第184話 相国寺にて
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安土城で信長と面談した次の日の早朝。重秀は福島正則、加藤清正、大谷吉隆を始め、長浜や北近江から兵庫や姫路に向かう家臣や与力とその家族、さらに姫路に異動する副田吉成とその妻であり、重秀の叔母であるあさと共に安土の羽柴屋敷を出発した。
ちなみに、安土の羽柴屋敷の留守居役には、吉成の後任として秀吉の叔母婿である小出秀政が就いている。
重秀一行は一旦坂本城下で一泊した後、次の日には宇治に向けて出発。途中で一行を杉原家次に委ねると、正則、清正、吉隆を連れて京へと入っていった。
京に入った重秀は、まずは日野輝資の屋敷へ挨拶に向かうと、屋敷内の狭い客間で日野輝資と面談した。
この時、日野輝資の官位は従三位権中納言であった。
「権中納言様におかれましてはご機嫌麗しく」
「大義」
輝資はそう言うと黙ってしまった。あとは重秀と傍に控える青侍との会話である。
「羽柴様よりの文によれば、国替えで播磨に行かれるとか」
「はい。正確には父筑前が播磨を与えられ、私は摂津の八部郡と有馬郡を預かる身となりました。居城は兵庫城。兵庫津の近くにございます」
そう答えた重秀は、何かを思い出したかのような顔をした。そして、懐から一通の書状を取り出すと、それを青侍に差し出す。
「これは羽柴より権中納言様への心付けにございます。どうぞお納めくだされ」
書状を渡された青侍が、書状を開いて中身を朗読した。内容は羽柴から輝資への献上品の一覧であった。緞子や桐油などいつも通りの品もあったが、新たに加わった品もあった。百人一首カルタと複数の牛、そして銀の延べ棒と備前焼の茶器であった。
「これはこれは。新たに増えて嬉しゅうあらしゃいます。特に百人一首のカルタはなかなか手に入らぬ一品。麻呂も羽柴さんから頂きましたが、他の者が欲しがってのう。麻呂に手に入れてくれろと申してきて困っておったのじゃ。これで麻呂の面目躍如であらしゃいます」
それまで黙っていた輝資が興奮した様子で重秀に話しかけてきた。青侍が思わず輝資に苦言を呈する。
「殿、直言直答を許さぬうちに話しかけては、羽柴様もお困りになられまするぞ」
「煩わしいのう。ならば、羽柴さんには今後、すべからく直言直答を許すことにしようぞ。それで良いじゃろう?」
「承りました。・・・だ、そうです」
青侍が重秀にそう言うと、重秀は「もったいなきお言葉、有難き幸せ」と言って平伏した。
その後、重秀は菅浦が羽柴領であるため、菅浦の年貢は引き続き羽柴が納めることなどが説明された。
「相分かった。して、この後は如何するのじゃな?せっかく麻呂のところに来たのじゃ。たまには歌道を対面で講義しても良いが?」
「大変ありがたいのでございますが・・・。実はこの後広橋の参議様(広橋兼勝のこと。今年の一月に参議兼左大弁に就任した)に、参議就任のお祝いの品を届けなければなりませぬ。また、その後には相国寺に向かう予定がございますれば、平にご容赦あれ」
「相国寺?はて、相国寺と羽柴さんに、何か関わり合いでもあらしゃいますか?」
首を傾げて尋ねる輝資に、重秀が答える。
「はい。相国寺には会わねばならない方が居りまして。別所小三郎殿(別所長治のこと)との約束を果たしに参ります」
京は禁裏(天皇が住む場所)の北側にある相国寺は、足利義満によって建立された臨済宗の寺であり、義満によって制定された京都五山の第二位に序されている。
そんな由緒正しき相国寺も、応仁の乱の時に1回、その後に三好長慶と細川晴元との戦いの最中に1回、兵火によって全焼失している(実はもう2回ほど失火で全焼失している)。
更に天正二年(1574年)には信長の陣所や宿泊施設になり、しかも、信長が京に屋敷を構える際に追い出した二条晴良の屋敷の代替え地となった報恩寺の代替え地として、相国寺の敷地の一部が没収させられていた。
また、信長は朝廷対策として門跡寺院(皇族や公家が住職を務めている寺のこと)を支援していたものの、門跡寺院ではない相国寺には信長の支援がなく、経済的に厳しい状況にあった。
そんな訳で、当時の相国寺は実に寂しい寺であった。
さて、そんな相国寺を訪れた重秀。正則や清正、吉隆は正門(この頃の相国寺に山門はない)の前に来た。正門の前まで来たのは良いが、取り次いでくれる小者の姿が見えない。さて困ったな、と正門前で突っ立っている重秀達の後方から声が聞こえてきた。
「もし、お武家様。何かお困りですか?」
重秀達が声のする方へ顔を向けると、そこには一人の壮年、と言うにはちょっと若い僧が立っていた。
「ああ、これはご無礼仕った。私、羽柴筑前守が息、羽柴藤十郎と申す者。実は、相国寺にて人と会う約束をしております。しかしながら、取次の小者の姿無く、入って良いのか思案しておりました」
重秀がそう言うと、その若い僧は「それはご無礼致しました」と言って頭を下げた。そして頭を上げると重秀達に言う。
「拙僧はこの寺の者で承兌と申しまする。拙僧が代わりに取り次ぎましょう」
「それはかたじけない。よろしくお願い致します」
重秀がそう言って頭を下げると、正則達も頭を下げた。承兌も頭を下げた後、「ついて来てください」と言って重秀達の先を進んだ。重秀達も承兌についていき、正門ををくぐった。
「時に、羽柴様はどなたにお会いになられるのですか?」
承兌が歩きながら尋ねてきたので、重秀が答える。
「細川の参議様(冷泉為純のこと)の三男で、確か・・・名は口蕣殿、でしたか」
「ああ、口蕣殿ですか」
「はい。播磨の大村、金剛寺の梅庵という僧を通じて、お伺いすることは伝えていたのですが・・・」
「彼は未だ修行の身故、この寺から出ることはありませぬ。僧坊(寺に住む僧侶の生活空間及びその建物のこと)にいると思いますよ」
そう言うと、承兌は相国寺の大きいが簡素な本堂の隣りにある客殿へと案内された。中に入り、客殿の中の一室に案内された後、承兌が重秀に言う。
「拙僧が呼びます故、しばらくお待ちくだされ」
そう言うと、承兌は部屋から出ていった。
部屋で待つことしばらく経った後、重秀達の待つ部屋の外から「ご無礼仕ります」と言って一人の若い僧が入ってきた。それまで寛いでいた重秀が姿勢を正したため、正則達も揃って姿勢を正した。
若い僧が重秀の前に座ると、平伏して言う。
「大変お待たせ致しました。拙僧が口蕣でございます」
「羽柴筑前守が息、羽柴藤十郎にございます。此度はお会いくださり恐悦至極にございます」
重秀も平伏してそう言うと、口蕣は驚いたような口調で重秀に言う。
「滅相もございませぬ。ささ、どうか頭をお上げください。京でも噂の羽柴の若君に頭を下げられては、申し訳がございませぬ」
そう言われた重秀が頭を上げると、さっそく口蕣に質問する。
「ご無礼を承知でお聞きいたします。口蕣殿のお父上は細川の参議様(冷泉為純のこと)で間違いございませぬか?」
「はい。確かに細川参議は拙僧の父でございました」
「大村の金剛寺より、梅庵殿から文は届いていらっしゃいますか?」
「はい。三木城落城と別所様ご自害の件はもう知っております」
落ち着いた口調でそう言う口蕣に、重秀は違和感を感じた。親と兄の仇が討たれたのに、感情を表に出さない事に違和感を感じたのだ。重秀が思わず口蕣に尋ねる。
「・・・こう言ってはなんですが、随分と落ち着いてらっしゃいますね。恩を着せる気はないのですが、父上と兄上の仇を討ったのですから、もう少し喜んでもよろしいのでは?」
重秀の言葉に、正則達も頷いた。どうやら正則達も重秀と同じ違和感を感じていたようである。しかし、口蕣は首を横に振って答える。
「拙僧は仏に仕える身。恨みを抱いては仏に仕える身として失格にございます。仇を恨むよりも、今は父と兄の供養に励みとうございます」
口蕣はそう言うと両手を合わせて一礼した。重秀が感心したように頷くと、口を開いた。
「そうですか・・・。お若いのにご立派でございます。・・・実は、その別所小三郎殿より、口蕣殿に最後の言葉をお伝えに参りました」
重秀の言葉に、口蕣は少し驚いたような顔をした。しばらく黙り込んだ後、重い口を開き始める。
「・・・どういった内容でしょうか?拙僧と別所様とは、面識もやり取りも無かったのでございますが・・・」
そう疑問を口にした口蕣に、重秀は長治が述べていた謝罪と後悔の言葉を伝えた。それを聞いた口蕣は両目を瞑り、深く感じ入った表情を顔に浮かべつつ、再び黙り込んだ。
静かに時が流れる中、口蕣は両目を開き、落ち着いた口調で重秀に言う。
「・・・別所様のお言葉、確かに承りました。その言葉を聞き、拙僧の心も救われた思いにございまする。仏に仕える身故、恨みは致しませぬ。ただ、父と兄を失った悲しみ、痛みは今でも残っておりました。
・・・しかしながら、羽柴様からのお言葉で、最後まで残っていた心の痛みが、少しは和らいだような気が致しまする」
そう言うと口蕣は「お伝えいただき、恐悦至極に存じまする」と言って両手を合わせつつ、頭を深々と下げた。
そんな口蕣の態度に、重秀は感銘を受けた。歳もさほど変わらなように見えた口蕣が、自分よりも立派な人物に見えた。思わず重秀が口蕣に尋ねる。
「・・・見事な振る舞い、この藤十郎感服致しました。失礼ながら、若く見えますが口蕣殿は歳はおいくつですか?」
「二十歳でございます。永禄四年(1561年)の一月生まれにございますから」
「ああ、私の一つ歳上なのか。っていうか、市と同い歳か・・・」
そう言うと重秀は正則の方を見た。正則がジト目で重秀に言う。
「・・・なんでこっち見るんだよ、兄貴」
「いや、しっかりしたお方だなと思ってな」
重秀の言葉に清正と吉隆が思わず吹き出した。正則が顔を赤くしながら声を上げる。
「何言ってやがる!兄貴や虎も、すぐに頭に血が上るじゃねぇか!」
「あっはっはっ、悪い悪い。すまなかったから寺で大声を上げるな」
重秀が笑いながらそう言うと、正則はふくれっ面になりながら横を向いた。重秀が正則から口蕣へ顔を向ける。
「申し訳ござらぬ。義弟が大声を出しまして」
「いえ、どうぞお気になさらず・・・。それよりも、弟がいらしたのですね。噂では、唯一の羽柴家嫡男と聞いていたのですが・・・」
「ああ。この福島市兵衛と加藤虎之助とは義兄弟の契りを結んでおりまして。『三国志』の桃園の誓いを真似たものにござる」
「おお、『三国志』でございますか!」
重秀の話を聞いていた口蕣が、それまでの神妙な態度と表情を一変させ、興奮した表情を顔に浮かべて重秀に近づいた。口蕣の急な変化に、重秀は思わず仰け反ったが、口蕣は構わず話を続ける。
「いや、拙僧も相国寺に入った後、境内の書庫で偶然見つけた『三国志』を読んで以来、よく読んでいる漢籍なのでございます!いや、ここで『三国志』を読んでいるお方とお会いできるとは!これも御仏のお導きなのでございましょう!」
興奮した物言いでそう言う口蕣に、重秀は若干引きながら話を進める。
「そ、そうなのですか。いや、相国寺に『三国志』があるとは驚きなのですが・・・」
「相国寺は元々鹿苑院様(足利義満のこと)が建立された寺。それ故、鹿苑院様が唐の国から集めた書物が納められていたのでございます。まあ、都合四回の火事にてほとんどが燃えてしまいましたが、運良く『三国志』は残りました。偶然それを拙僧が見つけて読んだ次第にて」
「へぇー」
重秀が感心したかのような声を上げた。そんな重秀に口蕣が話しかける。
「時に羽柴様は『三国志』の何に惹かれましたか?」
「やはり、軍物語として多くの戦が記されているところでございましょうか。また、最近になって分かったのですが、結構な調略も描かれており、学ぶところが多くございます。後、これは『平話(全相平話三国志、いわゆる三国志平話のこと)』になるのですが、英傑たちの為人が面白うございますな」
重秀がそう答えると、口蕣は「なるほど・・・」と右手で顎を擦りながら頷いた。しばらく黙った後、重秀に尋ねる。
「・・・羽柴様が読まれた『三国志』は、史書として陳寿が書かれた『三国志』と平話としての『三国志』でございますか?」
「はい。一応、裴注(裴松之による三国志の注釈のこと)も読んでおりますが、それが何か?」
なんでそんなことを聞くのだろう、と思いながら答えた重秀。そんな重秀に、口蕣が再び尋ねる。
「では、羅貫中編とされた『三国志』は読まれていないのですね?」
「ら、羅貫中編?」
初めて聞いた言葉に、重秀は思わず聞き返した。口蕣が頷きながら答える。
「はい。実は相国寺では失われた漢籍を取り戻すべく、多くの書を唐の国から取り寄せております。その中に『三国志』も含まれておりましたが、それは羅漢中なる者がまとめた『三国志』でございました。まあ、『平話』みたいなもので、中には滑稽な話もございましたが、中々どうして、読み応えのあるものでございました」
「へぇー」
重秀が関心の声を上げたのを無視して、口蕣が話を続ける。
「羅貫中なる者が何者かはよく分かりませぬが、少なくともそれまでの『平話』とは一線を画す書であることは間違いないかと」
「なるほど。それは面白そうですな。ぜひ読みたいものです」
相国寺にすでに入っているなら、京か堺なら手に入りそうだな、と重秀は思いつつそう答えた。そんな重秀に、口蕣が尋ねる。
「時に羽柴様は、史書としての『三国志』と、他の平話としての『三国志』に違いがあるのをお気づきになられましたか?」
そう尋ねられた重秀は、首を傾げながら考え込んだ。しばらく考えた後、口を開く。
「・・・いや、特には。最近は史書としての『三国志』と『裴注』しか読んでおりませんが」
「そうですか・・・。実は拙僧は羅貫中編の『三国志』と史書としての『三国志』を読み比べて、あることに気がついたのでございます」
「ほう・・・。何ですか?」
興味深そうに尋ねる重秀に対し、口蕣は話したくて仕方がない、という表情で答える。
「羅漢中編の『三国志』では、劉玄徳と諸葛孔明の描かれ方が理想の君子として描かれているのでございます。劉玄徳は民を思いやる名君として、諸葛孔明は忠臣として」
「・・・ああ、そう言えば、私の読んでいた『平話』でもそんな感じでしたな」
「しかし、史書の『三国志』にはそのような記述はないのです。これは一体如何なることでしょうか?」
口蕣の問いかけに、重秀は再び首を傾げた。そんな事考えたこともなかったからである。重秀が素直に自分の想いを言う。
「・・・分かりかねます」
「拙僧にも分かりかねます」
口蕣が予想外の答えを即座に答えたため、重秀達は唖然とした。正則が思わず「何じゃそりゃ!?」と声を上げてしまうほどであった。しかし、口蕣は穏やかな顔つきで重秀達に言う。
「分からないからこそ、我々は学ぶのです。分からないからとそのままにしては人は先には進めませぬ。理を窮めることこそ、己の生き方だと思っております。そのために、拙僧はこの寺で生涯学んでいく所存にございます」
口蕣の決意に、重秀は感銘を受けた。と同時に、ある疑問が湧いた。重秀がその疑問をぶつける。
「・・・お待ち下さい。口蕣殿は下冷泉家の生き残り。下冷泉家を再興させようという気はないのですか?」
和歌の世界で活躍をした藤原定家を輩出した御子左流藤原家を祖とする冷泉家は、室町時代に上冷泉家と下冷泉家に分裂した。口蕣の父、冷泉為純は下冷泉家の五代目に当たる人物である。
下冷泉家は為純と嫡男の為勝が別所長治の攻撃を受けて死亡した。となると、当然次の下冷泉家の当主は口蕣がつくものだろう、と重秀は考えていたのだ。
ところが口蕣は下冷泉家に戻ること無く、相国寺で学問を続けると言っている。これでは下冷泉家が再興できないのではないか?
そう思った重秀が口蕣に尋ねたのだが、口蕣の回答は重秀が予想していないものだった。
「無論、我が家の再興は拙僧の願い。しかしながら、拙僧は庶子でございます。後を継ぐに相応しくない者にございます。それに、拙僧には腹違いの弟がおりまして、その者も京にて暮らしておりますれば、弟が下冷泉家を継ぐのが良いと考えております。
・・・それに、拙僧は公家の務めを果たすより、学問を修めとうございます。そして、この乱世に人はどう生きるべきなのか。仏の教えと共に考えていきたいと思っておりまする」
口蕣の言葉に、重秀は羨ましさを感じた。口蕣が学問好きなのは話を聞いて理解していた。そして、家名を存続させることよりも自分の好きな学問に身を捧げたいという気持ちがあることも理解した。それは、羽柴家嫡男という道から外れることのできない重秀には到底できない生き方であった。そんな自由な口蕣を重秀は羨ましいと思ったのだった。
その後、重秀と口蕣は互いに手紙のやり取りを行う約束をして別れた。それからというもの、重秀が京に来ると、必ず相国寺に立ち寄っては口蕣と漢籍、特に『三国志』について語らうこととなった。
これが、後に為政者とそのブレーンという関係になることは、二人は知る由もないのであった。