第16話 長島一向一揆(その1)
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天正二年(1574年)五月。大松が小姓見習いとなって七ヶ月が経った。ここまで来ると小姓とほぼ同じ仕事を任されることが多くなった。といっても、それは城の内部での話であり、対外的な使者や接待は未だに先輩たちの補佐についていた。大松も信長の太刀持ちを務めたり、信長の身の回りの家事を直接行うことが多くなってきた。しかし、それ以上に大松にはある仕事が多く割り当てられた。それは嫡男信重改め信忠付きの小姓役である。
前の『李牧と馬』の問答以来、信忠に気に入られた大松は、勉学や武術の時間以外は総じて信忠と一緒にいることが多くなった。この時期の信忠は形式的には尾張清洲城城主なのだが、実質的には岐阜城内にある信忠専用の屋敷に住んでいた。なので、本来ならば信忠の小姓は父親である信長の小姓の中から交代で派遣されるのが原則であった。
しかし、大松の場合、三月ぐらいまでは他の小姓たちのように交代要員として派遣されていたが、そのうち交代の間隔が狭くなり、五月の初めにはほぼ信忠付きとなってしまった。これについては他の小姓見習いや先輩達は、あくまで主君信長の小姓という立場を重視していたため、寵愛を巡るライバルが一人減ったと思う一方、嫡男に取り入ったとしてやっかみの気持ちも持っていた。
大松が信忠の元でやっていた仕事は、信忠の身の回りの雑務と、信忠が勉学や武術の鍛錬を行っている場合はそれに付き合い、たまに清洲城に行く場合はお供をすることであった。嫡男の若君なので父親の主君よりは仕事は楽か?と思われそうだがそうはいかなかった。
信忠はすでに清洲城主として、尾張国ほとんどの内政を任されていた。また、この頃には池田恒興や森長可といった事実上の直属の武将を抱えており、彼らと意見交換をするために使者のやり取りや岐阜城や清洲城での打ち合わせを行っていた。つまり、信長ほどではないがそれなりの大名として活動していたのだった。そういうわけで、大松もまた多忙な小姓生活を送る羽目になった。いや、前田犬千代や中川梅千代、佐々松千代丸と言った同僚や万見仙千代、長谷川竹、池田勝九郎といった先輩小姓や頼れる兄貴分の堀秀政、ふらっとやってきては何かと目をかけてくれる蒲生賦秀がいる分、信長の小姓をやっていたほうがまだマシであった。
六月に入ってすぐのある日、堀秀政が小姓や小姓見習いを岐阜城内の屋敷の一角に集めた。城内で武術の稽古を行っていた大松も屋敷の一角へと向かって行った。
「えーっと、皆さんには来月行われる長島攻めに参加してもらうことになった。一応、城に残る人もいるが、それをこれより発表します」
相変わらずのんびりとした口調で説明する秀政。しかし、その内容は「皆さんで戦に行きますよー」というものだった。
この時名前を呼ばれた者は岐阜城で留守を言い渡された。言い渡された者は、ある者は文句を言いながら部屋を出て行き、ある者はホッとした顔つきで部屋を出ていった。
そういった連中を横目に、大松は長島攻めの参加者として説明を聞いていた。
「残った皆さんは小姓として戦に参加してもらう。だけど心配しなくていいよ。皆に槍働きは期待してないから。戦は元服した大人だけの宴。皆は本陣にて御屋形様、そして一軍の大将たる若殿様(織田信忠のこと)の身の回りの世話をしてもらうから」
戦場に出ることはないと分かった大松は内心ホッとした。しかし、戦場はそんな甘いものではない。秀政が話を続ける。
「とはいえ、戦では色々あるからねぇ。本陣が奇襲にあうことは桶狭間での合戦を見れば一目瞭然だ。というわけで、皆には本陣への奇襲があった場合、総大将の盾となってもらう。ああ、でも屈強な馬廻衆がいるから、あとは死なないように日頃鍛えた武術を使って、自分や御屋形様や若殿様を守れば生き残れると思うよ。さて、ここまでで質問は?」
秀政は質問を受け付けたが、特に無かったので話を進めた。
「それでは、今回の戦について説明するよ」
伊勢長島は、伊勢国桑名郡の濃尾三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河口付近の地名である。3つの川が合流したり分流したり枝分かれしたりする複雑な地形の長島では、肥沃な土地である代わりに毎年3つの川の氾濫に悩まされた地域でもある。
さて、そんな地域に文亀元年(1501年)、浄土真宗本願寺派(いわゆる一向宗)の寺である願証寺が建立された。寺はその後、付近の百姓や武士、国衆の信仰を集め、長島周辺を勢力下に置いた。また、長島周辺の百姓らを守るため、複数の砦も築いていた。
織田信長が尾張を統一した永禄四年(1561年)には、願証寺の影響力は伊勢尾張美濃にまで広がり、帰依する信者10万人と言われていた。なので信長は長島周辺に手を出すことが出来なかった。もっとも、願証寺を始めとした長島の一向門徒も信長とあえて敵対するつもりはなかった。その後も美濃の斎藤龍興が長島に逃げ込んだり、信長が北畠を降して伊勢を支配下に置いたりしたが、特に長島と武力衝突に至ることはなかった。
そんな信長と長島の関係が一変したのは、元亀元年(1570年)九月に畿内で信長が三好三人衆と摂津野田城・福島城で争っていたときである。この時に石山本願寺の顕如が信長に宣戦布告。石山本願寺にいた一向門徒が織田軍に襲いかかった。と同時に顕如は「信長が石山本願寺の破壊を命じたから戦うぞ。皆、我に続け!」と檄文を飛ばしたことで北陸と長島の一向門徒が呼応。長島一向一揆の始まりとなった。
十一月、長島の一揆勢は信長の弟である織田信興のいる古木江城を攻め落とし、信興を自刃させている。この時信長は浅井・朝倉・延暦寺連合軍と比叡山あたりで主力と共に睨み合っていたので、長島方面へ援軍を出すことが出来なかった。
十二月、朝廷と足利義昭の斡旋により、信長は浅井・朝倉・延暦寺連合軍と和睦。共に国元へ兵を引き上げた。
翌年、元亀二年(1571年)五月、信長は佐久間信盛、柴田勝家らと共に長島へ出陣、取り敢えず周囲の村々に火を放って撤退した。しかし、撤退時に一揆勢の伏兵による奇襲攻撃で柴田勝家が負傷、氏家卜全が戦死するという敗北を味わってしまった。
天正元年(1573年)九月、前の月に浅井・朝倉を滅ぼした信長は勢いに任せて長島へ再度侵攻。長島周辺の城を複数落としたものの、長島へ渡る船が足りないので作戦を中止、撤退することになった。しかし、この撤退時に一揆勢による追撃をくらってしまう。この追撃戦で殿だった林通政(林秀貞の子)が戦死してしまう。
「というわけで、今回は都合三回目の長島攻めとなる。今回は総力戦だ。坂本城の明智様、小谷城の羽柴様以外の織田家中は全員動員されることになる。皆さんも気張っていこう。何か質問は?」
秀政が説明を終えて質問を取った時、一人の小姓が手を挙げた。
「明智様と羽柴様が来ないのは何故ですか?」
「明智様は摂津方面および京の守護のため。羽柴様は北国への抑えのためだね。特に、越前でも一向一揆が発生しているから、羽柴様を動かすのは難しいね。但し、羽柴様は弟である小一郎殿を代理として長島に兵を差し向けるようだね」
秀政の答えを聞いて、大松は「叔父上が来るのか」と心の中で呟いた。
「他に質問は・・・。無いようなのでこれで解散とする。この後、皆は戦の準備を各自で行うように。特に、今回初めての戦になる方が多くいるけど、お家で初陣の儀式はしっかりするように。戦の準備のために屋敷に戻る時は仙千代か竹に事前に言うように。あ、そうそう。松千代はお話があるので残って。それと大松は勝九郎のところに行くように。以上、解散」
―――初陣か―――
秀政の話が終わると、大松はそう思いながら小姓達と共に立ち上がった。
「大松か。ついて参れ」
大松が勝九郎の側に行くと、勝九郎がそう言うや否や歩き出した。大松が付いて行くと、そこは信忠の屋敷であった。
「若殿様、勝九郎と大松でございます」
「入れ」
屋敷にある書院に来た勝九郎と大松は、書院の中から許しを得て中に入っていった。
「勝九郎、罷り越してございまする」
「大松、罷り越してございまする」
「許す。面を上げよ」
下座に座った勝九郎と大松が平伏して言うと、上座の信忠から許しを得たので二人は面を上げた。大松の目に信忠と、そばで控えている津田七兵衛信澄の姿が見えた。ここまできたら、後は直言直答ありの会合となる。
「大松、久太郎から長島攻めの話は聞いたな」
「はい」
信忠の質問に大松が答える。
「お前には儂の小姓として従軍してもらう」
「承りました。若輩の上、非才の身ではございますが、若殿様の盾になりますよう、励みとうございまする」
信忠の命令に対して、大松は答えながら平伏した。
「なお、勝九郎も我が軍と共に行動する。大松、分かったな」
―――池田様が小姓達をまとめるのか。まあ、そうなるな―――
信忠の指示に、大松はそう思いながら「承知しました。全て池田様の指示に従いまする」と返事した。しかし、信忠の次の言葉は大松を驚かせるものであった。
「いや、儂の小姓の取りまとめは大松にやってもらおうと思う」
「は、はあ?」
思わず顔を上げる大松に、勝九郎が不満そうな目を大松にしながら言った。
「・・・俺は今度の戦いは池田勢の武将として父上の側にいることとなった。なので若の側にはおれんのよ」
「かといって、大松以外の小姓は大松ほど儂のことも詳しくないからなあ。儂としても、安心してまかせられるのが大松しかいないと思っている」
今回、信忠の小姓は指名された大松以外は、すべて当日に信忠当番となった日替わり小姓である。さすがに初めての信忠当番、という者はいないが、それでも大松ほど詳しくはない。
そこで信忠は、この戦だけ大松を小姓のまとめ役にしようとしているのである。
「お、お待ち下さい!私めは若輩の身ですよ!?私よりも年上の方にまとめてもらったほうが・・・。」
「ああ、心配しなくてもいいぞ。一応馬廻衆のまとめ役の毛利河内(毛利長秀のこと)が小姓もまとめることになっているから、困ったら河内を頼れば良い」
信澄がそう言うと、大松は幾分か安心したのか、ホッとしたような表情となった。信忠が話を続ける。
「とはいえ、河内も忙しいからな。小姓をまとめる暇がない場合もある。というわけで、儂と七兵衛、勝九郎が話し合った結果、大松に任せることとしたんだ。受けてくれるな、大松」
最後に信忠が話を締めると、信忠や信澄、勝九郎の視線が一気に大松に集中した。
―――ここまで期待されて渋れば、かえって若達のご不興を買う。そうなったら父にも悪いことが起きるかも知れない―――
そう思った大松は、平伏しながら「承りました」と言った。
「若輩で非才の身でありまするが、若様のご期待に添えるよう、努めさせていただきます」
「うむ、励めよ!」
大松には、信忠の声が一瞬だけ信長が言ったように聞こえた。
大松が、自分に割り当てられた部屋に戻ると、そこでは犬千代と梅千代、松千代丸が話をしていた。
「おお、大松。戻ったか」
梅千代が大松に気がついて声を掛けた。
「どこいってたんだ?」
「若殿様のところ」
犬千代の質問に大松は答えると、信忠たちとのやり取りを話した。
「はー、若殿様付きの小姓のまとめ役か。大したものだな」
「さすがは大松。上への取り繕い方は父親譲りだな」
梅千代と松千代丸が感心したように言うと、大松は眉をひそめた。
大松は松千代丸が苦手だった。それは彼の父である佐々成政が秀吉のことを嫌っていたこともあり、彼の大松への態度があまり好意的ではなかったからだ。もっとも、最近は大松の実力を認めてきたのか、大松への態度も柔らかくなっていたが、それでも言葉の端々に棘があり、それが気になっていた。
犬千代の父である前田利家が佐々成政と母衣衆時代の同僚だったこともあり、犬千代と松千代丸は仲が良い。そんな犬千代を介しているから大松は松千代丸とも仲良くやっているが、犬千代がいなければここまで仲良くはできなかっただろう。
「しかし、初陣ねぇ・・・。まさかこんなに早く来るものとは思わなかった」
「本当だよ。元服してから行くものとばっかり思ってた」
犬千代と梅千代がそうぼやきあっていると、松千代丸が話に入ってきた。
「何を言ってる。むしろこの齢で初陣できるのは、それだけ我らを買っているということではないか。誉れだと思わなければ」
「そうは言うけどさ、できればちゃんと初陣の前の儀式をやってから行きたいじゃんか。大松もそう思うだろ?」
梅千代の問いかけに、大松は普段どおりの口調で答えた。
「まあ、確かにそう思うけど、敵の急襲とかでそれどころではないという初陣もあるからなぁ・・・。皆は竹中様の初陣の話、知ってるか?」
大松がそう聞くと、三人が首を横に振った。なので、大松は竹中重治が語った初陣の話をした。
竹中半兵衛重治の初陣は13歳の時。弘治二年(1556年)に美濃国の斎藤道三とその息子である斎藤義龍との間で家督を巡る争いが勃発。武力衝突にまで発展する。この時、道三側だった竹中家は、当主である竹中重元の留守中に大御堂城を義龍側の軍勢に攻め込まれる。父親の代わりに総大将となった半兵衛は籠城戦を指揮し、見事に敵を撃退した。
そんな話を大松がしたところ、三人は信じられない、という顔をしていた。
「ええ・・・。本当かよ・・・」
「凄すぎて嘘くせぇ・・・」
「逆に引くわー」
三者三様の感想を聞いて、大松は苦笑した。正直言って、大松も最初聞いた時は信じられなかったからだ。とりあえず話題を変えようと、大松は松千代丸に話しかけた。
「そういえば、松千代は佐々様の部隊に入るんだっけ?」
「えっ!?小姓として御屋形様の側にいるんじゃないのか!?」
大松の発言に犬千代が驚く。松千代丸は困ったような顔をして話しだした。
「ああ。堀様に残れと言われて何かと思ったら、小姓としてではなく、武将として父親の側に居ろだって。何でも父が御屋形様に頼んだらしい」
「そんな事できるんだ・・・。いいな〜。俺も前田の将として初陣したかったな〜」
松千代丸の話に犬千代が唖然としながら呟いた。それを聞いた松千代丸が言った。
「おい、大松や梅千代の前でそんな事言うなよ。羽柴や中川はそれ出来ないんだから」
「まあ、父が越前の抑えに入った俺はともかく、梅千代はな・・・」
大松はそう言うと、同情の視線を梅千代に送った。梅千代は居心地の悪そうな顔をした。
戦略上、今回の長島攻めに出られない秀吉と違い、梅千代の父である中川重政に、往年の力はなかった。領地の境界線でのトラブルが原因で、重政の弟が柴田勝家の代官を殺害するという事件が発生。重政と弟は改易されていたのだ。すぐに許されたものの、もはや秀吉や明智光秀らと出世レースを競い合うことはできなくなっていた。そして、改易されていたので、自らの手勢を持っていない中川家は、梅千代を自分たちの武将とすることは不可能であった。
―――とは言え、俺も初陣は父やおじ達、竹中様や義弟達と一緒のほうが良かったけど―――
大松はそう思うと軽くため息をついたのだった。
豊臣秀重の初陣は天正三年(1575年)の長篠の戦いである、というのが通説である。しかし、最近の研究により、信長が小姓を介した家臣育成システムを構築していたこと、その小姓を戦場に連れて行っていること、豊臣秀重が織田信忠の小姓を勤めていた資料が見つかったこと、織田信忠が第三次長島一向一揆鎮圧戦に参加していたことから、豊臣秀重が第三次長島一向一揆鎮圧戦に参加している可能性が高い、という有力説が出てきている。