第170話 塩飽にて
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天正八年(1580年)一月下旬。加古川河口には羽柴水軍の安宅船『龍驤丸』と関船『村雨丸』『春雨丸』『梅雨丸』『驟雨丸』、そして三角帆を乗せた小早(進水したばかりで名前はまだない)が集結していた。
「はー。いつ見ても、『龍驤丸』はどいけぇ(でかい、の意味)なぁ」
『村雨丸』の甲板で、佐々木新右衛門はそう言いながら海の方を見ていた。その視界の先にあるのは、大安宅船として播磨だけではなく備前以西にも名を知られるようになった『龍驤丸』が浮かんでいた。
そんな感想を漏らす新右衛門に、重秀と加藤茂勝、そして淡河定範が近づいて来た。
「御老体、いや新右衛門。乗るなら『龍驤丸』の方が良かったか?」
重秀の質問に、新右衛門は「とんでもねぇ」と首を横に振りながら答えた。
「儂にゃああの船はどいけぇすぎる。小せぇ船に慣れた身じゃけぇ、あねぇな船に乗ったらけぇって居心地が悪い。そもそもこの『村雨丸』ですら大きいんじゃけぇ」
そう言った新右衛門は、ふと何かを思いついたような顔をすると、重秀に尋ねる。
「思ったんじゃが、羽柴の若様が乗る船がこれたぁね。てっきり儂はあっちの大きな安宅船か思うとった」
新右衛門の言葉に、重秀が苦虫を噛み潰したような顔になった。
「『村雨丸』に乗り慣れているからな」
そう答える重秀に、新右衛門がニヤリと笑う。
「その方がええ。何つったって、これから向かう塩飽は潮の流れが早い。船の癖知らな、潮に捉えられてしまうけんな。それに、塩飽の海は浅瀬も多い。あんなでかい船が来たところで、座礁してしまうけんな」
新右衛門の話を聞いた重秀は、視線を新右衛門から定範に向けた。定範が「・・・若君、何か?」と尋ねてきたので、重秀は心配そうな口調で定範に言う。
「いや・・・、淡河勢が気になってな。『龍驤丸』で船に慣れたとは言え、『村雨丸』には慣れていないのだ。彦進(別所友之のこと)の別所勢と船を取り替えたが、淡河勢が船酔いで使い物にならないのではないか、と思ってな」
そんな事を言う重秀に対し、定範はムッとしたような顔で反論する。
「何と情けない物言いか。我等淡河勢は東播では精強と鳴らした軍勢でござる。すでに船軍を経験しておるのです。此度は塩飽へ言って帰ってくるだけの簡単な務め。必ずや淡河勢が海の上でもお役に立てるということ、若君に示してご覧に入れまする」
そう言って胸を張る定範に、重秀は心配そうな顔を向け、茂勝は疑い深い視線を向け、新右衛門は小馬鹿にしたような笑みを向けていた。定範が怪訝そうな顔をして何か言おうとしたが、その前に新右衛門が重秀に言う。
「若様よ。そろそろ出帆せな拙いんじゃわ。もうすぐ満潮になっちまう。今のうちに塩飽へ向かわな、上げ潮が止まっちまって、西へ進み辛ろうなる」
新右衛門の言葉を聞いた重秀は、茂勝に「では出帆の合図を鳴らそう」と言った。茂勝が船尾の櫓に入ると、櫓から出帆の合図の太鼓の音が鳴り響いたのだった。
重秀率いる羽柴水軍が塩飽に向けて出帆したのは辰の刻(午前8時頃)であった。『龍驤丸』と『八幡丸』そして名無しの小早を中心に、『村雨丸』を先頭にして『春雨丸』、『梅雨丸』が輪形陣で西に向かって進んでいた。
もっとも、この時期のこの時間帯は風向きが西向きなため、帆走ではなく艪や櫂を漕いでの航行であった。
そんな中、重秀と定範は左舷から見える大きな島を見ていた。
「あれが小豆島か・・・」
重秀がそう呟いている横で、定範は青い顔をしながら「そのようで・・・」と答えていた。定範は『龍驤丸』よりも揺れの激しい『村雨丸』に慣れておらず、やっぱり船酔いに苦しめられていた。
「・・・少し休んだら?当分弾正(淡河定範のこと)の仕事は無さそうだし」
「そう言う訳には・・・っ!」
定範がそう言って抗議しようとするが、胃から逆流する物を我慢するために口を閉ざした。何とか胃の中に戻した定範が申し訳無さそうに重秀に言う。
「・・・若君。失礼ながら、船内に戻りとうございまする・・・」
「ああ。ゆっくり休んどけ」
重秀がそう言うと、定範はゆっくりと船尾の矢倉へと歩いていった。その様子を見ていた新右衛門が重秀に語りかける。
「東播の知将も、海の上では肩無しじゃのう」
「山での戦いを得意としてきた方だからな。仕方ないね」
肩をすくめて言う重秀であったが、その後で何かを思い出したかのように新右衛門に尋ねる。
「ところで新右衛門。小豆島についてなにか知っているか?あそこの話を播磨では全く聞かないのだが」
「小豆島は今は讃岐国の支配下にあるんじゃ。あそこは元々細川様(細川京兆家のこと)のもんじゃったが、配下の寒川だったか安富だったかのもんになっとる」
小豆島は南北朝時代に讃岐守護であった細川氏の支配下にはいった。しかし、実際は守護代で細川氏を支えた讃岐の国衆である寒川氏や安富氏が代官を派遣していた。
「寒川と安富か・・・。共に今は十河の傘下だな」
重秀はそう言いながら顔を顰めた。現在、十河存保は長宗我部元親の四国統一戦に対抗すべく、阿波国と讃岐国にいた旧三好派の国衆をまとめあげていた。そして、長宗我部に対抗するため、毛利と手を組んでいた。
そのため、小豆島の舟手衆は毛利傘下の能島村上家の影響下にあった。要するに小豆島は羽柴の敵地なのである。
「ただなぁ。小豆島の連中も羽柴の話は聞いとる思うでぇ。ついでに毛利の不甲斐なさも。そしてこっから小豆島が見えるというこたぁ、小豆島からもこちらが見えるということ。あの『龍驤丸』を見て小豆島の連中がどう思うかな?」
「・・・小豆島も羽柴に降ると?」
重秀が新右衛門にそう尋ねると、新右衛門は肩をすくめる。
「そこまではいかんじゃろう。が、連中も馬鹿じゃねえ。潮や風を読むように、世の流れを読むじゃろう。それが海で生きていく者の定めじゃ」
そう言いながら新右衛門は視線を小豆島に向けた。しかし、新右衛門の視線は小豆島そのものを向いていないように見えた。まるで未来を見つめているかのように遠くの方を見つめているかのようであった。
「・・・塩飽も、世の流れを読んだのか?」
重秀がそう尋ねると、新右衛門は視線を動かさずに答える。
「儂等は村上の連中と違うて力持っとらん。持っとるんは潮と風読んで海渡る技のみじゃ。力がない以上、生き残るには誰が強いか見極めなけりゃあならん。もっとも・・・」
そう言うと新右衛門は重秀の方を見た。そして、意味ありげな笑みを浮かべながら話を続ける。
「強い奴ほど塩飽の船方の技を高う買うてくれるもんじゃ」
そう言うと新右衛門は再び視線を小豆島に向けた。重秀も小豆島に視線を向けた。二人の見つめる小豆島は、ゆっくりと『村雨丸』の後方へと移動していくのであった。
小豆島を横目に進んでいた羽柴船団は、新右衛門を始めとした塩飽の船乗り達による水先案内によって、座礁すること無く塩飽諸島の一つである本島に到着することができた。
塩飽本島。その中心地は笠島と呼ばれる地域であった。本島の東北部にある笠島は、北に湊を持ち、東の丘陵地帯に笠島城を持つ町であった。
『村雨丸』の船上から笠島の湊と笠島城を見ていた重秀は、新右衛門に確認するように話しかける。
「・・・真にあの城には誰もいないんだろうな?」
「へぇ。代官としてあの城に居りました福田又次郎様は先頃不幸な事故で亡くなっとります」
新右衛門の話によれば、讃岐の国衆である香川氏の出である福田又次郎は、塩飽の島々の人達に圧政を敷いていた。そこで本島の船方が集まり、又次郎を本島西側の洲(川や海に堆積した砂の地形のこと)に誘い出して酒宴を開き、頃合いを見てその洲に又次郎を置いてきた。酒によって寝込んでいた又次郎は、満潮で沈んでいく洲と共に海に沈んで溺死したのだった。
「その後、城に残っとった侍連中は讃岐に戻り、今では城は誰も住まんようになった、ちゅう訳よ」
「へぇ・・・」
若干顔を引きつらせながら、重秀はそう答えた。新右衛門やその孫娘であるくま、そしてその他の塩飽の船方達は、自らの力が弱いことを重秀に話してきた。
しかし、彼等彼女等もやはり乱世の船乗りであった。己の身を守るためには支配者ですら排除する胆力を持っていたのだ。
―――塩飽の船方衆を上から押さえつけるような交渉をしなくてよかった・・・。力がないとは言え、やはり菅浦と同じ様に扱った方が羽柴のためになるな―――
そう思いながら重秀は新右衛門を見つめていたのだった。
その後、重秀は定範と新右衛門と共に『村雨丸』から伝馬船に乗り換えると、笠島湊から本島へ上陸した。と同時に、『春雨丸』から加藤清正、『梅雨丸』から福島正則、『龍驤丸』からは脇坂安治と別所友之が本島へ上陸した。当然護衛の兵を引き連れてである。そして重秀達は新右衛門の案内で笠島城へと入った。
無人の城とは言え、城内は掃除が行き届いており、荒れた様子はなかった。そんな城内にある屋敷の玄関の前では、十数人の者達が並んで重秀達を待っていた。
「若様。こちらにいるのが本島の船方の取りまとめ役じゃ」
新右衛門がそう言うと、十数人の者達が一斉に頭を下げた。重秀も軽く頷いた。
「では、屋敷に案内いたしますんで」
新右衛門がそう言って重秀達を屋敷に招き入れると、重秀達はゆっくりと屋敷に入っていった。そしてその後を取りまとめ役達がついていった。
笠島城の屋敷の広間に入った重秀は、そこで新右衛門を始めとした本島の船方の取りまとめ役と話し合いを持った。
すでにくまや新右衛門から羽柴の話が伝わっており、羽柴の条件である『水夫の年季奉公』は受け入れられた。そしてその見返りとして、信長と秀吉から船方衆への朱印状の発布、及び養蚕と油桐の栽培が認められ、そのための技術提供がなされることとなった。ただし、養蚕については桑の木が島にまったくないことから、まずは桑の栽培から始められることとなった。
また、塩飽の者が水先案内人として船に乗る場合、必ず淡路の北側を通らせることと、兵庫津に立ち寄らせることになった。羽柴の勢力範囲内を通らせることで、航路の安全を保証するのと同時に、羽柴の湊に立ち寄らせることで湊での商取引を活発化させようとしたのだった。
さらに、塩飽で唯一年貢となり得る特産の塩については、年貢免除とされた。その代わり、塩の販売先は羽柴が指名した商人のみとされ、それ以外の商人に売ることを禁じられた。
そして三角帆の操作方法については、羽柴水軍の水夫が今日持ち込んだ名無しの小早を使って教えるということになった。ただ、造船技術については塩飽の船大工に教えない事を重秀が伝えると、一人の者が抗議した。
「恐れながら申し上げる。三角帆の船が儂等の使うとる船と違うというこたぁ、もし船がめげて修理をする際、直しようがねえ。それでは船を勝手に使えんようになる。それは困る」
船方の一人であり、また船大工でもある金村久太郎がそう言うと、重秀は困ったような顔をした。
「船の直し方は教える。作り方はまあ、塩飽に与える船を調べれば分かる故、あえて教えぬようにしている。と言うか、船の仕組みを他家に知られたくないのだ」
三角帆の船が風上へ航行する際、必ず発生する船の横滑りは、船の構造で防止している。ただ、その構造は琵琶湖での実験を繰り返して編み出したものであり、なるべくなら秘密にしておきたいものであった。
しかし、金村はそれに納得いっていなかったようである。不満げな顔をあからさまに出しながら、重秀に言う。
「恐れながら、三角帆の船は艪や櫂で漕がんでも風上に向かって走れるのが長所。その長所があるけぇこそ、その船は水夫を減らせるというんじゃ。そして減らされた水夫を羽柴の舟手衆にしてぇのじゃねえか?」
金村の言葉に重秀は思わず黙り込んだ。確かに、人口の少ない塩飽から貴重な水夫を羽柴に年季奉公させるには、塩飽の船の省力化が必要であった。そしてその省力化には三角帆の船が必要であった。
重秀は考えた挙げ句、金村に提案をする。
「分かった。造船の方法も教えることとする。ただし、教える場所は兵庫津とし、教える相手は羽柴が指名する。そして、他家に流さないことを条件とする。もし漏れ出た場合は連帯して責を負わせる」
この提案に金村は黙ってしまった。自分だけの問題ではないからだ。金村は新右衛門と相談すると、今度は新右衛門が重秀に話しかける。
「若様。ここは儂等で改めて話し合い、後日回答してーが」
「駄目だ。今すぐこの場で話し合って決めろ」
それまで穏やかに話していた重秀が力を込めて言った。その口ぶりに塩飽の者達は驚いたが、すぐに顔を寄せ合って話し込んだ。
結局、長いこと話し合っていた塩飽の者達は重秀の提案を飲んだ。風上に進める三角帆が自分たちの手で作れるメリットが大きいと判断したのだった。
三角帆の船の造船に関する取り決めが決まり、次の話題に移っていった。船方の取りまとめ役の一人である小坂七兵衛が尋ねてくる。
「この度、羽柴様より三角帆の船頂いたけど・・・。あの船の名は如何するんか?」
「ああ、あの船の名前はそちらで決めて貰うことにした」
重秀がそう言うと、皆がまた顔を合わせて話し合った。そして新右衛門が皆を代表して重秀に言う。
「ここは若様に決めていただこうかと」
「私?」
重秀がそう尋ねると、塩飽の者達は一斉に頷いた。重秀が首を傾げて考え込むことしばし。皆が固唾を呑んで見守る中、重秀が口を開く。
「・・・『潮丸』はどうかな?」
「『潮丸』・・・?」
「初めは『塩飽丸』にしようと思ったのだが、捻りがなさすぎる。そこで潮を読むことに長けている塩飽の水夫達に敬意を払い、潮の名を付けた。元々潮は潮の満ち引き全般を指す言葉だからな」
重秀の解説に皆が「おお〜」と感嘆の声を上げた。こうして、名無しの小早は『潮丸』として、塩飽の海で水夫達を育てる役目を負うことになったのだった。
その日、重秀達は笠島城で一泊することになった。正則達からは「万が一に備えて船に戻ったほうが良いのではないか?」と懸念を示していたが、重秀が同意しなかった。
「それでは私が塩飽の者達を信じていないことになる。それでは向こうからの信は得られないだろう。それに向こうは船の扱いに長けている。未だ船軍に慣れていない淡河や別所の兵ではこちらが不利だ。一方で、ここ笠島城は一応山城だ。淡河や別所の兵達なら十分戦えよう。というか、むしろこっちが有利であろう」
重秀がそう言うと、側にいた定範と友之の方を見て「な?」と尋ねた。定範と友之は力強く頷いた。
「若、任せていただこう。すでに別所の兵は船酔いから回復している。山の戦なら誰にも負けぬ。それに山の戦いに長けた弾正殿もいるし」
「若君は明日以降も塩飽の島々の者共と話し合いをされるお方。今宵はゆっくりとお休みくださいませ。我等、淡河と別所の名にかけて若君をお守り致す」
そう言う友之と定範に、安治などは胡散臭そうな視線を向けていたが、重秀は頷くと「頼んだぞ」と力強く言うのであった。
次の日。懸念された塩飽や別所の裏切りは無く、重秀は無事に笠島城で一夜を過ごした。そんな笠島城に新右衛門が十数人の人間を連れてきた。
「若様。他の島から船方の取りまとめ役が来たぞ」
重秀はその新右衛門が連れてきた人達とも会談し、羽柴からの条件を飲ませることができた。
こうして、重秀は塩飽に滞在していた三日間のうちに塩飽諸島の船方との話し合いを終えた。塩飽諸島の船方は羽柴の影響下に置かれる一方、羽柴からの養蚕、造油、造船技術を手に入れることができるようになった。
また、本島の笠島城には羽柴の兵が置かれることが決まった。ただし、これは塩飽の支配を目論んだものではなく、西から来る毛利水軍の監視のためである。そのため、兵力は少数のみ置き、何かあれば塩飽の船で伝令を運ぶことになった。
こうして、塩飽の島々は羽柴の影響下に置かれた。この事をもって塩飽の島々が羽柴の領土になったと見る考えもある。しかし、最近の研究では、それはあくまで限定的なもので、むしろ村上水軍の影響力が排除されたと考えるべきだという説が有力化している。
どちらにしろ、塩飽の船方衆が羽柴方、そして織田方に入ったことは、瀬戸内の島々の土豪や海賊衆に多大な影響をもたらすことになった。これ以降、塩飽より東側の島々は一斉に羽柴と誼を通じようと躍起になる。
そして、このことが、羽柴に新たな火種をもたらすのだが、重秀はまだ気付いていなかった。
注釈
福田又次郎が取り残された洲は、現代では『園の洲』と呼ばれている。伝説によれば、福田又次郎は桃の節句の酒宴と称して島民に誘い出され、洲に置き去りにされた挙げ句溺死したと言われている。
この時、又次郎の娘である園が近くの岬で父の死を嘆き悲しんだ後、その岬の断崖から身を投げたと言われている。それ以来、又次郎が溺死した洲のことを、娘の名から『園の洲』と呼び、また園が身を投げた断崖にあった松のことを『焦がれ松』と呼んだと言われている。ちなみに『焦がれ松』は昭和の中頃まで存在していたらしい。
また、園を不憫と思った島民は、その後桃の節句を行わなかったと言われている。