鍛造とは熱して柔らかくなった金属を叩いて加工する技術のことである。この当時、刀や槍、鉄砲などのおよそ鉄製品は鍛造で作られていた。


「佐吉よぉ。それで上手く行けば兄貴も苦労しないって」


 重秀の斜め後ろに座っていた福島正則が、身体を三成に向けながら落ち着いた様子で言う。


「羽柴が持つもっとも大きな大鉄砲は五十匁筒。こいつは弾が五十匁(約187.5g)の重さだが、その弾を撃ち出すための大鉄砲を作るのにだいぶ時がかかっている。一方で石火矢の弾は一貫(一千匁、約3.75kg)。それだけ大きい弾を撃ち出す大鉄砲を作るのにどれだけ時がかかるか。それに、鉄砲は熱した帯状の鉄の板を芯に巻いて筒状の鉄の棒を作り出す。大鉄砲はそうして作った鉄の棒に更に鉄の板を巻き付けて厚みを増していくんだ。熟練の腕を持った職人ですら五十匁の大鉄砲の作成には失敗することがあった。一貫の石火矢を作るのは手間がかかるぜ」


 正則の説明に、三成はただ黙って聞いていた。それは、正則の話を真剣に聞いているように見えた。重秀が更に話す。


「それに、石火矢は構造が複雑でな。前方は大鉄砲と同じ円筒状なのだが、後方は長四角の開口部がある。そこに弾と玉薬を詰めた筒を入れて楔で固定して弾を撃つようにできている。これを鍛造で作るとなると、手間がかかって仕方ない」


 そう聞いた三成が、「よく分かりました」と言って頷いた。


「若殿や市松がそう仰るのであれば、鍛造で作るのは難しいのでございましょう。私は石火矢などに詳しくは無い故、差出口を挟みました。どうぞお許しを」


 そう言って頭を下げる三成。そんな三成に、正則が思わず話しかける。


「お前・・・。どうかしたのか?」


「はあ?」


 正則の発言の意味が分からない、という顔で声を上げた三成。そんな三成に、正則が話を続ける。


「いや・・・。昔だったら俺を無視するか、『市松の何も考えていない言葉など聞きたくない!』と申していたではないか」


 そう言う正則を、三成は呆れたような顔つきで見つめると、溜息をつきながら言う。


「一体いつの話をしているのだ・・・。私も大殿様の傍にてまつりごとに加わる身だぞ。市松が理に合った事を申し、それが羽柴のためになるならば、それを受け入れるのが当然であろうが」


 そう言う三成の表情に、正則は内心驚いた。昔はあった人を小馬鹿にする表情が、この時にはまったくなかったのだ。加藤清正が見たら、驚きでひっくり返っていただろう。そう思っていると、三成が再び話し出す。


「それに、こう言っては何だが、市松があれだけ理を述べるとは思わなかったぞ。夜叉(加藤清正のこと)と一緒になっていつも頭に血が上っていたのに」


「俺よりも短気なのが二人いたからな」


 正則が重秀を見ながらそう言うと、三成は怪訝そうな顔をした。三成は重秀が正則より短気だということを覚えていなかったのだ。

 そんな話を正則と三成がしていると、孝隆がわざとらしく咳払いをした。


「二人共、懐かしがっているところ悪いが、大殿の話は終わっておらぬぞ」


 孝隆の言葉にハッとした正則と三成が秀吉の方を向くと、「申し訳ございませぬ!」と言って平伏した。秀吉は呆れたような表情で言う。


「まったく・・・。まあ、長浜の時のように顔を合わすたびに喧嘩しなくなったのは良いことぞ。では話を続けるぞ」


注釈

大麦と小麦の違いは含まれるタンパク質にある。小麦にはグルテニンとグリアジンと呼ばれるタンパク質がある。小麦粉に水を加えて捏ねると、グルテニンとグリアジンが結合してグルテンと呼ばれるタンパク質が生まれる。これがパンの粘り気やうどんのコシを生み出しているのである。

一方、大麦にはグリアジンの代わりにホルデインと呼ばれるタンパク質が含まれる。そのため、グルテンが生まれないので粘り気やコシが出てこない。その代わり吸水性に優れているという特徴があるため、米と同じ様に炊くことができる。

なお、日本人の約7割から8割の人がグルテン不耐症(過敏症)だと言われており、またグルテンが小麦アレルギーの原因の一つと言われている。

大麦の場合、グルテンは作られないのだが、タンパク質の分子構造がよく似ているため、小麦アレルギー反応が発生しないわけではない。分子構造が似ているためにアレルギー反応が起きることを『交差抗原性』という。

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― 新着の感想 ―
確かな二代目が居るもの。その側仕えしていれば仲は悪くならないですね
播磨ってマジで色々あるな。長浜を史実通りに失ったのは痛いが、これは良い買い者だな。 それより正則と三成が建設的かつ丁寧な会話出来てるのか感動。このまま武断、文治に別れず秀吉、重秀の元で一つに頑張れれ…
お も し ろ い !
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