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第192話 水軍増強

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誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。


 天正八年(1580年)五月中旬。兵庫津では、新たな軍船が進水していた。


「はぁ〜。これが我らの船でございまするか〜」


 湊で間の抜けたような声を出しているのは、淡河定範の家老である丹生俊昭であった。家老と言っても歳は若く、20代前半である。そんな彼が家老になったのは、淡河城の戦いで父が戦死し、そのまま丹生家の家督を継いだからであった。

 もっとも、丹生家の領地であった摂津の丹生山周辺は秀吉の侵攻でとっくに奪われており、また淡河家も淡河城周辺の知行を召し上げられ、摂津八部郡に転移させられていた。そのため、俊昭は定範から扶持米を貰う知行無しとなっていた。


「うむ、『吹雪型』一番船、『吹雪丸』だ。彦進殿の船は二番船の『深雪みゆき丸』と言うらしい」


 俊昭の隣りにいた定範がそう言うと、俊昭は「はぁ〜」と気の抜けた返事をした。


「確か、『村雨型』は雨の名がついておりましたし、『松風型』は風の名がついておりました。此度の関船は雪の名前なんでしょうか〜?」


 間延びした言い方の俊昭に対し、定範が特に咎めずに話す。


「らしいな。もう二隻が再来月にはできる予定だが、それにも雪の名をつけると若殿が言っておられた」


「なるほどぉ〜。しかし、この『吹雪丸』、姿形は見慣れた関船でございますなぁ〜」


 関船『吹雪型』はそれまでの関船、というか大型フスタ船(正確にはガレオス船)であった『村雨型』と違い、純正な関船であった。もちろん、今までの造船技術を駆使し、船体はフスタ船と同じく竜骨キールに肋材を組み合わせた物を採用し、船の横滑りを防ぐために船首は幅広の一本水押が取り付けられ、船尾には幅広い舵が取り付けられていた。また、船首には敵船に乗り移るための渡し橋を兼ねた船首衝角がつけられていた。

 さらに、帆柱が船の前方部分と中央部分に2本立っており、それぞれの帆柱には唐船に見られるジャンク帆が備わっていた。

 しかし、その他の部分については『村雨型』と違って2層の総矢倉を船の上に乗せ、(かい)(オールのこと)ではなくを両舷合わせて60挺備えていた。外見上の見た目はどう見てもどこにでもある関船であった。もっとも、瀬戸内で平均的な関船の艪の数は40挺から50挺。羽柴のはそれより大きい関船であった。


「しかしまあ、何故船を白と黒の虎模様にされたのでしょうなぁ〜?」


 俊昭が言ったとおり、『吹雪型』一番船『吹雪丸』と二番船の『深雪丸』はそれまでの羽柴の軍船の象徴であった黒色と木の色の虎柄を廃止し、総矢倉の部分は黒色と白色の縞模様となっていた。虎模様ならぬホワイトタイガー模様となったのである。

 しかも、実は『村雨型』も小早の『松風型』、そして他の水軍から接収して組み込んだ船全てがこの頃には白黒の縞模様になっていた。俊昭も定範も知らなかったが、これには理由があった。


 南蛮船造りの羽柴の軍船は、巨木を使わなくて済むという利点と同時に、使用する木材が薄くなるという欠点があった。そこで防御力を増やすべく、関船には薄い鉄板を貼って防御力を高めようとした。当初は墨を油に混ぜて塗った黒い鉄板と、黄色い染料を油に混ぜて塗った黄色い鉄板で虎模様を出そうとしていた。しかし、黒色を出すための墨は簡単に手に入るのに対し、黄色を出すための染料が中々手に入らなかった。


 当時、織物や障壁画に使われた黄色の染料は、黄土きづち石黄せきおうといった鉱物系、刈安かりやす鬱金うこん黄蘗きはだ梔子くちなし藤黄とうおうなどの植物系が多く使われていた。

 しかし、植物系は木の皮や草の葉、果実の皮を乾燥させた後に糸や布を一緒に煮て染めるという方法が使われており、同じ方法で鉄を染めることは不可能であった。また、黄土は黄土色という名前から分かるように、黄色というより茶色っぽい色であった。石黄は硫化鉱物の一種であるが、日本では採れず中国から輸入しなければならなかった。つまり、簡単に黄色い鉄板を作り出すことができなかったのである。

 このため、羽柴水軍は一時は黒一色の船となる予定であった。


 しかし、この事に異を唱えたのが重秀である。


「せっかく虎船のお陰で堺の人々に私が数奇者と褒めそやされたのに、黒一色では堺の人々に対して面目が立たないではないか。それに、九鬼水軍が黒い大安宅船を作っている以上、それの真似では人々に馬鹿にされる」


 重秀はそう言って色々考えた。結果、あることを思いつく。


「そうだ!黄色を止めて白色にしよう!白なら簡単に、安く手に入れることが可能だ!」


 白の染料については、俗に胡粉ごふんと呼ばれる染料がある。ハマグリやイタボガキなどの貝殻を粉末状にしたもので、絵の具としてよく使われるものである。また、白粉として使われる鉛白えんぱくも使われてきた。

 そして鉛白も胡粉も手に入りやすく、特に胡粉は海に近い兵庫ならすぐに手に入る染料であった。

 そこで『吹雪型』と『村雨型』では白色の鉄板と黒色の鉄板を交互に張り合わせ、船の総矢倉を白黒の縞模様とした。ちなみに、『松風丸』には船体に鉄板を貼っていないため、木の船体に直接黒と白の縞模様が塗られていた。


 こうして羽柴水軍は白黒の縞模様の軍船を揃えることになった。後の世で書かれた軍記物では『羽柴の鯨船』と呼ばれるようになるが、これは白黒の縞模様の幕(葬式で使うあれ)の名前が『鯨幕』と呼ばれることから付けられたようである。

 もっとも、重秀のいたこの時代、『鯨幕』と呼ばれるものは未だ無く、そのため『羽柴の鯨船』とは呼ばれていなかった。当時の史料では、やはり『羽柴の虎船』と呼ばれていたようである。


『吹雪丸』に乗り込んだ定範と俊昭。そこには淡河城時代からの旧臣と足軽達、そして水夫達がすでに船に乗り込んでいた。二人が船に乗り込むと、船にいた者達が全員甲板に集まってきた。


「皆の衆、骨折りである。我らに船が与えられた。これより我らはこの船に乗って戦うことになる。それ故、一日も早くこの船に慣れなければならない。何、案ずることはない。山から海に移ったとて淡河は淡河。羽柴相手に戦ってきた我らなら、必ずやこの船を乗りこなし、羽柴の連中に淡河の力を見せつけようではないか。そして、『吹雪丸』の名のごとく、敵の心胆を寒からしめようではないか」


 定範の淡々とした演説が、かえって淡河の兵達の心に火を灯した。俊昭を含めた者達すべてが「おおっ!」と言って雄叫びを上げたのだった。





 同じ頃、梶原左兵衛と三浦義高・義知親子にも新しい船が与えられていた。が、二人は新しい船よりも、与えられた甲冑に喜んでいた。


「おお!これが京や畿内で流行りの当世具足か!?胴丸と違って軽い!」


「・・・軽いのは良いが、ちと鉄が薄い気がするのう・・・」


「父上、御祖父おじい様(三浦義意のこと)の鎧に使われし鉄の厚さがが二分(約6cm)と言うのはいささか誇張のような気が致しまするが・・・?」


 左衛門と義高、義知がそう言いながら自分たちが着ている甲冑をベタベタ触りながら喜んでいた。

 梶原家は播磨の国衆としては歴史ある名門であったが、領地が少ないため貧乏であった。そのため、武具や防具は鎌倉時代から使っていたものを修理しながら使っていたのであった。

 しかし、羽柴との戦―――阿閇城の戦いでは、敵であった羽柴勢の最新鋭の武器(鉄砲)や防具(当世具足)、そして畿内の戦いで培われてきた最新の戦術により、梶原勢は羽柴勢に手も足も出ずに敗走、とうとう降伏する羽目になってしまった。

 その後、梶原・三浦勢のあまりの古臭い装備に哀れさを感じた重秀が、自腹を切って最新の武具や防具を与えたのであった。


「当世具足も鉄砲も与えられた!これで貧乏梶原の汚名を雪ぐことができる!新生梶原は、ここから始まるのじゃ!」


 左兵衛がそう喜びながら新しく乗る船の前にやってきた。湊の桟橋につけられたその船は、左兵衛と義高・義知親子がそれまで操作したことのない軍船であった。


「いやぁ、まさか我らがフスタ船に乗れるとは思いもしなかったな」


 左兵衛の言う通り、それはフスタ船であった。『村雨型』よりも小さく、どちらかと言うと小早に近い船であった。とはいえ、小早である『松風型』よりは大きい。


「これは『いかずち型』と呼ばれる船で、左兵衛様の乗られるのが三番船『曙丸』、我ら親子が乗るのが四番船『あかつき丸』だそうです」


 義高の言葉に、左兵衛が「様は付けなくて良い」と笑いながら言った。


「儂と三浦殿はもはや君臣の仲ではない。若殿様の下で共に戦う同輩ともがらよ」


「はぁ。しかしながら、長年の呼び名を改めるのはこの老体にはきつうございまする」


「そこは慣れるしかあるまい・・・。それよりも、この新しい船に乗ろうぞ!」


 左兵衛がそう言うと、義高・義知親子と共に『曙丸』に乗った。


「・・・ふむ、やはり漕手は艪ではなく櫂を使うのか。この大きさだと、二人で漕ぐようだな?しかし、櫂の数は片舷十五の計三十挺か。大きさの割に櫂の数が少ないのう」


「フスタ船はあくまで三角帆を使った帆走を行うのが常。櫂走は戦の際や湊の出入りの際に使うようでございます」


 左兵衛の疑問に義知がそう答えた。左兵衛が不満を述べる。


「こう言っては何だが、櫂ではなく艪が良かったな。櫂では水夫達が長く漕げないし、船体も狭くなる。特にこの船は横幅が狭い。漕手が全員配置につけば、戦う兵が乗る場所が少なくなる」


「元々この船は小早の船団を指揮するための船。羽柴では小早での戦を重視しておりませぬ故、このフスタ船にも戦いを求めていないのでしょう」


 義高が左兵衛に言ったとおり、羽柴水軍では小早での戦闘をあまり考えていなかった。小早はあくまで斥候と警戒が主な任務で、積極的に戦闘に使う気はなかった。

 ただ、播磨平定時に行われた海戦の経験から、小早が船団を組んで航行したり、また戦闘に巻き込まれることが多いことが分かった。また、小早の船団を指揮する場合、同じ小早では旗艦としての能力が低いことが分かった。鐘や太鼓、旗を多く乗せられないからだ。

 そこで、小早と同じ速度が出て、小早より大きく、指揮能力が高い船としてフスタ船が建造されたのであった。


「それに、小早と違って漕手はその身を甲板に晒さずとも櫂を漕げまする。船首と船尾には鉄砲足軽が詰める囲いがあります故、全く戦ができぬわけではありませぬ。それに、船首の尖った部分はちょうど小早の漕手と同じ高さにありますれば、体当たりで敵の漕手を打ち倒せまするぞ」


 フスタ船の特徴として、船首に衝角がついている。『雷型』にも当然ついており、その高さは標準的な小早や小型の関船の漕手がいる部分を攻撃できるようになっていた。ただし、『村雨型』や『吹雪型』と異なり、渡し橋の機能はついていなかった。


「・・・まあ、いいさ。それよりもこのフスタ船を使いこなせるようにしなければのう。この船から梶原や三浦の小早を指揮せねばならぬからな」


「我等の小早にも三角帆が取り付けられました。さっそく使い方を羽柴の水夫から習っているところでござるな」


 梶原水軍とその配下であった三浦水軍は、兵庫に移った際に小早の船団を連れてきていた。この小早の船団は左兵衛と義高に分けられて配属され、それぞれ小早三番隊と小早四番隊として編成されていた。そして、羽柴水軍に編入されて時点で三角帆の取り付けとそれに対応するための改造がなされた。そして『曙丸』と『暁丸』は小早三番隊、小早四番隊の旗艦となる。


「うむ。若殿様より多くの新しきものを手に入れた。我等も一日も早う使いこなし、次の戦に備えねばのう」


 左兵衛の言葉に、義高と義知が「ははっ」と言って頭を下げた。まだまだ君臣の仲が抜けきらない三人であった。





 新しい軍船が兵庫津の海に浮かぶ一方、兵庫津から少し離れた神戸村という漁村の浜辺では、1隻の軍船がその役目を終えようとしていた。

 浜辺に一部乗り上げたその巨大な船は、神戸村の村民が今まで見たことのない大きさであった。そんな巨大な船が、近隣から集められた船大工達によって解体させられていた。


「・・・もったいないですな。『龍驤丸』は木津川口での戦いで、あの村上水軍に勝利した武功高き大安宅船の一隻だったのに」


 解体されていく『龍驤丸』を見ながら、脇坂安治が傍にいた重秀にそう言うと、重秀は一瞬だけ顔を歪めた。それを見た大谷吉隆が安治に言う。


「・・・甚内殿(脇坂安治のこと)。若殿も苦渋の決断でございました。羽柴水軍の象徴たる『龍驤丸』を解体を若殿も望んではおりませぬ。しかしながら、四万石の大名が持つには、いささか大きすぎるのでございます」


 吉隆の言葉に、安治が「それはまあ、分かっておりますが・・・」と残念そうな口調で呟いた。それを聞いた重秀が安治に言う。


「・・・皆で決めたことだ。『龍驤丸』を解体し、その建材で新たな関船を複数作り、人員を関船に配属させると。毛利の水軍に対抗するには、質も大事だが数も必要になると。それに・・・」


 重秀はそこまで言うと溜息を一つ吐いた。そして更に言う。


「・・・船を浜に上げ、船底を燻せない以上、船はいづれ船虫に食い荒らされてしまう。そうなっては船は脆弱になり、体当たりどころか接触しただけで船底に大穴が空きかねない。軍船として役に立たなくなってしまう。そんな軍船に多くの水夫や兵を割り当てるわけにはいかない」


 船虫とは海の岩場でよく見かけるダンゴムシみたいな虫のことではない。ここで言う船虫とは、主に木造船に穴を開ける生き物のことで、特にフナクイムシとキクイムシのことを指す。

 フナクイムシはムシとは付いているが、実は二枚貝の一種である。小さい貝から細く長い水管を伸ばすため、見た目はミミズや回虫っぽい形をしている。このフナクイムシは木材を主食としており、二枚の貝を使って木材に穴を開け、掘り進んで寄生する。その際に貝殻と同じ成分を分泌して穴の内壁をコーティングし、水分を含んで膨張した木材によって自らの住処の穴が潰されないようにしている。

 キクイムシは陸に住むキクイムシと海に住むキクイムシと両方いるが、これらは別個の生き物である。そして海に住むキクイムシも木材を食べて穴を開けたりしている。

 フナクイムシもキクイムシも共に木造船に穴を開ける害虫として嫌われており、人類が木で船を造って以降、人類はフナクイムシとキクイムシとの戦いに明け暮れていた。


 戦国時代、木造船を食らう船虫を駆除する方法は複数あったが、最もよく行われていたのは船底を燻すことであった。

 当時、『船たで場』と呼ばれる施設が造られていた。潮の干満の差が激しい入り江の砂浜にできた施設で、潮の満ち引きで船を砂浜に上げた後、船底に木材を入れて浮かせ、船底を修理したりするのである。

 ここで船底にこびり付いたフジツボや貝や海藻を削ぎ落とした後、船底の下に藁を敷いて火を点ける。大量に発生した煙で船底に穴を開けて潜むフナクイムシやキクイムシを殺すのである。その後、空いた穴を油を塗った杉の皮で埋めた後、木で穴を塞ぐのである。


 さて、『龍驤丸』は他の大安宅船よりも重く、喫水が深い船であった。そのため、瀬戸内の潮の干満差だけで砂浜に船体全体を乗り上げさせることが不可能であった。人力で砂浜に上げても良いのだが、そうなっては自重で砂浜にのめり込むため、今度は海に出すことができなくなるのである。

 そもそも兵庫津には船たで場がない。というか、『龍驤丸』ほどの巨大な船を修理する船たで場が瀬戸内には1か所しかない。ともという湊に立派な船たで場があるのだが、毛利の湊で、しかも足利義昭が滞在している場所である。織田の大安宅船の修理なんてさせてくれるわけがない。

 重秀もこの状況を良しとしていなかった。神戸村に船たで場を造ることは決まったが、未だ工事が着工されていなかった。そして、完成するまで『龍驤丸』が整備できないというのは許容できるものではなかった。


「聞いた話では、九鬼様も滝川様も石山本願寺と和議が結ばれた直後に大安宅船を解体し、小早の材料にしたそうだ。やはり、修理ができないのと雇っている水夫に払う報酬の銭が勿体ないと思ったらしいな」


 重秀の話に、吉隆が「船は造った後も銭がかかりまするな」と遠くを見つめながら言った。


「・・・まあ、安宅船が無くなったからと言って、そんなに嘆くことはない。羽柴の関船は毛利や村上の関船より大きいからな。瀬戸内では安宅船と言ってもおかしくはない。そんな船が多くあれば、毛利や村上など恐れるに足りずだ」


 ちなみに兵庫津には関船すら修理できる船たで場はない(小早は小さいのでそこら辺の砂浜で修理できる)。しかし、塩飽諸島の一つである与島には、関船クラスの船を修理できる船たで場があるため、羽柴水軍の関船はそこで修理してもらっている。

 今後、神戸村にできる船たで場は安宅船をも整備できるようにする予定である。しかし、それができるのには時間がかかりそうであった。


「『吹雪型』は兵庫津だけでなく播磨の飾磨湊でも建造予定だ。今後は『吹雪型』が羽柴の主力となっていくのだ」


 重秀の言葉に、安治と吉隆が頷いた。そして三人は再び解体されていく『龍驤丸』に視線を移すのであった。


注釈

いわゆるフナムシと呼ばれるものは等脚目フナムシ科に属する甲殻類の一種である。


注釈

海に住むキクイムシが等脚目ワラジムシ科に属する甲殻類の一種なのに対し、陸に住むキクイムシは甲虫目キクイムシ科に属する昆虫の一種である。


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― 新着の感想 ―
ダズル迷彩みたい。
なんだか艦これ思い出してきたなぁ。
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