第178話 小谷牧場にて(その4)
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小谷城から戻った柴田勝家、お市の方、於国丸、茶々、初、江そして柴田勝安は、重秀が用意した夕餉を前に座っていた。各々の膳の上には、飯と汁、獣肉を焼いたもの、そして薄い茶色っぽい物がそれぞれ皿や椀に乗せられた状態で置かれていた。
「この獣肉は・・・?」
於国丸の質問に、重秀がさらりと答える。
「子牛の肉に塩と胡椒を振って炭火でじっくりと焼いたものです。子牛の肉を時間をかけて焼いたので、肉は柔らかく、しかも臭みも少ないので女子供でも食せるかと」
そう言った瞬間、三人の姫達が一斉に悲鳴を上げた。皆が驚いて姫の方を見ると、茶々が母親譲りの鋭い眼光で重秀を睨みつけながら重秀に言う。
「藤十郎様!?先程の子牛を殺したのですか!?江があれだけ慈しんでいたのに!」
茶々の言っていることがよく分からなかった重秀。しかし、だんだんと茶々の発言の意味を理解すると、両手を顔の前で振りながら否定する。
「違います!その子牛は先程姫様達と遊んでいた子牛ではありませぬ!」
「・・・でも、子牛に間違いないんですよね?」
初が、信じられないという表情をしながら重秀を見つめて尋ねた。重秀が溜息をつきながら言う。
「・・・ええ。今宵、柴田の方々のために美味い肉を食べていただきたく、子牛の中でも特に肉付きの良いのを選んで昨晩解体致しました」
重秀がそう言うと、姫達は青い顔をした。特に、江は今にも泣きそうな顔をしていた。そんな中、茶々が批難めいた口調で重秀に叫ぶ。
「何という酷いことを!母牛から子を取り上げて殺し、その肉を母上にお出しするとは!藤十郎様は兄の万福が筑前様に殺されたのをご存知ないのですか!?それを知った時の母上の慟哭をご存知ないのですか!?よくもまあそんな情けないことができますね!?」
張り上げるような声を上げた茶々に、勝家が「控えよ!茶々!」と怒号を上げた。
「その様な物言い、無礼であろう!羽柴の饗しに対して客が文句を言うは筋違いであろう!それに、筑前が上様の命を受けて敵の嫡男を処するは武家の習い。批難するはお門違いよ」
平清盛が源頼朝を助命したせいで平氏は壇ノ浦で滅亡した、という故事はこの時代では広く知られた話であった。なので織田家中では浅井長政の嫡男万福丸を処刑したのは当然のことである、という認識であった。当然、事の顛末を小一郎から聞かされた重秀も、竹中重治から先程の故事を聞かされていたこともあり、当然という意識を持っていた。
勝家から叱られた茶々は不満そうな顔をしながら立ち上がると、部屋から出ていった。お市の方が追いかけて行き、残された者はしばらく口を開くことができなかった。
とりあえず勝家から頭を下げられた重秀は、その謝罪を受け入れて自分の部屋に戻った。そこには、福島正則と加藤清正が寛いでいた。
「おう、兄貴」
重秀にそう声をかけた正則は、重秀の顔が複雑そうな表情をしていたのに気がついた。正則が重秀に尋ねる。
「どうした?兄貴。そんな湿気た面して」
「ああ、さっきな・・・」
重秀が正則と清正の前で先程あった話を話すと、清正が怒り心頭といった表情で口を開く。
「それはなんとも無礼な物言い。そもそも長兄には関係のない話ではありませぬか」
「俺もそう思う。だが、お市の方様の事を慮れば、今回の事は避けることができたはず。一応私も万福の件は知っていたのだからな。私の配慮不足だった・・・」
そう言いながら重秀が床に目を落とすと、そこには皿の上に乗った薄い茶色っぽい物が置いてあった。それは勝家達の膳の上に置かれていたものと同じものであった。
それを見た重秀が舌打ちする。
「しまった。蘇の説明をするのを忘れていた」
「ああ、そう言えば出していましたね」
清正がそう言うと重秀が頷く。
「ああ。ほのかに甘いから姫達や於国殿に良いかなと思ったのだが・・・」
「案外食べてるんじゃねーの?」
正則が蘇の一欠片を口に放り込みながらそう言うと、重秀は苦笑しながら首を横に振る。
「訳の分からないものは食べないだろう・・・」
重秀がそう言った時だった。部屋の外から誰かが声をかけてきた。
「申し上げます。於国様と柴田三左衛門様(柴田勝安のこと)がご面会を求めております。お入れしてもよろしいでしょうか?」
そう言われた重秀は、正則と清正の顔をそれぞれ見た後に、「お通ししろ」と声を上げた。すると、襖が開かれ、於国丸と勝安が入ってきた。於国丸と勝安が重秀の前に座ると、於国丸が言う。
「先程は我が妹、茶々がご無礼仕りました。兄として謹んでお詫び申し上げます」
そう言って於国丸は平伏した。隣りに座っている勝安も頭を下げるが、平伏するほどではなかった。重秀は頭を下げながら言う。
「いえ。先程は修理亮様(柴田勝家のこと)からの謝罪を受けております。改めて於国様からの謝罪は無用にございます。それに、こちらも不手際により饗しがなされず、申し訳なく思っております。明日にでもお市の方様、姫君方に謝罪致しまする」
「・・・明日?今から謝罪すればよいではないか」
勝安がそう言って口を挟んできた。正則と清正が勝安を睨みつけるが、勝安もひるまずに二人を睨みつけた。そんな中で重秀が穏やかに言う。
「・・・これは父の言っていたことなのですが、相手の頭に血が上っている時はこちらから積極的に何か言っても相手は聞いてはくれませぬ。それより一晩置いて頭を冷やした状態にしてから言葉をかけるべきだと。
・・・お市の方様はともかく、姫様方に今謝罪したところで聞いてはくれませぬ」
重秀の説明に於国丸が「なるほど」と頷いた。
「藤十郎様のお気持ちはそれがしが茶々に伝えまする故、どうぞお気になさらず。それよりも一つお聞きしたいことがございます」
「なんでしょう?」
重秀が尋ねると、於国丸は正則の前にある皿の上の物を指さす。
「これは何でしょう?先程の膳の上に同じものが置いてありましたが、今まで見たこともない食べ物だったので、誰も手を付けていないのです。毒ではないとは思うのですが・・・」
「ああ、これですか」
そう言うと重秀は皿を持って於国丸に見えるように差し出した。そして答える。
「蘇というもので、牛の乳を煮詰めたものでございます」
重秀の言葉に、於国丸と勝安は唖然とした顔になった。
「これ、牛の乳なのですか・・・?」
於国丸がそう尋ねると、重秀が頷きながら答える。
「牛の乳を一旦煮立たせた後、鍋に焦げ付かないよう、ゆっくりと杓子(しゃもじのこと)で混ぜながら水気を無くしたのがこれです」
「何故そのような物を作ろうとしたのですか?」
於国丸がそう尋ねると、重秀は右の人差し指で自分の右頬を掻きながら答える。
「小谷城で話しましたように、牛の乳は薬にもなるのです。なので竹中半兵衛殿に飲まそうと思ったのですが、本人が拒否いたしまして。そこで何とか牛の乳を口にさせようと調べましたところ、『延喜式』に蘇のことが書いてありましたので、作って食べさせたのです。まあ、本人にはいにしえの秘薬だと言って食べさせましたが」
重秀の解説を聞いていた勝安が重秀に尋ねる。
「・・・これ食って牛にならないよな・・・?」
「なりませんよ。ってか、もし蘇を食べて牛になっていたら、今頃は公家も帝も牛ですよ」
「何?」
「『延喜式』の巻二十三に、朝廷に納められた年貢の中に蘇の記載があるのです。帝や公家が頻繁に食されていたかは分かりませぬが、まあ口にしたのではないかと」
『延喜式』にはどこから蘇が納められたのか、どうやって作るのかが簡単に書いているが、人が口にしたとは書いていない。しかし、蘇が薬であったことは漢籍から分かっていたので、恐らく薬としては口にしていたものと思われる。
さて、昔の帝や公家が食べていたのであれば、恐らく食べても良いものなのだろう。そう思った於国丸が恐る恐る蘇に手を伸ばした。しかしその前に勝安が蘇を手に取る。
「・・・藤十郎殿を疑うわけではないが、やはり初見の物を於国に食べさせる訳にはいかない。それがしが毒見をいたす」
そう言うと勝安は蘇を一口で口に放り込んでしまった。皆が注目する中、口の中で十分味わった後に飲み込むと、深刻そうな顔で声を上げる。
「・・・これはいけない。於国は食べてはならぬぞ!それがしが一人で全て食べる!」
「・・・それお前が食べたいだけじゃねーか!」
正則がそう大声を上げると、皆が一斉に笑った。その後、部屋にあった蘇は勝安と於国丸が食べてしまい、しかも食べ足りないということで、先程の夕餉で残ってしまった蘇を厨(台所のこと)から回収し改めて皆で食べるのであった。
於国丸と勝安が重秀達と蘇を食べている頃、茶々は別室でお市の方からこっぴどく叱られていた。
茶々から見れば母に叱られるのは不満であった。茶々は子を殺された母牛の心情と、万福丸を失ったお市の方の心情を同じに捉えたのであった。だから重秀を批難したのであったが、お市の方からは「妾の心情と畜生の心情を一緒にするでない!」とかえって叱られる羽目になった。
お市の方のお叱りが終わり、お市の方が勝家の元へ行った後、茶々は一人で別室に残っていた。しばらく経った後、そこに大野茶千代(のちの大野治長)が入ってきた。
「茶々様」
「茶千代」
お互いに名前を呼びあう二人。二人は乳兄弟ということもあり、幼い頃からの仲であった。ちなみに茶千代は元々別の名前だったのだが、茶々と乳兄弟になったことを機に茶々から一文字貰って『茶千代』という名になった。
「母から聞きました。御方様よりお叱りを受けたとか」
茶千代の言葉に茶々は黙って頷いた。そして茶々は話し出す。
「・・・私は母上のためを思って言ったのに。何故あそこまで叱られなければならないのですか・・・」
「茶々様の御方様への想いはきっと伝わっていると思います。ただ、我等のために料理を用意した羽柴様の面目を立てなければなりませぬ。もはや羽柴は織田家を支える重臣。佐久間様が追放された今、柴田と羽柴で上様や殿様(織田信忠のこと)をお支えしなければならないのです。何卒、羽柴をお刺激いたしますな」
「・・・気に入りませぬ」
茶々がそう言いながら拗ねる。
「母上は筑前様を憎み、義父上は筑前様を下賤の出であるから嫌っています。それ故私も羽柴のことを憎もうとしました。しかしながら、義父上も母上も藤十郎様にはあんなに親しく言葉を交わすなんて・・・。しかも於国の兄上は見るからに藤十郎様を敬っています。私には義父上と母上の気持ちが分かりませぬ」
「筑前様と藤十郎様は別の人間、親に思うところがあっても子には咎はございませぬ故・・・」
茶千代の言葉に、茶々は渋い顔をした。茶々は茶千代に言う。
「茶千代。貴方は藤十郎様をどう見るの?」
「素晴らしいお方だと存じます。政に真摯に取り組み、領地を富まそうとする姿勢は見習うべきでありますし、阿閇城の戦いでは武功を挙げました。上様が織田の姫を娶せようとするのは当然かと」
「そう言えば、私も娶せようとしたのでしたね。伯父上(織田信長のこと)は」
茶々がそう言うと、茶千代は黙って頷いた。茶々が嫌そうな顔をしながら言う。
「母上も最初は反対していたのに、藤十郎様のことを知った途端に掌返し。意味が分かりませんわ。私より歳上なのに背が私とさほど変わらないのも気に入りませぬ」
―――いや、貴女が並外れて大きいのです―――
茶千代がそんなことを思っていると、茶々が溜息をつきながら言う。
「母上は今は亡き兄上や弟を殺されて筑前様をお恨みしてまいりました。私も、母と同じように筑前殿を憎み、羽柴に連なる者達を憎んだのです。今更その憎しみを捨てることなどできませぬ」
茶々の言葉に、茶千代は何と言って良いのか分からなかった。とりあえず、茶々の憎しみを和らげることを優先した。。
「・・・羽柴にこだわるより、これから先のことを考えましょう。茶々様はもうすぐ嫁がれる身なのですから」
「分かっています。とは言え、嫁ぐ先は前田家との噂。前田ですよ?三万三千石ですよ?もうすぐ越前四十九万石の大名となろう柴田の姫が、三万三千石に嫁ぎます?初は惟任家(明智家のこと)に嫁ぐと言われてますけど、あっちは三十四万石ですよ?何故私が妹の家より低い石高の大名家に嫁がなければならないのですか」
そう言いつつ溜息をついた茶々は、茶千代の目を見つめながら話を続ける。
「茶千代。この世は何と不条理なのでしょう。見たことも聞いたこともない、好きでもない男子と結ばれるなど、こんな世に誰がしたのでしょう。我が身の儚さに、ただ嘆くばかりです」
「茶々様・・・」
そうやって見つめ合う二人の耳に、複数の足音が聞こえてきた。茶々が茶千代から視線を外して足音が聞こえてくる方へ向けた。足音は段々と近づくと、部屋の襖が開いた。そこには初と江が立っていた。初が茶々に声をかける。
「・・・姉上。藤十郎様が私達に百人一首カルタの遊び方を教えてくれるそうです。一緒に遊びましょう」
それを聞いた茶々は困ったような顔をして茶千代の方を見る。
「・・・どの面下げて私の前に来るのだか」
「茶々様。その様な物言いは・・・」
「茶千代。貴方が代わりに遊び方を習いなさい」
嫌そうに言うと茶々は顔を背けた。そんな茶々を見ながら、茶千代は溜息をついたのだった。
百人一首カルタの遊び方を教えた重秀。教えるだけの予定だったのに於国丸から実際に遊んで欲しいと頼まれて遊ぶ羽目になった。そのため、福島正則や加藤清正のいる部屋に戻ったのは夜が更けたころであった。
「悪いな。遅くなった」
「だいぶ遅かったな、兄貴。夜が更けちまったが、それでも行くのか?」
正則が部屋に入ってきた重秀にそう尋ねると、重秀は「ああ」と答えた。
「時が惜しい。すぐに出発しよう」
重秀がそう言うと、清正が話に入ってくる。
「長兄。わざわざ見に行かなくても、三之丞殿(加藤教明のこと)に任せていいんじゃないですか?」
「いや、実際に物ができているところを見てみたい」
「はあ。まあ、長兄がそう言うなら止めませんけど・・・。もう暗いですよ?」
「道は整えてあるし、松明を持っていけばいいだろう」
「柴田の兵達はどうします?不寝番についているのもいるでしょう?」
清正の質問に重秀が「ああ・・・」と言って悩んだ。
「何とか見つからずに行かないと。向こうが気がついたら怪しまれますよ」
「そうだな。特に三左衛門殿(柴田勝安のこと)が気が付きそうだな。あいつ、勘が鋭そうだし」
清正と正則がそう言うと、重秀は右の拳を口元に当てて考え込んだ。そして「あっ」と言って正則と清正に言う。
「三左衛門殿に言えば良い。『これから小谷城へ行く』と。城の夜回りはよくある話だし、あそこには蚕紙という貴重な物があるからな。俺自身が見回るのは当然だと思うだろうし」
重秀の逆転の発想に、正則と清正は驚きつつも「なるほど」と納得した。
その後、重秀は勝安に「小谷城の見回りに行ってきます」と声をかけた。勝安は「羽柴の若君自ら牛と蚕の見回りか。骨折りだな」と言って笑っていた。ニコニコ顔の重秀の後ろでは、正則と清正が冷めた目で勝安を見つめていた。
そんなこんなで屋敷から堂々と外に出た重秀と正則と清正。それに教明と複数の侍がお供としてついてきた。当然、皆松明を持っていた。
さて、松明を掲げて一列で歩く重秀一行を見ていた者がいた。於国丸である。於国丸は寝る前に厠へ行き、寝所に戻ろうとして縁側を歩いていた時に垣根越しに松明の行列を見たのであった。
於国丸は不寝番をしている勝安のところに行った。
「三左衛門殿!外に、外に松明の行列が!」
「落ち着け於国。あれは藤十郎殿達ぞ」
勝安がそう言うと、於国丸は首を傾げた。
「藤十郎様が?どこへ行かれるのですか?」
「小谷城を見回るそうだ。まあ、あそこには蚕や牛がいるからな。あれらは羽柴の財。自ら見回っているのであろう」
「はぁ・・・」
「ほら。明日も早いんだ。さっさと寝ろ」
そう言う勝安に、於国丸は「子供扱いしないでいただきたい!」と怒った顔で言うと、勝安が待機していた部屋から出ていった。於国丸は寝所に入ると、松明の行列を気にしつつも眠りにつくのであった。