第189話 城主重秀の一日(その5)
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酒宴は申の刻(午後3時半から午後5時半)の二つ(午後4時頃)から始まった。本丸天守の広間には、重秀が上段の間に座り、その他の者達は下段の間の左右に分かれて対面で座っていた。それぞれの前には膳が並べられており、上には盃と魚介類を中心とした肴を乗せた皿が置かれていた。
「長浜からこっちに来た時は、海の魚は珍しかったが、こう毎日続くと飽きるな」
正則がそう言うと、長浜から来た者達は笑いながら頷いた。
「長浜では魚は食していないのですか?琵琶湖があるから魚はいるでしょう」
三浦義知が酒を飲みながらそう尋ねた。それに対して加藤清正が答える。
「琵琶湖の魚は種類が少ない。鯉か鮒かしか食わなかったな・・・。たまに鰻も食ってはいたが」」
「海老も食っただろう」
長吉がそう言うと、清正は「あれは魚ではないでしょう」と笑った。
「とはいえ、全く海の魚が食されなかったというわけではない。岐阜にいた頃は干物であったが海の魚を口にすることはあったし、長浜には越前からの干物が入ってくることもあった。だが、より多くの干物が入ってきたのは、やはり縁を娶った後だったな」
重秀がそう言うと、長浜勢が一斉に頷いた。長吉が話を続ける。
「御方様(縁のこと)は安濃津の姫君。あそこから伊勢の魚や海老、貝が多く長浜に来るようになりましたな」
「ああ、伊勢の海老があれほど大きいとは思いもしませんでしたな。こんなにありましたからな」
清正が両手を広げて大きさをアピールすると、隣りにいた加藤茂勝が「大げさっすよ」と笑った。
「そう言えば、甚内(脇坂安治のこと)は安濃津や志摩で水軍の鍛錬を受けていたのだろう?あそこではどんな魚を食していたのだ?」
一豊がそう尋ねると、脇坂安治が手元の魚の刺身に塩を付けながら答える。
「こことあまり変わりませんぞ?鯛、鯵、鰯、鰤、鯖、鰈に鮃。後は蛸と烏賊、鯨ですかな。ああ、チヌ(クロダイ)とグレ(メジナ)も食いましたな」
「ほう、チヌとグレも捕れるのですか。確かに、瀬戸内で捕れる魚とあまり変わり映えしませんな」
梶原左兵衛が酒を飲みながらそう言うと、三浦義高が呟く。
「それがしは故郷の海を覚えておりませぬが、聞いた話では、相模の海も又、豊かな海だと聞いたことがある。そこでも鯛や鯵、鯖が多く捕れたと、幼き頃より従ってくれた老臣が申しておったな」
その呟きを拾った木下家定が、思わず義高に尋ねる。
「ほう・・・。三浦殿は相模の出でござったか」
家定の問いに黙って頷く義高。そんな義高に、今度は重秀が話しかける。
「相模の三浦、といえば源平の御代の頃よりの名門。荒次郎もその一門か?」
「一門も何も、三浦家宗家の末裔がそれがしにござる」
義高の言葉に、一同が「えっ!?」と声を上げた。その中には、同じ播磨勢である淡河定範と別所友之も含まれていた。
「・・・相模の三浦の末裔が、播磨にいるのは何故か?」
重秀が興味深そうな眼差しで尋ねると、義高は手に持った盃を煽った。盃の酒を一気に喉に流し込むと、盃を前に置きながら話し始めた。
義高の父は三浦義意、通称三浦荒次郎である。三浦義同(三浦道寸の名で有名)の嫡男で、永正七年(1510年)に家督を譲られていた。従って、義意は相模三浦家の当主であった。
元々相模三浦家は平安時代から相模国の三浦半島を支配した平氏直系の三浦氏を祖とする一族である。三浦氏は坂東八平氏の一つであり、源頼朝による武家政権を支えた名門であった。
しかし、北条家との権力争いで一度滅亡するが、傍流の佐原氏出身である三浦盛時によって復活。その後は色々あって扇谷上杉家の傘下に収まりつつ、三浦半島を支配していた。
さて、三浦義同が三浦義意に家督を譲った頃、義同の母方の叔父の城である小田原城が伊豆の伊勢宗瑞(のちの北条早雲)によって奪われた。その後、義同は宗瑞との間で争いが発生した。
永正九年(1512年)、家督を譲っていた義同の居城である相模岡崎城が陥落。息子の義意の居城であり、三浦家の本拠地である相模新井城に逃げ込むと、宗瑞の軍勢も扇谷上杉の援軍を蹴散らしつつ三浦半島に侵入。新井城を取り囲んだ。そして3年間に渡って攻防戦が繰り広げられた。
伝承によれば、義意の身長は七寸五尺(約227cm)。その巨体が持つ得物は一丈二寸(約364cm)の金砕棒であったと言われている。そんな大男が宗瑞の兵相手に大暴れしたと言われている。その凄まじさは、金砕棒を振り下ろせば兜を被った武者の頭から胴まで叩き潰し、横に薙ぎ払えば五人から十人を押しつぶしたと言われている。
後世で『八十五人力の勇士』と呼ばれた義意は、永正十三年(1516年)七月に新井城落城の際に自害し、同じく父である義同と三浦家一族、家臣達も自害したと言われている。その時に新井城に面した湾が血に染まり、その様子から後にその湾は『油壷』と呼ばれるようになった。
こうして相模三浦家は滅亡したのだが、唯一生き残った者がいた。義意の一人息子である。包囲されていた新井城であったが、海に面した城であり、しかも大した水軍を持っていなかった伊勢軍であったため、海の方は包囲がザルであった。そのため、一人息子と託された乳母と家臣達は、海路で新井城を脱出することができたのだった。
「・・・その一人息子が、荒次郎だったと?」
重秀がそう尋ねると、義高は「御意」と答えた。義高が話を続ける。
「それがしはあまり覚えていないのででござるが、付き従ってくれた臣によれば、一旦安房の里見家に匿われた後、伝手を使って播磨の梶原家まで逃れたのでござる」
「・・・播磨の梶原と?どういう伝手なんだ・・・?」
重秀が眉をひそめながそう言うと、義高は笑いながら言う。
「梶原とは鎌倉殿がいた頃からの付き合い。意外とその伝手が残っていたのでござるよ」
建久十年(1199年)の正月に源頼朝が急死し、その後を継いだ息子の源頼家は18歳の若さであった。当然、鎌倉殿として政治ができるわけがないので、頼朝の側近だった者達13人が合議で政治を行うこととなった。
その中には梶原景時(播磨・美作守護)と三浦義澄(相模守護)が入っていた。二人共頼朝を支える重要な御家人であり、それ以来ずっと付き合いがあった。景時は後に殺され、直後に義澄が病死するが、梶原家と三浦家はそれ以来、多少の結びつきがあったようである。そしてその結びつきのお陰で、幼い義高は播磨まで流れ落ちることができたのであった。
「その後、高砂城の梶原家にお仕えし、水軍の指揮を執ったのでござる」
「・・・荒次郎殿を連れてきた三浦の旧臣達は水軍を得手とし、三浦衆として梶原水軍の一角を担いもうした。羽柴に降った後は羽柴に仕えるようになりましたが、今後は羽柴水軍を強くしてくれるでしょう」
義高の話の後を継いだ梶原左兵衛そう言うと、重秀達が「へぇ〜」と声を揃えて言った。義高の隣りに座っていた義知が声を上げる。
「我が三浦水軍は父荒次郎の指揮の下、梶原水軍と共に瀬戸内の海を股にかけておりました。また、別所家が織田家の下にいたときは別所家とも戦っており・・・」
義知が三浦と梶原の手柄話をしようとした時、前野長康が一際大きい咳払いをした。義知が一瞬だけ黙った機を逃さず、長康が話をし始める。
「瀬戸内と言えば、数多くの島々がある。そのうち、塩飽の島々は我等と誼を通じたが、塩飽と我等の間にはまだ多くの島がある。我等は今後そういった島々とも誼を通じる必要がある。そこで・・・」
長康がそこまで言うと、視線を左兵衛と義高に向ける。
「梶原殿も三浦殿も、そういった島々についてなにかご存知か?もし知っていれば是非我等にご教授いただきたい」
長康の問いかけに、左兵衛と義高、そして義知は顔を見合わせた。そして左兵衛が答える。
「・・・ここと塩飽との間にある島と言えば、家島を始めとする島々、それと小豆島、豊島、直島でござるな?後は細かい島々がございますな。
・・・しかしながら、梶原水軍は家島より西へは船を出したことはございませぬ。元々、梶原水軍は播磨守護であった赤松家の下におりました。家島は播磨国の一部でございました故、命を受けて船を出したことは昔からございましたが、小豆島や豊島、直島は讃岐国の一部で、讃岐守護の細川家が派遣した者達によって治められていると聞いたことがございます」
「細川か・・・」
長康がそう呟くと、上段の間の重秀が溜息をつきながら言う。
「今の讃岐は細川の影響下にない。讃州細川家は衰退し、細川の被官であった三好家が阿波、讃岐を治めていた。しかし、その三好家も畿内で上様と戦い、往年の力を失っている。その間、讃岐の国衆は毛利についたり織田についたりして何とか領地を守っているようなものだ。そして、最近聞いた話では、長宗我部が讃岐や阿波に侵入しつつある」
重秀の話に、皆が一斉に「えっ!?」と驚きの声を上げた。どうやら長宗我部のことは知らなかったようである。浅野長吉が渋い顔で言う。
「長宗我部と言ったら土佐の大名で、しかも上様と盟を結んでいる大名じゃないか。四国に版図を広げていると聞いていたが、讃岐にまで到達しているのか」
「西の方では伊予を北上して河野家を圧迫しているとも聞く。凄まじい勢いだな」
長吉に続いて尾藤知宣も発言した。広間にざわめきが広がる中、重秀が重い口調で話す。
「安土に寄った際に上様から聞かされたが、上様は讃岐と阿波の長宗我部支配をお認めになっていない。日向守様(明智光秀のこと)を介して讃岐と阿波へ攻め込むことを止めさせようとしている。しかし、宮内少輔様(長宗我部元親のこと)が拒否すれば、今度は四国平定の兵を挙げるやもしれぬ」
重秀の言葉に、広間のざわめきが更に大きくなった。山内一豊が思わず重秀に尋ねる。
「若殿。まさか、我等に四国出兵の命が出されることは・・・?」
「ありえる、と考えたほうがいい。上様は九鬼の水軍を堺に常駐させることを考えている。しかし、四国へ大軍を送り込むとなると、水軍の数が多くいるだろう。ならば、羽柴の水軍に声がかかるのは当然だ」
重秀の言葉に一豊が渋い顔をした。一方、福島正則が嬉しそうな顔をしながら話し始める。
「水軍がいるなら、再び手柄を挙げることができるじゃねぇか」
そんなことを言う正則に対し、脇坂安治が「阿呆」と言い放った。正則が思わず突っかかる。
「何だと!?何が阿呆っていうんだ!甚内!」
「水軍の数が足りんだろうが。それに、若殿は大殿(秀吉のこと)の与力ぞ。大殿が毛利攻めの総大将になっている以上、我等は毛利攻めにも備えなければならぬ。更に四国攻めに水軍を割けるわけなかろう」
安治の冷静な物言いに、正則は噛みつくことができずに「ぐぬぬ」と唸った。重秀が話を繋ぐ。
「まあ、四国攻めはまだ決まったわけではない。上様も日向守様と通じて宮内少輔様への呼びかけも行っている。とは言え、もしもということもあり得る。皆もその事を頭の片隅に置いておくように」
重秀の言葉に、皆が一斉に頭を下げた。この時、重秀が何かを思いついたような顔つきになった。そして重秀が声を上げる。
「せっかくだ。四国攻めを肴に酒を飲みつつ語ろうではないか。何、深く考えることはない。皆がどのように四国へ攻めるかを思う存分話してみよ。良い余興になるやもしれない」
重秀の言葉に、皆は賛同の声を上げた。やはりその場にいた者達は武士であるからか、戦の話には積極的であった。そして、戦の話は何も過去だけの話ではなく、未来の戦も含まれるようで、広間では四国攻めについて色々と話題が咲いた。
その結果、長浜勢と播磨勢との間では、事前に重秀と長康、定範が懸念した諍いは全く起きず、むしろ新たな戦いに向けて連携の雰囲気が作り出されつつあった。
酒宴は酉の刻(午後6時から午後8時)の二つ(午後7時頃)、いわゆる『暮れ六つ』には終わった。重秀は本丸天守の広間から本丸御殿の『表』にある書院へ一旦異動した後、本丸御殿の『奥』へと向かう。途中にある『表』と『奥』の間の渡り廊下で小姓の木下大蔵と分かれると、そのまま『奥』へと入っていった。
『奥』の入り口にある部屋。重秀達は『次の間』と呼ぶ部屋に重秀が入ると、そこには予め『奥』へ入る時間を知らされていた侍女が控えていた。彼女の先導でまずは縁の部屋へと向かう。
障子が開き、重秀が部屋に入ると、縁は布団の上で胡座をかいて座っていた。重秀を見ると縁は三指をついて軽く前に屈んだ。と同時に、傍にいた夏や侍女達が平伏した。
「お戻りなさいませ、御前様」
「うん、ただいま戻った」
縁の挨拶に対してそう返した重秀。縁の前に座ると、しばらくの間縁と話をした。話の内容は互いの一日の様子を話し合うことであった。
その話し合いが終わると、重秀は縁の部屋を出ていく。縁はそのまま就寝するが、重秀はとらの部屋へと向かうのだ。
本来、正室はともかく側室の部屋に城主が来ることはない。目合いたい時に寝所に呼びつけるのが普通なのだが、重秀はそのようなことはせずにとらの元へとやってきた。これには縁の意向が反映されていた。
縁は妊娠中であり、その間は重秀と目合うことができなかった。しかし、縁としては重秀の相手ができないのは申し訳ない、という思いであった。そこで、他の女性と目合わせようと考えた。一方、正室として、また一人の女性として夫の重秀が誰彼構わず目合うのは不満であった。
そこで、縁は側室であるとらと重秀を目合せようと考えた。とらも15歳となり、一応子を生すことができる年齢となった。身体も健康体で、特に問題のないことは医者から報告を受けていた。そろそろとらとの初夜を迎えさせても良いだろうと考え、重秀にとらの部屋を訪れるように頼んだのだった。
重秀がとらと同じ部屋で過ごさせて、そのまま目合えばそれでよし、重秀が15歳のとらとヤる気がなくても、どうせ来年にはヤることになる。それまでに仲睦まじくなれば子を作りやすいだろう、というのが縁の考えであった。
さて、重秀ととらは同じ部屋で今日あったことを話し合った。しかし、とらから聞かされるのは兵庫城での不満であった。
「このところ、食事は全て魚が多ございまする!たまには獣の肉が食べとうございます!贅沢は申しませんから、犬が食べとうございます!」
「・・・犬って食べられるの?」
「臭いがきつく、あまり食しませぬが、牛や豚はともかく、鹿、猪、鳥すら口にできぬは苦痛でございまする!」
近江の山奥である日野の生まれであるとらにとって、獣肉は慣れ親しんだ食材である一方、海の魚は慣れ親しんだ食材ではない。海の魚の干物は日野でも食べたことがあるが、あまり好きではなかった。
ところが兵庫城に来て以降、出される食材は近海で取れる魚介類ばかり。最初は物珍しげに食べていたが、やはり慣れ親しんだ獣肉が恋しくなっていた。
ちなみに犬食であるが、ルイス・フロイスの著書に『日本人は薬として犬を食べる』と書いており、当時は犬を食していたようである。ただし薬なのでめったに食べられるものではない。
「・・・分かった。とりあえず、鶏は増やしているところだ。牛は播磨や但馬が羽柴のものとなった故、手に入れられると思う。豚も何とかしよう。ただ、犬は勘弁してくれ」
「・・・何故ですか?肉食を忌避せぬお兄様にしては珍しい物言いでございますね?」
首を傾げながら尋ねるとらに、重秀は「南蛮人は犬を食わぬ」と答えた。
「伴天連によれば、『飢饉や船の上で食料がなくなった場合にはやむを得ず食べるが、普段は食さない。だから犬を売られても困る』と言っていた。羽柴では南蛮人達の望む肉を用意してきたため、犬を飼って食べるという発想がなかったんだ。そして、今後も犬を飼って食べる気はない」
ただでさえ牛や豚を食べるために飼うことについて、大変な思いをしてきたのに、更に犬を飼う余裕はなかった。なので、犬食については重秀の頭になかった。
重秀の話を聞いたとらが納得したような顔で頷いた。しかし、不満はまだ解消されていない。
「お兄様。獣肉については分かりました。しかしながら、私めはずっと城の中に籠もっておりまする。たまには馬に乗って遠出がしとうございまする」
こうして、重秀はとらの不満を、とらが満足するまで聞かされるのであった。
とらの不満を聞き終えた重秀が自分の寝所に戻ったのは戌の刻(午後8時から午後9時)であった。この時代、午後8時頃には就寝するのが普通であった。重秀も貴重な油灯明や蝋燭を無駄にしたくないと思い、さっさと寝ることにした。
侍女達の手を借りて着物を脱ぎ、夜着と呼ばれる寝間着に着替えた。侍女達が着物を持って寝所から出ると、重秀は最近流行りの真綿の布団の上に寝っころがった。
当時は掛け布団がなく、夜着を掛け布団代わりにしてかぶるのだが、重秀は面倒くさがって夜着を来たまま寝てしまった。
布団に寝転がった重秀。目を瞑るとそのまま意識が沈んでいく感覚に襲われた。しかし、意識が完全に沈み込む直前、ふと思ったことがあった。
―――ああ、また日記書くのを忘れた・・・。まあ、明日から書けばいいか―――
昨日も一昨日も更にその前の日から思っている事を思いながら、重秀は眠りに落ちていった。
こうして、重秀の一日が終わるのであった。