第188話 城主重秀の一日(その4)
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「・・・若殿様、そら一体どういった意味でございまひょか?」
素直屋与兵衛が警戒心丸出しにそう尋ねてきた。重秀が与兵衛に真っ直ぐな視線を向けながら口を開く。
「・・・今、兵庫城の南側では和田神社に至る砂州や須佐の入江の埋立地に町を作っているのは知っているな?」
「良う存じ上げとります。花隈城下の町衆を始め、羽柴様の水軍衆の方々が次々と住んでる場所でございますな?」
「そう。そしてあそこに住む者は、最初の十年間は年貢を減免することになっている」
「存じとります」
「なので、あそこの商人達を浜方の惣会に入れさせず、別の惣会を作る」
「はあぁっ!?」
それまで余裕をかましていた与兵衛から素っ頓狂な叫び声が上がった。重秀は話を続ける。
「・・・浜方と砂州の方では年貢・・・いや、運上や冥加の納め方が違うだろ?浜方の惣会に運上や冥加のことで煩わせたくないんだよ」
そう言って与兵衛を心配するかのような素振りで話す重秀。しかし、実際には別の意図があった。
重秀が浅野長吉と共に北播磨の検地を行って分かったことがあった。国衆の土地支配の権利が複雑すぎて、城や国衆が持っていた検地帳に矛盾する記載が数多くあったのだ。しかも、国衆の中には帳簿すら持っていない者もいたため、百姓どころか国衆ですら把握できていなかった。
さらに年貢の納め方すら違っていた。年貢として納める米の計り方も違っていた。米の計りとして枡を使うのだが、この枡の大きさすら違っていた。何から何まで違っていたのだ。結果、年貢の多重納付や納付漏れが多々見受けられた。
重秀と長吉はこの経験から、摂津二郡での徴税方法を単純化することにした。しかし、兵庫津についてはそのままにした。下手に改革の手を入れて今までのやり方を否定しては、岡方と浜方の惣会を怒らせてしまい、運上や冥加の上納を拒否する恐れがあったからだ。
その代わり、兵庫城の南側、新しく作っている町については、岡方や浜方の今までのやり方を踏襲させず、重秀や長吉が考えた新しい仕組みで年貢や運上や冥加を徴収しようとした。そして、徴収方法の単純化のため、南側に新たな惣会を作ろうとしたのだった。
「それに、南側に住む者は岡方や浜方から見れば余所者だぞ。古くからいる者と余所者では、まとめるのに一苦労だろう。ここは分けた方がそちらにも良いと思うが?」
新しく作っている町には、花隈城の町方からの移住者だけでなく、長浜や大浦、塩津そして塩飽から来た水夫や船大工、そしてそれらの家族が住むことになっていた。浜方や岡方に組み込めば、絶対に地元の者と移住者との間で諍いが起きることは目に見えていた。
特に、移住者には期間限定ながら年貢減免の特典が与えられているのである。年貢や運上、冥加の上納が義務付けられている地元民からすれば良い気はしないだろう。
一方、与兵衛から見れば重秀の配慮も理解はできる。が、新しい町を浜方に組み込めないのが痛かった。
新しくできる町は南側の砂州と須佐の入江を中心に開発が進んでいる。そして須佐の入江に新たな造船場と湊ができることも知っていた。つまり、浜方の惣会の構成員である納屋衆と船大工達が新たな町に発生することは予想できた。
浜方の惣会は当然新しい町の納屋衆と船大工を吸収できるものと考えていた。後は彼等の商売を制限し、元々居る商人達を保護すれば良い。
しかし、新しい町が新たな惣会をもって独立するとなると、それは新たなライバルが生まれることになる。それは避けたかった。
与兵衛が抗議の声を上げようとした時、出し抜けに河田屋嘉兵衛が重秀に向かって声を上げる。
「誠に良き考えと存じます。岡方は若殿様の考えに同心致しまっせ」
嘉兵衛の言葉に、与兵衛は怒りの視線を嘉兵衛に向けた。しかし、嘉兵衛は涼しい顔をしてた。
嘉兵衛にしてみれば、浜方の力が大きくなることを恐れていた。岡方と浜方の惣会は決して仲が悪いわけではない。が、岡方と浜方のパワーバランスは、常に浜方に傾いていた。
岡方の惣会に参加する商人は、数は多いのだがそのほとんどが零細な商人である。一方、浜方の商人は数は少ないが船に関わる商人が多く、その利益は莫大なものであった。銭の多さが商人の力であるため、銭を多く持つ商人を多く抱える浜方の惣会の意見がどうしても大きくなってしまうのであった。
新しい町が浜方と同じ町になることは、嘉兵衛にも予想ができた。なので、新しい町が浜方になるだろうと考えていた。そうなれば、商人の数でも利益でも、完全に浜方の惣会が岡方を上回るのが目に見えていた。嘉兵衛を初めとした岡方の惣会の商人達は、浜方に吸収されることを覚悟したほどであった。
しかし、新しい町が浜方の惣会に加わらず、新たな惣会を作ると聞いた時、嘉兵衛は岡方の惣会が生き残る最後の機会を見出した。ここで重秀に賛同し、浜方の惣会が巨大化するのを阻止しようと考えたのだ。
と、同時に、嘉兵衛は重秀の政治的バランス感覚に舌を巻いた。兵庫津で三つの惣会ができる。しかも、一つは重秀が作るのだ。どう考えても新たな惣会は重秀の与党になる。重秀が岡方と浜方の惣会が反対する政策を行っても、新しい惣会は受け入れるだろう。それで新しい惣会が重秀に優遇され、岡方と浜方が冷遇されれば、二つの惣会は共倒れになるだろう。
無論、岡方と浜方が共同戦線を張って重秀に対抗するという手もある。が、相手は織田家重臣羽柴筑前守秀吉の息子で前右大臣である織田信長の女婿である。本気を出せば岡方と浜方を更地にできる力を持っているのだ。
いや、更地にする必要もない。堺の商人である千宗易の茶の湯の弟子であり、南蛮人とも繋がりの深い小西隆佐と誼を通じているのだ。堺商人の活動を兵庫津や摂津二郡で認めれば、資金力で劣る兵庫津の商人が干上がるのだ。どう考えても勝てるわけがなかった。
それに、と嘉兵衛は思う。今まで聞いてきた話では、岡方にも利益が出るような話もしてくれた。少なくとも、この若殿様は岡方を見捨ててはいない。ならば、こちらも若殿様を支えれば、より一層利益を生む話を持ってきてくれるかもしれない、と。
結局、新しい町には新しい惣会ができることとなった。この惣会が後に南浜方の惣会と呼ばれるようになり、浜方の惣会は北浜方の惣会と呼ばれるようになる。
嘉兵衛と与兵衛等を交えた話し合いは、結局正午を過ぎてしまい、未の刻(午後1時から午後3時半)に差し掛かろうとしていた。とりあえず重秀の執務時間はこれで終わりであり、あとはプライベートな時間であった。
重秀は執務が終わると、まずは軽く軽食を取った。いわゆるおやつである。おやつは主に季節の果物が中心であった。特に日持ちして手に入りやすい胡桃が好まれていた。
おやつを食べ終わると、重秀は御殿の『表』にある庭へと木下大蔵と共に向かう。日課である木刀の素振りを行うためである。
重秀が庭に出ると、そこには福島正則と三人の少年がすでに木刀の素振りを行っていた。
少年達の中で一人背の高い者がいた。黒田孝隆の息子、黒田松寿丸である。数えで十三歳。そろそろ元服する年齢である。
彼は本来孝隆の下へ返されるはずであった。しかし、孝隆の「もう少し学ばせたい」という希望で、今でも兵庫城に残って小姓を務めていた。
ちなみに、付けられていた栗山利安は孝隆の要請で姫路に戻っていた。代わりの付き人はいないのだが、孝隆の異母弟で秀吉の家臣となった黒田利則が、重秀の家臣として異動してきており、松寿丸の面倒を見ていた。
松寿丸に比べて背の低い少年達は宇喜多八郎と竹中吉助である。
八郎は宇喜多直家の息子である。彼は宇喜多家から出された人質であったが、重秀の下で武術と学問を学んでいた。
吉助は竹中重治の息子である。重治は遺書で自分の知行を義弟の竹中重利に譲り、息子の吉助は菩提山城城主で弟の竹中重矩の保護下に置くように書いてあった。秀吉も当初は遺書のとおりにするつもりであった。
しかし、重治の家臣でもあった重利が遺書の内容を聞いて驚いた。
「自分は義弟である前に家臣である。その家臣が嫡男を差し置いて知行を受け取るなどとんでもない」
そう言って秀吉に辞退を申し出てきた。重利の辞退の意思は固く、困った秀吉が重矩と相談した結果、重治の跡を吉助が継ぎ、その後見人として重利が付くことになった。結果、吉助は兵庫に残ることになり、ついでに重秀の下で学問を修めることとなったのである。
「皆、待たせたな」
近づきながら重秀がそう言うと、上半身裸の正則が重秀の方を見る。
「おう、兄貴。もう始めているぞ」
「すまん。話が長引いた」
そう言いながら上半身の着物を脱いだ重秀。大蔵から木刀を受け取ると、ウォームアップとして軽く木刀を素振りした。
「よし、素振りはここまでだ!八郎と吉助は槍を教えるからその準備をしろ。松寿は兄貴の弓の準備だ。良いな!?」
正則がそう言うと、少年達が「はいっ!」と大きな声で返事をした。
八郎と吉助は正則の指導の元、槍の使い方を習っている一方、木刀の素振りを終わらせた重秀は松寿丸と共に弓の鍛錬を行っていた。
重秀は弓の鍛錬を重視していた。船軍では鉄砲を重視している重秀であったが、鉄砲は火薬がなくなるとただの鉄棒にしかならなくなる。船軍の場合、中遠距離攻撃が主となるため、鉄砲の予備兵器としての弓矢を重視していた。
また、この頃は陸上戦でもまだまだ弓矢の出番は多かった。なので、実戦的な弓の鍛錬は必要であった。
弓の準備の終わった重秀が、的からおよそ121m離れた場所に立つと、そこから矢を番えて放つ。これを連続して行っていく。最近流行りの『通し矢』と呼ばれる射通す鍛錬法である。
元々、京都の三十三間堂の西側外縁を南から北へ射通すもので、三十三間(約121m)先の的に一昼夜かけて連続して射撃することで、的に当たった矢の多少を競い合うものである。
重秀は弓の鍛錬として、この三十三間という距離だけ採用した。一昼夜ぶっ通しての射通しは無理なので、100本という制限を定めていた。
ちなみに、今日はあまり時間がないということで、半分の50本と制限を定めていた。
重秀の傍では松寿丸も弓の鍛錬を行っていた。ただし、こちらは近距離の的を射抜くもので、矢を遠くに飛ばすのではなく、弓を引く力を鍛える鍛錬であった。
さて、今日は重秀の鍛錬は弓だけであったが、本来は正午から未の刻が終わるまでは武術または修学を行っていた。この頃重秀は武術については剣術、槍術、弓術、馬術、砲術を専門の師から習っていた。また、狩りも行っていたが、残念ながら鷹を持っていないので、もっぱら鉄砲や弓を使った狩りであった。本当ならば、部隊の指揮を学ぶために巻狩りをしたいところであったが、これは莫大な費用と広大な土地が必要なため、重秀は諦めていた。
変わった鍛錬としては、水軍の鍛錬であろう。操船術や水練を積極的に行っていた。また、地元の船乗りや塩飽の案内人から潮の流れや風の読み方、地形の読み方なども習っていた。また、自らが小早に乗り、複数の小早を使って船団の動かし方を訓練、または研究していた。
修学については主に読書が中心であった。竹中重治が持っていた本を自ら書き写した本を読み直し、また、新たな本を取り寄せては読み込んだ。大松時代には避けていた日本の古典も読み漁るようになり、また『延喜式』といった過去の法令集も読み込んでいた。
また、日野輝資との手紙のやり取りで和歌を学び、広橋兼勝との手紙のやり取りで書道を学んでいた。更に、千宗易との手紙のやり取りで茶の湯の指導を受けつつ、実際に茶の湯を行い、その報告を宗易にするだけでなく、兄弟子の蒲生賦秀や最近宗易の弟子になった長岡忠興と手紙を通じて意見交換をするようになっていた。
最近文通相手となった口蕣とは『三国志』についてやり取りをしていたが、次第に『論語』を初めとした四書五経についての意見交換も行うようになっていた。
そして、重秀の修学は読書や手紙による指導だけではなかった。兵庫津に南蛮寺ができたことで、南蛮の知識が兵庫津に入るようになった。その南蛮の知識を学ぶべく、南蛮寺に行くようになった。そこで重秀は西洋の知識を身に着けていった。
ただ、教えてもらった相手が伴天連だったので、キリスト教の知識も身に着けてしまった。そのため、重秀はキリスト教にだいぶ寛容になってしまった。
もっとも、重秀自身は側室がいることを理由にキリシタンになることを頑なに拒否していたが。
重秀が50本の矢を放ち終えたのは申の刻一つ(午後3時半頃)であった。重秀は弓の鍛錬を終えると、控えている大蔵の傍に近づいた。大蔵は濡れた手ぬぐいをさしだすと、重秀はそれを受け取って裸状態の上半身の汗を拭った。
汗を拭い終わると、重秀は上半身だけ脱いでいた着物を着込んだ。その最中、大谷吉隆が近づいていた。吉隆が近づくと、片膝をついて跪く。
「若殿。前野将右衛門殿(前野長康のこと)と淡河弾正殿(淡河定範のこと)が書院にてお待ちです」
「二人が?分かった。今行く」
珍しい組み合わせだな、と思いながら重秀が答えた。
重秀が吉隆と大蔵を引き連れて表書院に入ると、下座に並んで座っていた長康と定範が平伏した。上座に座りながら重秀が口を開く。
「二人共どうした?もうすぐ酒宴だろう?もう天守の広間に行ってても構わないんだけど」
重秀がそう言うと、二人は顔を上げた。そして、まずは長康が言葉を発する。
「若殿。先程弾正殿と話をしたのですが、今宵の酒宴には懸念がありまする」
「懸念?」
重秀がそう言って首を傾げると、長康は「左様」と答えた。
「長浜から来た者達と、播磨から来た者達は去年まで戦ってきた者です。若殿がそのわだかまりを取り除かんとして酒宴を開いたのは良きことかと存じまするが、いささか性急だったのではないか、と愚考致しまする」
「・・・なるほど。言いたいことは分かる。しかし、近いうちに我等は備前、美作を越えて毛利領へ攻め込む可能性がある。そうなった場合、播磨勢と長浜勢が共に力を合わせなければ、あの毛利と戦っても勝てないぞ」
困惑気味にそう言った重秀に、今度は定範が話しかける。
「若殿のお考えごもっとも。また、今更酒宴を中止するのも若殿の外聞を損なうというものでございます。そこで、それがしと将右衛門殿と話し合ったことにつき、若殿のご裁可を頂きとうございまする」
「話し合ったこととは?」
「戦の話をさせないことにござる」
定範の回答に、重秀は思わず唸る。
「・・・それは難しいのではないか?仮にも武士だぞ?戦の手柄話はしたいだろうに」
「しかし、その手柄話が播磨勢の負けた話ですからな。かえって亀裂が生じかねませぬ」
重秀の疑問に長康がそう答えると、続けて定範が話を繋げる。
「まあ、それがしは若い頃に有馬などの摂津の国衆に勝った話があるので良いのですが、梶原殿や三浦殿、それに彦進殿(別所友之のこと)はそういった手柄話は無いか、あっても羽柴との戦いでの手柄話です。荒次郎殿(三浦義高のこと)はともかく、若い彦進殿や荒右衛門殿(三浦義知のこと)は若気の至りで絶対に羽柴に勝った話をしますよ」
定範の話を聞いた重秀は、口元に右拳を当てて考え込んだ。定範の言うとおり、もし播磨勢の若者たちが羽柴に対して局地的な勝ち戦の話をすれば、必ずや正則や清正が反発するに決まっている。
「・・・言いたいことは分かった。しかし、話の流れでそういった手柄話は必ず出るはず。それを止めるには、別の話に逸らすしかないのではないか?」
重秀がそう言うと、長康と定範は少し驚いた顔をした。長康が頭を下げながら重秀に言う。
「ご明察です、若殿。もし、手柄話が出た場合は、それとなく話題を変えるべきでしょうな」
「本来ならば、事前に示し合わせて『手柄話はしない』という合意を得るべきなのでしょうが、ちと時が足りのうござる。ここはそうするしかなさそうですな。ただ・・・」
定範がそう言うと、少し思案に入った。そして再び口を開く。
「・・・いずれの機会にか、手柄話をさせるべきかと存じます。若い連中に不満が溜まりそうですからな」
「それは私も考えておこう。それよりも、すべきことがある」
重秀がしっかりとした口調でそう言い切ったのを見て、長康と定範が頭を下げて聞く体勢に入った。重秀が話を続ける。
「さっきも弾正が言ったように、事前の示し合わせは必要であろう。若い者達はともかく、伊右衛門(山内一豊のこと)や浅野の叔父上、木下の伯父上、そして甚右衛門(尾藤知宣のこと)にもこの事を話しておいたほうがいいだろう。若手を抑える大人は多い方がいいだろう」
重秀がそう言うと、長康と定範は「承知いたしました」と言って平伏した。