第18話 長島一向一揆(その3)
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天正二年(1574年)七月十一日。大松は尾張清洲城にいた。織田信忠を総大将にした軍勢は、岐阜城を集結地とした織田信長を総大将にした主力と柴田勝家を総大将にした別働隊、更には伊勢大湊を集結地とした九鬼嘉隆を総大将にした水軍とは別に、清洲城が集結地となっていた。
この日、清洲城の屋敷にある広間では、織田信忠と信忠に従う諸将が一同に会していた。長野信良(のちの織田信包のこと、信長の弟)、織田秀成(信長の弟)、津田長利(信長の弟)、織田信成(信長の従兄弟)、織田信次(信長の叔父)、津田信澄(信長の甥、清洲城留守居)、斎藤利治(斎藤道三の末子、帰蝶の弟)、簗田広正(尾張沓掛城主)、森長可(美濃金山城主)、池田恒興(尾張犬山城主)と息子の池田勝九郎元助、梶原景久(尾張羽黒城主)、関成政(尾張一宮城主)、佐藤秀方(美濃鉈尾山城主)などが集まっていた。
「皆の者、大義。これより軍議を始める」
信忠の一言で軍議が始まった。軍議の侵攻は側近として信忠に付けられた斎藤利治の司会で進められたが、明日の七月十二日に清洲城を出発、十三日に津島の奴野城で信長の主力部隊と合流することが伝えられると、後は細かい話で終わってしまった。
「以上、軍議はここまでとする。何か質問は?」
信忠がそう言うと、一人の若い武将が手を上げた。
「若殿に聞きたき儀、これあり」
いきなり総大将の信忠に質問した事に諸将はざわめいた。
「どうした、勝蔵。お前が軍議で質問があるとは珍しい」
信忠が笑いながら聞くと、勝蔵と呼ばれた若武者はニヤリと笑いながら答えた。
「いえ、戦そのものに質問はございません。真っすぐいってぶっ飛ばせば良いことですから。それより気になることがございまして」
そう言うと、勝蔵は視線を信忠から横に控えている小姓―――大松に目を向けた。
「その姫若子も連れて行くのですか?戦場では色小姓をどうこうする暇はございませぬぞ」
若武者がそう言ってから一拍おいて、諸将から下卑た笑いが漏れ出した。
「森殿。今は軍議を行っているところ、不要な発言は・・・」
利治が咎めるが、信忠が遮る。
「良い。・・・そうか、勝蔵はこの者のことをまだ知らなかったのか。一度ぐらいは会っているものと思っていたが」
信忠がそう言うと、その若武者―――森勝蔵長可は肩をすくめながら言った。
「若殿の小姓は入れ替わり立ち替わりが激しいですからな。いちいち覚えてられませんよ。それに人の色小姓についてどうこう言うほど野暮ではないのでね」
長可の無礼な物言いに利治の表情が渋くなるが、信忠は特に気にしていないようだった。普段どおりの口調で話を続けた。
「此奴は色小姓ではないのだがな・・・。そうだ、この際だから紹介しておこう。どうせこの戦以降も付き合いがあるのだからな。・・・大松、名乗れ」
「はっ!」
信忠に名前を呼ばれた大松は、畏まったように頭を下げると、大きな声で挨拶をした。
「羽柴筑前が息、大松にございまする!以後、お見知りおきのほどよろしくお願い致しまする!」
先輩である池田元助や、話に聞いていた池田恒興の親子以外の諸将から驚きの声が上がる。その中でも勝蔵―――森長可は「ほう」と呟くと、右手で顎をさすりながら言った。
「姫若子かと思ったら、猿若子だったか・・・。確かに父親に似ておらぬな。あの噂は本当かもな・・・」
噂、という言葉に大松は反応仕掛けたが、そこは表に出さないよう、必死に堪えた。
父秀吉に似ていない大松―――のちの豊臣秀重には、当時よりある噂に悩まされていた。それは「豊臣秀重の実の父親は豊臣秀吉ではない」というものである。そうなると、実の父は誰かということになるが、一番怪しいとされたのは弟の小一郎―――豊臣秀長である。
但し、大松が生まれた永禄五年は、まだ秀吉が美濃へ調略へ向かう前だったため、ねねと一緒にいる時間が多かった。なので、ねねが小一郎やそれ以外の男と逢引を重ねるのは難しそうである。
そこで、まことしやかに囁かれたのが「ねねが生娘(処女のこと)のまま子を生んだ」というものである。当時の資料に残っているほどであるから、それほど父秀吉に似ていなかったのであろう。
「・・・大松の父はどう考えても筑前殿よ。話し方がそっくりよ」
元助がムスッとしながら呟いた。義兄弟(長可の妻は池田恒興の娘)の言葉に、長可は肩をすくめると、大松に言った。
「おい、お前、初陣か?」
「はっ!」
大松が返事をすると、長可はニヤリと笑って言った。
「おい、最初が肝心だぞ。馬鹿にされたくなければ、取り敢えず二、三人ほど首を取ってこい。それで誰も何も言わなくなるぞ」
「・・・大松は小姓だぞ。首を取りに行けるわけなかろう」
「関係ねぇ。機会は自分で掴むものだ」
信澄が呆れたような声を出していたが、長可は反論した。そして、大松を見ながら、
「おう、森隊に来い。一番槍ってのを目の前で見せてやる」
と言った。言った瞬間、一部の将から不満の声が上がる。
「勝蔵、若殿は先陣をそなたに任せるとは言っていないぞ」
「いや、先陣は勝蔵だ」
池田恒興が咎めるが、信忠が割って入る。
「どうせ初陣(森長可の初陣は第二次長島一向一揆鎮圧戦)での鬱憤を晴らしたいのであろう?先陣で晴らしてこい」
信忠が笑いながら言うと、長可が獰猛な笑みを浮かべながら言った。
「さすが若殿!分かっていらっしゃる。よし、大松、付いて来い!」
「大松を連れて行っては良いとは言っておらんぞ」
苦笑いしながら信忠は長可に言った。
「驚いたか?大松。あれが森家当主の勝蔵長可よ」
「はい。噂では知っておりましたが、聞きしに勝る猛将とお見受け致しました。」
その日の夕刻、清洲城の御殿にある座敷の一室、大松は晩飯を食べる信忠に酌をする役として、信忠の側にいた。信忠の問いに、大松は素直に答えた。
「そうであろう。あれの父である『攻めの三左』(森可成のこと)も猛将であったが、勝蔵はそれ以上よ」
上機嫌に盃を空にすると、その盃を大松に差し出した。大松は酒を注ぐ。盃が酒で満たされると、丁度瓶子(酒を盃に注ぐための器。巨大な徳利のようなもの)の中が空になってしまった。大松が「酒を入れてきます」と言って立とうとするが、信忠がそれを止めた。
「酒はもう良い。この後、文を書くでな。酔っては上手く書けぬ」
「承知致しました」
大松は座ったままで頭を下げると、瓶子を盆の上に置いた。
―――文の相手は松姫様かな?―――
上機嫌で酒を飲んでいる信忠を見ながら、大松は思った。
松姫とは、武田信玄の娘である。一応、五女とされている。永禄年間に武田信玄と織田信長との間には同盟が結ばれており、そのため、同盟の誼として信忠(当時は奇妙丸)との間に婚約が結ばれていたのだった。この時、信忠はせっせと松姫に手紙とプレゼントを贈り、その返礼も松姫から信忠へと贈られ、二人は愛を育んでいった。
しかしその後、武田信玄が徳川家康を攻撃したことで、織田と武田の同盟が破棄される。これで信忠と松姫との婚約も破棄となった。なったのだが、何故か信忠は変わらずに松姫へと手紙を送っていたのであった。
―――向こうはちゃんと読んでいるのかなぁ・・・?―――
正直言って、松姫に手紙は届いてないんじゃないか、と大松は思っていた。織田と武田はすでに戦火を三方ヶ原にて交わしている敵同士である。いくら松姫に文を送ったところで、どうせ渡されてはいないだろう。信忠もそれは分かっているはずだ。
しかし、その事について大松は何も言わなかった。言える立場ではないし、他人が口出すべきことでは無いだろうと考えていた。一応、武田に内応しているのでは?と思い、信頼できる兄貴分の堀秀政に相談しに行ったが、秀政の「御屋形様も存じているし、文の内容は改めているから」という言葉に納得してそのままである。
ちなみに、大松は知らなかったが、このことは秀政より信長に報告がなされていた。信長は「大松もお家のことを思って言ったこと。しかも儂に直接ではなく久太(堀秀政のこと)に相談した。なりたての小姓でそこまでできれば十分よ」と言って、大松の密告に対しては褒美もお叱りもなかった。
「大松。そなたには懸想する女子はおらんのか?」
「いえ、居りませぬが」
不意の信忠の問いかけに、大松は即答した。
「そうなのか?犬千代からはあれの姉を慕っておると聞いたが?」
「・・・姉弟として共に育ちました故、姉としては敬っておりまするが・・・・」
犬千代は何を言ってるんだ、と思いながら大松は信忠に答えた。
「まあいい。その姉とやらに文は書いておけよ。大切なものは失ってから初めて気づくことも多い。今のうちに手をうっておけば、まだ間に合うかもしれん」
「はあ」
信忠の意味深な言葉に、大松は生返事しか出来なかった。
「さて、膳はもう下げて良いぞ。今宵は一人で寝るから、他の者も寝所に入る必要はない。大松は今宵は寝ずの番か?」
「いえ、寝ずの番は清洲城に残る小姓達が務めまする。私めも明日に備えて、早めに休みまする」
「相分かった。あとは頼んだぞ」
信忠がそう言うと、立ち上がって奥の座敷へと向かって行った。座敷の外で控えていた寝ずの番を勤める小姓達が信忠の後に続いていくのを見ながら、大松は空になった信忠の膳を片付けていた。
天正二年(1574年)七月十二日。信忠の軍勢(約三万人)が清洲城を出立。その日のうちに奴野城に入る。次の日には主力である信長の軍勢(約四万人)と柴田勝家率いる別働隊(約三万人)が奴野城に入る。直後に軍議が開かれた。
「五郎左(丹羽長秀のこと)、軍議を始めよ」
「ははっ」
信長の言葉で始まった軍議は、長秀の説明だけで終わってしまった。軍議の後、木曽川を超えて太田城へ向かう柴田勢を見送ると、後は夜の進撃に備えて準備をするだけである。
大松はこの時厩にいた。自分の馬だけではなく、信忠の馬の準備をするためである。もちろん、信忠の馬を見る馬丁は複数人いたが、信忠の馬は一頭だけではない。何せ鎧をつけた人間や馬具を担いで歩いたり走ったりしているのだ。長時間人を乗せることは出来ないため、大将や騎馬武者は複数の馬を連れて行くのだ。そのため、信忠や馬廻衆の馬の準備に、馬丁だけではなく小姓衆も駆り出されているわけである。もっとも、全ての小姓が馬の世話をできるわけではないので、できる者のみが行い、できないものは別の仕事が割り当てられている。
大松が馬に草鞋を履かせたり(当時の日本では、蹄鉄そのものは南蛮貿易で入っては来ているが、蹄鉄を付ける技術がまだ入ってきていない)、馬の背に鞍を載せたりしていたとき、不意に大松を呼ぶ声がした。
「大松よ。ここにいたか」
大松が振り返ると、そこには小一郎が立っていた。
「叔父上!どうしてここに!?」
大松が近づくと、小一郎はニコニコしながら話しかけてきた。
「大松。朗報じゃ」
「朗報?戦の朗報ですか?」
長島の一向宗麾下の豪族が寝返ったとか、そういう類の朗報だと大松は予想した。
「いや、羽柴家の朗報じゃ」
「羽柴家の、ですか?」
予想の外れた大松は首を傾げた。
「おう。お前に弟ができた」
「はあ!?」
小一郎の話で驚く大松。小一郎が話を続ける。
「父上に側室が居るのは知っているな」
「はい。それは叔父上から聞きました。父上はそういった話はしないものですから」
「うむ・・・、兄者はそういう話は大松に話したがらないからのう・・・。いや、それはどうでもよい。その側室がつい先日、小谷で出産してのう。それが男子であったのじゃ」
「それは・・・、めでたいことでございます・・・」
急に弟ができた、と言われて戸惑う大松であったが、とりあえずめでたい事だけは理解できたので、祝辞を述べた。
「うむ、大松も兄となった。この戦、生きて帰って弟の顔を見に行かねばならぬのう」
「は、はい。あ、ところで叔父上、弟の名前は?」
「おう、『石松丸』よ。石のように頑丈で、老いても青々としている松のように長生きしてもらいたいと願っての命名じゃ」
「石松丸・・・。良き名前です。でも、私と違って『丸』がつくんですね」
「何故かは知らん。兄者のことだからその時の気分で付けたんじゃないのか?」
小一郎の発言に、「そんな名付けで良いのか」と大松は心の中で呟いた。
「・・・ではそろそろ行くでな。しかと励めよ」
その場から立ち去ろうとする小一郎であったが、心残りがあるのか、少し立ち止まってから言った。
「・・・大松、生きて帰れよ。兄者を悲しませるな。弟ができたからと言って、お前は羽柴家唯一の跡取りなのだからな」
「・・・はいっ、必ずや父上のもとに帰る所存です」
小一郎の気持ちを読み取った大松は、小一郎を心配させないように笑顔で答えた。
小一郎が去った後、大松は上機嫌で馬の準備を終わらせた。そろそろ晩飯である。今宵は前祝いとして、酒宴が開かれるので、その準備のために信忠の陣へ戻る予定であった。
「おい、猿若子」
後ろから不意に声をかけられたので、後ろを振り向くと、そこには森長可がいた。隣には長可よりも身長の高い、いかつい男が立っていた。
「これは森様。このような所に何用でございまするか?」
大松はそう言いながら片膝をついた。長可が言葉を続ける。
「これから酒宴だろ?案内してくれよ」
「承知致しました。こちらにございます」
そう言いながら大松は立ち上がると、自ら先導して二人を信忠の陣へと導いた。
「・・・お前よ。歳いくつだ?」
ふと長可がそう聞いてきたので、大松は正直に「十三です」と答えた。答えた瞬間、被さるように長可が大声を上げた。
「はあ!?お前十三なの!?十三でその身長なの!?」
「殿、身長は関係ないでしょう」
長可が大声で喚く横で、男が静かに言った。
「だって兵庫(森家重臣、各務兵庫介元正のこと)よ、おかしいだろ!大松はあの羽柴筑前の息子なんだぜ!?筑前と俺の身長、そんなに変わらないのに、なんで息子の身長も十三で変わらねぇんだよ!俺の身長より大きくなること確定じゃねーか!」
「子が親の身長を抜くのはよくある話でございましょうに」
「あー!なんで俺は背が低いんだよ!親父も兄貴(森可隆のこと)もそこそこ高いのに!ついでに弟たちも俺と同い年だった時よりもでかくなってきてるのに!ふざけんな!」
一人で頭にきている長可の前で、大松は笑いを堪えるのに必死に堪えながら酒宴会場へ足を進めていた。
豊臣秀吉の次男の名は”石松丸”とするのが通説である。これは滋賀県の竹生島にある宝厳寺の『竹生島奉加帳』には石松丸と記載されているからである。
なので、実は長男たる”大松”も本当は”大松丸”が正式な幼名なのでは、とする説もある。
注釈
姫若子とは『女の子のような男の子』という意味での蔑称である。この蔑称をつけられたとして有名な武将に長宗我部元親がいるが、元親だけにつけられた蔑称ではない。