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第186話 城主重秀の一日(その2)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。


 兵庫城天守一階、広間では重秀と家臣・与力達が評定を続けていた。


「次に、父と叔父上(小一郎のこと)についての近況を報告してもらう。将右衛門」


 重秀にそう言われた前野長康が、皆に説明をし始めた。


 天正八年(1580年)三月。まだ山肌に雪が残っている中、秀吉は宍禾しさわ郡(のちの宍粟しそう郡)に侵攻した。蜂須賀正勝の軍勢を先陣とした秀吉軍は、宇野政頼・祐清親子の居城である長水山城を包囲し、攻撃を開始した。

 宇野親子にとって、これは完全に奇襲であった。まず、いくら雪が降らなくなったとはいえ、雪が残る三月に大軍で攻めてくるとは思っていなかったのである。

 次に、宇野親子は去年の十二月から黒田孝隆を通じて秀吉への降伏を打診しており、その条件を交渉していた。しかし、秀吉はこの交渉を引き伸ばした。相手の油断を誘うためである。孝隆も心得たもので、上手い具合に交渉を引き伸ばした。そして宇野親子はこの策略に見事に引っかかったのだった。

 この結果、大した準備をしていなかった長水山城はあっという間に陥落。逃げ出した宇野親子は千種ちくさと呼ばれる地域で蜂須賀勢に捕捉されて討ち取られた。こうして宍禾郡は秀吉のものになったのだが、事はこれだけに終わらなかった。


 重秀達にこのことは伝わっていないが、後に書かれた史料によれば、秀吉は宇野家に連なる者だけでなく、宇野家に従った国衆や寺をことごとく滅ぼした。国衆は女子供まで磔にされ、美作や因幡の国境に近い街道沿いにその首と死体を晒したと言われている。また、寺も宇野親子についたと思われる寺は全て焼き払い、僧侶も殺されたとされている。

 宍禾郡と長水山城はその後、蜂須賀正勝に与えられた。ただし、千種とその周辺は秀吉の直轄地となった。山しかない千種を秀吉が欲しがったのは、古来より千種がたたら製鉄で有名だったからである。つまり、秀吉は鉄の生産地を直轄地にしたのであった。


 天正八年(1580年)閏三月。秀吉の宍禾郡平定が終わると、次は小一郎による但馬平定が始まった。小一郎の下に秀吉からの援軍として、加藤光泰、戸田勝隆、神子田正治、別所重宗の軍勢を援軍として派遣。小一郎の指揮の下、木下利匡・祐久兄弟、宮部継潤、荒木重堅、尼子勝久、そして援軍の軍勢を加えた総勢六千の兵力が竹田城に集結した。

 小一郎はこの六千の兵をすぐに出撃させなかった。家臣である藤堂高虎と、尼子勝久の家臣で事実上の尼子衆の指導者である山中幸盛に、但馬の国衆の調略を頼んだのだった。

 幸盛は尼子復興のため、一時期但馬に居たことがあった。その時に培った但馬の国衆との繋がりを使って、調略を始めた。結果、但馬山名家の重臣である垣屋光成が降伏し、羽柴方へと寝返った。あとはドミノ倒しのように国衆が降伏し、但馬山名家の当主、山名祐豊とその息子山名堯熙(あきひろ)(たかひろとも言う)は有子山城へと追い詰められていった。

 ここまでが重秀達に伝えられた情報である。


 ちなみに、重秀に伝えられた四月の初旬にはすでに有子山城は落ちていた。有子山城に追い詰められた直後に堯熙は父親と意見が衝突して出奔。また、重い病に罹っていた祐豊では満足な籠城戦の指揮を執ることができず、短期間で降伏していたのだった。というわけで、小一郎の但馬平定は四月中に終わるのだが、重秀がその事を知るのはもう少し後である。


「・・・以上が播磨、但馬の状況でござる」


 長康がそう言って説明を終わりと、広間にざわめきが広がった。


「小一郎殿も存外やりますな。さすがは大殿(秀吉のこと)の弟君じゃ」


まつりごとには長けたお方だと思っていたが、まさか戦にまで長けていらっしゃるとは・・・」


 そんな声があちらこちらから聞こえた。そんな声を聞きながら、重秀が口を開く。


「叔父上の下には戦上手が多くいる。特に、善祥坊殿(宮部継潤のこと)は、あの身なりでありながら歴戦のつわものである。叔父上と善祥坊殿は長年の付き合い故、阿吽の呼吸があったのであろう」


 重秀の言葉に、小一郎と継潤をよく知る人達が一斉に頷いた。その中の一人である長康が口を開く。


「若殿。此度の戦は我等には全く関係がありませなんだ。しかし、今後は我等にも関係が出てくることとなりましょう。その事について、お話しとうございますが」


 長康がそう言うと、重秀は頷いた。それを受けて長康が話を再開する。


「実は大殿より、六月に美作への出兵を考えている旨、報せが入った」


 そう言うと、広間にざわめきが上がった。長康が話を続ける。


「宇喜多和泉守様(宇喜多直家のこと)から大殿へ、援軍の要請があった。美作にいる毛利方の国衆を討伐すると。そのために援軍を要請してきたのだ」


「・・・宇喜多は備前や美作だけでなく、備中や播磨にも領地があるんだろ?噂じゃあ五十万石の大大名って言うじゃねーか。援軍が必要なのか?」


 福島正則がそう声を上げると、何人かが首を縦に振った。それに対して長康が答える。


「美作の国衆だけを討つなら我等の援軍はいらぬだろうな。しかし、その背後には毛利がいる。毛利が援軍を出してくるのは当然だろう」


「しかしながら、毛利は播磨に援軍を少ししか出しませなんだ。美作に出しますかね?」


 加藤清正の疑問に、長康が答える。


「今年の三月に、毛利は小早川率いる備中の国衆を備前に攻めこさせたが、辛川と呼ばれる場所で宇喜多勢と戦って敗北している。毛利は宇喜多を攻め滅ぼさんと躍起になっているからな。援軍を出すのは当然であろう」


 長康の答えに清正は納得したかのように頷いた。


 宇喜多の寝返りと織田による播磨の平定により、毛利家中では動揺が広がっていた。この状況を打開すべく、山陽方面を担当していた小早川隆景が1万5千の兵を率いて備中から備前へ侵攻した。これに対し、病気で寝込んでいた宇喜多直家は弟の宇喜多忠家を総大将とした迎撃軍を編成。忠家は辛川と呼ばれる場所で毛利軍を迎え撃った。

 辛川城をはじめとする小さな城郭群と効果的に配置した伏兵によって、宇喜多軍は毛利軍を撃退することに成功した。この戦いを後世では『辛川崩れ』と言う。


 長康が話を再開する。


「大殿の考えでは、播磨の国衆と摂津の軍勢の混成で援軍を送りたいとの考えでございます」


「摂津からも出すのか。将右衛門に出陣するよう命が来たことは知っているが、他には誰が行くのだ?」


 重秀が長康に聞くと、長康は「ご懸念無用」と言ってきた。


「大殿からの指示で、それがしの他に茂助(堀尾吉晴のこと)、孫平次(中村一氏のこと)が向かうこととなっております」


「あ、そうなんだ」


 重秀が安堵した声で言った。そんな重秀に、長康が更に話す。


「しかしながら、兵糧などの準備は若殿に任せる旨、大殿より承っておりますが」


「相分かった。・・・それでは弥三郎(石田正澄のこと)、藤左衛門(寺沢広政のこと)、それに虎にも兵糧や武器弾薬の準備を頼もうか」


 重秀に名前を言われた正澄と広政が「承知いたしました」と言って平伏した。しかし、もう一人虎と呼ばれた清正は、思わず「はぁっ!?」と声を上げてしまった。そんな清正に重秀が話しかける。


「虎はそろばんもできるし、算術も得意。そろそろ小荷駄や輜重に関する事も学んでも良いだろう」


「・・・だったら市もではございませぬか?長兄」


 清正の言葉に、名指しされた正則が「はぁっ!?」と驚きの声を上げた。すかさず重秀が言う。


「それもそうだな。市、お前も手伝え」


「な、なんでだよ!?」


「市も虎も、五百石を貰う武将となった。今後はもっと知行が増えるとなれば、己のそなえ(騎馬、弓、槍、鉄砲、小荷駄の各兵科が集まってできた編成部隊のこと)を持つことになるんだ。そのための学びだ」


 重秀がそう言うと、長康や山内一豊から「若殿の言うとおりだ」と言う声が聞こえた。市が溜息をつきながら「分かったよ」と呟いた。

 重秀が満足そうに頷くと、末席の方から「恐れながら」という声がした。皆の視線が声を発した若者―――大谷吉隆に向けられると、吉隆はその視線に負けないように重秀に言う。


「それがしも後学のため、手伝いとうございます」


 重秀を真っ直ぐ見つめながらそう言う吉隆。重秀は特に考えることもなく許可を出した。


「良いだろう。紀之介(大谷吉隆のこと)にも手伝ってもらおう。弥三郎、任せた」


 重秀の言葉に、正澄が「御意」と答えた。直後、正則が声を上げる。


「紀之介にもやらすなら、孫六(加藤茂勝のこと)にも手伝わせろよ!」


 そんな正則の言葉使いに、複数の者達の表情が不機嫌になった。仮にも大名で主君でもある重秀に、雑な言葉遣いで大声を上げたのだ。浅野長吉が叱責する。


「市兵衛!若殿に対してその言葉遣いは何だ!君臣の分を弁えろ!」


 そう言われた正則は、ハッとした顔になった後、すぐに平伏した。


「すまねぇ、いや、申し訳ございませぬ。兄貴、じゃなくて若殿」


 しかし重秀は言葉を発しなかった。ただ長吉に頷いただけであった。重秀にしてみれば、ここですぐに許してしまえば、付き合いの短い家臣達から序列の秩序がゆるいと思われかねない。それでは主君としての威厳が損なわれる。一方で、素直に謝った正則を許さないのも良くないと思っていた。そこで、自分は黙って、長吉に許してもらうことにしたのだ。

 長吉も長吉で心得たもので、重秀の意図を汲み取ると、正則の方へ向き直って「分かれば良い」と許した。正則は頭を上げると、顔を正面に向けた。

 これでこの件は終わった、と見た長康が話を続ける。


「若殿。大殿からは『藤十郎の出馬には及ばす。摂津二郡を心して治めよ』とのお言葉を預かっております」


「相分かった。父上の指示に従う。他には何か言ってなかったか?」


「子が産まれたら、男子おのこでも女子おなごでも構わないから、いの一番に報せよとの事にございます」


「・・・相分かった」


 送られてくる手紙にも常にそう書かれているため、長康から同じことを聞かされた重秀はうんざりしながら答えた。これで長康からの議題の話し合いが終わった。


 その後、細々とした話し合いがなされ、終わった時には巳の刻(午前9時半頃から午前11半頃)となっていた。





 巳の刻から午の刻(午前11半頃から午後1時半頃)までの間、重秀は本丸御殿の『表』にある書院(表書院)で書類仕事をする。


 通常、城主には右筆ゆうひつと呼ばれる文章作成のための秘書がいた。しかし、重秀には右筆と呼ばれる者は傍にいなかった。一応、秀吉の右筆も務めていた寺沢広高がいたのだが、彼には小姓頭としての仕事もあったため、右筆だけ仕事するというわけにはいかなかった。

 また、大谷吉隆も秀吉の右筆をやったことがあるため、重秀の右筆を務められそうなのだが、彼は文武共に優秀だったため、内政や軍事に大忙しであった。当然、右筆だけを務めている訳にはいかなかった。

 そこで、広高や吉隆が右筆をできない場合、重秀自ら文章を作成していた。重秀本人は小姓時代に右筆のイロハを岐阜城内で学んでいたため、書類の形式には詳しかった。なので自分が書状を書くのは特に問題ないと思っていた。

 しかし、それは大きな間違いであった。何故ならば、書く書状の量が想像以上の多さだったからだ。


「・・・右筆が欲しい。今すぐ欲しい」


 そう呟きながら筆を進める重秀。その隣では、重秀と同じように広高が筆を進めていた。


「若殿。書状の中身はそれがしにお任せあれ。若殿は署名と花押のみ書いていただければ結構でございます」


「いや、今日中に書かなければならない書状が多いからな。二人で書かないと終わらない。それに、この後に私は兵庫津の惣会(兵庫津の自治組織のこと)の商人達と会うことになっている。約束の時までには終わらせておきたい」


 そう言って重秀は筆を更に進めた。広高も重秀に合わせるように文章を書いていくが、重秀のように速く筆が進まない。これ以上速く書くと字が汚くなり、読みづらくなってしまうからだ。

 一方、重秀は筆のスピードが速い割に字が綺麗であった。


「若殿。それだけ速く書いているのに、よく字を美しく保てますね」


「小姓の頃に散々習わされたからな。それに、広橋の参議様(広橋兼勝のこと)から文章の書き方や美しい字の書き方を書状で教わっているから」


 重秀の回答に、広高が「なるほど」と納得した。


 そんな話をしながらも、重秀と広高は何とか今日の書類仕事を終わらせることができた。しかし、重秀の署名と花押の記入はもう少しだけ続いた。


 重秀が署名と花押を書かなければならない書類は、何も領内の文章だけではない。例えば秀吉が播磨と摂津に跨る事案について、信長に報告のための書類を出す場合は、秀吉の署名と花押の他に重秀のものも必要になる。そのため、播磨から来た秀吉の書類に重秀が連署する必要があった。


 秀吉から回された書状に署名と花押を書き込む重秀。それが終わると、重秀は手元にあった白湯の入った椀を持ち、口元へ運んだ。すっかり冷めてしまった白湯が重秀の喉元を潤していく。

 そして一気に白湯を飲み干すと、重秀は思いっきり肺の中の空気を吐き出した。


「はぁ〜。やっと終わった」


「骨折りでございました」


 傍で秀吉からの書状を整理していた広高がそう声をかけてきた。広高が話を続ける。


「若殿のご尽力により、本日出さなければならない書状は全て書き終えました。惣会の者共が来るにはまだ時があります故、どうぞお休みください」


「ああ、そうしよう」


 重秀がそう言って頷くと、広高は書状を持って書院から出ていった。


 しばらく休んでいた重秀であったが、「あ、そうだ」と呟くと、再び文机に向き直した。そして巻紙を引っ張り出すと、再び筆に墨をつけて何かを書き始めた。


「与一郎殿(長岡忠興のこと)にお礼の文を出さなければ」


 羽柴重秀―――豊臣秀重は父である豊臣秀吉と同じくらい筆まめな人物であった。特に、兵庫城主であったこの時期に出された手紙は、現代にまで多く残されていた。そのため、日記を残していない兵庫城時代の秀重の活動については手紙によって明らかとなっている。

 この時期に秀重と手紙のやり取りをしていたのは、秀吉、小一郎長秀といった親族はもちろん、幼馴染である前田利勝とその母であるまつ、義兄である蒲生賦秀、友人である長岡忠興、小姓時代に世話になった堀秀政、茶の湯の師匠である千宗易、養蚕などで世話になっている小西隆佐・弥十郎親子、そして相国寺の口蕣(のちの藤原惺窩)などであった。

 また、手紙は現存していないが、ゆかりの養父母である織田信長とお濃の方、実父母である織田信包と長野夫人にも時候の挨拶の手紙を出したと言われている。


 忠興への手紙を書き始めた重秀は、その手紙で百人一首カルタの売上の一部を重秀に渡してくれたことについて、感謝の気持ちを文字に綴っていた。


 京で流行りだした百人一首カルタは、その売上を商人と忠興と重秀との間で4:4:2の割合で分割することに決まっていた。重秀の取り分が2割なのは、代わりに羽柴がカルタを欲した場合は最優先で手に入れられる権利と、羽柴が独自にカルタを制作できる権利を得ていたからである。

 重秀が独自に作る百人一首カルタは、実際には堺の千宗易によって作られていた。播磨で作られている杉原紙と呼ばれる厚手の紙に、長谷川信春(のちの長谷川等伯)が描く歌仙絵の百人一首カルタは、信春が未だ無名の絵師であることから、京で売られている百人一首カルタよりも安い値段で売買されていた。

 しかし、丈夫な杉原紙で作られたカルタは雑に遊んでも破れないため、武士や商人が百人一首を学べる遊具として購入していた。これもまた重秀の収入源となった。


 これらの収入源は全て重秀の元へと送られた・・・訳ではない。そのほとんどは宗易や小西隆佐によって資金運用され、そこから得た利益を更に運用していた。現代で言うところの複利投資である。

 長浜時代に秀吉や小一郎が行っていた、商人を介しての資金運用を、重秀もまた利用していたのであった。





 忠興へのお礼の手紙をちょうど書き終えた時だった。書院の外の縁側より、広高が声をかけてきた。


「申し上げます。素直屋与兵衛殿と河田屋嘉兵衛殿がお城に到着された由」


「分かった。こちらにお通ししろ。それと、皆を呼んできてくれ」


 重秀がそう命じると、広高は「はっ」と返事をした後、重秀の前から立ち去ったのであった。


注釈

杉原紙とは、奈良時代より播磨で作られていた紙のことである。

播磨国多賀郡にある椙原庄(のちの杉原谷)という地域が発祥の紙で、こうぞを原料とした厚手の紙という特徴がある。平安時代から公文書用の紙として重宝されていたが、室町時代になると『武士は杉原紙以外の紙で文を書いてはいけない』というマナーができる。

その後、播磨各地のみならず、全国で厚手の紙が作られ、それらの紙は全て『杉原紙』と呼ばれるようになった。特に加賀国で作られた杉原紙は『加賀杉原』というブランド名がついていた。

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大名は忙しい。そして、公の場では威厳を持たせなければならない。 織田信忠から良く学んでますね
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