第179話 小谷牧場にて(その5)
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小谷城の北西部、小谷山の頂には大嶽城があった。元々大永三年(1523年)に浅井亮政が小谷城を築城した際に本丸があった所と言われている。
その後、本丸は東側の尾根の上に移されたようであったが、元亀三年(1572年)に朝倉勢が援軍としてきた際に駐屯地として築城したのが大嶽城であった。その後、天正元年(1572年)八月に織田軍に攻め落とされている。それ以降は廃城となっていた。
さて、攻め落とされて以降、廃城であった大嶽城に注目したのが重秀であった。彼は父秀吉から塩硝(硝石のこと)の製造を命じられていた。しかし、材料(蚕の糞と蓬と藁と尿)は知っていても製造方法は知らなかった重秀。とりあえず秘密を守るために誰も近寄らなかった大嶽城跡に穴を掘り、肥溜めの要領で材料を穴に入れて寝かせることとした。
しかし、この実験は一度は頓挫する。小谷城に越前の一向門徒を引き連れてやってきた本多正信に大嶽城跡でやっている事を知られたくなかった重秀が、実験の中止を決めたからであった。
1年後、本多正信が徳川家に戻ったので実験は再開されることとなった。この時正信から塩硝の取り出し方を聞いた重秀は、塩硝の材料と取り出し方を知った。重秀はこの二つを結びつければ塩硝が採れると確信した。後はこれを実験するだけであった。
まず重秀は大嶽城跡に再び穴を掘り、そこに材料をぶち込んだ。次にかき混ぜた後にその穴の上に小屋を作り、穴の上になる部分に囲炉裏が来るようにした。そして人を住まわせた。そのような小屋を大嶽城の曲輪に何軒も建てていった。
と同時に、蚕の糞以外の糞で同じようなことをしていった。というのも、蚕の糞は蚕沙と呼ばれる生薬になり、小西隆佐に買い取られていたからである。この頃はまだ蚕の数が少なく、一方で蚕沙として売る量が多いため、大量の蚕の糞を硝石作りに回せなかったのである。
重秀は小谷城から出る牛糞、豚糞、鶏糞を蚕の糞代わりにならないかと考え、同じ様に糞を集め、藁と蓬を混ぜて掘った穴に入れ、その上に囲炉裏付きの小屋を立てて人を住まわせた。ところが住民があまりの臭さに逃げ出すというハプニングが起きた。結局、その小屋には人を住まわせず、冬の間だけ定期的に囲炉裏に火を灯すようになった。もっとも、1年もすれば臭いは無くなるため、その後は人を住まわせることができたのだが、重秀はその後も大嶽城跡に人を住まわせなかった。塩硝の秘密を守るためである。
さて、そんなこんなで国替えとなった今年、重秀は実験の成果を見るため、そして大嶽城での実験を隠滅するため、今まで作った穴の中から土化した糞をすべて取り出し、塩硝を生成させていたのであった。
重秀達が夜中の大嶽城に到着した時、当に塩硝の取り出しの真っ最中であった。穴から取り出した土を水に溶かしでかき回し、半刻(約1時間)ほど放置した後に水を取り出す。その後、木灰を混ぜて沸騰させ、沸騰したら火から降ろしてまた放置し、木灰が沈殿したのを見て水を取り出した。その水をまた沸騰させて煮詰めた後、一昼夜放置して冷却して結晶化させた後、再び水を加えて結晶を溶かし、その水を煮詰めてまた冷却させると、再結晶化によって純度の高い塩硝が採れるのである。
「一年以内の糞の処分は終わったのか?」
「はい。肥として全て桑の木の根本にばら撒きました。今日やっと終わったそうです」
重秀の質問に教明がそう答えた。重秀が更に質問する。
「そうか。で、一年以上経った糞から塩硝は取れたのか?」
「はい。まず最初に放った穴・・・蚕の糞と蓬と藁を入れて尿をかけたものですが・・・。あれからは塩硝は取れませんでした。やはり、肥溜めと同じ作りでは雨が入り込んでしまうようです」
教明の説明に重秀はうなりながら呟く。
「う〜ん、塩硝は水に溶けるから雨に弱いというのは分かるんだけど、肥溜め程度の屋根では足りないか」
塩硝が水に溶けることは当時でも知られていた。塩硝を水に溶かし、火縄に浸して乾かすと雨に強い火縄になることはすでに知られていたし、塩硝を溶かした水で漉いた紙は燃えやすいので、羽柴では紙早合の材料としていた。弾ごと鉄砲に押し込んだ後、発砲する時に紙の燃えカスが出ないようにするためである。
しかも湿気よけとして油紙とするのであるから、羽柴の紙早合は発砲の際にはほとんど燃えカスが出ないようになっていた。
「蚕の糞と蓬、藁を混ぜたものに尿をかけたものですが、こちらは古い土からは塩硝が取れました。ただし、表面五寸(約15cm)の土からは多く取れたのですが、それより深い場所の土からは少ないか全く取れませんでした。また、一年から二年しか寝かすことのできなかったものについては、残念ながら表面部分からも塩硝はほとんど取れませんでした」
重秀や教明は知らなかったが、塩硝である硝酸カリウムは土の中の硝酸と木灰に含まれる炭酸カリウムが結びついてできたものである。そして土の中の硝酸はアンモニアを亜硝酸菌や硝酸菌(合わせて硝化菌という。好気性細菌である)が酸素を使って分解して生成するのである。つまり、酸素がないとアンモニアを分解して硝酸ができないのである。しかも硝酸は脱窒菌(嫌気性細菌である)によって窒素に分解されてしまうため、酸素を好む硝化菌のために常に新鮮な空気を送り込む必要がある。
つまり、外気に触れ合いやすい表層部分の土に塩硝ができ、外気に触れにくい地中では塩硝ができにくいのである。
「・・・今思ったんだが、尿ってかける必要あるのか?水に溶けるのであれば、尿にも溶けるのではないか?確か尿をかけては混ぜた穴もあっただろう?」
「ええ、ただ尿を混ぜたのは蚕の糞を追加する際の一回だけで、毎日かけているわけではありません。雨と違って溶けて流れるほどの量ではなかったのでしょう。塩硝は結構取れましたし、特に問題ないのでは?」
硝石生産に尿を使うのは、硝石を作る際にアンモニアが必要だからである。そして、尿は尿素を含み、その尿素を土中の細菌によってアンモニアにされる。
ただ、尿は液体なため、尿をかけすぎると硝酸が流れ出る虞がある。なので、本当は尿はかけないほうが良いのである。
そもそも、有機物を分解すればアンモニアは発生するのであるから、糞や死体に含まれる有機物で十分アンモニアは確保できるのである。しかし、何故か硝石作りでは尿が使われていた。恐らく尿はすぐにアンモニアに分解されやすいという事を人類は経験則知っていたからかもしれない。それに、硝化菌自身は水分を必要とするため、多少の湿度は必要であった。その湿度を補うために尿をかけていたのだろう。
どちらにしろ、重秀が疑問に思った『尿をかける』問題。尿の最適な量を測る必要があるのだが、これは持ち越しの課題として兵庫で実験を続けることとなった。
「牛糞や鶏糞、豚糞を別々に分けて入れた穴もあっただろう?あれはどうなった?」
重秀が教明に尋ねると、教明が答える。
「これから塩硝を取り出してみよう、という話になっております。若君もご覧になりますか?」
「うん、見よう。さっそく始めてくれ」
重秀の一言で糞別に掘った穴から土化した糞が取り出された。それらを水に溶かして上澄み液を取り、その水に木灰を入れて混ぜて沸騰させ、冷ました後に上澄み液を取り出してまた煮詰めた。後は一日かけて冷まして結晶化させた後、再び水に溶かして沸騰させて再結晶化させる。結果が出るのは三日後である。
「・・・昔糞を区別せずにぶち込んだ穴があっただろう?その後小屋を立てたは良いが、あまりの臭いに住民が逃げたやつ。あれから塩硝は取れたのか?」
「はい。一年以上寝かせた穴の土から塩硝を取り出しているところです。ちょうど二度目の冷ましが終わった鍋がありますが、見ますか?」
「うん。ぜひ見よう」
重秀がそう言うと、教明が側にいた自分の家臣に「鍋を持って来い」と命じた。その家臣が鍋を持ってくると、少量の水が入っていた。そして鍋を傾け、水を傾けた方に貯めると、水の無くなった鍋底から針状の結晶が見えてきた。これが塩硝―――硝石である。
「おお、結構できているではないか」
重秀が嬉しそうに言うと、教明も「ええ。蚕の糞よりも多いのではないかと」と嬉しそうに返した。
重秀も教明も知らなかったが、動物の屎尿を使った硝石作りは『硝石丘法』と呼ばれる方法である。西洋ではポピュラーな硝石作りの方法であり、短期間で大量に硝石が作れる長所があるが、不快な臭いがするのと不衛生なのが短所である。
ちなみに蚕の糞と藁、蓬を半地下の穴に入れて硝石を作る方法は後に『培養法』と呼ばれることになる。これは日本独自の硝石生産の方法として世界に知られるようになる。『培養法』は『硝石丘法』ほど短期間に大量に作れないという短所はあるものの、不快な臭いがしないので(蚕の糞は桑の葉の香りがする)床下で作れることと、囲炉裏の熱で冬でも細菌による分解が進むという長所がある。
「とりあえず、牛や豚、鶏の糞でも作れることは分かった。後は大量に塩硝を作るための工夫だな。例えば、何故蓬がいるのか。蓬以外の野草では駄目なのか。糞では一体何が良いのか。糞以外ではなにか良いものはないのか。調べなければならないことが多くあるな」
ヨモギは身近に手に入る野草であるが、中に硝酸を蓄えることができる硝酸植物である。そのため、硝酸を増やすために一緒に混ぜたものと思われる。
また、ヨモギにはカルシウムが多く含まれている。ヨモギが土の中で分解されると、酸素と結びついて酸化カルシウムとなり、土の中の硝酸と結びついて硝酸カルシウムとなる。この硝酸カルシウムと灰汁の中の炭酸カリウムが化学反応を起こし、炭酸カルシウムと硝酸カリウムを生成する。この硝酸カリウムが塩硝となる。
さらに酸化カルシウムは水分と結びついて水酸化カルシウムとなる。すると土がアルカリ性となる。実は硝化菌はアルカリ性の土壌を好むため、ヨモギを入れることは硝酸を増やすだけではなく、硝化菌の働きを促進させ、更に硝酸を増やす事にも繋がるのである。
ちなみに、水酸化カルシウムは漆喰の原料である。貝殻を焼いて砕いたもの、又は石灰岩を塩と一緒に焼いて砕いたものが水酸化カルシウムである。重秀がこの事を知っていれば、ヨモギではなく水酸化カルシウムを使っていたであろう。漆喰の原料は彼ならすぐに手に入れられる代物だからである。残念ながら、彼にはその発想がなかった。
「それらを全て兵庫で試すと?」
教明がそう尋ねると、重秀は「う〜ん」と悩んだ。
「塩硝作りは数年かかるからな・・・。上様から国替えを命じられたらまた一からやり直さなければならなくなる・・・。どこか永年で塩硝が作れる場所が欲しいな・・・」
これから先、秀吉が国替えになれば重秀もついていかなければならない。数年で国替えとなると、塩硝が取れる土に変化した時には重秀がいない、ということになる。これでは安定した塩硝にはならないのである。
「兄貴よ。そう言えば、菅浦でも作ってたんじゃなかったのか?あそこはまだ兄貴の知行だろ?」
福島正則の言う通り、国替えとなった後も菅浦は重秀の知行であった。というのも、浅井郡の西側のうち、湊である大浦とその周辺は織田家の直轄地となったものの、それ以外の地域は羽柴の知行として残されていたのである。そしてその残された地域の一つが菅浦であった。
一応、菅浦の住居の床下に穴を掘り、蚕の糞と蓬と藁と尿を混ぜたものを入れてそのままにしてある。だがそれを始めたのは3年前。まだまだ塩硝が取れる土にはなっていなかった。
「いや、あそこも何時上様に召し上げられるか分からないからな・・・」
そう言うと重秀の脳裏に、はらりと何かが舞い降りた。重秀がそれを口に出す。
「・・・そうか。国替えが起きない人に作ってもらえればいいんだ」
重秀の呟きを聞いた加藤清正が尋ねる。
「・・・誰です?それは」
「上様だよ。上様の号令で織田家全体で作るんだ。そしたら我等が国替えになっても誰かが引き継いでくれるし、上様が集めた硝石は我等に与えられるだろうし」
今の織田家では南蛮貿易で輸入した硝石を黒色火薬にしてから信長が家臣に分け与えている。その硝石を国産として織田が製造する。後は木炭と硫黄を混ぜて黒色火薬にして家臣に与えればよいのである。
「兄貴。それだと羽柴の分が足りなくなるんじゃねーのか?これからの水軍では鉄砲や大鉄砲で戦うんだろう?玉薬(火薬のこと)が上様から貰った分じゃ足りないぜ。むしろ、羽柴で独占したほうが良いぜ?」
正則が言う通り、羽柴水軍では過去の戦いの教訓から、体当たりによる接舷攻撃ではなく火力による遠距離攻撃を主体とする戦法に切り替えようとしていた。別に先進性があったわけではない。大量の小早を中心とした毛利の村上水軍に対抗する際、数の少ない羽柴水軍が接舷攻撃を仕掛けても負ける確率が高い。ならば第二次木津川口の戦いにて九鬼水軍が行った大きな船で火力による攻撃を行ったほうがまだ勝てる見込みがあった。
それに、体当たり戦法ではこちらの船もダメージを受けるため、海戦ごとに修理が必要となる。船大工や造船場に限りがある中、修理するべき船はなるべく増やしたくはなかった。
ただ、そうなると水陸両軍に大量の火薬が必要になる。陸戦はともかく、水戦ではとかく火薬を使う羽目になるのであるから、塩硝が足りなくなるのは目に見えていた。
だから正則は羽柴の独占を主張した。自由に使える火薬が多くなるからだ。しかし、清正が異議を唱える。
「市。忘れているかもしれないが、玉薬を作るには塩硝だけでなく、木炭と硫黄がいるんだぞ。羽柴で玉薬の独占は無理だとおもうが」
清正の言葉に正則が「あー」と声を上げた。
「そうだった。硫黄は他国から取り寄せないといけねえんだった」
火山大国である日本は硫黄の産出が多い国であり、当時から中国へ火薬の材料として輸出されるものであった。しかし、硫黄を産出する硫黄鉱山は信濃国以東の東日本と九州、そして未だ織田領になっていない北陸に集中しており、現在の織田の領地で硫黄を産出することは不可能であった。
一応、近場の飛騨国益田郡でも硫黄の採掘は可能なのだが、鉱山として開かれるのはずっと後、19世紀末になってからである。
つまり、織田領内で火薬を作るならば、硝石だけではなく硫黄も買わなければならないのであった。硫黄は硝石ほど高価ではないが、それでも銭が飛んでいくことには変わらない。
「そうなると、羽柴での火薬独占は無理ですな」
教明がそう言うと、重秀は溜息をつく。
「そう言うことだな・・・。やっぱり、上様に塩硝製造を織田家でやってもらうしか無いか・・・」
「そうなると、より確実に塩硝が取れる方法を上様にお伝えしなければなりません。中途半端な製造方法ではご不興を買う恐れがあるかと」
教明の言うとおり、信長に製造方法を教えるならば、確実に製造できる方法を確立しなければならない。そうしなければ却下されるのがオチである。
重秀が腕を組んで悩む。
「う〜ん、確実な製造方法を編み出すにはまだまだ時が必要だ。今すぐって訳にはいかないぞ」
「兄貴よ。こんな山奥で悩んだって解決方法は見つからないぜ。それよりも、さっさとここにある土を煮出して、塩硝を採れるだけ採ろうぜ」
正則の言葉に重秀が頷いた。
「・・・そうだな。塩硝自体は手に入らないわけじゃない。上様が多田銀山を押さえて以降、織田家の銀保有が多くなった。これなら塩硝を南蛮人から買い入れるのは難しくはない。不足するかもしれないが、全く無くなるわけではないからな。父上と相談する時はあるか」
多田銀山とは摂津国能勢郡にある銀山(他に銅や鉛も採れる)のことである。元々銅山だったのだが、灰吹法が伝わり銀も産出できるようになると、塩川氏や能勢氏、それに細川や池田といった国衆達が所有権を巡って争っていた。信長が摂津を平定した後、信長の直轄地として銀を産出していた。
「よし、せっかくなんで、我等も塩硝の取り出しに加担するか!ここまで来たんだから、少しは手伝わないとな!」
重秀がそう言って立ち上がると、正則と清正は思わず「ええっ!?」と声を上げた。
「あ、兄貴!?煮出しは結構量あるぜ!?下手したら徹夜になるぞ!?」
「長兄。早く屋敷に戻らないと、柴田様達に怪しまれますぞ」
そんなことを言う二人に対し、重秀は「何を言っている」と言い返した。
「少しでも多くの人手を使った方が早く済むだろう。秘匿のために一向門徒にはやらせずに三之丞(加藤教明のこと)の少ない家臣にやらせているんだから。我等も手伝うべきだ。それに、柴田様への方便は考えている。心配するな」
そう言う重秀を、正則と清正は唖然としながら見つめていた。そんな二人に教明が更に言う。
「ほら。若君が率先してこういうことをやりたがるのは知っているだろう?諦めて手伝うんだな」