第176話 小谷牧場にて(その2)
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「結構なお手前でござった」
重秀の茶事がすべて終わり、柴田勝家が姿勢正しく平伏しながらそう言うと、お市の方や於国丸、茶々や初や江といった三人の姫達も平伏した。もっとも江の場合は他の人の真似をしているだけだが。
「有難きお言葉。私の拙い茶事でお休みできなかったのではないかと恐縮しております」
「何を仰る。主菓子に甘い菓子だけではなく、薄茶の時にもこんふぇいと(コンフェイト。金平糖のこと)を出してくれたではないか。お陰で江も茶を飲むことが出ました」
重秀の言葉に対してお市の方がそう言うと、重秀は困った顔をしながら言う。
「一月後でしたら、桑の実が実る季節となります故、桑の実の砂糖煮を麩の焼きに乗せることが出来たのですが・・・」
「桑の実の・・・砂糖煮?」
また変なこと言ってる、と思いながらお市の方がそう呟いた。重秀が説明する。
「南蛮人から聞いたのですが、桑の実をすりつぶし、大量の砂糖と一緒に鍋に入れて水気が無くなるまで煮詰めると、日持ちする食べ物ができるとか。南蛮人はそれをパォンと一緒にして食べるそうです。残念ながら、桑の実は四月から五月に採れる物故、時期ではないのでお出しすることはできませんでしたが」
重秀の言っている桑の実の砂糖煮とは、所謂マルベリージャムである。ジャム自体はすでに南蛮人によって日本に持ち込まれているし、桑の実も12世紀にはインド経由で中国からヨーロッパに伝わっているため、マルベリージャムがこの時代にあったことは確かである。
もっとも、『長浜日記』にはマルベリージャムの記載はあるものの、豊臣秀重が作っていたかどうかの記載はなされていない。
「陣中食にいいかな、と思ったのですが、そもそも砂糖を手に入れるのが難しくて・・・。結局砂糖煮の陣中食は止めてしまいました」
重秀は砂糖煮という言葉に拘ったのか、砂糖以外の甘味には目を向けなかった。彼にもう少し知識があれば、蜂蜜や水飴を使用したかもしれない。南蛮貿易でしか手に入らない砂糖と違い、蜂蜜も水飴も日本で手に入ることができる甘味だからである。そして蜂蜜も水飴も砂糖と同じく防腐作用を有しているため、保存食としてマルベリージャムを作っていたのかもしれなかった。
もっとも、蜂蜜も水飴も大量に生産できたわけではないので、陣中食として広く食されていたかは疑問であるが。
茶事も終わり、十分休憩を取ったお市の方達は、重秀の案内で小谷城跡を訪れることとなった。これにはお市の方と三人の姫の他に、勝家、於国丸、勝安、そして大野さんの息子である大野茶千代(のちの大野長治)も参加していた。更に案内は重秀だけではなく、加藤教明と福島正則、加藤清正も参加していた。当然、勝家とお市の方の護衛として羽柴と柴田から十数人の侍達も付いてきていた。
さて、小谷城へ登るには、複数の登山ルートを辿る必要がある。今回重秀達が使ったルートは小谷山の麓にある清水谷の北側から月所丸や六坊のある曲輪まで行くルートであった。
実は清水谷の南側から金吾丸を経由して番所や御茶屋敷のあった曲輪まで行く、追手道という比較的なだらかな道があるのだが、重秀はこのルートを取らなかった。
「藤十郎殿、何故追手道を使わぬ。子や乳母達のような女子供には通りやすい道ぞ」
小谷城を知っているお市の方が重秀にそう言った。しかし、重秀の発した理由を聞いて、彼女は追手道を通るルートを諦めた。重秀は言う。
「追手道を通る場合、小谷城本丸まで行くには必ず御馬屋敷のあった曲輪を通る必要があります。あそこ、今では牛や豚、鶏の屠殺場となっており、女子供に見せられるような状態ではないのですよ。昨日も牛や豚を屠殺しておりますれば、馬洗池は血の池となっております」
そう言われたお市の方は、血の池を見ないようにするため、やむを得ず北側のルートを通ることを承知せざるを得なかったのだった。
そんなこんなで小谷山を登って月所丸のある曲輪まで来た一行はそこで一旦休憩した後、尾根を伝って山王丸へとやってきた。ここは昔は神社があった所であったが、今では一向門徒たちのための小さな寺が建てられていた。
山王丸を通り過ぎると、今度は小丸と呼ばれる曲輪がある。ここは昔、小谷城が織田軍によって落とされた際、お市の方の義父である浅井久政が切腹した場所と伝えられている。しかし今は小丸とその周辺の曲輪、更に山肌には多くの桑の木が植えられていた。すでに桑の木には若い葉が茂り始め、木の周りでは百姓たちが根本に肥を与えていた。
きつい臭いの肥に勝家達は顔を顰めつつ、桑畑を通り過ぎると京極丸と呼ばれる比較的大きな曲輪に出た。伝承では浅井久政の父である浅井亮政が京極氏を閉じ込めた屋敷があったと言われている。しかし今では屋敷ではなく、蚕を飼うための小屋が多く建てられていた。
お市の方達がその小屋に入ると、一階部分は畳一畳分の大きさの平べったい竹籠が多く置かれており、その周りを猫が数匹うろついていた。そんな様子を横目に見ながら二階に上がると、そこには五段ほどの棚が多く並べられていた。
「ここでは養蚕・・・。蚕を育て、生糸や練糸、紬糸や真綿を作っております。もっとも、この小谷城では糸ではなく、蚕紙を作り、それを百姓達に安く売っております」
重秀がそう説明すると、江が「ねぇ」と聞いてきた。
「蚕、って何?」
「えっ?ああ、そこからか・・・。えっとですね、江姫様。蚕とは・・・」
重秀が蚕について説明すると、お市の方と於国丸、そして勝安は驚きの表情を浮かべた。
「え?蚕って蛾なのですか!?しかも、あの気持ちの悪い青虫みたいな虫から吐き出された糸が絹の糸となるのですか!?」
お市の方がそう声を上げると、重秀は頷いた。お市の方を始め、蚕を知らなかった者達は信じられない、という顔をしていた。
蚕の説明を終えた重秀が、今度は部屋の中を説明する。
「この棚に蚕籠と呼ばれる一階に置かれていた平べったい籠を上の四段に置きます。蚕籠の中に桑の葉を入れた後、卵から孵した蚕の幼虫をここで育てます」
重秀の解説に勝家が「ほう・・・」と顎髭を撫でながら声を漏らした。
勝家にとって養蚕は特に興味を持っていない分野であった。しかし、越前では元々朝倉家によって養蚕がなされており、越前一向一揆終結後には佐久間信盛や前田利家によって養蚕が復活しつつあった。すでに紬糸や真綿が量産され、紬の織物も生産されていた。
そのことを知った勝家は、今後の越前経営の参考として、羽柴の養蚕技術を見学していたのだった。
「藤十郎様。上から四段を蚕籠に使うと申しておりましたが、五段目は何に使うのですか?」
於国丸が蚕棚を興味深そうに見つめながら重秀に尋ねた。
「五段目には蚕籠と同じ様な木の桶を置きます。竹籠と違って蚕は置かず、上段から落ちてきた糞と脱皮殻、そして死体を受け止めて集めます」
「集めるのですか?」
「糞と脱皮殻は薬になります。煎じて飲むのです。死体のうち、カビの生えたものも薬になりますので、堺の薬問屋である小西隆佐殿に売っているのです」
重秀の解説に於国丸だけではなく勝安や茶千代も「へー」と感心したような声を上げた。
「病になってもそんな薬飲みたくなーい」
「・・・あなたはどんな薬でも飲むの嫌がるでしょう」
江と初が小声でそんな会話を交わしているのを横目に、今度はお市の方が重秀に聞く。
「・・・虫の小屋と聞いて、どれほど汚い所かと思いましたが、掃除は行き届いているのですね」
重秀が頷きつつ答える。
「はい。蚕は病に弱く、また鼠や蜘蛛などの他の虫、窓から入る鳥に襲われることが多いのです。そのため、こういったものから蚕を守るべく、風通しを良くしたり鼠や他の虫が発生しないよう、蚕が繭を作るまで掃除を徹底させております」
「鼠・・・?もしや、小谷にやたら猫が多いのは・・・?」
お市の方がそう呟くと、重秀はすかさず答える。
「はい。鼠よけです。ここでは猫を増やし、養蚕を行なっている百姓に譲っております。長浜城にも猫がいますが、あれも長浜城内で行われている養蚕のためです」
「ああ、長浜城でやたらと猫が多かったのは、城内でも養蚕をしていたからなのか」
勝家が心得た様な顔で頷いた。続けて重秀に尋ねる。
「長浜は意外と養蚕に向いてまして。温暖ですし、琵琶湖からの風がいつも吹いております故、風通しに苦労いたしません。日当たりも水も豊富なため、桑の木も育ちやすく桑の葉を大量に確保できるので、蚕に多くの葉を与えることができます。お陰で良質な生糸を多く得ることが可能になりました」
重秀がそう言うと、勝家が「それよ」と声を上げた。
「羽柴領内の生糸の評判は儂も聞いておる。さすがに唐の国の生糸には及ばぬが、それでも今までの生糸よりは丈夫な生糸だと聞いておる。そして何より、そんな生糸が多く出回るようになったのが疑問じゃ。一体、何をしたのだ?」
勝家がそう言って重秀を見つめる。その眼光は鋭く、まるで重秀を射殺さんとする視線であった。その視線に気がついた正則と清正が重秀の前に出た。と同時に、勝安が勝家と於国丸の前に出た。勝安が正則と清正を睨みつけると、正則と清正も負けじと睨み返した。
そんな中、重秀が正則と清正に声をかける。
「二人共やめよ。修理亮様(柴田勝家のこと)は聞いてきただけだ。他意はない」
それと同時にお市の方も勝家に話しかける。
「御前様。ここは戦場ではないのです。どうか、そんな敵に向けるような目をしませんように」
お市の方に注意された勝家が「ああ、すまぬ」と言うと、表情を緩めた。重秀が黙って頭を下げると、正則と清正、勝安はそれぞれ重秀と勝家の後ろに戻った。
表情を緩めた勝家に、重秀が話しかける。
「正直言って、何故羽柴の生糸の質が良くなったのかはよく分かりませぬ。ただ、分かっていることが一つあります。それまでの養蚕は村の内部で行われており、他の村との交流がありませんでした。結果、蚕の繁殖は同一の親から生まれた蚕同士を交わらせていました。恐らく世代を重ねるに連れて脆弱な蚕になっていったものと思われます」
「・・・なるほど。人で言うところの近親婚のようなものか。血縁が強い者同士の間で産まれた子は虚弱な身体になると聞いたことがある」
勝家が納得したように呟くと、重秀は「はい」と答えた。重秀の話は続く。
「羽柴は蚕を増やすため、村々に生き残っていた蚕を集め、それら交わらせました。結果、生まれてきた蚕の作る繭は糸が太くて頑丈、しかも繭自体が大きいので糸が多く取れました。さらにその蚕が雌の場合、多くの卵を産んだのです」
「ほう、なるほど。血縁のない蚕を交わらすだけで、それだけの効果が出たのか。では羽柴はその蚕を更に交わらせ、より優れた蚕を生み出したわけか」
勝家が理解したかのような顔をして頷いた。しかし、重秀は首を横に振る。
「いえ、事はそう簡単には行きませぬ」
そう言うと重秀は蚕に起きた不思議な出来事を説明し始めた。
他の村同士の蚕を交配させると優れた繭を作ることを知った重秀達は、優れた繭を作る蚕同士を交わらせ、大量の繭を作ろうとした。ところが、優れた繭から生まれた蚕同士を掛け合わせたところ、生まれた蚕が全て優れた繭を作らなかったのだ。
「優れた蚕同士を交わらせた場合、大体はその生まれた蚕の繭は優れていますが、何故か一世代前の劣った繭しか作らない蚕も出てきました。しかも次の世代でもそれが同じ様に現れました。つまり、他の村同士の蚕を交わらせた場合でしか優れた繭を作る蚕は生まれないわけです」
「それは何故だ?」
「分かりません」
重秀が素直に勝家に言うと、側にいた勝安が鼻で笑いながら重秀に言う。
「なんだ。『羽柴の至宝』とか『北近江の麒麟児』と呼ばれた藤十郎殿にも分からないのか。大したことないのう」
勝安の物言いにムッと来たのだろう。重秀が思わず言い返す。
「私にだって分からないことはあります。ですが、いづれ分かる時が来るでしょう」
豊臣秀重が書いた『長浜日記』、そして後に書き記す『大坂日記』には、蚕の謎としていわゆる一代交配種による雑種強勢のことが書いてある。また、その次の世代で劣性の繭ができることについても謎として書かれている。残念ながら豊臣秀重は死ぬまでこの謎が解けなかったようである。
豊臣秀重が抱いていた蚕の謎は、およそ300年の時を経て同じ日本人によって解明される。1865年、チェコの修道僧であったグレゴール・ヨハン・メンデルがエンドウ豆の交配で発見したメンデルの法則。その法則が三人の科学者によって再発見されたのが1890年から1900年の10年間。そして1906年には日本の科学者によって蚕にもメンデルの法則が当てはまることが分かったのであった。
「あの」
重秀と勝安がにらみ合っている中、茶々がおずおずと声をかけた。皆が茶々の方を見ると、茶々が口を開く。
「初と江がいないのですが」
えっ!?と皆が一斉に声を上げて周りを見渡すと、確かにさっきまでいた初と江の姿が見えない。お市の方が慌てだす。
「江!初!」
声を上げて二人を呼ぶが、返事はしなかった。重秀が一階へ降りる階段へと向かい、階段から覗き込んだ。しかし、視界には二人の姿が見えなかった。
「茶千代!あの二人を見なかったのですか!?」
お市の方が茶千代を責め立てた。茶千代が恐縮して答える。
「も、申し訳ございませぬ!羽柴様のお話に夢中になり、目を離しておりました!」
「母上!茶千代を叱らないでください!それよりも、あの二人を探しましょう!」
茶々がそう言うや否や、重秀は正則と清正に「付いて来い」と言うと、階段を駆け下りて一階を見渡した。しかし一階には誰もいなかった。猫すらいなかったのである。
「藤十郎!?初と江はいたか!?」
追いかけてきた勝家が大きな声で重秀に聞いてきた。重秀は首を横に振る。
「いいえ。一階に猫がいたのは覚えていたので、その猫を探しに来たのではないかと思ったのですが・・・」
「若君、外を探しましょう。外には厠がございます。もしかしたらそちらに行ったのかも」
教明の言葉に頷いた重秀達は小屋から出ていった。厠はすぐ側にあるのだが、そこには二人の姿はなかった。
「拙い・・・。一体どこに行ったのか・・・」
「二人共幼い女児。そう遠くには行っていないのでは?」
焦る重秀に対し、正則が冷静な口調で重秀に言った。重秀が正則に言う。
「市。市は虎と共に北を探してくれ。大嶽城に行かれては厄介だ。小丸で作業していた百姓や山王丸の寺の者達にも声をかけて探し出すようにしろ。良いな!」
そう言うと正則と清正は「承知!」と言って北に向かって走って行った。重秀に勝家が話しかける。
「・・・大嶽城には今でも何かあるのか?」
「何もありません」
勝家の質問に即答する重秀。あまりに早い回答に、勝家は違和感を感じた。しかし、重秀は更に答える。
「あそこには昔越前の一向門徒達が住んでいた家がありました。しかしながら不便故、今では住民がいない空き家のみとなっております。人が居りません故、何かあっても助ける者が居りません」
そう言われた勝家は納得した。が、感じた違和感は拭えていなかった。その違和感が何か分からないうちに、重秀が独りごちる。
「・・・猫を追いかけてどこかに行った?猫は石垣の上とか屋根の上に登るから、そう簡単には登れないはず・・・。まさか、山肌に落ちた?」
「それはありえぬ!」
お市の方がそう声を上げた。お市の方に皆の視線が集まる中、お市の方が力強く言う。
「確かに江は暇さえあればフラフラとほっつき歩き、落ち着きのない子です。しかし、初は幼いながらもしっかりとした子。あの子がいる限り、危ないことは致しませぬ!」
それを聞いた重秀は、右の握り拳を口元につけると、その場で考え込んだ。そしてお市の方に尋ねる。
「・・・御方様。初様と江様がこの小谷城で行きたい所をお聞きになったことはありますか?」
重秀の質問にお市の方は首を横に振る。
「初も江も小谷城を離れたのは幼い頃。二人共この城に思い出はないと思いますが・・・」
そう言いながら、お市の方は困惑した表情で首を横に振った。そんな中、茶々がおずおずと声を上げる。
「あの。江は牛を見たいと言っており、楽しみにしておりました。小谷城に牛が多く居る場所はありますか?」
「・・・それならば、南にある千畳敷曲輪でしょうか?あそこは小谷城の曲輪の中では一番広い場所故、牛小屋などが多くあります」
重秀の言葉にお市の方は渋い顔になった。千畳敷曲輪は浅井時代には御殿が築かれ、落城寸前までお市の方や三人の姫、乳母達が住んでいた所であった。短いながらも浅井長政と家族水入らずで過ごした場所であった。そんな思い出深い場所が牛小屋になっていると聞けば、あまりいい気分ではないだろう。
そんなお市の方の気持ちも知らず、重秀は「なるほど」と頷いた。
「大姫様の言う通り、先に牛を見たいと思って牛を探すことはあり得ます。では、千畳敷曲輪まで探しに行きましょう」
京極丸で残って探す、と言った教明と羽柴の侍達を残し、重秀達は南の本丸、そしてその南にある千畳敷曲輪に向かったのであった。
注釈
メンデルの法則とは、小説に書いてあるとおり、1865年にチェコの修道僧であったグレゴール・ヨハン・メンデルが発見した遺伝に関する法則である。
メンデルの法則には3つの法則(優劣の法則、分離の法則、独立の法則)がある。
優劣の法則(優性の法則、顕性の法則とも言う)とは、ある対立遺伝子によって支配された形質(生物の持つ形態や生理機能上の特徴)について、純系同士を交配させると、雑種第一代では対立遺伝子の一方のみの形質だけが現れるというものである。この時現れる形質を優性、現れないのを劣性と言う。
分離の法則とは、雑種第一代同士を交配させた場合、優性・劣勢の形質が3:1の割合で分離することを言う。
独立の法則とは、二つ以上の形質を決める対立遺伝子は、それぞれの遺伝子ごとに独立して次の世代に伝達されることを言う。ただし、これは異なる染色体にある遺伝子において成り立つ。