第177話 小谷牧場にて(その3)
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初と江は見つかった。彼女達は本丸を警備していた加藤教明の兵達に保護されていた。
「まったく!あれほど勝手に歩き回っていてはいけないと言ったでしょう!それに、一言も断らずに出ていくとは何事ですか!」
お市の方が江と初を叱りつけ、その隣で勝家が怒り顔で仁王立ちしている間、於国丸が重秀に話しかけてきた。
「藤十郎様。かたじけのうございました。本丸に兵がいなければ、妹達は簡単には見つからなかったでしょう」
於国丸は重秀が初と江を探すために兵を本丸に配置していたものと勘違いしていた。そこで重秀が否定する。
「いや、本丸には常に兵を置いています。本丸は今でも重要な場所ですから」
於国丸にも丁寧な物言いでそう言う重秀に、於国丸は疑問をぶつける。
「重要な場所・・・?しかし本丸には小屋しかありませんが・・・」
浅井の時代には小さいながらも天守があったとされる。しかし、今では焼け落ちた天守はきれいに片付けられ、新たに複数の小屋が立っていた。ただ、小屋と言うには立派なものであった。壁はしっかりとした土塀であり、屋根は瓦で葺かれていた。
「あの小屋は蚕紙(蚕の卵が産み付けられた紙のこと)を保存するための小屋です。冬の間は孵らないので、あの小屋で厳重に保管してあります」
「む、虫の卵を保管するためにあの様な立派な小屋を作ったのですか?」
「ただの虫の卵ではありません。先ほど説明したように、羽柴の蚕は別の村々から集めた蚕を交じらわせて優れた繭を生み出す蚕を育てています。その蚕の卵は羽柴の財を生み出す貴重な物です。柴田家でも銭や米を頑丈な蔵で保管するでしょ?」
「ああ、確かに言われてみれば」
於国丸が納得したかのような顔で頷く。重秀が更に話す。
「ここで保管された蚕紙は春になれば百姓達に安く払い下げられ、百姓達は蚕を育てます。それは百姓の貴重な収入源となります。小谷城の本丸を守ることは、北近江の百姓を守ることにも繋がります」
重秀の話を聞いた於国丸は唖然とした顔で重秀を見つめていた。13歳の於国丸はもうすぐ元服を迎える予定であった。そのため、勝家を始め勝家の養子や家臣達から柴田家の嫡男としての教育を受けてきた。無論内政についても学んでいたが、家風なのか周りの人間に偏りがあるのか、どうしても武に一辺倒となった。
そんな中、重秀の話は於国丸にとって初めて聞く話であった。初めて具体的な内政の話を聞いた於国丸は、重秀が他の人が持っていない力があることを感じていた。
「・・・藤十郎様はどのようにしてそのような政を思いついたのでございますか?」
ただ聞きたい、という純粋な気持ちで尋ねた於国丸に重秀は苦笑いしながら答える。
「羽柴は人材が少なく、しかも頼れる親戚筋も少なかったのです。つまり、私も使わなければならなかった、ということです。まあ、その前に竹中半兵衛殿に漢籍を習っており、古の唐の国の政を書で学んでおりました。後は上様の小姓見習いの時に色々学ばされました」
重秀はそう言いながら昔のことを思い出した。
―――そう言えば、長浜では色々やったんだよなぁ―――
養蚕もそうだが、琵琶湖では船を作った。船の水夫を確保するために菅浦まで行って交渉してきた。そこで見つけた桐油と小谷の紙を組み合わせ、紙早合を作った。そしてこの小谷城で牛と豚と鶏を飼育した。
―――全ては長浜から始まったんだよなぁ―――
長浜に来たのが天正二年(1574年)、それから6年経った。6年といえば短い期間であるが、それでも重秀には長くて思い出深い期間であった。
重秀は視線を長浜城の方へ向けた。視線の先には青い空と、それを映した琵琶湖が見えた。そして微かに小さくだが、長浜城の天守が見えた。
感慨深くその光景を眺めていた重秀に、於国丸が尋ねる。
「如何なされましたか?藤十郎様」
「いや、何でもありません」
そう言うと重秀は於国丸に向き合う。
「於国様。越前は大国。しかも佐久間様が政を善く行ったおかげで今では民百姓が安んじて暮らせる国となりました。柴田様はそれを継いで治めるのです。その治めぶりを見れば、必ずや於国様の政への学びとなりましょう」
重秀の言葉に於国丸は真剣な眼差しで頷くのであった。
初と江へのお説教が終わったらしく、勝家とお市の方、そして三人の姫が重秀と於国丸に近づいて来た。
「・・・ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
「ごめんなさい・・・」
初と江が重秀に頭を下げながら謝り、重秀がそれを受け入れると、皆は本丸から千畳敷曲輪へと移動した。
千畳敷曲輪には大きな牛小屋が複数置かれており、それぞれに牛が入っていた。
「ここの牛は麓の牛とは違うのか?」
勝家が尋ねると、重秀は頷きながら答える。
「はい。麓にいる牛は種牛としての牡牛です。ここにいるのは牝牛と子牛、そして去勢した牡牛です」
「去勢?牛を去勢するのか?」
「ええ。馬と違って牛には乗りませんから」
雄の動物を去勢すると、雄特有の攻撃性が無くなるため飼いやすくなったり、脂肪が付きやすくなって肉が柔らかくなり食べやすくなる、ということは古くから知られていた。なので家畜化した動物を去勢することは古くから行われていた。少なくとも紀元前5500年頃から紀元前2000年頃のシュメールでは牛の去勢が行われていたという記録が残っている。また、中国では少なくとも周王朝時代(紀元前1046年〜紀元前256年)には豚と馬の去勢が記録されている。
さて、家畜はもちろん、刑罰や宦官(後宮で働く役人のこと)採用のために人間まで幅広く去勢していた去勢大国、中国。そんな中国の文化を取り入れた日本に、去勢の知識と技術が伝わらないはずはなかった。しかしながら、日本では長く家畜の去勢を行わなかった。家畜の絶対数が少なすぎて去勢の必要性がなかったということと、長く食肉のための家畜を飼わなかったことが原因であるが、特に馬の去勢をしなかったのは、それらの理由の他に武士の独特の価値観が影響していた。
すなわち『去勢していない荒くれの牡馬を乗りこなしてこその武士』という考え方により、馬を去勢させなかったのである。
「馬はともかく、牛や豚に乗る武士はいません。ならば、別に去勢しても良いのではないか?と思い、南蛮人や堺や安濃津にいた唐人(中国人のこと)に去勢のことを聞いたり、漢籍を調べて行なっております」
「行うって、どうやるんだ?」
勝安が聞いてきたので、重秀が説明する。
「まず陰嚢を小刀で少し切り開きます」
「おう」
「次に玉を一つ搾り取ります」
「お、おう」
「玉には細長い贓物(輸精管のこと)が付いてきますので、それをねじ切ります」
「おおう」
「同じことをもう一つの玉にもします」
「おおおう」
「最後に切り口に薬を塗って終わりです」
説明を最後まで聞いた勝安は、苦悶の表情を顔に浮かべていた。勝家と共に幾多の戦場を駆け回った勇将であっても、やはり男の急所を取り除く話を具体的に聞かされると我が身に置き換えてしまう様であった。そしてそれは於国丸や大野茶千代も同じようで、涙目になりながら股間を抑えていた。
同じく話を聞いていたお市の方は複雑そうな顔をしており、茶々は顔を真赤にしていた。初と江はよく分かっていないような顔をしていた。
そんな中、さすがというか、勝家が冷静な顔をして重秀に尋ねる。
「しかし、牛とて子孫を残すための重要な部分を取られるは嫌であろう。抵抗が激しいのではないか?」
「牛の去勢は生後三月後に行います。この頃はまだ子牛ですので抵抗があっても人の力で抑え込むことができます」
「なるほど。しかし、その様な手間をかける必要があるのか?」
「去勢することで牡牛は穏やかになり、喧嘩をすることがなくなります。結果、女子供でも世話をすることが可能になりました。菅浦では夫が船の仕事に出ている際、残された妻や子供の仕事である畑仕事や荷物の運搬に重宝しております」
暴れずに大人しい去勢牛は力の弱い女子供でも扱うことが容易くなった。若い男達が琵琶湖の水運や羽柴水軍で働いている菅浦では、労働力不足に悩まされてきたが、重秀が去勢牛を持ち込んだことで労働力不足を解消しつつあった。牛たちは田畑を耕し、油桐の実を運搬したり、変わった使い方では油桐の実から油を搾る際の動力として牛を使っていた。
「また、京の公家達にも評判のようです。一昨年日野の参議様(日野輝資のこと)に去勢した牡牛を献上いたしましたが、その牡牛に牛車を牽かせたところ、暴走しないし他の牡牛とは喧嘩しないし、牝牛を見ても興奮しなくなったと喜んでおりました。そしてそのことが他の公家達に伝わったらしく、注文が多くなりました」
信長によって京の治安が良くなると、公家達は衰退していた牛車を復活させつつあった。そのため、牛の需要が高くなったものの、古くから牛の供給地であった播磨と但馬が戦場となってしまったため、牛が手に入らなくなってしまった。
そんな時に輝資から話を聞いた公家達が羽柴の牛に注目。多くの去勢された牛が京へ向かうこととなった。去勢されて大人しくなった牡牛は、京までの道中にトラブルを起こすことが無かったため、牛を仲介した商人や運んだ人夫にも評判となった。
「それに、高槻の高山様(高山重友のこと)からの報せでは、去勢された牡牛は肉が柔らかく食べやすいとのこと。高槻の伴天連やその信徒達には評判のようです」
去勢されない牡牛はどうしても筋肉質になるため、肉が固くなり食用としては不向きとなる。しかし、去勢されることで肉に脂肪がつくことになり、柔らかくなり食べやすくなる。
日本に来た伴天連を始めとする南蛮人は、日本で牛を買い求めて食べようとしても、牡牛を買おうとはせず、牝牛か子牛を買おうとした。やはり去勢されていない牡牛を食べるのは嫌がったようである。しかし、牝牛や子牛を求めた結果、ただでさえ少ない牛なのに更に選択肢が狭くなったので、多くの銭を支払う羽目となったのであった。
しかし、羽柴の去勢牛が出回ると、選択肢が増えたことで安定して柔らかい牛肉を手に入れることができるようになった。
「まあ、牛の需要は京の公家衆と南蛮人達との間で高まったお陰で、牛の数が足りなくなり、値が高騰しているのが悩みの種なんですが」
「・・・確かに去勢するとなると、子牛を成すことができなくなりますね」
於国丸がそう言うと、重秀が頷く。
「おっしゃるとおりです。まあ、麓で放し飼いにしている牡牛は去勢していないので、ある程度種は確保しています。ただ、一回の妊娠で一匹しか産まないので、大量に増やすのは難しいのです。なので、最近は南蛮人向けの肉は豚で賄っております」
「豚?」
「豚は一回の妊娠で五匹から八匹ほど産みます。しかも馬や猫と違って年中繁殖するので、一年に二回は妊娠します。そして成長も早く、半年で食べられるようになります。あまりにも多く増えるので、豚も去勢することで出産を抑えております」
「豚も去勢するのですね」
「去勢しないと見境なく目合いますからね。有り体に申せば、豚は増やしたところで食べるか革を鞣すかしか用途がないので、あまり増やしても仕方ないんですよね」
重秀が於国丸達にそう説明している中、お市の方がおずおずと尋ねてきた。
「・・・豚ってなんじゃ?」
「ああ。存じませんでしたか。豚って・・・」
そう言いかけて重秀は止まってしまった。勝安が声をかける。
「どうした?黙ってしまって」
「いや、豚ってどう説明すればよいか分からなくて・・・。猪と姿形は似ているのですが、かといって猪と同じかと言われるとなんか違うんですよね」
人類が猪を家畜化したのは現代より8000年前だと言われている。場所はユーラシア大陸の東西で同時に行われたと言われている。その後、人類は猪を改良していった。具体的にはより多くの肉が取れるように、より多く子供を産めるように、そしてより早く成長するように。こうして猪は豚へと進化していった。進化過程で豚の尻尾は丸くなっていったが、これは人類が意図したものではない。
ちなみに、猪には牙があるが豚にはない。しかしこれは進化で牙を失ったのではなく、子豚の時点で人間が抜いているからである。抜歯しなければ豚も牙を持つ。
「そう言えば、ここには豚はいないのか?それらしきものが見えないが」
勝家がそう言うと、重秀が即答する。
「ああ、豚は西側の尾根で飼っています。福寿丸と山崎丸の曲輪で飼っているので、小谷城では飼っていないですね」
「福寿丸と山崎丸?はて、そんな曲輪がありましたか?」
お市の方が首を傾げながらそう言うと、勝家がお市の方に言う。
「確か、朝倉の軍勢が援軍に来た際に築いたと聞いたことがあるな」
「そうでしたか・・・」
納得したような、それでいて何か不満げな表情を顔に浮かべたお市の方。朝倉勢が不甲斐ないから浅井が滅んだ、と言いたげな表情であった。そんなお市の方に江が声をかけてくる。
「母上。それよりも牛が見とうござります〜」
そう言いながら袖を引っ張る江に、現実に引き戻されたお市の方は「はいはい。では行きましょうか」と返事するのであった。
「うわぁ〜、おっきい!」
見上げるように牛の顔を見る江。その大きさに大体の子供は恐れて近寄らないのだが、江はお構いなく牛に近づいていた。
江の後ろには茶々と於国丸、そして茶千代が立っていた。二人共牛ではなく江を見ていた。江に何かあった時にいつでも動けるように見ていたのである。更に四人に何もないよう、勝安が後ろで控えていた。
初はお市の方の後ろにいた。牛が怖いらしく、お市の方の後ろから顔を出して牛を見つめていた。
さて、その牛に藁の束を食べさせていた江は、藁が無くなったのを見て他の牛を見るために移動した。その瞬間、江の目に母牛のお乳を飲んでいる子牛を見つけた。
「わぁ〜!」
目を輝かせながら子牛に近づこうとする江の着物の衿の後ろを、茶々が引っ張る。力強い引っ張りに、江が目を白黒させながら叫ぶ。
「あ、姉上!?何すんのよ!」
「走って行ったら子牛が驚くでしょう」
「そう。それに母牛が子牛を守ろうと暴れるやもしれぬ」
茶々に続いて於国丸も注意すると、江はむくれながらも近寄るのを止めた。だが近寄ることは止めても子牛が乳を飲んでいるところはじっと見つめていた。乳を飲む子牛を見て江が呟く。
「・・・牛のお乳って美味しいのかな?」
「飲んだことあるけど美味しいですよ。甘みがあって、今まで飲んだことのない味が致しました」
重秀の答えを聞いた江は、最初は「へぇ〜」と声を上げたが、すぐに「えええええっ!?」と別の声を上げた。
「牛のお乳を飲んだの!?」
「南蛮人の話によれば、病にかかった時に温めて飲めば薬になるそうで。今は亡き竹中半兵衛殿に飲まそうと思ったのですが、その時に試しに飲んでみました。まあ、半兵衛殿は断固拒否の姿勢でしたので、結局飲ますことはできませんでしたが」
そう言う重秀を皆は唖然とした表情で見つめていた。しかし、それ以上に皆が驚いたのは、あの柴田勝家が目と口を丸くして驚いている表情をしていたことであった。その滑稽な表情を偶然見てしまったお市の方は、我慢できずに吹き出してしまった。
「・・・う、牛の乳を飲めば牛になると聞いたが・・・?」
勝安が重秀に尋ねると、子供達が「えっ!?」と大声を上げながら重秀を見つめた。重秀が笑いながら言う。
「なるわけ無いでしょう。そんなこと言ったら南蛮人は皆牛になるではないですか」
重秀の言葉に対し、勝安と子供達は信じられないという表情をして重秀を見ていた。そんな子供達にお市の方が話しかける。
「恐らく藤十郎殿の言うとおりでしょう。もし牛の乳を飲んで牛になるのであれば、妾の兄上・・・上様はとっくに牛になっていたでしょう」
「う、上様も牛の乳を飲んだことがあるのですか、義母上!?」
於国丸がそう声を上げると、お市の方が思い出し笑いをしながら話し始める。
「ええ。兄上が若い頃、大うつけとして名を馳せていた頃です。『牛の乳を飲んで牛になるか、試してやる!』と言って何回か飲んでいたのを覚えています。結構有名な話ですよね?御前様」
お市の方に話しかけられた勝家は、いつの間にか真面目な顔をしつつ、何かを思い出すかのような口調で話す。
「ああ、そう言えばそんな事もあったな。勘十郎君(織田信行のこと)が『真に牛になってしまえば良かったのに』と本気で言っておったな・・・」
勝家がそう言って、懐かしそうに目を細めた。しかし内容が内容だけに、重秀は思わず「ええ・・・」と引いてしまったのだった。
その後、江は子牛に近寄って頭を撫でたりしていた。手を舐められた時は「ひゃあ!」と可愛らしい悲鳴を上げていたが、慣れると子牛だけでなく成牛にも近寄って身体を撫でていた。それに釣られて茶々と於国丸も牛に触るようになっていた。
最初は母親の後ろにいた初も牛に近寄るようになっていた。ただ初は最後まで牛に触れることはなかった。
こうして、小谷城での牛との触れ合いは、下山する時間まで続けられるのであった。
注釈
日本では19世紀末期になるまで馬の去勢はなされないのが原則であった。しかし、ごく僅かな例外として、17世紀の中頃に武蔵国川越にて荒馬4頭の去勢を行ったことが記録に残っている。
このことから、日本では実際に去勢しなかったとはいえ、馬の去勢をする知識と技術はそれ以前から伝わっていたものと思われる。