第182話 万菊丸(後編)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
いいね!が15000突破しました。評価して頂きありがとうございます。
誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。
「し、正真様。申し訳ございませぬ」
小坊主がそう言って縁側で平伏した。いきなり叱りつけるような怒声を上げた正真に、重秀がつい口を出す。
「その様に大声を上げることはなかろう。私の方からこの者に声をかけたのだから」
そう言う重秀に、正真が睨みつけてきた。殺気ある視線に気がついた大谷吉隆が刀に手をかけて重秀の前に出た。それを見た藤堂高虎が正真に大声を上げる。
「正真殿!羽柴の若君でござるぞ!控えられよ!」
そう言われた正真は。不満そうな顔つきになりながらも重秀に頭を下げた。重秀が口を開く。
「・・・今の目で思い出した。正真とやら、その方以前に私に住職とともに茶を出してくれたな・・・。ああ、その時にいた稚児・・・、確か陽丸だったかな?」
そう言うと重秀は視線を小坊主に向けた。
「・・・お主、あの時の稚児か」
重秀がそう尋ねると、小坊主は平伏しながら答える。
「申し訳ございませぬ。その事は覚えておりませぬが・・・。私が陽丸なのは間違いございませぬ」
「ああ、やっぱりそうだったのか。どっかで見た顔だなと思っていたのだ」
そう言うと重秀は視線を今度は高虎に移す。
「で?与右衛門と正真がこっちに来たということは、話は済んだということか?」
重秀がそう聞くと、高虎は渋い顔をしながら答える。
「はっ・・・。山崎殿、いや正真殿には断られました。無念でございまする」
無念、と言っている割には妙に納得したような顔つきの高虎。そんな高虎に、重秀が確認するかのように尋ねる。
「・・・正真殿は元浅井家中の山崎治三郎なのは間違いないのか?」
重秀の質問に高虎は「はっ」と答えた。重秀が正真を見ながら尋ねる。
「何故、与右衛門の下に行かない?やはり、浅井を滅ぼした羽柴の下に走った与右衛門には仕えたくはないのか?」
そんな重秀の質問に、正真が首を横に振る。
「乱世故、主家が滅ぼされたのは致し方のないこと。それに、拙僧は仏門に入った身。仏の教えに従い、もはや恨みは捨て申した。ただ、浅井家の家臣として、この近江にて浅井家とその家臣達を弔いとう存じまする」
「つまり、近江から出たくはないと?」
重秀がそう聞くと、正真が「御意」と答えた。
「ふーん」
重秀がそう言いながら、小坊主の方を見た。正真の顔つきが険しくなる。
「ところで、この小坊主・・・。陽丸だっけ?やたらと構うけど、息子か何か?」
「・・・今は正芸と称しております。正芸は我が甥にて、妹の子でございます。両親が亡くなった故、それがしが引き取り、共に寺へ入りました」
重秀の質問に正真はそう答えた。この時、重秀の頭にふと小谷城でお市の方が話していた事を思い出した。そしてその事を口に出す。
「・・・実は、数日前にお市の方様からあることを聞いた。浅井備前守様(浅井長政のこと)には三人の男児が居たと。万福殿は父筑前に処刑され、万菊殿ともう一人が行方不明だと聞いた。特に万菊殿は天正元年(1573年)生まれ。生きていれば八歳か。ちょうど正芸と同い年だな」
そう言った瞬間、正真だけでなく高虎や良勝の顔色が一気に青ざめた。その分かり易さに、重秀は思う。
―――なるほど、隠し事をしている私を、父上や半兵衛殿から見たらこんな感じだったのかもしれないな。今後は気をつけないといけないな―――
そんなことを思いつつ、重秀は今後のことについて考え始める。
―――さて、それはともかく、この正芸が浅井家の遺児だということは分かった。分かったけど、この後どうしよう・・・―――
重秀が悩んでいる間、その場には緊張感が漂っていた。誰も言葉を発さずに時間だけが過ぎていった。
無駄に時が過ぎる中、遠くからこちらに向かってくる足跡が聞こえた。重秀を始め、その場にいたものの顔が強張り、緊張感が更に増していった。重秀達が足音がする方へ視線を向けると、遠くから安相寺の住職が近づいてきていた。
住職が何でも無さそうな雰囲気で重秀達の近くに行くと、さも何でも無いかのような口調で皆に話しかける。
「皆様。その様なところでボーッとしていては疲れましょう。そこの庵にて茶を立てます故、まずは心を解しては如何かな?」
庵にて茶をご馳走になった重秀は、同じく茶をご馳走になった高虎と良勝と共に茶を点ててくれた住職に「結構なお手前でございました」と言って頭を下げた。
「お粗末な茶故、羽柴の若君に対する茶ではなかったかもしれませぬが・・・」
「いえ、住職の茶がなければ、あの場を乗り切ることができませんでした。正に流れを変える一手でございました」
重秀がそう言うと、住職は微笑む一方、住職の隣りに座っていた正真は渋い顔をした。重秀は話を続ける。
「あの小坊主・・・正芸でしたか。あの者が何者かを確実に証する者がいない以上、私がどうこう言う身ではありません。しかしながら、あの者が担ぎ上げられるのは勘弁願いたい、というのが私の気持ちです」
住職が作った流れを利用し、茶を飲んでいる間に考えていた自分の考えを述べる重秀。その重秀の言葉が、庵の空気を更に柔らかくした。重秀が更に話す。
「加賀では一向門徒が結束を固めている。織田家中では、追放された教如上人が一向門徒をまとめ上げているという見方をしている者が多い。ここで更に浅井の遺児が一向門徒に掲げられれば、加賀平定の任を受けた柴田様もやりづらいし、福田寺や安相寺を抱えていた父上にも咎が及んでしまう。羽柴の者としてそれは避けたい」
そう言うと、重秀は視線を住職に向けた。じっと住職の目を見つめる重秀に、住職は温和な視線を返してきた。そして口を開く。
「拙僧としては、羽柴様に迷惑をかける気はございませぬ。羽柴様は性慶様と共に北近江の一向宗を保護してくれました。更に越前の一向門徒を助けて下さっただけではなく、職を世話していただきました。その点については拙僧を始め、多くの一向門徒が恩義を感じておりまする。まあ、肉食妻帯が許されるからと言って獣を屠らせるのはどうかと思いますがね」
住職がそう言うと、隣りに座っていた正真は平伏しながら声を上げる。
「羽柴様!何卒、何卒このことは内密に!我等はこの菅浦から出ませぬ!一生この地にて俗世より離れ、ひたすら菅浦のために尽くす所存にございます!なので、我等のことは、前右府様(織田信長のこと)には仰らないでくだされ・・・!」
「上様へ伝えるならば、父筑前に話をしなければならない。一旦播磨に行ってから言わなければならないから、結構時間がかかるな。その間に菅浦からいなくなれば、我等は手も足も出なくなる」
重秀がそう言うと、皆は重秀の隠されたメッセージを理解した。菅浦からいなくなれば、羽柴は追求しないと重秀はメッセージを発したのだ。
それを聞いた高虎が正真に尋ねる。
「・・・もし・・・、菅浦、いや近江から出ていくとしたら、どこか行くあてはあるのか?」
高虎の言葉に、正真は首を横に振った。高虎が正真に話しかける。
「もしなければ、藤堂家が匿っても良い。拙者は二千石ももらえるようになった。しかも我が殿(小一郎のこと)は但馬の平定を大殿様(秀吉のこと)より命じられておる。但馬に行けば、上様からの追求も無くなる。・・・どうだ?拙者の元に来ないか?」
「それは断っただろう。儂は僧として、仏門に帰依した者として、正芸と共に御仏に仕える身になると」
「しかし・・・、正芸・・・殿がその、アレならば、いつまでも近江にいられないぞ。菅浦はともかく、他は織田家の直轄地になるのだし、追及の手が伸びないとは限るまい」
高虎が正芸の正体を明かさないように四苦八苦しながらそう言うと、正真は両腕を組んで悩んでしまった。その時、重秀が住職に尋ねる。
「一向宗って、どこか他国の寺に遊学させるってことしてないの?ほら、比叡山とか高野山が各地から修行僧集めていたじゃないか」
「無論しておりましたが・・・。石山御坊は無くなり、鷺森御坊は未だ受け入れを行なっておりませぬ。それに正真ならともかく、正芸の歳ではまだ早うございまする」
住職がそう答えると、重秀は「なら仕方がない」と言った。
「当面は菅浦で修行し、時が来たら遊学と称してどこかに行くしか無いな」
重秀がそう言ったときだった。高虎が「あの、若君」と声をかけてきた。
「播磨の英賀御堂に行ってもらうというのはどうでしょうか?」
「英賀御堂は駄目だな。今は英賀から姫路の亀山に移っている。伽藍とかは移設しているが、それ以外は新築の真っ最中だ。受け入れる余裕はないだろう。それに・・・」
重秀が高虎の目を見ながら話を続ける。
「与右衛門は叔父上と共に但馬へ行くのであろう?共に正真・・・いや治三郎を連れて行けないぞ?」
重秀の言葉に高虎が項垂れる。でかい身体で項垂れる姿はなんだか可笑しかった。重秀が笑いを堪えていると、それまで黙っていた吉継の口が開いた。
「・・・恐れながら若君。ここは、何もせずに動かぬほうが得策かと。せっかくここの住職や正真殿、そして性慶殿が慎重に動いていたのです。ここで動きを見せては、アレが露呈してしまう恐れがあるかと」
「なるほど。一理ある」
重秀がそう言うと、視線を吉隆から高虎に移す。
「与右衛門。ここは、静の一手。何もしないほうが良いと思うのだが?」
重秀の発言に、高虎が「・・・それもそうですな」と言って納得したような顔になった。しかし、隣にいた良勝が重秀に尋ねてくる。
「若君・・・。何故そこまで正真殿とアレを守ろうとするのですか?」
「守ろうとしているのではない。関わり合いになりたくないだけだ」
良勝の質問に対し、重秀は嫌そうな顔をしながらそう答えた。重秀は話を続ける。
「正芸が真にアレならば、上様にお報せするのだが、その確固たる証拠がない。そこの正真か住職を拷問にかければ話すかもしれぬが、それやったら私と菅浦との間に亀裂が入る。それは困る」
「・・・困りますか?」
吉隆が尋ねると、重秀は「困る。大いに困る」と頷いた。
「さっき塩硝の話をしたではないか。あれが頓挫するのはよろしく無いからな」
「はぁ」
塩硝作りにあまり携わっていない吉隆は、いまいち理解していなさそうな顔でそう返事した。
「それに・・・。お市の方様も『どこかで健やかに生きてくれれば十分じゃ』と仰っていた。このまま菅浦で静かに過ごさせる事が、御方様、そして浅井備前守様への忠義になるんじゃないかな」
重秀の言葉に皆が一斉に頷いた。
「ところで、備前守様(浅井長政のこと)にはもう一人、男児がいたと聞いたが、それについては何か知らないのか?」
重秀がそう尋ねると、正真はもちろん、高虎までも首を横に振った。
「存じませぬ。そもそも、もう一人いたというのは初耳にございます」
「若君、それは真にございまするか?まあ、拙者もその頃は足軽だった故、主君の奥向の話を耳にする機会はあまりありませんでしたが、それにしても、もう一人男児がいたというのは聞いたことがないのでござるが」
正真と高虎がそう言ったので、重秀がお市の方から聞いた捨て子の話をした。
「そ、そんな若君がいらっしゃったとは・・・。では、そのような者がまだ生きていると・・・?」
高虎がそう言うと、重秀は「さあ?」と肩をすくめた。
「お市の方様が嘘をついているとは思わないが、その話が真実か否かを確かめるすべはないからなぁ・・・」
両腕を組みながら重秀がそう言うと、高虎は正真の方を見る。
「治三郎殿・・・正真殿は聞いたことがござるか?」
聞かれた正真は眉間にしわを寄せながら首を傾げる。
「いや・・・。聞いたこと無いですな。しかしながら、『厄を払う』と言って外に出したのであれば、秘密にするのは当然でございましょう。そういうのは、往々にして外に出したくない醜聞が含まれることもありますから」
「醜聞?」
重秀が聞き返すと、正真は「はい」と答えた。
「例えば、正室の許し無く女中と目合って子を成した場合などが当てはまります」
「・・・いや、待て。それはおかしい。正室に許しを得ずに女中と目合う?そんな事可能なのか?」
重秀がそう尋ねると、正真だけでなく高虎すらも「何言ってんだ?こいつ」と言いたげな目を向けてきた。正真が重秀に言う。
「可能といえば可能でしょう。まあ、我が殿についてはよく分かりませぬが、他家でそういう話は聞いたことがありまする」
「拙者も聞いたことがありまする。噂でございますが、三河守様(徳川家康のこと)が昔、お万という女中と目合って孕ませた際、許しを得なかったとして築山殿(家康の正室)がその女中を折檻されたとか。その後男児を産んだようですが、その時は母親ごと城から追い出されたということでござる」
正真に続いて高虎がそう言うと、重秀は思わず「ちょっと待て」と高虎の発言を止めた。重秀が高虎に言う。
「与右衛門。なんでそんな話を知っているのだ?そんな話、聞いたこと無いぞ。そもそも、なんで与右衛門が徳川家の内情を知っているんだ?」
重秀がそう言うと、高虎は何かを思い出したかのような顔になりながら話をし始める。
「そういえば、若君には話していませんでしたな。実は拙者、天正二年(1574年)に阿閉様(阿閉貞征のこと)に仕えていた頃、同僚と喧嘩して切り捨てたことがございました」
「それは以前聞いた。その後、磯野丹波守(磯野員昌のこと)に仕官したんだったっけ?」
「実は磯野家に仕える前に徳川様に仕えようかと思い、三河国は吉田まで旅をしたことがございました」
「・・・ずいぶん遠くまで行ったな」
「真の事を言えば、追手から逃げるために行ったのですが・・・。まあ、それはともかく、拙者はそこで路銀が尽きてしまい、やむを得ず吉田の町にあった餅屋に入り、銭が無いにも関わらずそこで餅をたらふく食べもうした」
「お前何やってんの・・・?」
重秀が呆れたような口調で高虎に言った。周りの人間も唖然とした顔つきで高虎を見ていた。高虎が右手で後頭部を掻きながら話を続ける。
「まあ、その時は同情した餅屋の主人に奢ってもらっただけではなく、『この銭で国元の親に孝行して上げなさい』と路銀を頂いたので、近江犬上郡の藤堂村へと戻り、その後磯野家に仕官したのでございまする。で、その時餅屋の主人に三河守様の話を聞いたのでござる」
「・・・色々言いたいことはあるけど、とりあえず与右衛門が徳川の裏事情を知っている訳は分かった。そして、徳川で起きたことが浅井で起きたかもしれないということだな?」
重秀がそう聞くと、高虎が「御意にございまする」と言って頭を下げた。重秀が「うーん」と唸りながら口を開く。
「・・・思うんだが、お市の方様はそれを知っていたのだろうか?あの口調なら、知らなかったと思うのだが・・・」
お市の方が話した時のシーンを思い出しながら重秀は呟いた。しかし、正真は首を横に振る。
「恐れながら、御方様はご存知だったかと存じまする。いくら羽柴様とは言え、浅井の醜聞を正直にお話するとは限りませぬ」
「そうか・・・」
重秀はそう返事をしたが、重秀と二人っきりになってまで秘密を明かしたお市の方が、嘘をついていたことに心の中ではショックを受けていた。
重秀にとって『女性が嘘をつく』ということは考えもしなかったことだった。まあ、重秀の周りに嘘をつく女性がいなかったし、謀略を張り巡らすのは男性がすることだ、という先入観もあったから、重秀がそう思うのは仕方ないことだった。
一方、お市の方が嘘をつくのも仕方がないのかな、とも思っていた。ただでさえ浅井長政の遺児、しかも将来の禍根になりそうな男児の存在を明らかにするだけでも危険なのに、お市の方は生存情報を求めて重秀に尋ねたのだ。お市の方にとって大切なのは男児の行先を知ることであり、それ以外の情報、特に浅井家の奥向の秘密まで明らかにする必要はないのだから。
結局、重秀達は正真と正芸をそのままにすることとした。高虎は正真こと山崎添真を登用することはできなかったが、その顔に無念さはなく、むしろ納得したかのような表情で船に乗り込んだ。
一方、重秀は複雑そうな顔をしつつ船に乗り込んだ。それは、お市の方に遺児の生存を報せることができない残念さと、厄介な問題を抱え込んでしまったという悩みが混じった表情であった。
高虎と重秀の想いを乗せた丸子船は、菅浦の乙名衆や安相寺の住職、正真と正芸に見送られながらも菅浦を離れ、長浜へと帰って行くのであった。