第191話 出産(後編)
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天正八年(1580年)四月中旬。羽柴重秀に女児誕生。それから7日後。縁が産屋から出てきた。赤ん坊を抱いた乳母―――牧を連れて縁が自分の部屋に戻ると、そこには重秀を始め、とらや照、夏と七、そして数人の侍女が待っていた。
「おお、縁!やっと出てきてくれたか!いやぁ、誠に骨折りであったな!」
縁の姿を見た重秀が立ち上がってそう言うと、縁に近づいて手を取った。重秀は両手で縁の右手を擦りながら部屋の上座まで連れて行くと、そっと肩を抱きつつ縁を座らせた。
「もったいないお言葉にございます。しかしながら、男児を産むことができず、申し訳もございませぬ・・・」
弱々しい物言いで言う縁に対し、重秀は「何を言ってるんだ」と声を上げた。
「女児とは言え子は子。それに、此度は縁にとっては初陣のようなもの。初陣は生き残ることが勝利。その点、母子共に生き残ったのであるから、これは縁の勝利よ!」
そう言う重秀に、縁は「もったいなきお言葉」と言って頷いた。だが、周りの者達は「何言ってるんだ?こいつ」と心のなかで呟きながら重秀を見ていた。
そんな中、牧から赤ん坊が手渡され、縁の腕に抱かれる。重秀が赤ん坊の顔を覗き込む。
「おお〜、ちっちゃいな〜。赤子とは、こんなにも小さいものなんだな」
「お兄様は赤子を見るのは初めてでございますか?」
とらの質問に、重秀が首を横に振る。
「いや、弟が赤子の頃に何度か見たな。でも、あの時はもう少し大きかったかな」
「えっ?弟がいたのですか?初めて聞きました」
「天正四年(1576年)に亡くなったけどな」
重秀の言葉に、とらが黙ってしまった。気まずい雰囲気の中、その空気を払拭すべく夏が話しかける。
「時に若殿様。姫君のお名前はお決まりですか?」
「ああ、『藤』にしようと思っている」
重秀の回答に、縁と夏が思わず「えっ!」と声を上げた。重秀が赤ん坊の顎を右人差し指で撫でながら言う。
「長野家では代々大姫(貴人の長女のこと)には『藤』と名付けるのであろう?その慣習にあやかろうと思ってな。それに、私の名にも藤の字はあるからな。特に不思議ではないだろう?」
重秀の話を聞いた縁と夏は唖然とした表情をしたが、そのうち目から涙が溢れていた。重秀が長野家の慣習を羽柴に取り入れてくれたことが、二人には嬉しかったのだ。
伊勢の名門長野家は、織田信包を養子に迎えたものの、信長の命で信包は織田姓に戻っていた。すでに長野家の男子はいなくなり、長野の名は無くなっていた。しかも、長野家の慣習は信包系織田家にも細々と伝わっていたものの、いつ織田の慣習に塗り替えられるかが分からなかった。
しかし、羽柴で長野家の慣習が取り入れられるということは、長野家が今まで築いてきた慣習を通じて、長野の歴史が後世に伝わるのである。
少しでも長野の慣習が続くことを、縁と夏は喜んだのであった。
「・・・御前様。まさか長野の慣習を取り入れてくださるとは。この縁、嬉しゅうございます』
「若殿様。大姫様に『藤』と名付けられるは望外の喜び。さぞ御方様(ここでは縁の母である長野夫人のことを指す)もお喜びになられますでしょう」
縁と夏がそう言って重秀に礼を言った。重秀が「礼を言うほどのことではない」と右手をヒラヒラさせる。
「それよりも、これから忙しくなるぞ。まずは此度の出産で骨を折ってくれた方々に褒美を与えなければならない」
赤ん坊が無事に生まれた際、総奉行を始め鳴弦役、蟇目役、そして祈祷を行った者全て、医師、産婆(この時代の産婆は専門職ではなく、巫女か経産婦の侍女であったが)、乳母に褒美が与えられる。男性には刀が、女性には絹織物が与えられるのが相場であった。
また、安産祈願をした寺と神社、南蛮寺には報償として多額の銭が更に支払われる。
「それに、色々な方々にお報せせねばならないからな。夏、七、二人には安濃津の御方様(長野夫人のこと)と安土の御方様(お濃の方のこと)へのお報せを頼みたい」
重秀からそう頼まれた夏と七は平伏しながら「承知いたしました」と答えた。もっとも、二人共藤が誕生した時点でとっくに報せを出していたが。
「さて、午後からは天守の広間で藤のお目見えと、骨を折ってくれた方々に褒美を与えるが、縁は天守まで動けそうか?」
この時代、出産後7日間に多くの食事を摂ると母体に悪影響があると信じられていた。また、出産の穢れから避けるために、炊事場の竈を妊婦や出産後の母親の食事のために使ってはいけないことになっていた。そのため、簡易的な食事しかさせてもらえない母親がこの時代多くいたのだった。
重秀が心配しているのに対し、縁は「どうぞ案じられますな」と答えた。
「私と赤子・・・いえ、藤のために夜遅くまで苦労された方々に礼を申したいのです。褒美を与える際には是非とも礼を申し上げたく存じまする」
縁がそう言い終わった後、夏が重秀に「恐れながら」と話しかける。
「医師の話では、体力を回復させるために砂糖、もしくは水飴を与えるべきと聞いております。何卒、お与えますようお願い申し上げまする」
夏の言葉に、重秀は「相分かった」と言って頷くのであった。
縁の出産から10日後。日常が戻りつつあった四月下旬。重秀が書院で石田正澄と木下家定と内政について話し合っていると、一人の侍が書院の入口である障子の向こうから声をかけてきた。
「も、申し上げます!大殿様(秀吉のこと)が・・・」
そういった直後、障子の外側からドタドタと複数の足音が聞こえてきた。重秀が「何事だ?」と言うや否や、障子か大きく開かれた。そこには、秀吉が肩で息をしながら立っていた。
「ち、父上!?いつ兵庫に!?」
「今さっきよ!それより孫はどこだ!?すぐに会わせい!」
重秀の驚きの声を押さえつける程の大声を上げた秀吉。書院にいた者達が唖然としている中、秀吉は書院に入ると、そのまま重秀に抱きついた。
「いやぁ〜!藤十郎!ようやった、ようやったぞ!よくぞ子を成した!」
そう言って喜びを爆発させる秀吉に、重秀が「は、離れてください」と言って秀吉を剥がした。
「ち、父上。姫路からの遠路お疲れでしょう・・・。今からこちらへ呼びますから、少しお休みになられては・・・?」
「阿呆!儂は疲れておらぬわ!それよりも『奥』に入る許しを与えい!お主の許しがなければ入れぬのだからのう!」
本丸御殿の『奥』は基本男子禁制である。そのため、父秀吉でも勝手に入ることは許されていなかった。
秀吉の剣幕に引いていた重秀は、「分かりました。私と共に行きましょう」と言うと、正澄と家定に後を任せて立ち上がるのであった。
それから少し経って本丸御殿の『奥』にある縁の部屋。そこで秀吉は自らの孫を両腕で抱きかかえていた。
「おおう。愛らしいのう、愛らしいのう!これは美人になるのう!」
そう言いながら「べろべろばぁ〜」と言って変顔をする秀吉。その様子から、重秀が思わず秀吉に言う。
「・・・前々から思ったのですが、父上は本当に子供が好きなのですね。松寿丸や八郎(宇喜多直家の嫡男)もかわいがっておられましたが」
「儂はお主以外の子を亡くしておるからのう。それに、何故か儂は子を甘やかしてしまうんじゃ。お主を甘やかして、よく小一郎に叱られていたものじゃ」
「そう言えば、父上に叱られ始めたのは元服した後で、その前は叱られた記憶が無いですね」
「さすがに元服すれば大人だからのう。羽柴の嫡男としての育て方に切り替えるわ」
そう言った秀吉は藤を乳母の牧に渡すと、身体を傍にいた縁の方へ向けた。そして畳を上に手をつけると、平伏しながら声を上げる。
「縁殿!此度は無事に藤十郎の子を生したこと、この羽柴筑前、伏して御礼申し上げる!」
そう言っておでこを畳の上につける秀吉。縁は驚きながらも秀吉に平伏する。
「そんな、御義父上!頭をお上げください!私は嫡男をあげることできず、申し訳なく思っております!礼を言われるようなことはしておりませぬ!」
「いやいや、女児でも十分じゃ。母子共に健やかなれば、また子をあげることもできる。男児はその時にあげれば良い。
・・・縁よ。儂は妻を亡くしたことがある。子も亡くしたことがある。残された身からすれば、これほど悲しいことはない。藤十郎がその悲しみを負うことは無かった。今はそれで十分じゃ」
秀吉の優しい声に、縁は涙をこぼしながら「もったいなきお言葉・・・」と言って平伏した。隣りにいた夏もつられて平伏していた。秀吉が笑いながら言う。
「ま、女子も女子で使えるからのう!羽柴の大姫であれば、他家からは引く手あまたじゃ!それに、殿様(織田信忠のこと)にもお子様が産まれるという話もある!これが男児ならば、それに嫁がせることも夢ではない!それが無理でも松寿丸や八郎に嫁がせて、縁戚を増やすことも可能じゃ!それに・・・」
「父上、まだ早うございまする」
秀吉の夢物語に思わず重秀が口を挟んできた。そんな重秀に、秀吉が睨みつけるような顔を向けてくる。
「阿呆!娘の嫁ぎ先をよく吟味しなければ、羽柴の存続に関わるのだぞ!今から考えても遅くはない!それに、お主にはもっと子を作ってもらわなければならぬぞ!」
そう言うと、秀吉は再び縁に顔を向ける。重秀の時とは違って、表情が柔らかくなっていた。
「縁よ。再び子を成せるよう、しっかりと食べるようにの。見たところ、未だに体が戻っていないように見えるが・・・」
そう言いながら顔を顰める秀吉。元々細身の縁であったが、出産後は更に細身になっていた。どう考えても身体の消耗に対して栄養が足りていないように見えた。
「恐れながら。御姫様・・・いえ、御方様はまだ七日目を過ぎたばかり。食事はいつもどおりとなりました故、いづれ回復するものと存じまする」
夏が縁に代わってそう答えると、秀吉は頷く。
「うむ。七日過ぎたのであるから、遠慮はするな。近日中に牛を一匹送る故、しっかりと食するようにの」
「いえ、むしろ魚の方が嬉しゅうございます」
縁が口を挟むと、秀吉は「おお、そうか!」と声を上げた。
「では、魚をたんと食せよ!藤十郎!銭に糸目をつけるな!兵庫、いや摂津の魚を買い占めるのじゃ!」
秀吉の言葉に、重秀は「全部食いきれないでしょう・・・」と呆れるのであった。
本丸御殿の『奥』に一刻ほど居た秀吉は、その後天守の広間へと移動した。広間には、秀吉が来たことを知らされた家臣や与力が集まっていた。
広間の上段の間に重秀と並んで秀吉が座ると、下段の間にいた家臣と与力達は一斉に平伏した。
「皆の衆、大義!面を上げよ!」
秀吉の声で皆が頭を上げた。秀吉が見渡しながら声を上げる。
「藤十郎に姫ができた!まずは重畳!これも皆が支えてくれたおかげぞ!この筑前、礼を申す!」
秀吉がそう言うと、下段の間からは一斉に「おめでとうございまする!」との声が聞こえてきた。秀吉が重秀に尋ねる。
「で、ちゃんと出産に関わった者達に褒美は与えたのであろうな?」
「滞り無く」
重秀の短い回答に、秀吉は「うむ」と頷いた。そんな秀吉に、山内一豊が家臣の代表として尋ねる。
「大殿。此度の兵庫訪問、早うございましたな。報せてから三日くらいしか経っておりませぬが?」
「報せが来て一昼夜かけて兵庫まで来たからのう。とはいえ、ちと急ぎすぎた。儂と佐吉(石田三成のこと)と彦右衛門(蜂須賀家政のこと)等で来たのだが、佐吉は途中で脱落しおった。まあ、明日には兵庫に着くじゃろう」
笑いながらそう言う秀吉であったが、直後に顔を引き締めると、真面目そうな声で話を続ける。
「とはいえ、そろそろ街道筋を改めないといけないのう。毛利との戦では、上様御自ら大軍を率いてくるやもしれぬ。そうなると、今の西国街道では狭いからな。もっと広げ、走りやすくしなければのう」
秀吉がそう言うと、隣りにいた重秀に話しかける。
「兵庫はどうなっておるのじゃ?西国街道を広げておるのか?」
「兵庫の商人達から運上を納める際、一部を道の拡張のための資金として惣会で貯めるように申し渡しております。今はまだ道は広げておりませぬが」
「ふむ・・・。では今年中に広げておくかのう・・・」
重秀の回答を聞いた秀吉が右手で顎を撫でながらそう呟くと、周りの者達に聞こえるように言う。
「皆の者!西国街道を広げ、国中の道を整えよ!大軍を素早く動かすことが、今後毛利との戦いにおいて必要となる!当面はそれに注力せよ!良いな!」
秀吉の言葉に、広間にいた家臣と与力は「ははぁ!」と言って平伏するのであった。
さて、重秀の女児誕生は各方面へと伝わり、そこからさらに広がっていった。
重秀に近い人達は喜び大量の贈り物を送ってきた。また、それ以外の人たちは「良かったですね」と言ってそれなりの贈り物を送ってきた。そんな中、安土のお濃の方に伝わったのは、四月ももうすぐ終わろうという頃であった。
「・・・どうやら、藤十郎殿と縁の仲は上手くいっているようですね」
七からの手紙を読みながら独りごちるお濃の方。安堵の溜息をつきながら独り言を言う。
「藤十郎殿を呼び出したは去年でしたか。その後、藤十郎殿は縁を兵庫に連れていき、仲睦まじくしたという報せは受けていましたが・・・。子を成して誠に祝着じゃ」
そう言いつつも、お濃の方にはまだ懸念すべき事があった。縁が女腹だった場合、徳川家と同じようなことが起きるのではないか、という事を。
―――あそこには縁が認めた側室や愛妾が居る。その者達が男児を産んでも、恐らく縁は正室の座を降ろされることはないと思いますが・・・。徳川家のことを思うと、不安で仕方ありませぬ―――
そう思うお濃の方であったが、頭を横に振ると、藤十郎と縁のことは一旦忘れることにした。何故ならば、お濃の方には新たな問題が発生していたからであった。
―――前田家へ嫁がせるのは永(信長の四女)か、それとも茶々か。早急に決めなければなりません。永はまだ齢七。年齢を考えるなら十二歳になる茶々が良いのですが・・・。問題はお市殿が『兄上の養女にすることは認めますが、安土に送る気はありませぬ。また、乳母と侍女はこちらで用意する』と言って聞かぬこと。これでは前田家の内情が分からないではないですか―――
お市の方は柴田勝家と再婚した際、侍女を自ら選んで永原城へ輿入れしている。結果、お市の方はお濃の方の情報網の埒外にあった。その後、お濃の方はお市の方の傍に何度か自分の息のかかった侍女を送り込もうとしたが、ことごとく失敗していた。
―――恐らく、浅井家の内情が侍女を通して筒抜けだったことを根に持っているのでしょうが・・・。しかし、あれがあったからこそ、金ケ崎では上様をお救いできたのではないですか・・・―――
お市の方が浅井長政に嫁いだ際、一緒についてきた侍女達のほとんどはお濃の方の送り込んだスパイであった。お市の方は浅井家が織田家を裏切ったことを、このスパイ網を利用して知らせたのであった。
お市の方にしてみれば、兄信長に情報を流し、助けたことで恩を売れると考えていた。そうすれば浅井が許されるかもしれない、と浅く考えていたのである。
しかし、お市の方の楽観的な考えは間違いであった。信長は浅井を攻め滅ぼしてしまったのであった。
その事があったからか、お市の方が柴田勝家に再婚する際、侍女はお市の方が特に信を置く者達と柴田家に代々務めている者達によって固められ、お濃の方から派遣された者は尽く排斥されていた。
―――それに、前田家に侍女を送り込まないというわけには参りませぬ。それに、茶々にも上様や私と共に暮らしてもらい、柴田家の姫という意識を追い出さねばなりませぬ―――
茶々は信長の姪ではあるが織田家の姫ではない。少しでも手元において柴田の姫、いや浅井の姫としての意識を変えて貰う必要があった。そうでなければ織田の為に振る舞わない可能性があるのだ。
仮に前田と織田との間に亀裂が入った場合、その修復に送り込んだ妻が窓口となるし、その妻を通じて交渉を持つことができる。例えば、明智光秀は織田信長を裏切った荒木村重との関係修復に、荒木村次に嫁いだ娘との伝手を利用した。まあ、その時は他の要因で説得に失敗したが、それでも関係修復に婚姻関係が役には立つのだ。
「・・・茶々を養女にするだけでこんなに苦労するのであれば、いっそ永をそのまま送りつけたほうが楽ですね」
そう呟きながら、一人物思いにふけるのであった。