第172話 国替え(裏)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
次の日の朝。重秀は安土城内にある堀秀政の屋敷を尋ねていた。もう何度も行っている堀屋敷である。顔パスで屋敷内に案内されると、秀政のいる書院へと案内された。
相変わらず本や書状、徳利が散乱している秀政の部屋で、重秀は秀政と面会していた。
「やあ、藤十。早いね」
「この度は堀様に長浜城が与えられた旨、誠におめでたく。父も私も長浜城の次の城主が堀様であることを喜んでおります。つきましては、僭越ながら私藤十郎が父より長浜城の引き渡しの任を受けました。そのため、挨拶に罷り越した次第にて」
重秀が行儀正しくそう言うと、秀政は後頭部を右手で掻きながら「もっと気を楽にしていいよ」と言った。
「上様から聞いているとは思うけど、城の明け渡しは夏までに行わなきゃいけない。時が短くて申し訳ないが、よろしく頼むよ」
「分かっております。我等の方も早急に西国に向かわなければなりません。従って、三ヶ月以内の城の引き渡しを考えております」
重秀がそう言うと、秀政は「それは助かる」と頷いた。しかし、秀政は真面目そうな顔つきになると、小声で重秀に囁く。
「それで、真の事はどうなんだい?私に聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「・・・さすがは堀様です。実は羽柴への此度の処遇。いささか気になるところがありました。旧領がある程度召し上げられることは予想しておりましたが、まさか摂津二郡(八部郡と有馬郡)と北近江三郡全てが召し上げられるとは思いもしませんでした。
・・・それに、小一郎叔父上はともかく、私に摂津二郡を与えられるとは思いもしませんでした。上様の本意を知りとうございますが、堀様はなにか聞かれていますか?」
「聞かれるも何も、この件については上様だけではなく殿様(織田信忠のこと)や奉行衆が話し合って決めたことだ。まあ、正直言って私まで駆り出されるとは思ってもいなかったけどね」
秀政がそう言うと、重秀は姿勢を改めて正した。そして尋ねる。
「一体、織田家中で何があったのでしょうか?障りのない範囲でお教え頂けないでしょうか?」
重秀の言葉に、いつもは飄々としている秀政が真面目な顔つきになった。そして口を開く。
「んまぁ、特に口止めされていないから話すけど、他言無用でお願いするよ」
そう言うと、秀政は事の次第を話し始める。
「まず藤十がもっとも気にしているであろうことだけど・・・。結論から言えば、上様も殿様も羽柴を佐久間と同じ目にあわせようとは思っていない。ただし、あまり力を持たせたくないと思っているのも事実だ。というか、上様は重臣達に過大な領地を持たせたくないとお考えだ」
「過大な領地、ですか」
「とはいえ、播磨を平定した藤吉殿を無碍にすることはできない。それに、戦に勝ったからと言って知行を減らしては、誰も働かなくなる。そこで、藤吉殿への褒賞としてではなく、羽柴家全体の加増をしつつ、藤吉殿個人の知行をさほど増やさないようにしたんだ。それ故、藤十と小一郎殿に独自の知行を与えることとしたんだ」
「・・・なるほど」
秀政の解説を聞いた重秀がそう言って頷いた。もっとも、ここまでの話は秀吉が想像してたとおりだったのだが。
秀政の話はまだ続く。
「まあ、重臣に与えられる知行は大きくても一国程度が基準になると思う。とはいえ、国にも大小あるから、それは調節するみたいだけど。それと、安土と京、そして大坂周辺は織田一門と奉行衆で固めるみたいだね。私が長浜城を頂いたのはその一環らしい」
「ああ、なるほど・・・って待ってくださいよ。堀様が長浜城を貰うのは当然ですし、その他の羽柴領が織田直轄地になるのは納得できますが、山本山城と浅井郡の東側、およそ五万石は阿閉淡路守様(阿閉貞征のこと)に与えられています。淡路守様は奉行でも織田一門でもないと思うのですが?」
重秀は昨日、貞征が旧領復帰できただけではなく近江内で加増されたことに、秀吉が激怒していた事を思い出しながら秀政に言った。
重秀自身も昔貞征に絡まれて酒をしこたま飲まされたという嫌な記憶があるため、貞征にあまり良い印象を持っていなかった。
秀政が肩をすくめながら重秀に答える。
「ああ、それは淡路守ではなく万五郎(阿閉貞大のこと)が上様のお気に入りだからな。手元においておきたいのであろう」
「・・・万五郎殿って、淡路守様のご嫡男でしたよね?あの方、上様のお気に入りだったんですか?」
重秀がそう尋ねると、秀政は頷きながら重秀に答える。
「うん。上様が相撲好きなのは知っているだろう?万五郎は相撲が強いんだ。まあ、天正六年(1578年)に行われた上覧相撲(信長の目の前で行われる相撲大会のこと)で決勝まで進出して以来、上様のお気に入りの力士になったんだ」
秀政の言葉に、重秀は「へー」と高低をつけずに返事をした。ぶっちゃけ、重秀にとってはどうでもいいことであった。ただ、秀政はそうでもないらしい。
「お陰で万五郎はめでたく奉行衆の一員さ。まあ相撲奉行だけどね」
「ああ、それなら安土の近く・・・って、相撲奉行!?そんな奉行職があるんですか!?」
「おいおい。相撲は武士にとって鍛錬の一つだろう?藤十も小姓だった頃によくやっていたではないか」
「ええ、足腰を鍛えられるので、鍛錬として船に乗せる兵達に相撲を行わせています。相撲が強いと、船の上で踏ん張れるので揺れに強くなるんですよ」
「そうなんだ。それは知らなかった。まあそれはともかく、上様は頻繁に上覧相撲を行われているから、その催しを行う際に奉行が必要なのさ」
「な、なるほど」
秀政の話に重秀は納得した。そんな重秀に、秀政が予想外の話をし始める。
「実はこの奉行衆の数が足りなくてね・・・。藤十も奉行にする予定だったんだ」
「私もですか!?」
重秀が思わず声を上げた。秀政が頷く。
「うん。殿様が藤十を奉行としてねじ込もうとしたんだ」
「待ってください。私は齢十九ですよ?奉行なんてできるわけ無いじゃないですか」
「やれやれ。私が公方(足利義昭のこと)の仮の住まいである本圀寺の普請奉行を務めたのは十六歳の頃だったよ。十九歳なら十分奉行職は務まると思うけどね。それに、藤十が就く奉行職は藤十にしかできない奉行職なんだけどね」
「・・・それは一体?」
重秀がそう尋ねると、秀政が片目を不器用に瞑りながら言う。
「琵琶湖の舟手衆を取りまとめる船奉行さ」
秀政の言葉に、重秀は「ああ〜」と納得した。確かに長浜や大浦、塩津や菅浦の舟手衆との長い付き合いがあるから船奉行は務められそうだ、と重秀は思った。そしてそれは秀政も同じ考えであった。
「殿様からこの案が出た時は私を始め一部の奉行衆から賛成の声が上がっていたんだ。ところが、殿様が藤十に北近江三郡十三万石と長浜城を与えるように言ったことから、一気に皆が反対に回ってしまったんだ」
「わ、私に長浜城と北近江三郡十三万石ですか!?」
「まあ、浅井郡の五万石が阿閉に行くから、残りの八万石が藤十の知行だね」
「はあ・・・」
重秀は八万石という石高に思わず溜息が出た。それだけの知行を貰えるとは思っていなかったのだ。
そんな重秀に秀政が更に話しかける。
「いくら藤十が上様の養女婿で船奉行だからといって、北近江八万石は与え過ぎだ、という声が上がったんだ。そして上様もそれには同意見だったんだ。結局、殿様と私以外の反対で藤十には北近江が与えられないこととなった」
「えっ?堀様は私が長浜城と北近江八万石を得るのに賛成していたのですか?」
重秀の質問に、秀政は頷く。
「うん。だって船奉行なんて煩わしいし」
秀政のあっけからんとした物言いに、重秀は唖然とした。秀政が更に話す。
「あのねぇ。本圀寺の普請奉行なんて柄にもない役目をちょっと頑張ったせいで奉行みたいな扱い受けてるけど、私は元々馬廻衆だよ?なんで私が俸禄以上の役目を負わなければならないんだ」
「いや、もう皆さん奉行と看做していますし・・・」
「だからって役目が多すぎるよ。朝廷や大名との仲介はしなけりゃならないし、上様の朱印状や黒印状に副署はしないといけないし、商人との取引はしないといけないし、伴天連の相手もしなければならないし、戦に行けば目付として禁制を出さなければならないし、首級を記録して褒賞の推薦を上様に送らなければならないんだぞ。しかも去年は浄土宗と法華宗の宗論の立会いなんぞさせられたし。それに加えて琵琶湖の舟手衆の監督?できるわけないだろう」
秀政がそう愚痴ると、重秀は「それは・・・」と苦笑いしながら応えた。秀政は更に愚痴る。
「ここんところ忙しくてねぇ。息子の顔も見れない状態だよ」
秀政の息子、のちの堀秀治は今年五歳になる。かわいい盛りの息子に会えない辛さを秀政はありありと顔に表していた。
そんな秀政の様子を見ていた重秀は、あることに気がつく。
「堀様。殿様が奉行として推したのは私だけですか?」
「いい質問だね。殿様は藤十だけではなく、他にも推したよ。勝九郎(池田元助のこと)や忠三(蒲生賦秀のこと)、与一郎(長岡忠興のこと)、孫四郎(前田利勝のこと)や清六郎(中川光重のこと)、与四郎(河尻秀長のこと)とかも推していたな」
「皆さん重臣の嫡男ではありませんか」
「そして織田家の次世代を担う若人達だ。殿様を支える重臣となりえる人材だな」
「・・・でしたら、その中の誰かに船奉行を押し付けては如何ですか?」
「私の挙げた者で、琵琶湖の舟手衆との結びつきのある者はいるかい?」
秀政にそう言われた重秀は、「う〜ん」と唸った後黙ってしまった。確かに秀政の挙げた名前の人物に、船と結びついているイメージはなかった。
「・・・確かに、いないですね」
「そうなんだ。こう言っては何だけど、藤吉殿から藤十が船や水軍に興味を持っていると聞いた時は、変わっているな、としか思わなかったけど、今からすれば先見の明があったということだな。こと琵琶湖の舟手衆については羽柴・・・いや藤十以外に担える人材はいない。まあ、坂本の惟任様(明智光秀のこと)が堅田衆を抱えているが、あの方も丹波や京のお役目が忙しいから、琵琶湖の舟手衆の奉行までやらせるのは難しいね」
秀政がそう言って重秀を褒めた。重秀は「買いかぶりですよ」と笑った。秀政が話を続ける。
「上様が藤十を北近江に置くことに反対したのは、藤十には引き続き羽柴の水軍を任せたいという考えがあったからなんだ。羽柴には今後も毛利との戦いが待っているからね」
「ああ、それで上様は私に摂津二郡を下さったのですか?」
「いや。摂津二郡を藤十の知行にするように主張されたのは殿様だよ」
重秀の予想に反した答えを言う秀政。重秀が「殿様が?」と聞き直すと、秀政は頷く。
「うん。上様は摂津の全て・・・いや、欠郡(摂津国のうち、東成郡、西成郡、住吉郡からなる地域)を除く全てを紀伊守様(池田恒興のこと)に任せたいみたいだった。なので、本来ならば八部郡も有馬郡も羽柴から召し上げ、兵庫津は直轄地にするおつもりだった。ただ、その案に反対したのが殿様だ」
「殿様が?」
「『八部郡と有馬郡はそれがしが羽柴に与えた地。その二郡の処置はそれがしが行います!』と言っていたよ。おかげで、紀伊守様(池田恒興のこと)への加増をどうするか、だいぶ揉めてねぇ。結局、修理亮様(柴田勝家のこと)の知行だった近江栗太郡、およそ六万石を与えることになったんだ。まあ、上様の乳兄弟で上様が信頼するお方。安土城の近くに知行を持っていても問題はないとされたんだ」
「そうだったのですか・・・。もし殿様が反対しなければ、羽柴は文字通り播磨一国だけしか持たない大名となっておりました。検地によれば播磨一国は約三十五万石。しかも全てが羽柴とその家臣のものになる訳ではありません。播磨には織田に降った国衆が多く残っております故、国衆の所領安堵を成した場合、羽柴が手に入れるのは二十万程度と考えられていましたから」
「播磨の石高については藤吉殿からある程度は聞いていたが、想定以上の少なさだったね。しかも、播磨の佐用郡と赤穂郡は宇喜多のものになるんだろう?」
「元々佐用郡と赤穂郡は宇喜多の前の浦上家が支配していた地域でしたし、佐用郡の上月城は毛利方の拠点でしたが和泉守様(宇喜多直家のこと)の軍勢が攻め落としておりますから」
「そうか・・・。ひょっとしたら、羽柴の力を抑えすぎたかもしれないね・・・。これが織田家の内外に悪影響を与えなければいいけれど」
秀政がそう言って溜息をついた。重秀が秀政に更に尋ねる。
「そう言えば、小一郎叔父上を生野銀山の奉行とし、但馬一国を委ねましたが、それも羽柴の力を抑えるためですか?」
重秀の質問に秀政は頷いた。
「うん。すでに藤吉殿は但馬にも手を伸ばしている。多分但馬は藤吉殿が平定するだろう。そうなった場合、藤吉殿は二カ国を治める太守となる。今織田家の重臣で二カ国丸ごと治める者はいないから、前例のない状態になる。惟住様(丹羽長秀のこと)ですら若狭一カ国と近江坂田の一郡だからね。それで藤吉殿が二カ国の太守となれば、他の重臣達がどう思うか。特に、佐久間の代わりに織田家の筆頭重臣となった柴田様がどう思うか」
「あまり良い顔はされないでしょうね」
重秀が渋い顔をしながらそう言うと、秀政は深く頷いた。
「そうなんだ。今更何言ってるんだ、とは思うけど、未だに藤吉殿の出自と出世に文句を言う者は少なくないからねぇ・・・」
「しかしそれなら、但馬を羽柴家以外の方にお任せするというのはどうなんですか?」
重秀がそう疑問を呈すると、秀政は困惑気味に答える。
「それはそれで困るんだよ。毛利が再び東進してきた場合、播磨と但馬で連携して防いでもらわなければならない。聞いた話では、毛利は山陽を小早川が、山陰を吉川が軍の指揮を執っている。『毛利の両川』に対抗するには、播磨の藤吉殿とうまく連携が取れる者が必要なんだ。そうなると、小一郎殿くらいしかいないんだ」
「前田様(前田利家のこと)では駄目なんですかね?父上とは仲が良いですし、小一郎の叔父上から『越前府中城に引きこもっているから、腕がなまって仕方がない』と聞いております。前田様を総大将に但馬平定軍を起こせば、きっと但馬一国を与えるにふさわしいお働きをなさると思いますが」
重秀の提案に、秀政が「なるほど」と頷いた。
「それは実に魅力的な案だね。だが、前田殿には柴田様の与力として北国平定に尽力して貰う予定だからね。柴田様も前田殿を高く評価されているし、手放さないんじゃないかな?」
その後、重秀は秀政と長浜城の受け取りについて話し合うと、秀政の屋敷から出ていった。これから起きる国替えの準備の大変さに思いを馳せながら。
その日の午後。重秀は織田信忠の屋敷にいた。遅くなった新年の挨拶と八部郡拝領のお礼を述べるためであった。
屋敷の広間には、上段の間に信忠が座り、下段の間には信忠のすぐ近くに斎藤利治が座っていた。重秀は下段の間の真ん中よりやや信忠寄りの場所に座ると、平伏しながら挨拶した。
「新年のご挨拶が遅れましたること、誠に申し訳なく。羽柴藤十郎重秀、伏してお詫び申し上げまする。また、非才なる身でありながら、摂津八部郡と有馬郡、及び兵庫城を頂きましたること、誠に有難き幸せ」
重秀がそう言うと、信忠は申し訳無さそうな顔つきで話しかける。
「藤十郎。そなたには摂津の二郡しか与えることができなかった。不満だとは思うが、善く治めてもらいたい」
「とんでもございませぬ。摂津二郡だけではなく商い豊かな兵庫津まで任せていただけるのでございます。若輩の身には過分なる思し召しに存じまする。殿様への御恩を忘れず、さらに忠勤に励む所存にございまする」
重秀がそう言って深々と頭を下げた。そんな重秀に信忠が再び声をかける。
「・・・そう言えば、縁が懐妊したそうだな。まずはめでたい。縁の体調はどうだ?」
「有難き幸せ。縁の体調はすこぶる良く、兵庫城で健やかに過ごしております。正直言って、妊婦を再び長浜城まで連れて行かなくて済んだことに胸をなで下ろしておりまする」
重秀の発言に、信忠は「で、あるか」と父信長と同じことを言った。その後、しばらく黙っていた信忠が、戸惑いながら口を開ける。
「じ、実はだな・・・。藤十郎。鈴のことは覚えているか?」
信忠から発せられた言葉に、内心では「言われるまで忘れてました」と呟いたものの、そんな事は表にも出さずに重秀は話し始める。
「塩川伯耆守様(塩川長満のこと)の姫君でしたね。殿様のお側にいらっしゃる。その方が如何なされましたか?」
「・・・身籠った」
信忠の告白に、話の流れからなんとなくそうなんじゃないかと思っていた重秀であったが、実際に言われると驚きと困惑の表情を浮かべざろう得なかった。
「それは・・・おめでとうございまする」
とりあえずそう言って祝う重秀に、信忠はただ「うむ」と頷いた。そして話を続ける。
「とりあえず、塩川へは藤十郎から伝えておいてくれぬか?」
「・・・塩川は摂津川辺郡の国衆にて、紀伊守様の与力にございます。それがしが伝えれば紀伊守様の面目が立ちませぬ。何卒ご容赦を」
いくら信忠に恩があるとは言え、恒興の領分を犯す気のない重秀。丁重に信忠の頼みを断るのであった。