第193話 忙しい日々
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追記
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天正八年(1580年)五月下旬。未だ梅雨が明けぬ中、兵庫城では早朝より多くの兵馬が詰めていた。前野長康、堀尾吉晴、中村一氏が美作へ援軍に向かう秀吉に加わるべく、手勢を率いて兵庫城に集結していた。
本丸御殿の狭い庭には、小具足姿に陣羽織を羽織った状態の長康、吉晴、一氏が並んで床几に座っていた。
その目の前には重秀が同じく小具足姿に陣羽織を羽織った状態で床几の上に座っており、下段の間の左右にも床几に座った小具足姿の者達が数人が座っていた。
重秀と左右の者達は別に出陣しないのだが、これから行われる三献の儀は出陣式であり、TPOに合わせた装いをしていた。
「将右衛門(前野長康のこと)、茂助(堀尾吉晴のこと)、孫平次(中村一氏のこと)。皆で力を合わせ、父を助け、宇喜多をお救いせよ。そして毛利を討ち果たせ!」
重秀の凛とした声に、長康達は「ははっ!」と勇ましい声で返事をした。
その後、三献の儀が終わり、酒を酌み交わした土器を地面に叩きつけて出陣式は終了。長康達は兵を率いて西国街道を進み、姫路へと向かった。
「・・・将右衛門殿の手勢は我等摂津勢の中では有力な兵力でございました。それらを美作に派遣するのは、いささか大盤振る舞いが過ぎるのではございませぬか?」
出陣していく長康等の軍勢を見送りながら、山内一豊が重秀に話しかけた。
「しかし、父上のご指名だからな。それに、伊右衛門の手勢がまだ残っているではないか。現状ではそれで十分だろう」
長康等美作へ出兵した者達は秀吉の家臣である。命令権は秀吉にあって重秀にはない。長康達をどう動かそうが、それは秀吉の考え次第であった。
そして、重秀が動かせる軍勢の中で、最大規模の陸上兵力を持っているのが一豊が率いる山内勢であった。
天正二年(1574年)に千代が大松の乳母となり、ついでに一豊が傅役となって以降、一豊は常に重秀と共に戦場に出ては武功を挙げていた。そして武功を挙げるたびに知行の加増を受け、それと同時に離散した山内家の一族(ただし、弟の山内康豊は織田信忠に仕えている)や家臣達を呼び戻していた。
後世では重秀の乳母であった千代の伝手で出世したように思われる一豊であったが、決してそんな訳はなく、山内家の功名は常に戦場で血と汗を流してきた一豊によって築き上げられたものであった。
結果、一豊の現在の知行は三千石となり、しかも花隈城をも与えられるという厚遇を受けていた。その結果、重秀直属の家臣の中では最大の石高を持つ武将となっていた。
また、重秀の軍勢の中では唯一の陸上戦闘に特化した軍勢であり、また最大勢力でもあった。つまり、山内勢は重秀陸軍の主力部隊でもあったのだ。
もっとも、花隈城は廃城とされ、資材は全て兵庫城築城に使われていた。そのため、一豊は花隈城を再建せず、近くに陣屋を建ててそこを拠点としていた。
「まあ、摂津二郡は父上と紀伊守様(池田恒興のこと)に挟まれた地。毛利も村上も手を出しづらいところにある。伊右衛門の軍勢がいれば十分であろう。というわけで、伊右衛門には期待しているぞ」
重秀がそう言うと、一豊は「お任せくだされ、若殿」と頭を下げるのであった。
その日の午後。別所友之は重秀から本丸御殿の庭にある草庵茶室に招かれていた。
「・・・茶室というのはこんなに小さいものなのか?」
茶室を見た友之が思わず呟いた。彼が見た草庵は確かに小さいものであった。ぶっちゃけ、村の百姓の住む家よりも小さかった。ただ、土壁は丁寧に塗られ、茅葺屋根は丁寧に刈り揃えられており、きちんと手入れされた草庵であることは見て取れた。
友之は飛び石伝いに進むと、躙口の前で止まった。その入口の小ささに、思わず戸惑ったのだ。
「こ、ここから入るのか?これでは刀を差したまま入れぬぞ・・・?」
友之が思わずそう口に出した。直後、義理の叔父である淡河定範から「刀は入口の側に掛ける場所がある」と教わったことを思い出し、あたりを見渡した。
すると、躙口の脇に木の枝を組み合わせたような棚があった。
「こ、こんなところに刀を・・・」
眉を顰めながら呟く友之。散々悩んだ挙げ句、渋々自らの刀を刀掛けに置いた。
その後、躙口を戸を開け、友之が入っていった。入った瞬間、友之は思わず「狭っ!?」と声を上げてしまった。
確かに茶室は狭かった。たった二畳の畳敷きの部屋だったからだ。しかし、その割には圧迫感がなかった。障子を通して茶室に入る光が茶室の中をほのかに明るくしており、物理的な狭さから来る圧迫感を和らげていた。
躙口から頭を突っ込んで戸惑う友之。そんな友之に、風炉の前に座っていた重秀が「どうぞこちらへ」と言って床の間の前の畳を手で差した。どうやらそこに座れということらしい。戦場では勇猛な友之が、恐る恐る床の間の前にやってきて胡座で座った。座ったところで重秀が挨拶をする。
「ようこそお越しくださいました。茶事は初めてと聞きましたが、あまり緊張なさらず、茶事をお楽しみください」
丁寧な物言いに困惑しつつ、友之は頭を下げた。
重秀の茶事は、特に奇をてらうようなこと無く進んだ。重秀が友之に濃茶を出し、友之が濃茶を飲み干すと、重秀が口を開く。
「この後は薄茶でございますが・・・。その薄茶を飲みながら彦進殿とお話がしとうございます」
「・・・それは構いませぬが・・・。一つお尋ねしたい」
友之が備前焼の茶碗を畳の上に置きながら重秀に尋ねる。
「何故、それがし如きにそのように謙る?それがしは若殿の臣ぞ?」
「茶の湯において、君臣の差は意味がない。いや、およそ全ての人の差や別は意味がない。ただ、目の前にいる人のみを饗す。それ以外は無用・・・だと考えている」
重秀の言葉に対し、友之は何も答えなかった。重秀が話を続ける。
「それに、これから彦進から聞く話に、やれ羽柴だやれ別所だという雑念を入れたくないのだ」
「・・・どういう意味でござるか?」
そう言えば、「話が聞きたいから茶事に招きたい」と言っていたな、と思いつつ友之は重秀に尋ねた。重秀は言う。
「播磨の武将達を茶事に招いていることは知っているな?」
「はっ。すでに我が義叔父上(淡河定範のこと)を始め、梶原殿や三浦殿を招いていることは」
「彼等からは彼等が参加した戦のことを聞いている。・・・その中には羽柴や織田と戦ったことも含まれている。そして・・・」
重秀がそこで一旦話を止めた。そして友之の目を見つめた。真剣な眼差しで友之に言う。
「羽柴や織田に勝った戦の話をしてもらっている」
「それは・・・」
友之が思わずそう言うと、そのまま黙ってしまった。播磨の武将が羽柴や織田に勝った話をする、ということは、羽柴と織田の負け戦の話を重秀は聞くということだ。つまり、重秀は茶の湯で自分達の負け戦を聞いているということだ。
「羽柴の負け戦を聞く際に、羽柴の嫡男という身は邪魔なんだ。それ故、その身を脱ぎ捨てられるのが茶の湯だということだ」
「・・・何故負け戦を聞かれるので?」
興味本位で聞く友之に、重秀は真面目な顔で答える。
「元々、手柄話を話させることが目的だった。彦進や荒右衛門(三浦高知のこと)が手柄話を酒宴で話した際、絶対に羽柴や織田と戦った話をすると。当然、それは羽柴や織田が負けた話になるから、市(福島正則のこと)や虎(加藤清正のこと)はもちろん、孫六(加藤茂勝のこと)や紀之介(大谷吉隆のこと)も反発するだろう。それでは家臣の諍いが起きてしまう。主君としてそれは避けたいからな」
薄茶を点てながらそう言う重秀に対し、友之は「なるほど・・・」と納得したかのように頷いた。重秀が更に話す。
「そうした話をまずは弾正(淡河定範のこと)から聞いたんだが、さすがは『東播の河内判官(楠木正成のこと)』と呼ばれた知将。敵側から見た羽柴勢の動きを話してくれた。そして羽柴勢の拙かったところを教えてくれた」
そう言いながら薄茶を友之に差し出す重秀。友之が差し出された薄茶を飲んでいる間も重秀は話を続ける。
「弾正の話を聞くうちに、我が方の改めるべきところが見えてきた。そして思った。これは囲碁将棋で投了した後、互いの指手を評するのに似ていると。評する事で何が良くて何が悪いかが分かるようになる。それを羽柴の軍勢に当てはめる事ができるのではないか、と思ったのだ」
重秀の話を聞いた友之は黙っていた。両手で茶碗を持ちつつ、何かを考えているようだった。そんな状態が続くことしばし。友之は茶碗を畳の上に置きつつ口を開く。
「・・・若殿のお考えはよく分かりました。しかしながら、それがしは武辺者故、義叔父上のように兵法に則したお話はできませぬ。また、古来より『敗軍の将兵を語らず』と申します。ならばその故事に従い、お話を控えとうございます」
友之は昔習って覚えていた数少ない故事を引っ張り出して、話すことを拒否しようとした。自分の手柄話を今更話したところでどうなるんだ、と思ったのだ。しかし、友之のにわか知識での抵抗は、重秀の豊富な知識によって粉砕される。
「漢の高祖(劉邦のこと)に仕えし名将、韓信に対して広武君(李牧の孫、李左車のこと)が言った言葉か。しかし、その言葉を発した広武君に対し、韓信は『百里奚は虞に在りて虞は滅び、秦に在りて秦は覇たり』と言って広武君にひたすら策を尋ねた。広武君は『智者は千慮に一失あり、愚者にも千慮の一得あり』と言って自らの策を述べた。その策を取り入れた韓信は敵である燕王を屈服させた。・・・つまり、広武君は最後には兵を語ってるんだよなぁ」
『史記』の『淮陰侯伝』にある逸話を話して友之を唖然とさせた重秀は、更に話しかける。
「彦進の手柄話を聞けば、彦進の力を知ることができる。それは、次の戦でどのような場面で彦進を活用できるかの手がかりになる。それに、その手柄話の中に次の戦に勝利するための手がかりがあるやもしれない。私が聞いて損するところはない」
そう言って微笑む重秀を見て、友之は寒気がした。家臣の能力を知りたいというのは当然である。そのために武功話を聞きたいというのも分かる。また、自軍の欠点や弱点を知りたいというのも分かる。それを元敵将に尋ねたい、というのはどうかと思うが、それでも筋は通っていると思う。しかし、それを目の前にいる自分よりも二歳年下の若者が、理論整然と言ってきたことに、友之はなんとも言えない恐ろしさを感じた。
―――若殿は未だ二十歳になっていない。俺が同い歳だった頃はこんなんだったか?まあ、無学だった俺はともかく、嫡男として勉学に励まれていた兄上ですら、ここまでではなかったはず―――
そう思った友之は、ふと我に返った。目の前の畳の上を見ると、そこには先程まであった空の茶碗ではなく、薄茶が入った別の茶碗が置かれていた。友之が思わず重秀の方を見ると、重秀は微笑みながら丁寧な物言いで言う。
「先程の茶とは別の薄茶を用意いたしました。そんな深刻な顔をすれば、喉が渇きましょう。話すか話さないかは分かりませぬが、まずは喉を潤してくだされ」
友之は新しい薄茶で喉を潤すと、自らの手柄話を話し始めるのであった。
夕刻。丁度暮六つとなった頃。友之との茶事を終わらせた重秀が本丸御殿の『奥』に戻ってきた。数人の侍女等の出迎えを受けた重秀は、その場で侍女の一人から「お風呂の用意ができております」と言ってきた。
「お風呂?ああ、そう言えばもうそんな日か・・・」
当時は湯を沸かすのが大変であったので、重秀クラスの城主でも毎日入れるわけではなかった。一応、武芸で汗をかいたりした時は、井戸水で行水したり、濡れた手ぬぐいで身体を拭いたりはしていた。しかし、風呂でゆっくり汗を流したり身体を洗ったりするのは4〜5日おきにやっていた。そして今日は風呂の日であった。
さて、兵庫城には2つの風呂があった。本丸御殿の『表』と『奥』に1つづつである。『表』にある風呂は、重秀も入るが主に城を訪れた客人向けの風呂であった。当時は客人を風呂に入れることが最上級の饗しであった。
そして『奥』の風呂は、無論重秀も入るが主に『奥』の女性達が入る風呂であった。
「すでにお風呂は湧いておりますれば、どうぞお入りください」
侍女に言われた重秀は、「分かった」と言うと風呂へと向かった。
当時の風呂は『湯殿』と『揚場』の二部屋で構成されていた。揚場とは今でいう脱衣所である。もっとも、当時は風呂に入る際は湯着と呼ばれる着物を着るため、脱衣所とは言わなかった。
揚場で湯着を着た重秀は、湯殿へと入っていった。当時の風呂は昔からの蒸し風呂か、最近流行りの湯船にお湯を入れてその中に入る湯浴風呂のどちらかであった。兵庫城では『表』では蒸し風呂タイプ、『奥』は最新の湯浴風呂タイプであった。
湯浴風呂は大量のお湯を用意しなければならないという欠点があるが、湯気を大量発生させなくて良いことから、中に灯明や蝋燭を持ち込めることができた。そのため、真っ暗な中で風呂に入る必要がないという長所があった。
もっとも、貴重な灯明や蝋燭を大量には持ち込めないため、少ない明かりで風呂に入らなくてはならなかったが。
さて、重秀が湯殿に入ると、まずは湯船に入らず、その隣においてある水桶の傍に座った。そして水桶の中にあるぬるま湯を手桶に汲んで、そのまま自らの身体にかけた。こうして汗を流すのである。
―――湯気だけ浴びる風呂なら湯着は必要だが、湯浴みの時は湯着いらないんじゃないかな・・・?―――
そう思いながら湯で身体を流していると、外から女性の声が聞こえてきた。
「若殿様。照にございます」
「入れ」
重秀がそう言うと、湯着を羽織った照が入ってきた。薄暗くてよく見えなかったが、手には桶を持っていた。
「さぁ、お身体を洗いましょう」
重秀の傍に近づいた照は、両膝を木の床につけて座ると、桶を重秀の目の前に置いた。桶の中には何やらゲル状の液体が入っていた。
「・・・なにこれ?」
「これは布海苔を煮溶かして作った物でございまする」
照の答えに対し、重秀は「糊じゃないか・・・」と呆れたような声を出した。
布海苔とは海藻の一種である。とは言え、布海苔という海藻があるわけでなく、フノリ属に属する海藻の総称である。
さて、この布海苔、およそ日本の沿岸でならどこでも採れる普通の海藻であるが、煮溶かすとネバネバした液体を出す。この液体は昔から糊として使われてきた。特に、漆喰を作る際に消石灰とスサと呼ばれる麻や藁や紙のつなぎとして布海苔糊が使われてきた。
また、その粘着性から、髪や身体の汚れを落とすボディソープやシャンプーの様に使われていた。さらに整髪料として使われていた。無論、糊なのでそのまま使えば短時間で乾いて大変な事になるので、水やお湯で薄めて使われた。
照は水桶のぬるま湯を布海苔糊の入った桶に入れた後、両腕で糸を巻くようにして桶の中身を混ぜた。こうすることで布海苔糊を身体を洗うのにちょうど良い粘り気にしてくのだ。
「では、身体に塗りますね」
照がそう言って重秀から湯着を脱がすと、布海苔糊を両手で掬っては重秀の身体に塗りまくった。
「次に、布で糊を拭きますね」
そう言って照は自らの身体を重秀に押し付けた。本来は手ぬぐいで拭うのだが、照は着ている湯着を脱がずに、身体を使って重秀に塗られた布海苔糊を拭っていた。
「おい、照・・・」
「母上から聞きました。御方様(縁のこと)がご懐妊中、私や日野殿(とらのこと)と目合なかったのは、御方様にご遠慮なさってのことと。しかしながら、若殿様には子を成す役目がございます。
・・・しかし、御方様も無事ご出産されました。もう、ご遠慮なされることはないのですよ?」
照の甘い囁きと、薄い湯着を介して伝わる照の柔らかさと体温に、重秀のそれまでの我慢は崩壊しつつあった。照が更に甘い声で囁く。
「・・・御方様の許しは得ております。すでに寝所では準備もできております。今宵は照を可愛がってくださいまし」
「いや、いい」
重秀が否定の言葉を発すると、照の顔が一瞬だけ失望の表情を露わにした。しかし、重秀が更に答える。
「ここでヤる」
えっ?という声を上げる間もなく照は重秀に押し倒されると、布海苔糊でベトベトになった湯着を剥ぎ取られてしまった。そして、ヌルヌルとなった照の豊満な身体に、重秀は覆いかぶさるのであった。
注釈
衆道で行われる肛門性交では、潤滑剤として『ネリ』と呼ばれるトロロアオイから抽出された粘液が使われていた。しかし、他にも潤滑剤はあったらしく、フノリから抽出された粘液も主に関西方面では使われていた。もっとも、糊として使われるフノリの粘液をそのまま使うのは難しいため、水や湯、鶏卵の卵白で薄めていたようである。
他にも卵白や葛粉を水で溶かしたものが潤滑剤として使用されている。