第156話 平井山にて
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天正七年(1579年)八月二十二日。重秀は三木城を取り囲む羽柴勢の本陣が置かれている平井山の附城に入った。そして出迎えた石田三成の案内で、秀吉のいる部屋へと通された。
「父上。ただいま戻りました」
そう言いながら重秀が部屋に入った。部屋には秀吉と小一郎、そして黒田孝隆と竹中重治が何か話し合っていた。重秀が重治の方をちらりと見た後、床に胡座で座り込んで平伏した。
「おう、藤十郎。よう戻ったのう。そんな礼儀正しくなくて良いから、面を上げよ」
そう言われた重秀が頭を上げると、秀吉の方ではなく重治の方を見た。重秀は溜息をつくと、重治に話しかける。
「・・・京にて曲直瀬殿にお会いして話は聞いておりましたが、やはりここに戻っておりましたか」
重秀がそう言うと、重治が咳き込みながら話し始める。
「それがし、余命幾ばくもない身なれば、せめて死ぬなら戦地にて、と殿に願い出るべくこちらに押しかけました。いくら若君が反対したと言えども、もうここからはてこでも動きませぬぞ」
弱々しくもはっきりと断言した重治。さらに秀吉が諦めたような顔をしながら重秀に話しかける。
「藤十郎、もう良い。半兵衛の好きにさせてやれ。それに、半兵衛がいたから儂は今でも生きておるんじゃ」
秀吉の物言いに首を傾げる重秀。そんな重秀に秀吉が説明し始める。
「実はお主が安土に行っている間、三木城から別所勢が討って出てきてのう。見事奇襲を食らいそうになったんじゃ」
秀吉の話では、八月五日に別所長治の叔父である別所吉親率いる約二千人の軍勢が、城を出て平井山の秀吉本陣を奇襲した。しかし、七月二十七日に平井山に来ていた重治に策を見抜かれており、また別所勢が平井山の附城の規模を見誤っていた(三木城から平井山の附城を見た場合、規模が分からないように工夫されていた)結果として、別所勢は大敗北している。指揮をした吉親は何とか逃げ出して三木城に戻ったものの、長治の弟である別所治定と別所友之の家老である加古六郎右衛門が討ち死にしている。
「半兵衛がいてくれなければ、事前に敵の動きを察知できずに奇襲を食らっておったわ。儂の首が三木城に晒されていたのやもしれん。半兵衛は誠に儂の・・・いや、羽柴の大恩人よ」
そう言いつつも悲しげな顔を浮かべる秀吉に、重治は黙って頭を下げた。秀吉には分かっていた。この大恩人に恩を返したいと思っていても、もうその機会はないのだと。だから、せめて半兵衛の願いを叶えてやりたい。それが、長年戦場を共にした友への餞なのだと。秀吉はそう思って自らを納得させていた。
そして、そんな気持ちを汲み取れない重治ではなかった。
「・・・殿。かたじけのうございます。この半兵衛、最後の最後まで、殿にお供仕りまする。そして、三木城の陥落を冥土の土産に持っていきまする」
そう言って頭を下げる重治に、秀吉は泣き笑いしながら答える。
「おう!でっけえ土産もたせてやるぎゃ!あの世とやらに先に行っている名将やら軍師やらに、自慢できる手柄を持たせてやるからのう!」
涙を流ながらも陽気に話す秀吉の姿に、重治も涙をこぼした。いや、それだけではない。小一郎も重秀も、そしてつき合いがそれほど長くない孝隆ですら、涙を流すのであった。
「・・・半兵衛のことは一旦ここいらで話を置こう。それよりも藤十郎。上様は何故お主を呼び出したのじゃ?」
袖で涙を拭きながらそう言う秀吉に対して、同じく袖で涙を拭きながら重秀が答える。
「・・・呼び出したのは上様ではなく御方様(お濃の方のこと)でございました」
そう言うと、重秀は安土での話を秀吉達に話した。ついでに徳川家でのお家騒動についても話した。
「・・・なるほど。どうやら御方様は、岡崎様(徳川信康のこと)と大姫様(徳のこと)の不仲を羽柴に当てはめたようじゃな。まあ、誤解を解けたのは良かったのじゃが・・・」
「これ以上御方様にご心配かけるのも心苦しい故、急ではありましたが縁ととら、照と夏と侍女達を兵庫城に移しました。播磨へ帰るのが遅くなったのもこのせいでございます。父上にご相談せず、独断で移しましたこと、申し訳ございませぬ」
そう言って頭を下げる重秀に、秀吉は「よいよい」と言って手を軽く振った。
「御方様だけでなく上様に不仲を勘ぐられては、羽柴に対する信頼が揺らぐからのう。上様のことじゃ。女婿にまで裏切られたとなれば、もはや疑心暗鬼の塊となって儂等を見ることになるからのう」
秀吉がそう言うと、今度は小一郎が口を開く。
「兄者よ。そうなると、徳川様が岡崎様の廃嫡を決めたと言うのは・・・?」
「三河守様(徳川家康のこと)のことじゃ。上様から目をつけられる前に手を打ったのじゃろう。ま、出家させて寺に放り込むか、どこかの城に幽閉するかじゃろうな」
「それはどうでしょうか?岡崎様はすでに岡崎城主。家臣も付けられていたと記憶しております。その家臣が力づくで奪い、擁立する可能性を考えれば、生命を奪われることもあるのではないでしょうか?」
孝隆が秀吉の発言に疑問を呈した。続けて重治も頷きながら口を開く。
「官兵衛殿の言うとおりでしょうな。徳栄軒(武田信玄のこと)も嫡男とその傅役や家臣を死に追いやっておりますれば、三河守様も血が流れる粛清を行っても不思議ではなりませぬ」
後の世で『両兵衛』と称される二人の知将にそう言われた秀吉であったが、納得してなさそうな顔で二人に言う。
「・・・儂には信じられん。儂からすれば藤十郎を死に追いやることなど、思いもせぬことだ。世の親はよくできるものだ」
「まあ、それが武士の習いですからなぁ」
孝隆がそう答えると、秀吉だけではなく小一郎も不機嫌そうな顔をした。孝隆の言葉が「百姓出の羽柴家には分からないでしょう」と聞こえたからだ。
父親と叔父の顔が不機嫌になったのを見た重秀が、話を変えるべく声をかける。
「そ、そう言えば父上。上様より新しい命を受けてまいりました。これがその書状でございます」
そう言って重秀は懐にあった一通の書状を秀吉に差し出した。秀吉が受け取ると、不機嫌そうな顔のまま書状を開いて読んだ。そして、ますます不機嫌そうな顔になった。
「・・・おい、藤十郎。この訳の分からん汚い字で書かれた書状が、本当に上様からの書状なのか?」
右手で書状を突き出しながらそう言う秀吉に対し、重秀は「あ、間違えた」と書状の文字を見ながら答えた。
「それは御祖母様からの文です。父上にと直筆で書かれたものです」
「なにっ!?おっ母からだと!?」
秀吉は驚きの声を上げると、再び書状に目を通した。目を皿のようにまん丸くして書状を真剣に読む秀吉。そして読み終わるとその書状を小一郎に渡した。
「小一郎!おっ母からの文じゃ!あのおっ母が、文を書いてくれたぞ!」
嬉しそうな声でそう言う秀吉に、小一郎も嬉しそうな表情で書状を受け取りながら言う。
「兄者、良かったのう!これで、兄者が文を出してあげりゃあ返事が返ってくるのう!」
秀吉は筆まめな人物として歴史に名を残していた。実際、秀吉の手紙は数多く現代にまで残っている。
そんな秀吉は当然母親である御祖母様にも手紙を出していた。ただ、御祖母様は字が書けないし読めない。なので返事はほとんど来なかったし、来たとしてもそれは誰かの代筆であった。
秀吉にしてみればそれで良かったのだが、やはり母親から直筆で手紙をもらったことが嬉しかったのだろう。子供のようにはしゃいでいた。
「・・・筑前様。嬉しいというのは分かりましたが、上様からの命を早く知ったほうがよろしいのではありませぬか・・・?」
孝隆が遠慮がちにそう言うと、我に返った秀吉が、「あ、ああ・・・」と言って重秀の方を見る。
「・・・で?上様からの命とは?書状を貰っておるのだろう?」
「あ、はい。こちらに」
重秀がそう言うと、懐からもう一通の書状を取り出して秀吉に渡した。秀吉が書状を開いて読み始めた。最初は母親から直筆の手紙をもらった嬉しさで喜びの笑顔だった顔が、書状を読み進めるに連れて驚愕の顔に変わっていった。
そして読み終わった直後、秀吉は大声を上げる。
「・・・おい、藤十郎!この書状の内容は真か!?真に上様は宇喜多調略をお許しになったのか!?」
書状を重秀に突き出しながらそう叫んだ秀吉の言葉に、小一郎や孝隆はもちろん、咳き込んでいた重治ですら驚きの声を上げた。
「なんと・・・!あの上様を説得なされたのでございますか!?一体どのようにして!?」
咳き込みながら興奮してそう叫ぶ重治だったが、あまりにも興奮しすぎたのか、咳込みが激しくなり、身体を前かがみにして咳き込んでしまった。秀吉が近づいて重治の背中を擦った。
「半兵衛っ、興奮し過ぎじゃ!少し下がって休んでおけ!」
秀吉がそう言うと、重治は首を横に振った。
「いえ・・・、大事ございませぬ。それよりも、若君がどのようにして上様より宇喜多調略のお許しを得たのか興味がございまする・・・」
そう言って重治は重秀を見つめた。秀吉も一緒になって視線を重秀に送る。
「おお、そうじゃ。藤十郎!どうやって上様を説得した!」
「あ、はい。えーっと、どこから話せばよいのやら・・・」
そう言って悩む重秀に、小一郎が声をかける。
「ゆっくりでいいから、最初から話して最後まで話せば良い」
そう言われた重秀が話し始める。
「・・・実は、殿様(織田信忠のこと)の軍勢が動かせなくなりました。播磨への援軍とはなり得なくなりました」
「なんじゃと!?」
秀吉が素っ頓狂な声を上げた。小一郎や孝隆が驚いたような表情を顔に浮かべ、重治が真剣な眼差しで重秀を見つめた。秀吉が重秀に尋ねる。
「おい!どういうことじゃ!何故殿様の軍勢が動かせぬ!?」
「そ、それは・・・」
そう言うと、重秀は黙り込んでしまった。何も言えない重秀に、秀吉は苛立たしそうに尋ねる。
「おい!なぜ黙っている!?早う話さぬか!?」
そう言って急かす秀吉に、重秀は平伏しながら答える。
「・・・申し訳ございませぬ!この件につきましては上様より硬く口止めされておりますれば、父上と言えども話すこと罷りなりませぬ!」
「はあぁっ!?藤十郎!また儂に隠し事を致すか!?」
「このこと露見すれば、私の口から漏れたと見做して羽柴家の一族郎党根切りにいたすと上様から言われました!例え父上に叱られようとも、上様の命には逆らえませぬ!」
「藤十郎・・・っ!」
さらに言い募ろうとする秀吉に、小一郎が「兄者!」と叫んだ。
「兄者、もうええじゃろう!藤十郎をこれ以上追い込むなっ!それに、上様の命ならば例え親子兄弟でも話せぬこともあるじゃろう!兄者だって、上様から口止めされれば、儂やおっ母、藤十郎にも話さんじゃろうがっ!」
小一郎が秀吉以上にそう怒鳴ると、秀吉は黙ってしまった。そして、それまで重治の背中を擦っていた秀吉は、さっきまで座っていた位置に戻って座り直すと、まずは重治に声をかけた。
「・・・半兵衛、すまなかったな。耳元で声を張り上げて」
秀吉の謝罪に対して、重治は咳き込みながらも右手を挙げた。続けて秀吉は重秀に顔を向けて話しかける。
「藤十郎もすまなかったな。つい感情的になった。殿様が動けぬ理由についてはもう聞かぬ。だからお主の胸中に留めておけ」
秀吉がそう言って頭を下げた。重秀も「はっ。申し訳ございませぬ」と言って平伏した。
それを見た秀吉が頷くと、今度は孝隆に声をかける。
「官兵衛、殿様の軍勢が動かせないこと、どう思う?」
「・・・これはあくまで想像なのですが、織田家中で大規模な異変が起きるのではありませぬか?例えば謀反が起きるとか」
孝隆の言葉に、重秀が思わず声を上げそうになった。何とか平静を装うとしたが、残念ながら百戦錬磨の秀吉達には見抜かれてしまった。
「・・・藤十郎はまだまだ修行が足りんのう。そんな風に表に出してしまえば、言わずとも秘密が漏れ出るではないか」
「も、申し訳ありませぬ・・・」
顔を真っ赤にして俯く重秀に、重治が溜息をつきながら声をかける。
「若君。まだお若い故致し方ないとは言え、さすがにそろそろ感情を表に出すのは控えたほうがよろしいかと。すでに宇喜多方とは交渉の場に立たれておるのです。無論、感情を出したほうが良い場合もありますが、隠せるようにしていただかないと」
重治の言葉に、重秀が「はい・・・」と項垂れながら返事をした。そんな重秀に重治が優しく語りかける。
「若君の良いところはしっかりと反省し、次に生かせるところです。そこさえ気をつければ、若君は必ず大成致します」
「分かりました。以後気をつけます」
そう言って重秀は重治に頭を下げた。そんな様子を見ていた小一郎が、孝隆に尋ねる。
「ところで、先程はどうしてそう思ったのです?」
「初めは三位中将様(織田信忠のこと)の軍勢は徳川家や武田家への備えかと思いました。ただ、それなら筑前様に秘密にする必要はありません。そして北国は佐久間様が、石山本願寺は柴田様が、西は筑前様が抑えておりますれば、三位中将様の軍勢は織田家内部への抑えのために温存することとなります。そして、若君にお教えするということは、羽柴が標的ではないということになります」
「・・・つまり、儂等以外の織田家中の誰かが謀反を起こすと?」
小一郎がそう尋ねると、孝隆が頷く。
「恐らく。上様はその謀反を察知し、三位中将様の軍勢を抑え、もしくは鎮圧に使うのではないかと。そして考えられる相手は、惟任日向守様(明智光秀のこと)あたりではないかと・・・」
孝隆がそう言った瞬間、秀吉が「ありえぬ!」と声を上げた。
「明智・・・いや惟任日向守殿は上様のために汗水垂らして働いているお方ぞ!そして上様の信任厚い重臣として、畿内を抑えたり朝廷や商人達、長宗我部等と交渉をしているお方ぞ!そんな方が、上様に逆心抱くなど、ありえぬ!」
「しかし・・・、三位中将様の有する巨大な軍勢を使い、かつ筑前様ほどの重臣に秘密にする企てとなると、それ以外に思いつかないのでございます」
そう言いながら孝隆が重秀の顔をチラチラ見ながら言う。秀吉も先程から重秀の顔をチラチラ見ていた。それに気がついた重治が、苦笑しながら二人に言う。
「お二方。そう言って若君の反応を確かめるのはもうよしなされ。若君は注意を受けてからというもの、表情を完全に隠しておられる。どうやら、殿の言いつけをよく守っておいでです」
重治の言う通り、重秀は表情を一切変えず、無表情のまま孝隆と秀吉のやり取りを聞いていた。もっとも、重秀の内心は孝隆の予想が外れたことに対してホッとしていたのだが。
「・・・まあ、半兵衛の言う通り、藤十郎は反省点をすぐに取り言えるということは良いことじゃ」
秀吉はそう言うと、溜息をついたのだった。
「兄者よ。殿様の軍勢が動かせられないのは気になるが、宇喜多の調略を任されたのじゃ。今はその話をしようじゃないか」
小一郎がそう言うと、秀吉は「それもそうじゃな」と言って重秀に尋ねる。
「ひょっとして、殿様の軍勢が動かせられない事を理由に、上様に宇喜多調略を頼み込んだのか?」
秀吉の質問に、重秀はそれまでの無表情をやめて「御意にございます」と言って答えた。
「殿様が援軍として来られない以上、毛利が別所救援に大軍を派遣してきた場合、我等は援軍無しで戦わざろう得ません。そうなれば敗北は必定。そうならないよう、備前と美作に蓋をする事を願い出ました」
「なるほど。しかし、上様は和泉守(宇喜多直家のこと)を信用していなかったようじゃが?」
秀吉の疑問に対して、重秀は安土での信長とのやり取りを話した。
「・・・ということにございます」
「なるほど。殿様の軍勢が動かせない間だけでも時間を稼げば十分か。藤十郎、よくぞ気がついた。褒めて遣わす」
「お褒めの言葉、有難き幸せ」
そう言って平伏した重秀を、重治は安堵の目で見ていた。
―――あの上様相手にこれだけの交渉をなさるとは・・・。ご立派になられたものでございます。
・・・ああ、我が人生、もうすぐ終わると言うに、心残りができてしまった。若君がさらに成長する姿、見てみたかった―――
そう思う重治の目には、光るものがあった。