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第183話 さらば長浜

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


PV数400万突破いたしました。ユニークアクセス数120万突破いたしました。ご愛読ありがとうございます。ますます励みますので、今後ともよろしくお願いします。


 天正八年(1580年)閏三月十五日。この日、重秀は長浜城本丸御殿の小広間にいた。上段の間には座らず、下段の間に座っていた。そして、重秀の後ろには福島正則、加藤清正、大谷吉隆、加藤教明、石田正継が座っていた。

 一方、重秀の対面には堀秀政が座っていた。その後ろには秀政の従弟で補佐役の堀直政等、堀家の家臣が控えていた。そして、重秀と秀政の間には、書状や書籍が乗せられた三方が複数置かれていた。


「長浜城および近江坂田郡の羽柴領に関する資料をまとめた書でございます。どうぞ、お納めください。また、上様にお渡しすべき近江伊香郡に関する資料をまとめた書も、奉行たる堀様にお引渡し致しまする」


 そう言って重秀が平伏すると、背後の者達も平伏した。秀政達堀家の者達も平伏し、秀政が声を上げる。


「謹んでお受け致しまする。また、近江伊香郡の資料については、早急に上様にお引渡しすることをお約束致しまする」


 こうして、長浜城とその周辺、近江坂田郡の羽柴領二万五千石は堀秀政のものとなり、伊香郡は織田家の直轄地となった。浅井郡の東側はすでに阿閉貞征・貞大親子が小一郎から引き継いで山本山城に移っていた。


「いやぁ、藤吉とうきち殿が大切にされてきた長浜城。まさか私がもらえるとはね・・・。私にはちと広すぎるかな?」


 顔を上げた秀政がフランクな口調でそう言うと、重秀は微笑みながら答える。


「父上は派手なお方故、城も大きな城を望まれておりました。まあ、この城は上様が越前へ向かわれる際の拠点にもなりました故、大勢の兵を入れられるようにせざるを得ませんでしたが」


「やれやれ、上様が自ら上杉討伐に向かわれる際はこの城にお泊りになられる訳か。ならば大軍が泊まれるように、この城を維持しなければならない訳だ。・・・二万五千石で維持できるかな?」


 困り顔でそう言う秀政に、直政が「殿・・・」としかめっ面で声をかけた。万石超えの城持ち大名になったのに、情けないことを言わないでくれ、と言いたげな目をしていた。しかし、秀政はそんな直政の目を無視して重秀に話しかける。


「そう言えば、藤吉殿は姫山城を改築して居城にするんだっけ?」


「はい。しかし、名前を変えるそうです。今後は姫路城とするそうです」


「姫路城か。なるほど、あそこら辺は昔から姫路と言われていたからな。姫山だけではなく周辺を支配するという点では、姫路城のほうがふさわしいか」


『播磨風土記』によれば、姫山城のあった姫山は『日女道丘ひめじおか』と呼ばれていた。伝説によれば、昔、船が通った際に難破し、その際積み荷であった蚕子ひめこ(古語では蚕子ひめじと読む)が流れ着いた山が『蚕子ひめじ丘』となり、後に『日女道丘』、更に姫山となり、姫山の周辺を姫路と呼ばれるようになった、と言われている。


「で、やはり城を大きく作るのかい?」


 秀政の質問に、重秀が「はい」と答える。


「元々姫山城は御着城の支城故、小さい城でした。しかし、毛利と戦うにあたり姫山城は防御が薄うございます。それに、公方(足利義昭のこと)を抱える毛利が公方と共に上洛の軍を起こした場合、我等は上様をお迎えし一大決戦を挑むつもりです。その際、上様には姫路城にて指揮をお執り頂く所存にて」


「なるほど。姫路は西国街道だけではなく、但馬、因幡、出雲へ通じる道もあるから、毛利との戦では重要な場所だ。上様が滞在するにふさわしい場所だな」


「はい。そして姫路城には上様が滞在するにふさわしい城である必要があります」


「やれやれ、藤吉殿のお城は必ず上様が来ることを前提とした城作りをする必要があるのか。・・・そう言えば、藤十が城主となる兵庫城も上様が滞在するための御座所があるんだっけ?」


「お陰で私の住む本丸御殿が小さくなりまして・・・まあ、広い屋敷は慣れぬのでちょうど良いと言えば良いのですが」


「城持ちになったらなったで、お互い苦労するねぇ」


 秀政が笑いながら言うと、重秀も思わず笑いながら「仰るとおりです」と言って返すのであった。





 次の日。重秀は長浜城や北近江に最後まで残っていた家臣や与力、その家族と共に長浜城を出た。陸路で兵庫城、そして姫路城へと向かうのである。


「三之丞(加藤教明のこと)、太郎右衛門(石田正継のこと)、近江の知行地を任せたぞ」


 重秀の言葉に二人は「はっ、お任せあれ」と言って頭を下げた。石田正継と加藤教明は近江浅井郡の西側にある羽柴の知行地の代官として、船で大浦湊まで行き、そこから知行地へ向かうことになっていた。


「では、皆の衆行くぞ!」


 馬上の重秀の声に、福島正則、加藤清正、大谷吉継等が「おおっ!」と大声で返事した。


 堀秀政等に見送られて長浜城を出た重秀一行は、城下町をゆっくりと進んだ。というのも、今日退去する重秀を一目見ようと多くの町民が道に出ており、重秀達に別れの挨拶と感謝を口々に言っていたため、中々前に進むことができなかった。

 元々長浜城の城下町の年貢を永年免除した秀吉の人気は高い。そして、羽柴家唯一の嫡男である重秀もまた人気が高かった。重秀は養蚕の指導や南蛮寺の様子を見に行くなど、ちょくちょく城下町を歩き回っていたため、人々に顔は知られていたし、丸子船の三角帆を操作して颯爽と琵琶湖の上を走り回る重秀の姿を長浜の人々、特に若い娘達は黄色い声を上げて見つめていた。

 そんな重秀が長浜からいなくなる、ということで町民は最後の姿を見ようと重秀の行列に群がったのであった。

 そんな群衆に重秀は、手を振りながら笑顔で声を上げる。


「皆、今まで世話になったな!皆も壮健でな!」


 重秀の言葉に、群衆は「おおーっ!」と言って手を振り返すのであった。


 さて、そんな様子を見ていた馬上の正則は、重秀の群衆からの熱い支持に改めて舌を巻いた。


「相変わらず民から好かれているよなぁ、兄貴は」


 正則が隣にいる馬上の清正にそう言うが、清正は返事をしなかった。正則が清正を見ると、やたらと首を後ろに向けて後方を気にしている様子であった。

 正則が「おい」と言って、右の拳で清正の側頭部を軽く小突いた。


「な、なんだよっ、いきなり」


 側頭部の軽い衝撃に驚いた清正が正則の方を見た。正則が清正に呆れながら言う。


「あのなぁ。妻を娶って、しかもその妻が後方にいるからって、あまり後ろを見るなよ」


「べ、別に妻ではない!まだ祝言は挙げてない!」


 そう言う清正であったが、正則は「そうかそうか」とニンマリとした笑いを顔に浮かべながら返した。


 清正はつい先日、小一郎の紹介で山崎片家の娘を娶ることが決まった。清正にしては青天の霹靂だったのだが、小一郎や秀吉がすでにお膳立てしていたので逃げ道はほぼ無かった。

 唯一の逃げ道として、国替えを理由に断ろうとしたものの、清正と面談した片家が、


「仮祝言だけ済ませて連れていき、兵庫に着いたら改めて祝言を挙げれば良い」


 と言ったものだから、清正は断りきれなかった。結局、清正は片家の娘と仮祝言を挙げ、独身生活にピリオドを打つこととなった。


「でもまあ、良かったじゃないか。仮祝言の際に見たけど、そこそこ器量良しじゃないか。相手の家も近江の名門山崎家。文句の付けようのない娘御ではないか」


 相変わらずニヤニヤした笑いを顔に浮かべながら言う正則に、清正が恨みがましい目を向けながら言う。


「・・・そう言う市にも婚儀の話は来ていたのであろう?何故断った」


「いやぁ。俺はまだまだ遊びたいからなぁ。妻なんか持ったら遊べなくなる」


 そう言いながら笑う正則に、清正は溜息をついて話しかける。


「市、いや次兄よ。我等は長兄の家臣として、五百石も知行を頂く身となった。何時までもフラフラと遊んでいるわけにも行くまい。妻を持ち身を固め、主君である長兄と筑前守様のために働くのが我等の役目ぞ」


「お硬いねぇ・・・。ま、俺としてはそこら辺の国衆の娘ではなく、もっと上の姫御がいいかな。知行だけではなく、女も上を目指さないとな!」


 あっはっはっ、と豪快に笑う正則を見て、清正は再び溜息をつくのであった。





 重秀の一行はその日のうちに安土に入った。兵庫城へ向かうことを信長に報告するべく、重秀が安土城へ登城するためである。そして信長とは次の日の夕刻に会えることとなった。それまでの間に、重秀は安土に在住している重臣や奉行の屋敷へ挨拶回りに行った。


 そして次の日の夕刻、安土城天主の最上階に案内された重秀はそこで信長に拝謁した。


「羽柴藤十郎重秀、ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ上げまする」


「大義。久太(堀秀政のこと)から国替えの件はすでに報せが来ておる。滞り無く終わらせた手腕、見事なり」


 信長が低い声でそう言うと、重秀は「もったいなきお言葉、有難き幸せ」と言って平伏した。信長が重秀に話しかける。


「藤十郎。うぬには期待しておる。父筑前と共に織田に仇を成す敵を討ち果たせ」


「お任せください。有馬、八部の二郡を頂いた以上、父を支え、毛利を討って西国を平定してみせまする」


 そう断言する重秀に、信長は「で、あるか」と満足げに頷いた。しかし、満足げな顔はすぐに曇った。


「・・・汝の気概や良し。だが、毛利だけを見るな」


 信長の意味深な発言に、重秀は思わず「えっ?」と言いながら顔を上げてしまった。信長が渋い顔をしながら口を開く。


「・・・汝は羽柴の水軍を担い、瀬戸内の海に出ている。故に汝にだけ話しておこう。・・・四国にも目を光らせよ」


「・・・四国でございまするか?」


 そう言う重秀に対し、信長が落ち着いた声で言う。


「何故、余が四国にも目を光らせよと言うたか、分かるか?」


「十河を始め、讃岐の国衆は毛利と誼を通じております故、山陽の横腹を突かせぬため、でございますか」


 重秀が即答した。しかし、信長の顔は渋いままであった。どうやら重秀の回答は違うらしい。


「汝の答えは間違ってはおらぬ。おらぬが、正解ではない」


 そう言うと信長は、教え諭すように口を開く。


「・・・今後は、長宗我部の動きに目を光らせる必要がある」


「長宗我部・・・でございますか?しかしながら、長宗我部は我等と誼を通じており、上様の通字を長宗我部の嫡男(長宗我部信親のこと)へ与えたと聞いておりますが・・・」


 重秀がおずおずとそう言うと、信長は頷く。


「汝の言う通り、余は宮内少輔(長宗我部元親のこと)と盟を結んだ。その証として余の通字を弥三郎(長宗我部信親のこと)めに授けた。しかし、長宗我部と盟を結んだは、阿波、讃岐に巣食う三好を討たんがため。だが、その三好ももはや余の下に収まった。三好山城守(三好康長のこと。この頃は三好康慶と称していた)は石山本願寺との戦いで活躍し、織田への忠節を身をもって示してきた。その山城が四国の旧領への復帰を願い出てきたのだ。まあ、三好の旧領と言えば讃岐と阿波であるが、二カ国を山城に与える気はない。どちらか一国を与えようと思うが・・・」


 そこまで言うと、信長は興味深そうに重秀を見つめながら尋ねる。


「藤十郎。汝なら山城に讃岐と阿波、どちらを与える?」


 いやそんな事言われても、と重秀は思った。ただ、信長の視線に抗う事はできず、そのまま自分の考えを述べる。


「・・・阿波を与えまする」


「その訳は?」


 即座に聞き返した信長に、重秀は理由を話す。


「・・・瀬戸内の海は九州と畿内を繋ぐ重要な船の道にございます。その道を安んじるには、沿岸を織田家がしっかりと抑える必要がございます。山城守様が如何に織田への忠勤を示したとは言え、一度は敵対した者。讃岐は、上様が信ずる譜代の者を遣わすべきかと存じまする」


 重秀の言葉に、信長の顔には喜びの笑みを浮かべた。どうやら重秀の言葉は信長にとって正解だったらしい。信長が高い声で語りかける。


「汝の言うとおり、瀬戸内の海は博多や長崎、そしてその先のから朝鮮、南蛮を繋ぐ重要な海よ。藤十郎よ。南蛮人や唐人は大きな船を使って異国との交易に力を入れておる。余もいづれ異国との交易を増やそうと思っておる。そうすれば更に織田家は富むであろうからな」


 信長の祖父である織田信定は津島の湊を治めたことで交易による莫大な利益を得ることができた。尾張守護代の家老の家に過ぎなかった織田弾正忠家が力を得ることができたのは、津島湊の利益を得ることができたからであった。そしてその利益は信定、信秀、信長の三代を支えてきた。

 また、秀吉は長浜と塩津、大浦という琵琶湖水運の重要な湊で利益を得ており、重秀もまた兵庫津から上がる莫大な利益を得ることが見込まれていた。そのため、信長の考えを重秀は十分理解できていた。


「・・・瀬戸内の海は織田にとって是が非でも取っておきたい海、ということでございますな。とするならば、瀬戸内の島々はもちろん、未だ毛利と繋がりのある国衆がいる淡路国は是が非でも攻めなければなりませぬ」


 重秀の回答に、信長が「で、あるな」と頷いた。


「淡路は大坂や京を瀬戸内から守るには重要な島よ。いづれ兵を遣わし、毛利方の国衆を滅してくれるわ。

 ・・・まあ、それはともかく、宮内少輔も何とかせねばならぬ。すでに讃岐の香川中務丞(香川之景のこと)が長宗我部に降っておる。香川は元々儂の傘下の国衆。その香川に手を伸ばしてきたのだ。これは由々しきことじゃ」


 香川家は代々讃岐守護であった細川家に仕えていたものの、細川家が三好家に乗っ取られていくのと同時に独自性を発揮。西讃岐を支配下において戦国大名化していった。

 その当主である香川之景は毛利と織田がまだ誼を通じていた頃から毛利と織田に通じており、特に之景は信長から通字を貰って香川信景と名乗っていた。

 その後、織田と毛利が敵対し、毛利が十河存保を支援するようになる。十河と毛利に挟まれた香川は、南から勢力を伸ばしてきた長宗我部と手を結ぶことにした。と言っても、力関係で言えば長宗我部の方が強力なため、事実上香川は長宗我部の傘下に入ることになったのだが。


「しかも、宮内少輔は讃岐、阿波のみならず、伊予にまで手を伸ばしてきた。儂は三好の領地を切り取って良いとは申したが、伊予まで切り取ってよいとは申しておらぬ」


 信長にとって、長宗我部はあくまで三好の背後を突かせるための同盟であった。そのため、三好の領地を長宗我部が切り取ることを認めてきたのだ。

 しかし、伊予は三好の領地ではない。しかも、南伊予で戦国大名化していた西園寺家や、東伊予の河野家は信長と誼を通じており、長宗我部の侵攻を止めさせるように懇願していた。


「藤十郎。長宗我部は四国を我が物にせんと更に戦を広げるであろう。そうなれば、最悪長宗我部との戦を避けることはできぬ。瀬戸内まで来られては迷惑というものよ」


 信長の発言に、重秀は内心嫌がった。ただでさえ毛利と戦っているのに、更に長宗我部との戦を始めては、二方面作戦を強要されることになるからだ。

 そんな事を思っている重秀に、信長が低い声で話しかける。


「藤十郎。汝に有馬郡と八部郡の二郡を授けたのは、汝が羽柴の水軍を指揮するが故。あの二郡の石高は四万石を超えると聞いている。重臣の嫡男でそれだけの知行を抱えるは、佐久間甚九郎(佐久間信栄のこと)がいなくなった今、織田家中でも汝のみぞ。その知行を持って水軍を鍛え、瀬戸内を織田のものとせよ。良いな?」


「しょ、承知致しました。上様のご期待に添えるよう、身を粉にする覚悟にございます」


 信長の威圧的な言葉に、重秀は緊張気味に答えた。そんな重秀に、信長は今度は機嫌良さそうに高い声で話しかける。


「よくぞ申した、婿殿。汝に義父ちちより贈り物を遣わそう」


「お、贈り物?」


 思わず聞いてしまった重秀。そんな重秀に気にせず、信長が話を続ける。


「うむ。大友より余に送られた国崩くにくずしなる石火矢(大砲のこと)よ。元は九鬼の大安宅船に乗せていたが、あの大安宅船は解体してしまい、使い道がないのよ。汝に六挺与える故、上手く使え」





 豊臣秀重の書いた日記『長浜日記』の最後は天正八年(1580年)閏三月十六日の記載、すなわち安土に到着し、信長と謁見した件が最後の記載であった。その後、豊臣秀重は日記の記載を一旦止めている。

 豊臣秀重が再び日記をつけ始めるのは、天正十一年(1583年)一月からである。これ以降書かれた日記を後世では『大坂日記』と呼ぶ。

 すなわち、天正八年(1580年)閏三月十六日から天正十一年(1583年)一月までのおよそ3年間、彼は後世に残る歴史的資料を残していない。岐阜にいた頃に日記を記していたことは『長浜日記』にも書かれているが、この3年間に日記を書いたという記録すら残っていないのである。

 後の歴史家から、『豊臣秀重の空白の3年間』と呼ばれる期間について、他の史料で彼自身の行動は詳しく分かっている。しかしながら、何故、彼がこの3年間日記を書かなかったかについては、歴史学者の間でも議論になっている。

 そして、天正十年(1582年)に起きた日本史を揺るがすあの大事件について、彼は詳細な史料を残していない。この事が後世の人々に歯がゆい想いをさせるのであった。


注釈

香川信景こと香川之景は通称を兵部大輔としていた時期と中務丞なかつかさのじょうとしていた時期があり、いつ変更したのかが不明である。

そのため、小説内で兵部大輔が長岡藤孝(のちの細川幽斎)のことを指すこと、長宗我部元親が宮内少輔(従五位下相当)であり、事実上の傘下についた景之が兵部大輔(正五位下相当)なのはバランスが取れないことから、この小説では最初から中務丞(正六位上相当?)としている。

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― 新着の感想 ―
いよいよ、本能寺の変に関するエピソードが始まるのか??
この世界だと後世のソシャゲで父親と一緒にノッブ(♀)に変なデレ方してる重秀の姿が…? でもってヤンデレが行き過ぎて本能寺を…というイベントがあったり無かったり…?
日記を書かなかったのか書けなかったのか、書いたものを破棄したのか タイミング的にはなかなか面白いですね
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