第180話 万菊丸(前編)
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重秀と福島正則、加藤清正が小谷城の麓の屋敷に戻ったのは、夜明けの直前であった。この時間帯だと大体の者は起きているため、重秀達が戻った屋敷では、柴田勝家とお市の方はもちろん、息子の於国丸(のちの柴田勝敏)や茶々、初、江の三人の姫。大野さんや田屋さん、佐脇さんの三人の乳母達。そして大野茶千代(のちの大野治長)とその弟達や乳母達の子供達も起きていた。
「お、藤十郎殿。今頃お帰りか?」
寝ずの番としてずっと起きていた柴田勝安が、帰ってきた重秀に声をかけてきた。重秀は澄ました顔で言う。
「ええ。山王丸の寺の住職と話し込んでいたら朝になってしまいました」
「山王丸の寺?一向宗の寺ではないか」
「一向門徒がどの様な考えなのかを聞くのは今後のためです。播磨にも旧英賀御坊の一向門徒が多くいますから、その対策にもなりますし。『敵を知り、己を知らば百戦危うからず』ですよ」
堂々と嘘をつく重秀に、勝安はすっかりと騙された。
「なるほど。儂等も加賀の一向門徒と今後戦うからな。知る必要はありそうだ」
そう言っている勝安の横を颯爽と通り抜ける重秀。そんな重秀を正則と清正は唖然とした表情で見ていたが、すぐに表情を改めると重秀の後を追うように勝安の横を通り過ぎた。
「・・・兄貴も最近は平気で嘘をつくようになったな」
勝安が見えなくなったところで正則が小声でそう言うと、重秀もまた小声で返す。
「山王丸の寺の住職と話をしたのは真だぞ」
「十日も前の話ではございませぬか」
清正が小声でそう言うと、重秀は「でも、嘘ではないだろう?」と返した。
「それに三左衛門殿はもうすぐ長浜へ戻るんだ。わざわざ山王丸まで行って確認する気も時もないだろう。私の言ったことが真かどうかを確かめることはないさ」
重秀が笑いながら言うと、正則と清正は互いに顔を見合わせるのであった。
屋敷に戻った重秀であるが、すぐに勝家に呼び出された。正則と清正を連れて勝家がいる部屋に行くと、そこには勝家とお市の方が上座に並んで座っており、部屋の左右には於国丸、三人の姫、三人の乳母が並んで座っていた。
「お呼びでございましょうか、柴田修理亮様」
畏まって平伏した重秀に、勝家はぎこちない笑顔で語りかける。
「此度は儂等が小谷城を訪れるにつき、大変骨を折ってくれたこと感謝いたす。藤十郎の饗しは皆喜んでいた。改めて礼を言う」
そう言うと勝家は軽く頭を下げた。重秀は平伏しながら言う。
「いえ、御方様への配慮が欠けたこと、真に忸怩たる思いにございます。また、その事で大姫様(茶々のこと)にご不快な想いをさせたこと、大変申し訳なく思っております」
重秀の謝罪に対し、答えたのは勝家ではなくお市の方であった。
「気にすることはない。こちらが押しかけて来たのに、饗しに文句をつけるは本意にあらず。そなたが気に病むことはない。それに、妾達ももう気にしてはおらぬ。のう、茶々よ」
お市の方がそう言うと、言われた茶々は黙って頭を下げた。それを見たお市の方が、勝家の方へ顔を向ける。
「御前様。実は藤十郎殿にお話があるのですが・・・」
「ん?話じゃと?」
「はい。できれば、藤十郎殿と二人で話がしたいのです」
そう言われた勝家は、お市の方の顔をじっと見つめた。お市の方の真剣な眼差しを見た後、勝家は決断するかのように口を開く。
「・・・相分かった。儂等は先に長浜に戻る支度を致す。手短にな」
そう言うと勝家は立ち上がった。部屋の左右に分かれて座っていた者達も勝家とともに立ち上がったが、茶々だけは立ち上がらなかった。
「義父上、私は母上の傍に居とうございまする」
「茶々、その様に我儘を申すでない。妾は藤十郎殿に大事な話があるのじゃ」
大事な話?と疑問符を頭に浮かべている重秀の前で、お市の方と茶々は少々言い合いをした。しかし、その言い合いもすぐに終わり、茶々は渋々立ち上がると、重秀に言い放つ。
「藤十郎様。母上に無体なこと成さらば、茶々は貴方様を討ちまする」
茶々の言葉に清正が「柴田の大姫と言えどもその物言い無礼であろう!」と立ちながら叫んだ。正則も顔に怒りの表情を浮かべて立ち上がった。重秀が二人を叱責する。
「止めよ!お市の方様の御前であるぞ!それに、修理亮様の大姫様に無礼であろう!」
重秀はそう言うと、すかさず勝家とお市の方に詫びを入れる。
「我が臣、市兵衛と虎之助の無礼、平にご容赦を。追って沙汰を致します故、何卒処分はそれがしに」
「良い。先に無礼を働いたは茶々よ。茶々には後で妾からきつく叱っておく故、お許しあれ」
お市の方が即座にそう言った。その間、三人の乳母に促されて茶々は部屋から出ていった。
勝家や正則、清正等も部屋から出ていき、部屋には重秀とお市の方の二人が残った。しばらく黙っていたお市の方が重秀に聞く。
「・・・藤十郎殿は、口は堅いか?」
「喋るな、と言われたことは、例え父上であっても話すことはありえませぬ」
佐久間右衛門尉様(佐久間信盛のこと)の追放のこと話さなかったし、と思いつつそう答えた重秀。その真剣な表情を見たお市の方は、それでも中々口を開かなかった。
しばらく悩んでいた表情をしていたお市の方。しかし、そのうち真剣な表情へと顔を変えると、重秀を手招きした。
「近うよれ。内密の話じゃ」
そう言われた重秀はお市の方に近づく。が、まだ遠かったらしく、お市の方に更に近づくように注意された。結局、重秀はお市の方と顔が近づくほどの至近距離で話を聞く羽目となった。
面長で品のある顔立ちのお市の方の、小さく紅が塗られた唇が動く。
「藤十郎殿。実は先の夫たる浅井新九郎様(浅井長政のこと)には三人の息子がいた。万福と万菊、そしてもう一人じゃ」
初めて聞く話に、重秀は思わず「へぇ」と声を上げそうになった。その言葉を飲み込みながらも黙って聞いていると、お市の方が語り続ける。
「万菊が生まれたのは天正元年(1573年)の五月。だから江と同い年であるな。新九郎様と側室の間に生まれた子じゃ。その後、小谷城が落城する直前に城外に逃れて、それ以降見つかっておらぬのじゃ」
「はぁ、なるほど」
重秀がそう答えると、お市の方がすがるような目で重秀に尋ねる。
「万菊も万福と同じく妾が育てた子。その子の生死が分からないのは心苦しいのじゃ。何か知っておらぬか?」
そう言われても、と重秀は思った。そんな情報は全く入っていないのだ。父秀吉の耳にも入っていないだろう。万福丸が殺されたのは将来の禍根を断つためであった。もし万菊丸も見つかれば、万福丸同様に殺されるはずだ。しかも万福丸と同じ様に磔にされ、衆目の中で殺されるはずである。
しかし、そんな話はとんと聞かない。もしかしたら秀吉が秘密裏に殺して信長に首を送っているかもしれないが、その様な重要な話が羽柴の嫡子かつ羽柴中枢にいる重秀に話されていないというのも考えにくい。
なので、重秀はお市の方に正直に話す。
「・・・申し訳ございませぬが、万菊様の事は全く聞き及んでおりませぬ。少なくとも、父筑前が殺めたという話は私には入っておりませぬ」
「そうですか・・・」
そう言って溜息をつくお市の方に、重秀が話しかける。
「他国に逃れたのではございませぬか?」
「それも考えたのですが、そう言った話は全く入らなくて・・・」
そう言って困惑した表情を顔に浮かべたお市の方。重秀もそんなお市の方の顔を見て困惑した。何とかしてあげたい、と思うのだが、情報が少なすぎた。
「・・・申し訳ございませぬ。お役に立てそうもございませぬ」
そう言って平伏する重秀に、お市の方は首を横に振る。
「・・・良いのです。密かに殺されたという話がないだけでも妾には朗報。どこかで健やかに生きてくれれば十分じゃ」
そう言ってお市の方は視線を上に向けた。それは遠くの地で生きている万菊丸に思いを馳せているのか、それとも溢れる涙が零れ落ちないようにしているのかは分からなかった。
「・・・御方様。もう一人の男児というのは・・・?」
重秀が長政のもう一人の男児について聞こうとした。当然お市の方も心配しているだろう、何か手がかりでもあれば、と思って重秀は聞いたのだが、お市の方の回答は重秀の予想を上回るものであった。
「捨てた」
「ええぇっ!?」
お市の方の衝撃的な言葉に思わず驚きの声を上げた重秀。そんな重秀の様子を見たお市の方が、首を横に振りながら話す。
「いや、本当に捨てたわけではない。もう一人の男児は新九郎様と万菊の母とは違う別の側室が産んだ子でのう。その男児を産んだ後にその側室が亡くなり、しかもその子には『厄がある』と城お抱えの祈祷師が言っておった。なので厄祓いとして捨て子にしたのじゃ」
当時の日本には『捨て子はよく育つ』という迷信から、捨て子にして別の家に育ててもらう、という風習があった。どこにでも見られた風習であるが、特に親が厄年だったり、親に不幸があった場合に子に厄が付かないよう、また既に厄が付いてしまったために厄払いの願いを込めて捨てることがあった。
捨てる、と言っても形式的に捨てるのである。捨てた直後に拾い親がすぐに拾って保護し、自分の子のように育てるのである。そして捨てた親は拾い親に経済的支援をするのである。中には捨てて拾われた子を即座に捨てた親元に戻すということも行われていた。
「では、捨てた子はその後どうなったかご存知ないのですか?」
「うむ。嫡男万福がいたし、産んだ側室も身分低き者故、その男児は後継ぎと看做さなかったのじゃ。なので家臣に拾われた後、どうなったかは妾には知らされておらぬのじゃ」
―――それ、実質的にも捨ててませんか?―――
そう思った重秀であるが、それを口にはしなかった。代わりに別のことを口に出す。
「そう言えば、私の母も私を産んで亡くなったと聞きました。ひょっとして、私も捨てられて前田家に拾われたのかも・・・」
「母者が亡くなったと言ってすぐに捨てるわけではない。前田又左衛門(前田利家のこと)の妻(まつのこと)と、そなたの母者は友人だと聞いた。友人の忘れ形見を見捨てるは忍びないと思ったのじゃろう」
そう言いながら、お市の方はあることに思いを馳せる。
―――そういえば、兄上は妾を筑前に娶せようとしてました。もし、妾が筑前の妻になていたら、この若人が妾の子となっていたのですか―――
そう思いながらお市の方は重秀の顔を見つめる。
―――ここ数日、この若人を見てきましたが、実に立派な若武者。妾達に真摯に向き合い、心配りまでしてくれました。筑前の様な下賤な成り上がり者の雰囲気を全く持っておらぬし、なるほど、筑前とは全く異なる為人です―――
実はお市の方は秀吉に会ったことは一度もない。身分が違いすぎるし、そもそも高貴な女性は同レベルの他人の男性とすら顔を合わせないものである。
なので、お市の方が思い描く秀吉の姿は伝聞であった。しかも織田家中の娘や妻という再伝聞の情報であった。当時の織田家中では秀吉は異質な存在であり、評価されない存在であった。しかも見た目が見た目なので、お市の方にはネガティブな情報しか入らなかったのであった。
なので伝聞でしか聞かなかった秀吉の為人とは違い、実際に見た重秀の為人はとても高い評価となっていた。ぶっちゃけて言えば、重秀は特別なことはしていない。客人に対する饗しも、勝家やお市の方達に対する接し方も標準的なものであった。
しかし、元々評価が低い『秀吉の息子』というフィルターを通して重秀を見ていたお市の方。重秀の評価は相対的に高いものとなっていた。不良が子猫や子犬を助けて、本当は良い人だったと見られるのと同じ構造である。
「・・・あの、御方様?」
お市の方の評価が高いことを知らない重秀は、黙ったままのお市の方に声をかけた。その声にお市の方は現実に戻される。
「・・・藤十郎殿。重ねて申し付けるが、この事は内密に。生きているにしろ死んでいるにしろ、もはや妾には関わりのないこと。そなたも忘れたほうが羽柴のためですぞ」
感情を殺したような顔をしながら、同じく感情を殺したような声で言うお市の方に、重秀は「承知いたしました」と言って平伏するのであった。
その後、勝家達は重秀達と共に長浜城へ帰還した。その後、長浜城で一泊した勝家達は、次の日の早朝に越前へ向けて出発していった。
長浜城に残った重秀は、残務を終わらせると小谷城へ向かい、昼夜問わずに何度も煮出して出てきた塩硝(硝石のこと)をかき集めた。あくまで実験として行った塩硝作りである。採れた量は少なく、五寸ほどの高さの葉茶壺1つ分の量しか取れなかった。
そんな事を小谷城でしていた重秀の元に、ある意外な人物がやってきた。
「お懐かしゅうございます、若君」
「久しぶりだな、与右衛門」
小谷城の麓の屋敷の客間。その上座に座っている重秀の目の前には、大きな男が座っていた。数日前まで屋敷にいた柴田勝家よりも大きなその男は、羽柴小一郎長秀の家臣である藤堂高虎であった。
「小一郎の叔父上から話は聞いている。此度の播磨平定と但馬竹田城攻めで功を挙げて、二千石になったんだって?」
「過分な加増にただただ驚いておりまする。この御恩に報いるべく、殿(小一郎のこと)への忠勤に一層励みとうございまする」
「叔父上は与右衛門を高く評価している。二千石しか与えられないことを恥じていたぞ」
「とんでもない。拙者如きに勿体無うございまする」
「それより、竹田城では奇襲をかけたんだって?」
重秀がそう質問をすると、高虎は「はっ」と答えた。
「但馬は養父郡の住人、居相孫作(居相正貞のこと)を調略して我が方へ寝返らせた後、その者の案内で竹田城の裏手に百二十騎で奇襲をかけました」
「その調略も与右衛門がやったと聞いたが?」
重秀の言葉に高虎が「いや、お恥ずかしい」と照れながら後頭部を右手で撫でる。
「殿から『調略をやれ』と言われた時は焦りました。拙者、それまで調略の”ち”の字も関わったこともない武骨者。四苦八苦致しました。何とか殿の下に降らせた時にはホッと致しました」
「分かる。私も高山右近様や宇喜多和泉守様(宇喜多直家のこと)の調略をやらされたが、その時は将右衛門殿(前野長康のこと)や半兵衛殿(竹中重治のこと)が側に居たからできたこと。今後半兵衛殿が居ない中で調略をやらされると考えると、気が重くなるよ」
「しかしながら、若君は上様を説得し、それまで宇喜多の寝返りを許さなかった上様のお考えを変えたと殿よりお聞き致しました。それにあの大大名、宇喜多を織田に引き入れたのです。さすがは羽柴の若君だと、鹿介殿(山中幸盛のこと)が褒めておりました」
「何。山中鹿介殿と仲が良いのか?」
「はい。実は殿より『山中殿は尼子復興の折、因幡や伯耆、出雲の国衆を寝返らせた実績がある。その知恵を借りるが良い』と言われました故、教えを請うて参りました。それ以来、共に槍が得手であることから仲良うさせていただいております」
「へぇ〜」
そんな雑談をしていた重秀と高虎であったが、雑談が終わると重秀が高虎に尋ねる。
「して、頼みがあって来たと聞いたが?」
「はい。殿と相談の上、若君よりお許しを頂きたく參上仕りました」
高虎がそう言うと、平伏しながら重秀に言う。
「先程申し上げましたとおり、拙者、殿より二千石頂きました。と同時に、近江の知行は召し上げられてしまいました」
「うん。北近江の知行は皆召し上げられたな。一部を除いて」
「御意。まあ、拙者には藤堂家の一門が多くおりますれば、その者達を新たな知行地へ連れて行くことになりましょう。しかしながら、まだまだ家臣の数が足りませぬ」
「でしょうね」
「そこで、これはと思う者を連れていきたいのでございますが・・・。実はその者は旧浅井家中の者でして、浅井家中ではそこそこ名の通った兵にて」
「へぇ。でも、その者と私と何か関係があるのか?」
重秀がそう尋ねると、高虎は真面目そうな顔をしながら顔を上げる。
「はい。実は菅浦の地、安相寺にて仏門に入っている男がおります。その者を我が配下にしたく、若君に菅浦の地より引き抜くことをお許し願いたく存じまする」