第166話 英賀城の戦い
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天正七年(1579年)十一月下旬。羽柴軍は播磨平定と、更にその先を見据えた軍事行動を始動させた。
まず小一郎を総大将とした軍勢が竹田城へ向けて出発した。雪が本格的に積もる前に竹田城に入り、来年の雪解けまで駐留するのである。そして雪解けになるまでの間に但馬の国衆へ調略を仕掛け、雪解けと同時に但馬へ進行する予定であった。
それから数日後、秀吉が重秀らを連れて出陣。三木城に留守居役として加藤光泰を置き、一路姫山城へと向かった。途中で重秀は福島正則と別所友之、淡河定範を連れて阿閇城へ帰還した。
阿閇城に入った重秀はさっそく皆を呼んだ。運良く海に出ている者はおらず、全員が阿閇城に集まってきた。
尾藤知宣、福島正則、加藤清正、加藤茂勝、脇坂安治、外峯四郎左衛門(津田盛月)、外峯与左衛門(津田信任)、そして琵琶湖の舟手衆から重秀の家臣になった松田利助、竹本百助、井上成蔵、田村保四郎、更に高砂城の梶原左兵衛と家臣の三浦義高、その息子の三浦義知が重秀の前に座っていた。そして重秀の後ろでは、大谷吉隆が太刀持ちとして控えていた。
「一同大義。皆に集まってもらったのは他でもない。今日は三木城で話し合われたことを話そう。まずは、新たに加わった者を紹介しよう。淡河弾正と別所彦進だ」
重秀がそう言うと、淡河定範と別所友之が頭を下げた。左兵衛と義高・義知親子が感嘆の声を上げる。
「おお、知将の誉れ高き弾正殿と別所の若き勇将が加わってくれるとは。これほど心強きことはありませんな」
左兵衛がそう言うと、義高・義知親子が頷いた。重秀が話を続ける。
「この二人には水軍に行ってもらう。上様からの追求を逃れさせるためだ。なので、船軍を一から修行してもらうことになる。まあ、この二人ならすぐに慣れるだろう」
「・・・それで長兄。二人をどうやって船に乗せるのだ?二人にいきなり船長になれというのも無理があるのでは?」
加藤清正の言葉に、重秀は「虎の言うことは正しい」と首肯した。
「二人には今度の戦では彦進は『村雨丸』、弾正には『龍驤丸』に分かれて乗ってもらう。二人に従ってきた兵達も同じだ」
重秀がそう言うと、清正は怪訝そうな顔をした。
「長兄。それだと『村雨丸』と『龍驤丸』の兵が多すぎないか?」
「その代わり、『村雨丸』の兵と市は新しく加わった『梅雨丸』に移ってもらい、市は『梅雨丸』の指揮を執ってもらう。『龍驤丸』からは松田利助とその指揮下の兵を『驟雨丸』に移し、松田に『驟雨丸』の指揮を執ってもらおうと思っている」
重秀が自分の考えを述べると、皆が一斉に息を呑んだ。清正が思わず重秀に尋ねる。
「長兄。長兄が乗る船はどうするんだ?」
「『村雨丸』で行こうと思っている」
重秀の言葉に、皆が一斉に反対した。
「兄貴!?それだと兄貴と彦進が一緒に乗ることになるぜ!?昨日までの敵と一緒に乗るのか!?」
正則がそう声を上げると、重秀は「敵だったのは昨日より十日以上前だぞ」と反論したが、それで引っ込む正則ではない。
「そう言う問題じゃねー!兄貴の船に敵だった奴等乗せてみろ!もし寝返ったら、兄貴の生命が危ないんだぞ!」
正則の言葉に、ほとんどの者達が頷いた。ただ、左兵衛だけが異議を唱える。
「あいやしばらく!彦進殿も弾正殿もその様な卑怯な御方ではない!羽柴に付くと決められた以上、羽柴に付くのがお二方でござる!このお二方は約束と違えませぬ!」
「恐れながら若君に申し上げまする。それがし淡河弾正と彦進殿は亡き主君の命により羽柴に降った身。その主君の命を違えるような事は致しませぬ。見くびらないでいただきたい。そして、亡き主君の後を追わなかったそれがし達の覚悟をどうかお察しあれ」
左兵衛に続いて定範がそう言って平伏した。釣られて友之も平伏した。そんな二人に重秀が話しかける。
「いや、二人のお覚悟を蔑ろにするつもりはない。私は二人がその様な卑怯な振る舞いをするとは微塵も思っていない。むしろ、我が義弟の発言を謝るべきであろう」
そう言うと重秀は視線を正則に向けた。正則がなにか言いたげな表情で重秀を見つめた。その横で、知宣が重秀に話しかける。
「・・・若君。そのお二方が我等を裏切らないと信じるのは結構でございまするが、いささか剣呑ではございませぬか?此度は船に乗せないで、阿閇城にて待機させては如何かと」
「甚右衛門。二人に対して懸念するのは当然だと思う。しかし、私が率先して信じなければ、彼等は羽柴のために働いてはくれぬ。羽柴に彼等のいる場所を作るのが私の務めだ。それに・・・」
「それに?」
「・・・彼等が裏切ったところで、水夫達に袋叩きにされるのが関の山だ。甚右衛門は知らないかも知れないが、『村雨丸』の水夫達のほとんど菅浦の舟手衆だ。あの菅浦水軍の水夫達は、琵琶湖では堅田衆に並んで気性が荒いからな。船を動かす相手を敵に回したところで、海に沈められて鮫の餌になるだけだ。そして『龍驤丸』も同じだ。あれには長浜、塩津、大浦の舟手衆が乗り込んでいるが、皆が私に従っている。例え弾正が策を弄したところで、『龍驤丸』を乗っ取るのは難しいな」
琵琶湖で長い間舟手衆と関わってきた重秀は、自分と舟手衆達との関係に絶対的な自信があった。その自信からくる話し口調に、皆が納得したような顔を浮かべた。重秀が更に話す。
「それに、羽柴唯一の跡取りを殺したとなれば、それこそ父上は別所・・・いや、三木城に立て籠もっていた連中を根切り(皆殺し)にするだろう。そもそも、上様からそのようにしろと言われていたからな。そんな目に合わせたらそれこそ亡き小三郎殿(別所長治のこと)が無駄死にになる。そんなことを二人は選ばないだろう」
そう言って重秀は定範と友之に視線を移した。二人共黙って頭を下げた。そんな二人を見た重秀は、心中あることを思っていたが、それは口に出さなかった。代わりに、話を変えるべく口を開く。
「さて。英賀城攻めの軍議をこれより始める。父上は十二月中には英賀城を攻め落とすことにしている。我が水軍も英賀城の水軍を攻めるべく出陣する。それについて話し合わねばならぬ」
こうして、重秀達の英賀城攻めの軍議が改めて始まったのであった。
天正七年(1579年)十二月中旬。羽柴勢は英賀城攻めを決行した。秀吉率いる主力部隊は黒田孝隆率いる黒田勢と鶏籠山城主の赤松広英と置塩城主の赤松則房がそれぞれ率いる赤松勢を加えて姫山城から出陣した。
御着城からは前野長康を総大将に、山内一豊と旧小寺家家臣を中心とした別働隊が出陣。さらに阿閇城からは重秀率いる水軍が出陣した。
一方、英賀城では城主である三木通秋が籠城戦を選択、その準備を行なっていた。しかし、宇喜多が織田に寝返ったことで、退路を断たれることを恐れた毛利からの援軍はすでに逃げ出していた。
また、英賀城とその周辺に影響力のあった英賀御坊はとっくに秀吉と和議を結んでおり、戦火から逃れるために秀吉が用意した姫路の亀山という場所に移っていた。なので英賀城の兵力は一年前と比べて半分以下に減っていた。
一応、石山本願寺から逃げてきた一向門徒や雑賀衆が残っていたものの、その数は少ない。重秀の水軍に邪魔をされ、そのほとんどが英賀に来れなかったのだ。しかも逃げてきたと言うだけあって、雑賀衆はともかく一向門徒のほとんどは武器を持ってきていなかった。
こういった英賀城の内部事情はすでに黒田孝隆によって調べられており、秀吉も把握していた。そこで秀吉の作戦は英賀城を包囲し、ある程度戦ったところで事前に孝隆によって調略された者を内通させ、内部から城を明け放つことで城内に突入、占拠することにしていた。
当然この事は重秀にも伝えられており、重秀はその作戦通りに水軍を動かすことにした。すなわち、水軍は全船をもって英賀城の海側を封鎖し、英賀城の水軍を排除するのである。
さて、秀吉達が英賀城を包囲した二日後、英賀城沖に重秀率いる船団が到着した。『村雨丸』を中心とした関船隊を中心に『龍驤丸』のみで編成される安宅船隊、小早で編成される小早一番隊と小早二番隊。そして梶原水軍で編成される梶原隊と三浦隊が加わっていた。
英賀城内では巨大な安宅船が海上に現れたことに度肝を抜かれた。さっそく英賀の水軍と雑賀の水軍が迎撃しようと羽柴水軍に立ち向かっていった。目標は当然『龍驤丸』である。というのも、安宅船に総大将が乗っていることが当時の海戦の常識であり、その旗艦を沈めれば指揮を執る者がいなくなるからだ。
「ゆけ、ゆけ!あの大きな安宅船を沈めてしまえば、我等の勝ちぞ!」
英賀水軍の将達が鼓舞しようとするが、想像以上の大きさの『龍驤丸』に小早中心の英賀水軍は手も足も出なかった。もっとも、『龍驤丸』も手も足も出なかった。数多くの鉄砲狭間からはほとんど火を吹くことがなかったのだった。
「・・・甚内殿(脇坂安治のこと)、我等も何とかして反撃しなくては・・・」
青い顔をしながらそう言う淡河定範に対し、脇坂安治が冷たい視線を定範に向けながら言い放つ。
「したくてもできませんよ。そもそも、弾正殿(淡河定範のこと)の兵が使い物になっていないのがおかしいのですぞ」
言葉に怒りを含ませてそう言う安治に、定範は何も言うことができなかった。
『龍驤丸』の船員のうち、鉄砲や弓、白兵戦を担当する兵達は全て松田利助と共に『驟雨丸』に移ってしまった。その補充として淡河兵が乗っているのだが、その淡河兵のほとんどが役に立っていなかった。
まず淡河兵は鉄砲を扱ったことがなかった。これは事前に分かっていたことなので、淡河兵は弓を主体として『龍驤丸』に乗ることとなった。
ここまでは良かったのだが、いざ英賀城へ向かうと新たな問題が発生した。なんと淡河兵のほとんどが船酔いになって倒れてしまったのであった。
巨大な船体である『龍驤丸』は他の船に比べて揺れが小さい。なので船酔いはしにくい船なのだが、阿閇城を出陣した日は波が高く、『龍驤丸』もそこそこ揺れた。そんな中、山しか知らない淡河兵達は初めて海の波を経験したのである。しかも、総矢倉の中は外が見えないので平衡感覚が失われており、さらに寒さしのぎとして酒を飲んでいたことが祟った。
結果、淡河兵達はことごとく船酔いとなり、弓で攻撃できる者がいなかったのであった。
「まあ、我が脇坂の兵が残っております故、まだ戦えないことは無いですし、竹本百助が指揮の漕手が無事だから、航行に支障はない。味方の船も援護してくれているし、しばらくは亀のように首や手足を引っ込めるしか無いですな」
肩をすくめながらそう言うと、安治は船尾の櫓から外を見た。釣られて定範も目を向けたが、そこには早い動きで英賀水軍の小早を攻撃する関船隊が見えた。関船は前方の櫓からだけではなく、船側の鉄砲狭間からも鉄砲を敵の小早に撃ちかけていた。それだけではなく、中には船首からぶつかっていく関船もあり、ぶつけられた小早に軽々と羽柴の兵が乗り移って白兵戦を行なっていた。
―――彦進は大事無いだろうか?―――
積極的に戦闘を行う関船を見ながら、青い顔をした定範は心の中でそう思っていた。
『龍驤丸』に集る英賀水軍の小早を『村雨型』の関船(実質的なガレアス船)が攻撃していた頃、重秀が乗る『村雨丸』は六隻の『松風型』の小早に守られつつ、戦闘海域から少し離れたところにいた。
「・・・若。ひょっとして、別所の兵が船酔いになるって、分かってたんっすか?」
「・・・なるだろうとは予想していたが、ここまで酷いとは思わなかった」
船内で加藤茂勝に聞かれた重秀がそう答えると、船内を見渡した。そこには、友之と別所の兵が甲板に横たわっていた。船内には胃酸の酸っぱい香りが漂っていた。
『龍驤丸』よりも小さく、しかも速度を出すために『村雨型』は船体が縦に長い。それ故、『龍驤丸』よりも船体が大きく揺れた『村雨丸』の船内で、海も波の揺れも知らない別所勢が船酔いに耐えられることはありえなかった。
「・・・船酔いになれば寝返りはありえないし私を討つこともできない、と予想はしていた。それに、今回は積極的な戦闘にならないだろうと思ってたんだ。その予想だけは外れたけど」
のほほんと言う重秀に、茂勝が言おうと口を開きかけた。しかし、どこからか胃の中の物を吐き出す声が聞こえ、茂勝がその声を聞いて思わず顔を顰めた。茂勝が言おうとしたことを言うのを止めて、代わりに別のことを言い始める。
「・・・若。ここから出ましょう。この臭いを嗅いでいると、こっちまで気分悪くなっちまう」
「・・・そうだな。今戦がどうなっているか見たいしな」
そう言うと重秀は茂勝を連れて船の甲板に出た。船舷から英賀城の方を見ると、巨大な『龍驤丸』の周りで戦闘が繰り広げられているのが見えた。
「・・・『龍驤丸』からの攻撃がないっすね」
「・・・まさか弾正が寝返ってないよな?」
まさか定範麾下の兵達が船酔いで戦闘不能になっているとは知らない重秀は、そう言うと不安を募らせた。安治の兵と竹本の水夫達を合わせれば、淡河の兵達達よりも多いのでそうそう船が乗っ取られることはないのだが、それでも重秀は不安に思っていた。
「・・・茂勝。小早の一隻を『龍驤丸』に派遣させよ。様子を見させよう」
重秀の言葉に、茂勝が「承知」と言って離れようとした時だった。戦場を見張っていた兵が大声を上げた。
「若君!我が方と戦っていた敵船が離れていきます!どうやら、英賀城へ向かうようです!」
英賀水軍が英賀城へ引き上げたことにより、羽柴水軍は英賀城の南側を包囲することに成功した。こうして、英賀城の包囲が完成した。
次の日、英賀城沖の西側から大船団がやってきた。毛利の援軍かと思った重秀達に緊張が走ったものの、すぐにそれは毛利の水軍ではないことが分かった。
「西方からの船団の旗印は『剣片喰』と『児の紋』!宇喜多の水軍です!」
見張りの兵からの報告通り、それは小西行長率いる宇喜多水軍であった。こうして更に英賀城の南側は封鎖されることとなった。
「よしよし。これで英賀城は完全に包囲された。では、次の段階に進むかのう」
羽柴勢の本陣でそう呟いた秀吉は、傍らにいた黒田孝隆に話しかける。
「そろそろ内通者に寝返るように合図を出してもよかろう?」
「はい。では今夜辺りにでも報せまする」
孝隆の答えを聞いた秀吉は、ニンマリを笑うのであった。
さらに次の日。羽柴勢が一斉に英賀城を攻め始めた。羽柴勢は城門や城壁を鉄砲で破壊するだけで、兵を城に送り込ませようとはしなかった。
そんな戦いが朝から昼にかけて行われ、もうすぐ日没になるという頃だった。英賀城内の複数の場所から一斉に火の手が上がり、城門という城門が中から開け放たれたのであった。それは、事前に内応していた者達が、一斉に寝返ったためであった。
開け放たれた城門から、それまで温存されていた羽柴の兵達が一斉に雪崩込むと、城内は大混乱になった。
こうなると英賀城城主の三木通秋は混乱を収めることができなくなっていた。やむを得ず息子の安明と主に城外に脱出することにした。
脱出ルートは夢前川から海に抜けるルートであった。しかし、彼等が船で海に出た瞬間、重秀と行長の水軍に補足された。
「一隻も逃がすな!体当りしてでも沈めろ!」
重秀の叱咤に『村雨丸』が速度を上げて近くの小早にぶつかる。乗っていた兵や水夫がバランスを崩して海に落ちていった。
「落ちた者は残らず拾え!生け捕りにしろ!」
重秀の命令で『村雨丸』の水夫や別所以外の兵達が柄の長い熊手のようなもので海に落ちた英賀の兵達をすくい上げていった。
関船は体当たりで敵の小早を沈める一方、羽柴の小早は接舷攻撃で敵の小早を攻撃していた。と言っても相手の小早に乗り込むのではなく、至近距離から鉄砲を撃ちかけていった。英賀水軍の小早には何故か大盾が乗っておらず、身を隠す所がない甲板上で次々と撃たれ死んでいった。海に落ちたり逃れようとした者もいたが、それらもことごとく羽柴の小早に拾われ、捕虜となっていった。
結局、通秋と安明等三木一族の脱出は失敗に終わった。通秋はこの脱出劇以降行方不明となった。
安明は宇喜多水軍の捕虜となった。その後備前まで連行された後、数年間は岡山の地に抑留された。その後、秀吉に許されて英賀に戻り帰農した。
その他の三木一門のうち、羽柴の捕虜となったものは殺されはしなかったが秀吉によって追放された。しかしその者達も数年後には許され、英賀の地に戻って帰農している。
天正七年(1579年)十二月十八日、英賀城陥落。これによって播磨国内にあった毛利方の拠点は全て潰えた。とはいえ、播磨国宍禾郡(のちの宍粟郡)の長水城(長水山城ともいう)を拠点としている宇野家など、未だ毛利方に付いている国衆は多い。
しかし、こういった毛利方の国衆は備前・美作を領有する宇喜多が織田に寝返り、かつ補給拠点であった上月城が宇喜多に取られている。そしてこれから雪の季節である。毛利の支援は全くと言って良いほど期待できなかった。
秀吉も孝隆もこの事は分かっていたため、敢えて手出しはしなかった。雪解けを待って攻めるか降伏を促せば良いのであって、その間は放っておくことにした。
という訳で、秀吉による播磨平定は英賀城陥落を持って、事実上終了したのであった。