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第185話 城主重秀の一日(その1)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


今回はちょっと短めです。また、三連休ということなので、日曜日にも1話投稿させていただきます。

 天正八年(1580年)四月のある日。新暦では5月に当たるこの日は、朝から曇りがちな空であった。

 重秀はいつも寅の刻(午前2時から午前4時)に起床する。城主となると一武将とは違い、卯の刻(午前4時から午前6時)に起床すればよいのだが、そう簡単に今までの生活習慣を変えるのは難しく、やっぱり重秀は寅の刻には目を覚ましてしまうのであった。


 重秀がいるのは兵庫城本丸御殿の『奥』と呼ばれる区間の寝所である。本来、城主の生活場所は『中奥』であり、ここで小姓等と一緒に生活するのが一般である。本丸御殿の『奥』は正室や側室、そして城主の子達が生活する場所であり、城主が『奥』へ向かうのは、子供に会いに行く時か子供を作りに行く時である。

 しかし、重秀は『中奥』ではなく『奥』で生活していた。何故か?それは兵庫城本丸御殿に『中奥』が無いからである。

 兵庫城は羽柴家が播磨平定の際に作られた前線基地であった。そして西国街道を進撃する織田家の本軍の宿営地でもあった。そのため、織田本軍を率いる総大将―――織田信長か織田信忠が宿営するための『御座所』が本丸の敷地内に建設されていた。

 しかし、兵庫城は兵庫津の中に建てた城であった。前々からあった町を壊して城を建てることは不可能であったので、入江の一部を埋め立てて城を造ったのだが、工事期間の短縮のため、城自体は小さなものとなってしまった。そこに信長や信忠が泊まる『御座所』を造ったものだから、城主―――重秀の住む本丸御殿は狭いものとなってしまった。

 結果、『奥』(居住空間)と『表』(執務空間)は必ず作らなければならないので、『中奥』は省かれてしまった。ただ、『中奥』を省いてもまだ狭いため、『表』の機能の一部を隣接する天守内部に作らなければならなかった。


 重秀が起きて先ずすることは、厠に行って用を足すことであった。厠へ向かうために寝所から出ると、寝所の隣りにある控室にいた不寝番の侍女達が一斉に動き出す。ある者は布団を片付けるために寝所に入り、ある者は重秀の前後について厠までついていくのである。

『奥』は基本男性禁制である。入って良い男性は重秀と医者、そして事前に重秀の許しを得た者だけである。なので重秀の身の回りは全て小姓ではなく侍女が行うのである。

 厠で用を足した後、手水場で手を洗うと、後ろからついてきた侍女が手ぬぐいを差し出してきた。重秀がそれで手を拭いて侍女に手ぬぐいを返す。その後、重秀はある部屋へと向かうのであった。


 その部屋は重秀が身支度をする部屋である。ここにはすでに身支度を手伝う侍女達が集まっているのだが、集まっているのは侍女だけではなかった。


「お兄様、今日も清々しい朝を迎えられ、祝着にございます」


()()か。今日もよろしく頼む」


 羽柴家では主人の身支度には必ず妻が手伝うこととなっていた。これは秀吉が()()との新婚生活時には必ず()()が秀吉の身支度を手伝っていたことの名残である。

 ()()が亡くなった後、秀吉(と小一郎)の身支度は大松が手伝ったり妹の()()が手伝っていたが、秀吉が出世し、城持ち大名となった後は側室の南殿や侍女達が身支度を手伝っていた。重秀はこのやり方をそのまま踏襲したのである。

 ちなみに、一般的な大名や城主は身支度の手伝いを小姓にやらせた。小姓時代に重秀も信長や信忠の身支度を手伝ったことがあった。


 重秀が持ち込まれた洗面器(顔を洗うための小さなたらい)で顔を洗い、次に歯木を噛んで柔らかくし、それで歯を磨く。磨き終えた後は侍女から椀に入った水を貰い、その水で口を濯ぐ。濯いだ後の水は洗面器に戻すと、侍女が洗面器を持って部屋を出た。そして別の侍女が新しい水の入った洗面器を重秀の前に持ってくる。その間、重秀の髪が櫛で梳かされ、新しく髷が結われていった。その後、月代さかやきを維持するために剃刀で額から頭頂部まで剃られていく。


 それまで月代は木の毛抜で一本づつ抜いていくものであった。しかし、この痛みを伴う行為にムカついた者がこの時代にいた。織田信長である。彼は毛抜きではなく、剃刀で月代を剃ることにした。それ以来、織田家中では月代は剃刀で剃ることとなったのである。


 話が脱線したが、月代が剃られた後、今度は()()が重秀に手鏡を差し出した。差し出された手鏡を見ながら、重秀は髭を整えていく。

 当時、武士は髭を生やすことは当然のこととされた。男らしく、荒々しさを表現する髭は、強さの証であった。

 父秀吉は髭が薄いことを悩みのタネとしていたのだが、息子の重秀には普通に髭が生えてきていた。秀吉に遠慮して今まで剃っていたのだが、兵庫城の城主としての威厳を付けるために今年から髭を伸ばしていた。

 もっとも、まだ慣れていないため、髭は短めに整えていたのだが。


 髭を整え終えると、今まで着ていた夜着から、新たな着物へと着替えていく。この時代、夜着と呼ばれた寝間着は色はまだ白くはなかった。時代劇でおなじみの白い夜着は、もう少し後の時代の話である。

 夜着から普段着―――肩衣袴に着替える重秀。それを手伝うのが()()である。着替えの手伝いは妻のみで行い、侍女にはさせないのが羽柴の習わしであった。


 卯の刻(午前4時から午前6時)、着替えが終わると重秀は朝餉を取るために『奥』から『表』へと移動する。が、その前にかならず立ち寄る場所があった。正室であるゆかりのいる部屋である。


「縁、身体の調子はどうだ?」


 部屋に入るなり、胡座になって座っている縁にそう話しかける重秀。すでにお腹が限界まで大きくなっている縁は、お腹を丸めないよう、首だけ頷いて重秀に挨拶をする。


「はい。今のところはまだ・・・。ですが、もうすぐ産まれるのかと思いますと、案ずる気持ちが大きくなってまいります」


 四月、すなわち今月が産み月となっている縁である。すでにいつでも産まれても良いように、産婆が数人、それを手伝う侍女を十数人用意して城で待機させていた。万全の体制を取っているとは言え、数えで十七歳、実年齢で十六歳の縁の初出産である。不安にならないわけがなかった。

 重秀が縁の傍に行き、しゃがむと縁をそっと抱き寄せた。


「案ずることはない。ここには夏としちという歴戦の猛者がいる。二人が万事準備を行っているし、その時には滞り無く対応してくれる。縁は二人に任せておけば良い」


「はい・・・」


 そう言って縁は重秀の胸に両手を添えてもたれかかった。重秀の言った言葉はここ数日、毎朝重秀が『表』に移動する前に縁に言っている言葉なのだが、縁にとってはその言葉がありがたかった。


「では、行ってくる。夏、七。あとは頼んだ」


 縁を抱きながら、傍に控えていた夏と七の方へ顔を向けつつ言う重秀。それに対して夏と七は「お任せくだされ」と言って平伏した。それを見た重秀が立ち上がり、部屋から出ていった。





 当時の時間は一日を十二に分け、その一つを『辰刻』という単位で区切っていた。いわゆる『一刻』である。『一刻』は更に四等分され、それぞれ『一つ』『二つ』『三つ』『四つ』と数えた。

 つまり『一刻』はおよそ2時間、『一つ』はおよそ30分間隔ということになる。

 さて、卯の刻四つ(午前5時半頃)、重秀が『奥』と『表』を繋ぐ渡り廊下を重秀が渡った。廊下を渡り切ると、そこには一人の小姓が座って待機していた。


「若殿。本日もご機嫌麗しく」


「大蔵か。今日も頼むぞ」


 大蔵と呼ばれた小姓は、重秀からそう言われると「ははっ」と言って頭を下げた。


 この大蔵という小姓は、重秀の伯父である木下家定の長男である。つまり、重秀の従弟になる。後に木下勝俊となる人物である。


 大蔵の先導で『表』にある囲炉裏の間に入った重秀。そこにはすでに何人かの家臣が囲炉裏を囲んで座っていた。重秀が入ってきたのに気がついた者達がすかさず平伏した。


「兄貴、遅かったな」


 平伏を解いた福島正則がそう声をかけると、重秀は「すまんな」と座りつつも答えた。


 こうして重秀は家臣達と朝餉を共にする。いわゆるブレックファーストミーティングである。このミーティングに参加するのは、前日から城に寝泊まりしていた不寝番の侍と、福島正則や加藤茂勝、大谷吉隆といった自分で朝餉を作るのが面倒臭いと思っている独身の家臣、朝の評定前に打ち合わせすべき事項がある家臣、そして小姓である。

 さて、重秀達の朝餉の中身であるが、麦飯を主食に味噌汁、それに主菜が一品つくという当時としては普通の食事であった。麦飯には大麦と分づき米(と言ってもほぼ玄米なのだが)を炊いたもの、味噌汁は野菜のたっぷり入ったものである。主菜は海に近いということで、ほぼ魚介類である。今日の朝餉もこの時期近場で捕れるメバルの塩焼きが主菜であった。

 一方、長浜城でよく食されていた肉は兵庫城ではあまり食べなくなっていた。牛や豚が兵庫では少なく、その数少ない牛や豚は兵庫津に立ち寄った南蛮人や唐人(中国人のこと)向けに出されているため、重秀ですら口にできなくなっていた。鶏の方は数が少なく、今は城内で増やしているところである。また、下級武士の副業として城外でも飼われていた。


「では、昨晩の見回りについて聞こうか」


 重秀のその言葉でブレックファーストミーティングが始まった。まずは夜の警備の状況の報告から始まった。その後は今日のスケジュールの確認などが話し合われるのである。


「兄貴、今日の鍛錬はどうする?」


 正則の質問に、重秀が飯の乗った椀を持った腕を降ろしながら悩む。


「う〜ん、空の様子次第かな。雨が降らないのであれば、庭で武芸の鍛錬をしよう。たまには弓の鍛錬をしたい。雨が降ったなら、室内で漢詩の鍛錬でもしようかな」


 重秀がそう言うと、正則が尋ねる。


「漢詩?歌(和歌のこと)じゃなくて?」


「大松だった頃は半兵衛殿(竹中重治のこと)や将右衛門(前野長康のこと)から習ってはいたけど、岐阜城に上がって以降は遠ざかっていたんだ。だけど、相国寺であった口蕣殿(のちの藤原惺窩)と文のやり取りをしているうちに、漢詩の話になって。また学び直そうと思ったんだ」


 そう答える重秀に、吉隆が話しかける。


「・・・漢詩の鍛錬となりますと、前野様にお願いしないといけませぬが・・・」


「あの人、今日何か役目があったっけ?」


「美作への出兵の準備があると聞きましたが」


「ああ、そう言えば言っていたな・・・。習っている時はなさそうか」


 顔を顰めながらそう言う重秀に、正則が言う。


「将右衛門殿ならこの後の評定に参加するんだろ?その時に聞いてみればいいじゃないか」


 正則の提案に重秀が考え込んだ。しかし、すぐに考えをまとめると、その考えを口にする。


「いや、やっぱり将右衛門に漢詩を習うのは止めておこう。雨が降ったら、漢詩の書を読んで自習に励むことにするさ」


 そう言うと、重秀は再び飯の椀を持ち上げると、飯を口にかき込むのであった。





 朝餉の後、大体辰の刻(午前7時から午前9時半)から正午までは重秀にとっての執務時間である。まずは辰の刻の間に評定が行われる。

 朝の評定が行われるのは本丸御殿の広間ではない。というか、本丸御殿に広間がない。多くの家臣が集まる広間は、御殿ではなく天守の一階に作られていた。

 元々天守は本丸の櫓から発展した建物であり、本来は人が常駐する建物ではない。信長は安土城の天主を自身の居住区としていたが、あれは例外中の例外である。

 とはいえ、兵庫城は先程書いたように使用できるスペースが限られていた。そこで、天守に広間を作ることで、天守を有効活用したのである。当時、天守は入母屋造の建物の上に望楼を建てた望楼天守が主流であった。入母屋造の建物は寺院や宮殿に使われるなど、大勢の人間を収容するのに最適な作りであったため、広間を作るのに適していた。


 この評定に参加するのは重秀と重秀の家臣、そして秀吉から派遣された与力であった。

 それまで重秀が秀吉から与えられた知行は1万石前後と言われている。それが信忠によって一気に4万1千石の領地を治める殿様になったのである。当然家臣が足りない。

 そこで、秀吉から家臣を派遣してもらい、与力として重秀の領地経営を手伝ってもらうことにした。秀吉もまた、播磨平定に功を挙げた家臣や与力に知行を加増をするために、重秀の下に送り込むことにした。現代で言うならば、給料や役職を上げる代わりに子会社へ出向させるようなものである。

 送り込まれた家臣と与力は、前野長康、浅野長吉、木下家定、寺沢広政・広高親子、中村一氏、堀尾吉晴などである。

 また、元々播磨の国衆であったが、秀吉によって播磨から追い出され、重秀のいる摂津に領地替えとなった者達もいる。淡河定範、別所友之、梶原左兵衛、三浦義高・義知親子である。

 これに、重秀の元からの家臣である福島正則、加藤清正、石田正澄、加藤茂勝、大谷吉隆、山内一豊、河北算三郎、脇坂安治、尾藤知宣、外峯四郎左衛門(本名津田盛月)・与左衛門(本名津田信任)親子が加わる。

 しかし、これではまだ足りないため、重秀は長浜、塩津、大浦、菅浦から連れてきた舟手の頭目達を士分に取り立てた。松田利助、竹本百助、井上成蔵、田村保四郎の四人である。

 さらに、家臣の数を増やすため、有馬郡にいた中小の国衆のほとんどが重秀の家臣となった。ただし、例外として元三田城主の荒木重堅は小一郎の与力として、北播に知行を得ていた。


 畳敷きの広間の上段の間に重秀が座ると、板敷きの下段の間で左右に分かれて座っていた家臣・与力達が一斉に平伏した。


「若殿におかれましてはご機嫌麗しく」


 重秀から見て左側、最も上段の間に近い場所に座っていた前野長康がそう言って挨拶をすると、重秀は腹に力を入れ、広間中に響くほどの声で返事をする。


「大義。皆の者、面を上げよ!」


 重秀の言葉で、皆が一斉に「ははぁっ!」と言いながら顔を上げた。重秀が再び声を上げる。


「さて、先月は国替えや領地替えで皆も忙しかっただろう。恐らくここにいる者達で顔を合わすのが初めてという者もいるだろう。というわけで、それぞれ名乗ってもらう。まずは将右衛門」


 重秀から名前を呼ばれた長康が名を名乗っていく。それから隣に座っていた浅野長吉、木下家定と名乗っていき、左側に座っていた者達の自己紹介が終わった。

 それを見た重秀が再び声を上げる。


「次は右側だな。伊右衛門」


「ははっ!」


 重秀から見て右側、最も上段の間に近い場所に座っていた山内一豊が返事をし、自己紹介をし始めた。そして隣りに座っている尾藤知宣、脇坂安治、石田正澄が次々と名乗っていき、右側に座っていた者達の自己紹介が終わった。

 重秀が再び声を上げる。


「聞いてのとおり、ここには尾張、美濃、近江、摂津、播磨から多くの者が来ている。また、羽柴が木下だった頃からの者もいれば、つい最近まで敵として戦ってきた者もいる。しかし、そう言った垣根を取り払い、羽柴の者として私と父を支えてもらいたい。そして、摂津有馬郡と八部郡の民を安んじ、上様と殿様への奉公を果たしてもらいたい。良いな!?」


 重秀の凛とした声に、その場にいた者全てが「ははぁ!」と言いながら平伏した。重秀が更に話しかける。


「まあ、せっかくこうして顔を合わせたのである。今宵はこの広間にて酒宴を開く。その場で色々話し合い、互いの事を知り合おうではないか」


 重秀の言葉に、正則が思わず「ぃやったー!」と右腕を伸ばして喜んだ。それを見た浅野長吉が「お前は相変わらずだなぁ!」と声をかけると、その場は一斉に笑い声で満たされたのであった。


注釈

当時の時刻制度は不定時法だったと言われている。

不定時法とは日の出と日の入りを基準とした時間区分法で、日の出から日の入りまでの時間を6等分し、日の入りから日の出までの時間を6等分することで1日を12等分する方法である。

1年を通じて昼の長さと夜の長さは変わるため、『一刻』の長さも変化する。例えば夏至の場合、昼間の『一刻』は最大で2時間半となるが、冬至の場合だと昼間の『一刻』は1時間40分程となる。

この小説では、当時の時間の後に現代の時間をかっこ書きしているが、季節ごとに変化させている。しかし、その変化も正確ではない。

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経営者の一日という感じですね
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