第160話 半兵衛最後の戦い(中編)
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「名門別所は羽柴に降伏せぬと。そうおっしゃられるのですな?」
「当然であろう!誰が百姓風情に頭を垂れるか!」
竹中重治の質問に、別所吉親がそう叫んだ。重治が眉を顰めながら話を続ける。
「細川の参議様(冷泉為純のこと)も、『田舎侍風情に頭を下げられるか!』と言って別所方につかなかったのでしょうなぁ」
「なんだとぉ!?」
重治の言い分に吉親がまた激怒した。立ち上がった吉親に、重治が怒鳴り返す。
「何が名門だ!名門だったら何をしても良いのか!?民を苦しめ、帝の臣たる公卿を殺し、天下の大罪人に成り下がってお家を潰す!それが名門のすることか!?」
病人とは思えないほどの怒鳴り声を出す重治。その鬼気迫る姿に、吉親は思わず怯んだ。そんな吉親を無視して、重治は長治に視線を移した。
「別所様。確かに我が主筑前守は百姓の出。身分卑しき身ではありまする。しかしながら、武士として、貴人としての嗜みは持っておられるお方。そして、そのご子息である藤十郎君は雅を解するお方にございます。本日は、羽柴が如何に雅に力を注いでいるか、その一端をお見せいたしまする」
そう言うと、重治は身体の脇に置いてあった、布に包まれた物を自分の目の前の床に置いた。そして、布の包みを外しながら長治に話しかける。
「この平包(風呂敷のこと)には長浜で取れた生糸を使って編んだ縮緬が使われております。藤十郎君が幼少の頃、長浜に新たな名物を作ろうと皆で考えた時に、それがしが桑の木を植えて蚕を育てることを提案いたしました。それ以降、藤十郎君は養蚕に心血を注ぎ、今では紬糸だけではなく生糸や練糸も作れるほどになりました。また、藤十郎君は堺の千宗易様や小西隆佐殿と誼を通じ、堺に絹を売るようにもなりました。結果、羽柴領内では養蚕が盛んになり、百姓達も豊かになりつつあります」
重治の思い出話に、長治だけではなく吉親や友之等別所の者達が聞き入っていた。重治は平包の布を取り払い、中の蒔絵の箱を取り出すと、長治の前に差し出した。
「これは、藤十郎君が長岡兵部大輔様(長岡藤孝のこと)のご子息と共に作り出した、京で今流行りの遊具にございまする。これを、別所様に差し上げたく、藤十郎君にお頼みして作っていただきました」
別所の者達が興味深く見つめる中、友之が蒔絵の箱を持って長治の前に置いた。長治は箱の蓋を外し、中にあったものを複数枚取り出した。
「これは・・・一体何なのだ?この書かれている歌は・・・百人一首か?とすると、これは百人一首の歌仙絵・・・?いや、人物が描かれていない札もあるな。これは・・・下の句か?」
そう呟いた長治は、視線を手元から重治に移す。
「竹中殿。これは何でござるか?」
「百人一首カルタと言って、南蛮の遊具であるカルタに百人一首を描かせた遊具にございます。貝合せのような遊びや、無作為に選んだ上の句の札を読み上げ、床に撒いた下の句を取り合う遊びを通じて百人一首を覚えてゆくというものにございます」
「なんと・・・。筑前殿のご子息はそのようなものまで作り出したというのですか」
そう言いながら長治は再び札に視線を移した。札の一枚一枚に装飾がなされ、上の句も下の句も達筆で書かれており、人物画も歌仙絵の書物に負けないほど丁寧に描かれていた。どう見ても一流の職人によって作られたものであることは、長治にも分かった。
長治がまじまじとカルタを見つめていると、急にカルタを取り上げられてしまった。長治が「あっ」と声を上げながら取り上げた人物を見上げると、そこには吉親が怒りの形相でカルタを握り潰していた。そして、床に叩きつけると、今度は床においてあった蒔絵の箱を思いっきり蹴飛ばした。
蒔絵の箱は友之の顔の脇を掠め、広間の襖に当たった。箱の中のカルタが飛び出して、その場に散乱した。
「叔父上!何をなされるか!?」
長治が立ち上がって吉親に抗議するが、吉親は平手で長治の頬を引っ叩いた。あまりの強さに、やせ細っていた長治が思わずよろけて倒れてしまった。
「兄上!」
友之が思わず長治に近寄って助け起こそうとした。そんな二人に、吉親が怒声を上げる。
「小三郎!このような物に惑わされるな!何が京での流行りだ!何が羽柴の雅だ!こんな物、武士には必要ない!」
そう叫ぶ吉親に対し、長治は睨みつけながら声を上げる。
「何を言われるか・・・!播磨の山奥で育った我等は京では常に田舎侍として下に見られてきたのですぞ!それ故、亡き父上や孫右衛門の叔父上(別所重宗のこと)は我等に都での流行りを気にするように言われたのですぞ!それに、歌は武士の嗜みではございませぬか!」
「黙れ!兄者や孫右衛門は腑抜け故、そのようなことを申したのじゃ!名門別所の武士として、京の軟弱な雅など不要ぞ!そんな軟弱な雅にうつつを抜かしおって、恥を知れ!」
吉親の言葉に、長治はもちろん友之や定範、その他の別所の者達も反感を抱いた。吉親が先代の別所安治の批判を口にしたからだ。
別所安治は父である別所就治から東播八郡を譲り受け、その勢力維持に力を注いだ大名であった。文武共に優れ、東播の戦国大名として名を馳せていた安治は、東播の国衆や家臣からは名君として親しまれていた。元亀元年(1570年)に39歳で病死しなければ、恐らく日本の歴史は変わっていただろう。
そんな安治を、弟である吉親が『軟弱者』として批判したのである。少なくとも東播の領地を守るために数多くの戦場に出ていた安治を軟弱者と言うのはおかしい、と思う者が多くいるのは当然であった。
多くの者達による批難の視線が吉親に投げられた。そんな視線に居た堪れなくなったのか、吉親は「儂は断じて降伏せぬぞ!」と言って広間から出て行ってしまった。
「・・・竹中殿。今日はこの辺でお帰りくださらぬか」
皆が吉親が出ていった障子を呆然と見ている中、長治が落ち着いた声でそう言ってきた。
「・・・分かりました。今回はこれにて失礼致す」
重治はそう言うと、立ち上がろうとした。直後、咳き込み始めると、その場にうずくまってしまった。
「半兵衛様!」
後ろに控えていた護衛の者達が急いで駆け寄り、背中を擦った。それでも重治の咳は止まらず、口を覆っていた右手の指の間から鮮血が流れ出してきた。
「竹中殿、大事ございませぬか・・・?」
長治が心配そうな顔をしながらそう言うと、指の間から流れる鮮血に気がついたのか、思わず声を上げる。
「竹中殿、それは・・・!?」
「だ、大事ございませぬ。失礼致した」
重治はそう言うと深呼吸をし始めた。何回か深呼吸して何とか呼吸を整えると、懐から紙を出して右手についた血を拭いた。そして床に溢れた血を拭うと、重治は姿勢を正して平伏する。
「お見苦しいところをお見せした。お許しください」
「竹中殿、もしや、御身の身体は・・・?」
長治がそう尋ねると、重治は微笑みながら長治に言う。
「お察しのとおりでござる。このままいけば、来年の正月はあの世で迎えることになりますでしょうな」
重治の言葉に、長治達は息を呑んだ。長治が思わず声を上げる。
「ならば、何故御身を大事になされませぬか!?『今孔明』の二つ名を持つ貴殿が、このようなところで病に倒れるのを良しとされるのか!?筑前守は病人をこき使う非道な者なのですか!?」
「別所様。それは違いまする。これは、それがしの意地なのでござる」
重治はそう答えると、長治に諭すように話しかける。
「一介の武士として、畳の上で死ぬのは御免被る。戦場で死ぬる事こそ、我が望みなのです。ただそれだけなのです」
長治に向かってそう言い放つと、重治は護衛に支えられながらも立ち上がって長治から離れていったのだった。
平井山の附城に戻った重治は、秀吉の居る部屋ではなく、自分の部屋に直行した。そして小具足姿から直垂姿になると、そのまま布団に横たわった。
その直後、重治の部屋に秀吉が入ってきた。
「半兵衛!無事だったか!?」
「ご覧の通りにござる」
そう返事した重治の両肩を、秀吉はガシッと音を立てながら両手で掴んだ。
「おお、おお!無事で何よりじゃ!」
「殿、少し痛うございます」
重治がそう言って顔を顰めると、秀吉は重治の方から手を離して後方に飛び退いた。
「おお!すまぬな。半兵衛が三木城内で殺されるやもしれぬと考えていたら、居ても立ってもいられなくてのう!」
そう言いながら胡座をかいて座る秀吉。そのまま重治に話しかける。
「で、別所の方はどうであった」
秀吉の質問に対し、重治は交渉時の会話だけでなく、三木城の城内の様子まで余すこと無く話した。
「ふむ、やはり山城守(別所吉親のこと)が降伏に反対しておるのか」
「はい。あの中で現状を認識していないのは彼だけかと」
「いや、認識してはいるじゃろ。現実を受け止めきれていないだけじゃ」
顎をさすりながらそう言った秀吉。少し考え込むと重治に尋ねる。
「して、小三郎の方はどうじゃ?降伏しそうか?」
「すると思います。小三郎殿は若いながらも立派な方でございました。百姓が飢えていくさまを憂いておられてました。口には出しておりませぬが、顔の表情で分かりました」
「そうか。どうやら小三郎殿は思ったより馬鹿ではないな」
「できれば生かしてやりたい若者です。羽柴の臣下になれば、きっと若君の良き話し相手となるでしょう」
「儂も同意見じゃが、上様がお許しにならぬでの。別所一族は全員処刑よ」
「分かっておりますが、恐らくその条件は呑まぬでしょうな。恐らく、小三郎殿の切腹を条件に降伏してくるかと」
重治がそう言うと、秀吉は怒りながら「ならぬ」と言った。
「むしろ山城守に腹を斬らせよ。本来ならば、彼奴一人で十分なのじゃがな」
「それは難しいでしょう。小三郎殿でしたら『叔父だけに腹を斬らせるのは忍びない。別所家当主としての責を負う』と言ってきますよ」
「ならば、妥協点はその二人の切腹か?」
「そうなるかと」
重治がそう答えると、秀吉は両腕を組んで頷いた。
「よし、それで行こう。半兵衛、すまぬが交渉は任せるぞ」
「承りました」
重治はそう言うと、深々と平伏するのであった。
その頃、三木城内では、長治が妻の照子と寝所で話し合っていた。
「・・・子には飯を与えたのか?」
「お粥を少々・・・。しかし、今宵が最後の麦にございました」
照子は側で寝ている男児を見ながらそう答えた。長治が溜息をついて話しかける。
「・・・すまぬな。そなたと子にはなるべく飯を食わせるようには気を遣っていたのだが・・・」
「戦に役に立たない私等が飯を貰っては申し訳が立ちませぬ。それよりも、御前様の身体が案じられまする。もう、十日間も水しか飲んでおらぬと言うではありませぬか」
「儂は表に出て戦わぬから良いのじゃ。表に出て戦う兵達に兵糧を優先的に回す以上、儂に回さぬのは当然じゃ」
そう言って微笑む長治に、照子は思わず平伏しながら声を上げる。
「申し訳ございませぬ・・・!私の実家が織田様を裏切ったばかりに・・・!」
照子の実家は丹波波多野家だと言われている。
「そなたの実家のせいではない。全ては、儂の判断が間違っておったのじゃ」
そう言うと、長治は一昨年の事を思い出していた。
長治にとって、天正五年(1577年)は決断の年であった。荒木村重と松永久秀が織田を裏切った時点で、播磨は織田から切り離された状態となった。このときには丹波も反織田であったし、三木城は孤立していた。そしてそんな三木城を毛利や足利義昭が見逃すはずがなかった。
織田に良く思われている別所重宗に嫉妬心を燃やしていた別所吉親を調略し、更に別所家の家臣や国衆を反織田へと向かわせていった。長治も重宗も織田に留まろうと皆を説得していたが、上杉謙信が能登七尾城を落としたことで、長治は織田の敗北を予想してしまった。
「・・・天正五年の八月や九月の時点では、織田は西から毛利が、北から上杉が、東から武田が、南からは石山本願寺と雑賀衆に圧迫されていた。この状況では織田は滅びはせぬが播磨へ手が回らぬであろう。儂はそう考えた。それ故、儂は東播八郡を戦火から守るべく、毛利についたのだが・・・」
長治がそう言うと、遠くを見るような表情となって再び今までのことを思い出していた。
長治が予想していたとおり、天正五年の八月までは織田は苦境に立たされていた。しかし、箒星が見える頃から急に織田が反撃をし始めてきた。有岡城を落とした後は瞬く間に摂津を奪還。翌年の天正六年には早くも羽柴秀吉が総大将として播磨に攻め込んできた。そして、瞬く間に播磨の沿岸部を制圧。三木城への主な補給ルートを潰してしまった。
むろん、別所も毛利も手をこまねいてはいなかった。加古川の補給ルートを奪還すべく、加古川城と阿閇城を攻めたものの失敗。加古川を奪還することはできなかった。
そんなこんなで上杉謙信が急死。北の圧力が無くなり、余裕のできた織田は援軍を播磨に送り、西播まで制圧してしまった。更に軍勢を北播や但馬にまで送り込むと、但馬からの補給ルートも潰してしまった。
織田が三木城の周りに附城を築城し始めると、当然別所勢も阻止しようと城外で戦った。一進一退となったものの数では負けるため、附城の阻止は失敗に終わった。それ以降、三木城は兵糧攻めにあっていた。
三木城の兵糧は半年程度はあったのだが、周辺の国衆が兵を連れて来てしまったのと、別所領内の百姓も入ってきたため、兵糧の消費が想定以上の多さになってしまい、早々と兵糧が無くなってしまった。頼みの毛利からの補給も途絶え、ついには餓死者まで出す事態にまでなったのだった。
「・・・儂は一昨年まで別所家の安泰を確信していた。しかし、今ではどうだ?別所家は滅亡の危機・・・、いや、もはや滅亡じゃ。これではご先祖様に対して申し訳が立たぬ。また、儂を信じてついてきた家臣や国衆、百姓にも申し訳が立たぬ。全て、儂の不徳の致すところよ」
「・・・女の身の私には世間のことはよく分かりませぬが・・・。誰しも織田が負けると思われる状況だった以上、御前様の判断は間違っていなかったのではないのでしょうか?」
照子が言葉を選びながら長治を励まそうとするが、長治は力弱く首を振った。
「いや、織田が負けることを予想していない者もいた。孫右衛門の叔父上と、細川の参議様だ。今思えば、彼等の言葉にもっと耳を傾けるべきであった。それに、儂は一昨年羽柴親子と紀州にて共に轡を並べて戦った仲。あの二人の才をもっと知っておくべきであった」
長治はそう言うと、照子に蒔絵の箱を差し出した。
「・・・それは?」
「羽柴方の使者、竹中半兵衛が持ってきてくれた百人一首カルタという遊具よ。いや、遊具と言うには雅すぎるかな?」
照子は箱を受け取ると、蓋を開けて中から札を数枚取った。まじまじと見つめる照子に対し、長治は話を続ける。
「これを作ったのは去年のことだそうだ。分かるか?我等が織田が負けると思っている中、筑前の息子はこんな物を作る余裕があった。つまり、連中にとって織田家が負けるなど、思いも寄らないことだったのだ。いや、彼等は織田を負けさせないという気概があったのだ。実際、羽柴はあらゆる手段を使って播磨を奪還しに来た」
札を持ちながら黙っている照子に、長治は更に話す。
「儂はこのカルタを見た時に思った。『ああ、儂等は負けた』のだと。何だかよく分からぬが、儂等は戦ではない、何か別の物で負けた気がした。なんというか・・・。敵の余裕に対して負けたというのだろうか・・・?」
そう言って首を傾げる長治に、照子もまた首を傾げた。
長治がもし現代に生きる人間であるならば、彼はこう言ったかもしれない。「儂はソフトパワーで負けた」と。
ソフトパワーとは軍事や経済と言ったハードパワーではなく、文化や政治的思想、政策の魅力による他国への影響力のことである。
人口の多い畿内を支配し、堺や京を始めとした商業地を押さえ、尚且つ南蛮貿易を行っていた織田信長の領内では、狩野一門による大和絵の発展、御茶湯御政道や千宗易達による茶の湯の発展、浄瑠璃の誕生と能楽の保護、そして南蛮貿易によって入ってくる南蛮文化など、多くの文化が花開いていた。
そんな文化の発展の具現化したものが百人一首カルタであった。南蛮渡来のカルタに、日本古来の文化の一つである和歌が融合したものである。
長治はこれを見た時、織田領内の文化の高さを知った。それは、別所の領内では決して生み出されないものだったであろう。百人一首を知っていても、カルタなんて南蛮の遊具など知る由もなかったからだ。
そして長治は文化の格差をよく分かっていた当主であった。父安治や叔父重宗に連れられて上洛していた長治は、地元と都の文化の格差を目の当たりしていたからだ。
そう。長治は重治が百人一首カルタを持ってきた意図を正確に理解していたのだ。『別所は羽柴に戦だけではなく、文化でも負けたのだ』と言うメッセージを、長治は的確に受け取っていたのだった。
「祖父や父は東播を武をもって安定せしめた。儂もそうしようとした。だが間違いであった。儂は・・・、儂は文をもって東播を発展させるべきであった。いや、発展させたかった」
そう呟くと長治は照子の顔を見据えた。照子も長治の顔を見つめた。互いが互いを見つめていることしばし、長治が意を決したような口調で照子に話す。
「・・・我等は降伏する。そして、我が生命をもって、城兵の助命を嘆願する」