第194話 豊穣の国・播磨 (前編)
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誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけいたしました。
前回の前書きにも書きましたが、12月と来年における投稿ペースについて、活動報告に記しております。ご一読のほど、よろしくお願いいたします。
追記 文章の内容を少し変えました。詳しいことは活動報告をご参照ください。
天正八年(1580年)六月中旬。梅雨は開け、すっかりと夏となったこの日。重秀は書院で加藤茂勝(のちの加藤嘉明)と話をしていた。
「いつぞやに、唐の国では鳥を使って文のやり取りをする、という話をしただろ?」
「・・・しましたっけ?」
「林ノ城へ向かう際に船の上でしただろう!?覚えていないのか!?」
重秀が驚きつつも発した問いかけに、茂勝が首を横に振った。重秀が溜息をつきながら茂勝に話す。
「・・・唐の国では昔、鳥を使って文のやり取りをしていた。その鳥について漢籍を調べたりしていたのだが、先日、相国寺の口蕣殿(のちの藤原惺窩)から文をもらってな。その鳥についての漢籍を見つけたそうだ」
「ああ、そう言えばそんな話をしたっすね。船と陸とでやり取りができるという話でしたっすよね」
「うん。で、その鳥なのだが、唐の国では鴿と呼ばれる鳥らしい」
「鴿?聞いたことない鳥っすね」
「日本では鳩とも呼んでいるな」
「鳩?鳩って、山奥にいる雉みたいなやつっすか?」
「いや、それではなく、寺や神社にいる鼠色のやつだ」
この時代、日本には数種類の鳩がいたが、その中でも代表的なのがキジバトとカワラバトである。
キジバトは日本を含む東アジアの山に住むハトの一種である。茂勝の言う「雉みたいな」模様を持ち(正確に言うと、「雉の雌みたいな」模様なのだが)、春から夏にかけて「デーデーポッポー」と表現される独特な鳴き声を発し、日本人の一部に田舎の情景を思い浮かばせる鳥である。
カワラバトは元々ヨーロッパ西部、北アフリカ、中央アジアに広く分布するハトの一種である。そのうち家禽化されたカワラバトが中国に伝わり、その後、奈良時代に入る前には朝鮮半島から人の手によって日本に伝えられたと言われている。
この時代、カワラバトは寺や神社に住み着いていた。何故カワラバトが寺や神社に住み着いているのかはよく分かっていない。一説では、鳩は八幡様の使いだということで、八幡宮、または八幡宮寺で飼われたのが最初だと言われている。
そんな訳で、当時はカワラバトのことをお堂に住み着く鳩という意味の『堂鳩』と呼ばれていた。ドバトの語源はここからである。
そして、このカワラバトは漢字で『鳩』だけでなく『鴿』とも表されていた。つまり、重秀の言っていた「寺や神社にいる鼠色の」ハトはカワラバトのことである。
「はー。つまり、あの寺や神社にいる、人を恐れないとぼけた面の鳥が、文を運ぶ鳥なんっすか?にわかには信じられませんね・・・」
「そのとぼけた面の鳥がどうやって文を運んでいるか、というのが問題だ」
「・・・それは漢籍に記されているんじゃないっすか?」
茂勝の言葉に、重秀が首を横に振る。
「いや、全く書かれていない。まあ、鳥が文を運んだら、戦の様相が変わるからな。恐らく秘匿しているのであろう」
いわゆる伝書鳩は古代ギリシャやローマを始め、古代中国でも使われたという記録は残っている。しかし、飼育方法や訓練方法が紙などの記録媒体には残っていない。たぶん口頭で伝えられていたのだろう。
「というわけで孫六。そなたに鳩を使った文のやり取りをやってもらいたい」
「・・・へぇ!?俺がですか!?無理っすよ!」
驚きの声を上げる茂勝に、重秀が話し出す。
「無理って言うな。唐の国の人ができて、日本人ができないという道理はないだろう。まずは鳩を手に入れる必要がある。兵庫、いや摂津二郡や播磨中の寺か神社で鳩を譲って貰い、それを飼うことから始めよ。鳩による文のやり取りができれば、船と陸地のやり取りが滞り無く上手くいくんだ。これは主君としての命である!」
重秀から命令だと言われた以上、茂勝は受けざるを得なかった。その場で平伏しながら「う、承りました!」と声を上げた。しかし、すぐに頭を上げると、重秀に尋ねる。
「しかし、若にしては珍しいっすね。自らやってみるのが若だったのに」
茂勝の質問に対し、重秀は後頭部を右手で掻きながら答える。
「いや、真の事を言えば俺が自ら調べたかったのだが・・・。城主としてこれ以上時を割くことはできないし、実は先程父上から姫路に来るよう、伝令が来てな。明日には姫路に向かわなければならないのだ。と、いうわけで鳩のことは任せたぞ」
それから三日後。重秀は福島正則の警護を受けて姫路城にやってきた。
工事の真っ只中、本丸の仮御殿の書院で待っていると、秀吉が石田三成と黒田孝隆、そして小姓である木下治兵衛(のちの三好秀次)を連れて書院に入ってきた。
「おう、藤十郎!よう来たのう!縁と藤は息災か!?」
「二人共健やかに過ごしております」
「おう、そうかそうか!姫と言えど儂の孫でお主の子じゃ!丈夫な子に育てよ!」
機嫌よく笑いながらそう言って上座に座る秀吉。その後ろには治兵衛が座り、孝隆が重秀の横、書院の右側に座り、そして三成は重秀や正則の更に後ろに座った。平伏していた重秀が顔を上げて秀吉に尋ねる。
「して、私を姫路に呼んだのは如何なる要件で?というより、美作から父上がいなくなって大事無いのですか?」
「美作については七郎兵衛殿(宇喜多忠家のこと)に委ねて戻ってきた。儂や羽柴勢が出るほどではなくなったからのう。援軍として龍野殿(赤松広秀のこと)と置塩殿(赤松則房)の手勢を置いてきたが、将右衛門(前野長康のこと)等摂津勢、そして鹿介(山中幸盛のこと)率いる尼子勢と姫路に戻ってきた」
「鹿介殿?え?尼子衆も美作へ行っていたのですか?」
「鹿介が言うには、美作のある村で尼子の残党八名が殺されたらしい。その報復がしたいと、無理やり参加してきおった」
「・・・そんなことで援軍に加わったのですか?」
「まあ、聞いた話では、その八名の中に尼子一門の者が混じっていたとか、尼子再興に必要であろう大量の銀を持っていたとか。そういったのもあって、此度の美作への援軍へ参加したらしいのう。しかし、儂がさっさと戻ってしまったが故、尼子の残党を討った村は探しきれなかったようじゃ。鹿介は大層悔しがっておったぞ」
秀吉の説明に、重秀はただ「はぁ・・・」と気の無い返事をした。そんな重秀に、秀吉は話を続ける。
「話がそれたが、今、宇喜多勢は美作を平定しようと大軍を持って医王山城(祝山城、岩尾山城とも)を包囲しておる。毛利も援軍を派遣しようとしているが、そう上手くいっておらぬ。儂が出張らなくても、七郎兵衛殿でも十分対応できると考えてのう。儂は一足先に播磨へと帰ってきたのじゃ」
「毛利の援軍が上手くいっていない?父上、それは何故でございまするか?」
重秀の質問に、秀吉はニヤニヤしながら答える。
「何、簡単なことよ。伯耆の国衆、南条右衛門尉(南条元続のこと)が我等に寝返ってのう。伯耆の東半分が織田方になったのじゃ。毛利は備前、美作のみならず、伯耆でも織田と接するようになったのじゃ。今頃国境の守りを練り直している最中じゃろう」
「南条が我等に寝返ったのでございますか?しかしながら、あそこは我等から離れておりますが・・・」
重秀が首を傾げながらそう言うと、秀吉は「心配いらん」と答えた。
「美作と伯耆の東側は接しておる。美作を宇喜多が完全に手に入れることができれば、南条と連携することは可能じゃ。そうなれば、因幡は孤立する。宇喜多と南条が毛利を塞いどるうちに、因幡の中務大輔(山名豊国のこと)を攻めて因幡を平定した方が良い、と官兵衛(黒田孝隆のこと)に言われたのじゃ」
「・・・ということは、これから因幡攻めでございますか?」
「そうなるのう」
秀吉の言葉に、重秀は思わず眉を顰めた。一国の平定となると、大軍を発する必要あるからだ。そして当然重秀も参加することになる。
別に参加するのは良いのだが、水軍の鍛錬に力を注ぎたいと考えていた重秀は、その鍛錬に参加できないことが気になっていた。
そんな重秀の想いを汲み取ったのか、秀吉が笑いながら重秀に言う。
「そんな顔をするな。因幡攻めは儂一人でやる。藤十郎も小一郎も、当分は領地を治めるのに尽力させるつもりじゃ」
「・・・よろしいのですか?」
「因幡の中務大輔は元々上様と誼を通じていたからのう。儂が兵を率いて因幡に攻め込めば、すぐに降伏するであろう。故に、兵は美作へ援軍に出した将右衛門等や播磨に残っている小六(蜂須賀正勝のこと)や作内(加藤光泰のこと)、それと官兵衛に出させる」
秀吉の言葉に、重秀は安堵の顔を浮かべながら「承知致しました」と言って平伏した。
「さて、ではお主を姫路に呼んだ訳を話すとするかのう。おい、佐吉」
秀吉がそう言うと、三成が「ははっ」と言って返した。秀吉が三成に言う。
「あれを持ってこさせよ。ついでに皆に茶を持って参れ」
「承りました」
そう言って三成が退席した。その直後、秀吉が重秀に言う。
「佐吉が戻ってくる間、お主に話しておくことが二つある。実は三日後、直島の高原久右衛門(高原次利のこと)と児島の高畠和泉守という水軍の頭目が来ることになっとる。その二人と会ってもらいたい」
直島は備前国と讃岐国の間にある瀬戸内海に浮かぶ島である。小豆島と塩飽諸島の間にある島でもある。もっとも、直島という島だけでなく、周囲には大小26の島がある。
児島は当時備前国の南側に浮かんでいた島で、直島の北にある。現代では長年行われていた干拓工事と、高瀬川、旭川、吉井川から流れてきた土砂によって児島の西半分と本州が地続きとなっており、児島半島となっている。
「直島と児島ですか?あそこに水軍がいたのですか?」
「うむ。高原は直島城を拠点として直島と男木島、女木島の三つの島を領地とする国衆でな。一方の高畠は小串城を拠点として児島の東側を領地とする国衆じゃ。両方共そこそこの水軍を持つ故、お主の与力にしようと思う」
「・・・ということは、高原も高畠も羽柴に臣従するということでございまするか?」
「うむ。人質も差し出すと言ってきおった。これで直島と児島の東半分、そしてその周囲は羽柴方となった。とりあえず備前の海は我等のものじゃ。これで宇喜多を海から支えることができるようになったし、毛利の水軍を備前より東に進ませることを防ぐことができる。まあ、淡路に毛利水軍がまだ残っておるが、こいつらはいづれ立ち枯れになるじゃろう」
「そうなれば瀬戸内の東半分が織田の海となりますね。分かりました。お二方とお会い致しましょう」
重秀がそう言うと、秀吉は微笑みながら頷いた。しかし、次の瞬間には微笑みを止めて、今度は困ったような顔つきになった。重秀が不思議に思っている中、秀吉が話し始める。
「もう一つじゃが・・・。実は小一郎が但馬の国守を辞めたいと言ってきおった」
「えっ!?せっかく手に入れたのにでございますか!?」
「うむ。儂もあやつからの文にそう記されていて驚いてしまってのう。とりあえず話を聞こうと思い、姫路に呼びつけたのじゃ。明日には姫路に来るようじゃから、お主も小一郎の話を聞いてくれ」
秀吉からの頼みに対し、重秀は「承りました」と言った。直後、書院の外から足音が複数聞こえてきた。
「・・・どうやら、佐吉が来たみたいだのう」
そう言って視線を重秀の向こう側へと向ける秀吉。その秀吉の視線に合わせるように、重秀が上半身を後方に捻って後ろを見ると、三成を先頭に複数人の男達が手に色々持ちながら書院へと入ってきたのだった。
秀吉の前に並べられた品を見ながら、重秀は唖然としていた。それらは様々な品であった。布であったり袋であったり俵であったりただの鉄の棒であったり。他にも金物が数点置かれていたが、とりあえず統一感のないものであった。
「・・・父上。これは一体?」
「これらは我等の力よ、藤十郎」
重秀の質問にそう答える秀吉。重秀があまり理解できていないような顔をしていたので、秀吉は三成に説明するように命じる。
「佐吉」
「御意」
三成がそう返事をすると、重秀に説明をし始める。
「若君。播磨の石高は検地を行った結果、石以下の端数を省いて三十二万四千二百七十一石でございます」
「・・・およそ三十五万石と聞いていたが?」
「佐用郡と赤穂郡を省いた石高となっております」
重秀の疑問に対して三成が無表情でそう答えた。重秀が「愛想が悪いなぁ」と心の中で呟く中、三成が話を進める。
「正直申し上げて、播磨は米づくりに則した土地ではございませぬ。雨は少なく、土も水を通しやすく、平地が不足しております。田を作るのに不向きな土地にございます」
播磨国の北部はやや少雨傾向の内陸気候であり、南部は年中温暖で降水量が少ない瀬戸内気候である。山に雪が降り、その解けた水が川となって海に注ぐが、平地の部分が少ないため、急流が多く、そのため川の水を稲作に利用することが難しかった。
そのため、古来より播磨の平地では大規模なため池を作って雨水や川の水を貯めて稲作に利用していた。
「・・・米の収穫が少ないのは問題だな」
重秀がそう言って両腕を組んだ。すると、それまで黙っていた孝隆が「そうでもないのです」と口を開いた。
「水はけが良い土地で温暖な土地。確かに田にするには不都合でございまするが、畑にするとなると、これほど都合の良い土地はないのです」
「畑・・・ですか?」
孝隆の話に重秀がそう反応すると、孝隆が話を続ける。
「この播磨では古来より二毛作が行われております」
二毛作とは同じ耕地で1年の間に2種類の異なる作物を栽培することを言う。播磨では春から秋にかけて米を、秋から春にかけて麦を栽培していた。
「播磨では雨が少なく水が不足しがちであることから、田は乾きやすく、すぐに麦を植えることが可能でございました。また、ため池など灌漑設備が充実していたことも、すぐに田に変えることが可能となり、麦を刈った後はすぐに田にすることができます」
「それに、播磨は古くから牛の飼育が盛んなところ。厩肥も手に入りやすいから、田畑への肥やりを多くできる。それ故田畑が痩せることを防ぐことができたのじゃ」
孝隆に続いて秀吉がそう言うと、重秀は「うーむ」と唸ってから三成に尋ねる。
「・・・ということは、米だけの石高は三十二万石だが、麦を合わせると・・・?」
「麦の場合、同じ田畑の広さならば、麦の収穫量は米の七割程度と言われておりまする。ならば、播磨全土で二毛作が行われていると仮定して、およそ二十二万六千九百八十九石が収穫できる計算となりまする」
「合わせて五十五万千二百六十石か・・・」
三成の回答を聞いた重秀がそう呟くと、秀吉が口を挟む。
「実際は二毛作をやっていないところもあるからもう少し減るがのう。それに、麦は年貢にしないことになっておる」
秀吉の言う通り、この時代は二毛作で採れた麦は年貢免除とされていた。これは、鎌倉幕府が全国に麦の年貢徴収を禁じて以来の慣習となっていた。
「なるほど。しかし、それだけの莫大な麦をただ麦飯としているわけではないのでしょう?」
重秀の言葉に、秀吉と孝隆が笑い出した。重秀の質問の真意を見抜いたからだ。
「藤十郎。流石じゃのう。麦は主に饂飩と素麺が作られておる。これらを他国に売れば、良い銭となる。京を始め、堺や安土など十年近く戦から遠ざかっている場所では人々は余裕ができているからのう。食べ物に余裕ができ始めておる。安土や京など、人が多くいるところに美味いものを送り込めば、それだけ銭になるというものよ。しかも、饂飩と素麺は高く売れるからのう」
当時、小麦の製粉に必要な挽臼は普及し始めたばかりであった。茶の湯で抹茶が使われるため、その抹茶を作るためである。しかし、挽臼は数が少ないため、百姓は杵と臼を使っての製粉しかできなかった。これでは労力がかかってしまい、結果小麦粉は高価な物となってしまった。無論、小麦粉を加工する饂飩や素麺も高級品となる。
「それでしたら播磨の麦を饂飩と素麺にして売り出せば、播磨の民も我等も富ますことが可能になりますね」
重秀がそう言うと、孝隆が残念そうな顔をしながら口を出してくる。
「恐れながら若君。麦飯の麦と饂飩や素麺の麦は違う麦です」
「・・・そうなの!?」
重秀が驚きの声を上げると、孝隆も「えっ!?」と声を上げた。
「ご存じなかったのですか!?若君ならば、当然知っているものと思っておりましたが・・・」
そんな事を言う孝隆に、秀吉が「そう申すな」と嗜める。
「お主等藤十郎が物知りだからといって、全てを知っているわけではないぞ?それに、藤十郎の育ったところでは、大麦は作っておったが、小麦は作っておらなんだったからのう」
「大麦?小麦?」
重秀がそう言って首を傾げた。重秀だけではない。正則や三成、そして治兵衛すらも首を傾げていた。秀吉が溜息をつく。
「そうか・・・。お主等大麦と小麦も知らぬか。では官兵衛。こやつ等に教えてやれ」
「承知いたしましたが・・・。大殿はご存知なのですか?」
孝隆の言葉に、秀吉は舌をペロッと出しながら、おどけたような声で話す。
「いや、実はよう知らぬ。名前は知っておったが、区別の仕方などよく分からぬでのう」
秀吉がそう言うと、孝隆が「しからば、ご説明申し上げる」と言って説明をし始めるのであった。