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第155話 兵庫への旅路

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。


すでにお知らせしておりますが、第154話の侍女の数につきましては活動報告にてお知らせしております。ご参照のほど、お願いいたします。

 天正七年(1579年)七月ももうすぐ終わるというこの日、重秀はゆかり()()を連れて本丸御殿に赴いていた。本丸御殿にいる長浜城城代の杉原家次と、御祖母おばば様と伯母である()()()()の夫の木下弥助とその息子である小吉(のちの豊臣秀勝)に挨拶するためである。

 ちなみに、()()の両腕には一人の赤子が抱かれていた。名を辰千代と言い、()()と弥助の三人目の息子である。

 重秀が長浜城についた直後に予め話していたため、家次と御祖母様、そして()()は縁達が兵庫に移ることは知っている。しかし、長い間長浜城で過ごしていたこと、その中で養蚕や一緒に食事をしてきたことで、御祖母様と()()は縁と()()、そして照をとても可愛がっていた。それ故、表情には一抹の寂しさが浮かんでいた。


 御祖母様は元来のコミュニケーション能力の高さから、縁や()()、そして照だけではなく、夏やしち、そして伊勢や尾張の侍女達と積極的に会話を交わしていた。

 確かに御祖母様は百姓出身なので、武家の作法や付き合い方はよく知らない。しかし、田畑仕事、特に田植え時と収穫時には一家だけではなく近所の人々総出で行うことがある。そんな日本の村社会独特の集団生活の中で鍛え上げられた御祖母様のコミュニケーション能力は、長浜城でも遺憾なく発揮されていた。

 具体的には、重秀がいない二の丸御殿に赴いて縁や()()を見舞ったり、二の丸で行われている養蚕に参加したり、本丸に誘って食事を共にしたりしていた。

 また、御祖母様自身も故郷である尾張が懐かしかったのだろう。尾張のお国訛り丸出しで話す縁の侍女達に混じって話をしたりしていた。こういった侍女の中には、ほぼ百性と言って良いような下級武士の娘もいたため、同じ境遇を過ごした御祖母様と気が合う侍女が多くいた。最終的には尾張出身の七から文字を習うほどであった。

 播磨平定時、秀吉や小一郎、重秀がいなかった長浜城で、大きな問題が起きなかったのは、留守居役の家次の活躍はもちろん、陰では御祖母様も頑張っていたのであった。


「そうか、縁さんも()()さんも照さんも夏さんも藤十郎と兵庫へ行きなさるんか。寂しなるのう」


 御祖母様がそう言うと、重秀の方を見た。


「藤十郎、皆大事な家族だ。大切にせないかんよ」


「分かっております、御祖母様」


 微笑みながらそう言う重秀に、御祖母様は頷いてみせた。御祖母様は縁に顔を向ける。


「縁さんや。藤十郎のこと、よろしゅう頼んます。そして、たっぷりと目合まぐわりゃあいかんよ。子がいりゃあ、夫婦の仲はより強なるでよ」


「はい。それならばご心配なく。藤十郎様が帰ってから、三日間の夜はずっと寝所を共にしておりました」


 縁も歳は十六になっており、重秀と子作りする年齢に達していた。重秀ももはや遠慮することなく縁とヤッているのだった。

 縁の言葉に、御祖母様は「そうかそうか」と下衆な笑いを浮かべながら言う。


「たぁーっぷりと可愛がってもりゃえばええで。二人はまだ若いで、これから子も多く作れるでの」


 御祖母様がそう言うと、何かを思い出したような表情になった。そして、懐から一通の書状を出した。


「藤十郎や。すまぬが、藤吉とうきちに文を送ってもりゃえねぇだか。七さんに文字を習ってみたで、文を書いてみた」


「御祖母様自らでございますか?それは父上も喜ばれましょう。しっかりと預からせていただきます」


 重秀がそう言って御祖母様から手紙を預かった。そんな重秀に、今度は()()が話しかける。


「藤十郎。向こうに着いたら、治兵衛(のちの三好秀次)の様子を見てきてくれんかのう。治兵衛は儂に全く文を寄越さんでの。生きとるなら生きとる、死んどるなら死んどるって報せてくれりゃあええのに・・・」


「治兵衛も忙しいんじゃろう。それに、藤吉から『元気にやっとる』と、前に文で言ってきたぎゃね」


 ()()の愚痴に対して、御祖母様がそう言って()()を窘めた。


 この頃、()()の長男である木下治兵衛は秀吉の小姓見習いとして播磨に来ていた。陣内でも書を読む真面目な少年であったが、あまり戦に関わり合いたくないのか、陣から外に出るようなことはなかった。また、秀吉も伝令など、戦での軽い役割を治兵衛に与えていなかった。

 周囲の噂では、秀吉は治兵衛をあまり評価していない、という話であったが、重秀から見ればまだ十二歳の子供に無理をさせたくない父の優しさだと見ていた。


「藤十郎」


 大伯父にあたる家次から不意に声をかけられた重秀。「はい」と言いながら姿勢を正した。家次が話を続ける。


「藤吉郎殿、いや、殿には長浜の事は案ずることなく、お努めに励まれますよう、伝えといてくれ」


 家次の言葉に、重秀は「承りました」と言うと頭を下げるのであった。





 豊臣秀重の正室である妙勝院(縁のこと)は、当時としては珍しく紀行文を記している。この時代の紀行文としては醍醐寺の僧侶が記した『永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)』と、島津家久(島津貴久の四男)が記した『中務大輔家久公御上京日記』があるが、妙勝院の『兵庫記』もその一つである。

『永禄六年北国下り遣足帳』が旅費の記録であり、『中務大輔家久公御上京日記』が家久が経験した旅の内容を記録したものとするならば、『兵庫記』は訪れた地で妙勝院と豊臣秀重が詠んだ歌を載せてまとめた歌集である。『土佐日記』や『更級日記』みたいなものと考えれば良いかもしれない。


 さて、そんな『兵庫記』には天正七年の七月二十四日から八月十四日までの旅の記録が残されている。そこには旅への期待と不安、訪れた先で見た風景や人々を詠んだ歌が多く載せられており、また当時の旅の様子が詳しく描かれていた。


 七月二十四日に長浜城を出立した縁達は、船で安土城へ向かっている。『兵庫記』によれば使われた船は『淡海丸』だったようだ。また、長浜と安土を結ぶ航路があったらしく、『淡海丸』の他に多くの船が行き来していたようである。その様子を描いた歌が残されている。


 七月二十五日から七月二十八日までは安土城内の羽柴屋敷に滞在している。三日間の滞在の間、縁は重秀と共に信長とお濃の方と面会していることが分かっている。

 恐らくではあるが、お濃の方も縁と重秀が一緒に兵庫へ向かうことについて、内心は安堵していたのではないだろうか。

 また、安土滞在中は()()や照、夏らと安土城の城下町を散策していたり、安土城内の蒲生屋敷に行き、今年亡くなった蒲生定秀(蒲生賦秀や()()の祖父)の位牌に手を合わせていたようだ。


 七月二十九日に安土から大津に向けて出立。安土から大津へも琵琶湖の水運を利用して船で行けなくはないのだが、『兵庫記』では陸路で向かったことが記されている。

『兵庫記』によれば、縁と夏は輿に乗って旅をしている一方、()()は重秀ら男達と同じように馬に乗って旅をしていたことが分かっている。侍女などその他の者は当然歩きであるため、恐らく照も歩きだったのだろう。


 七月三十日に縁達は石山寺を参詣している。

 石山寺とは、天平十九年(747年)に創建された寺であり、『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』にも出てくる有名な寺である。更に言えば、紫式部が詣でた寺としても有名である。つまり、縁にしてみれば現代で言うところの『聖地』なのである。まあ、寺なので本来の意味での聖地なのだが。

 元亀四年(1573年)に石山寺は足利義昭の側について信長に逆らったため、柴田勝家に攻め込まれて降伏、寺領五千石を没収されてしまっていた。そのため、往年の荘厳な寺院としての面影はなく、ただの寂れた寺となってしまった。この寺が再び活気ある寺になるのは、後年、縁の寄進によって修復がなされて以降のことになる。

 伝説によれば、ここにある『安産の腰掛石』に縁と()()、そして何故か重秀が座ったとされる。重秀が座った理由については伝わっていないが、恐らく興味本位であったのだろう。

 そして当然ながら、縁はこの寺で歌を数種詠んでおり、重秀も一首詠んでいる。二人の歌は『兵庫記』に残されている。


 八月一日に大津から京に移動し、八月二日から八月七日まで京に滞在した縁達は、京を色々回っていたようである。特に『源氏物語』に出てくるようなところは回っていたようで、歌も百首近く詠んでいる。一方、重秀はと言うと、大谷吉継と共に日野輝資や広橋兼勝、そして京都所司代の村井貞勝に会っていたようだ。

 ただし、これは『兵庫記』に記されていたもので、重秀は実は裏でもう一人の人物と会っていた。


「・・・では、半兵衛殿の容態は・・・」


「はい。すでに手遅れでございます」


 曲直瀬道三の屋敷を訪れていた重秀は、兵庫から戻っていた曲直瀬道三から竹中重治の診断結果を聞いていた。


「肺がやられております。今年の冬を越すは難しいかと」


「そうですか・・・」


 そう言うと重秀は目を伏せた。幼少の頃から世話になった、と言うには言葉が足りないほど世話になってきた恩人の死が近づいてきていることに、重秀はショックを受けていた。

 道三が重秀に話しかける。


「・・・羽柴様。どうか筑前守様にもお伝えくだされ。残された時は少ない、と。そして悔いのないように、と」


「・・・その言葉、半兵衛殿にも言いましたか?」


 ジト目でそう聞く重秀に、道三は「はい」と答えた。


「あの人のことだ。今頃は兵庫ではなく三木城に行っているな・・・」


 そう言って重秀は溜息をつくのであった。


 八月八日、京を出立。その日のうちに山崎に到着。山崎で一泊した後、今度は高槻城の城下町に向けて出立。そして八月九日に高槻城の城下町に到着した。

 事前に高槻城主の高山重友には報せていたので、重友の便宜で高槻城内にて一泊することができた。


「・・・長浜にも南蛮寺(カトリック教会のこと)がございましたが、高槻の南蛮寺は真に立派にございました」


 縁がそう言うと、()()や照、夏も頷いた。


「右近殿(高山重友のこと)もキリシタンゆえ、デウスの教えに帰依して伴天連(カトリック宣教師のこと)を敬っているからな。右近殿の領地では、南蛮寺がどんどん建てられている」


「しかしながら、古来より存在する寺や神社が無くなっているように思えまする。あまり、南蛮の宗門が日本ひのもとに入るのは如何なものかと存じまするが」


 夏の言うとおり、高槻城周辺の神社仏閣は取り壊され、南蛮寺へと変わっていた。これをキリシタンである高山右近による仏教・神道弾圧である、というのが従来の説である。

 しかし、当時の戦国大名は広大な領地を持ち、多数の僧兵・神人を持つ寺社の勢力を統制しようと色々対策を練ってきた。その中には焼き討ちや武力鎮圧なども含まれている。

 また、天正五年(1577年)の荒木村重の謀反とそれに対する信長との戦いで、多くの神社仏閣が戦火に巻き込まれて焼失している。これらの神社仏閣が後年になって「高山右近に焼き討ちされた」という伝説になっていったと考えられる。

 また、右近に焼き討ちされたと言われていた寺社が、何故か焼き討ちされる前の書物や仏像を多く保有していたりしていることから、本当は焼き討ちにあっていないのでは?という寺社もある。

 従って、後年『天正の禍』と称される高山右近による神社仏閣の破却は、信仰的な理由ではなく、右近による領地統制の一環だったという説が上がってきている。また、その規模もイエズス会がヨーロッパに送った報告よりも小さかったのではないか、と考えられている。


「まあ、ここは右近殿の領地ゆえ、部外者の私がどうこう言える立場ではないのだが・・・。おかげで宿を取るのを苦労した」


 重秀が言うとおり、高槻での宿取りは苦労した。百人以上の団体旅行客を泊めることができる旅籠は中々見つからない。そう言う場合はどうするかと言うと、広い敷地を持つ寺や神社、庄屋や商人の屋敷を借りるのである。もちろん謝礼を払わなければならない。

 しかし、先程言った通り右近の領地には寺社が少なく、南蛮寺には信者を泊める施設はあるが百人以上も一度に泊めるスペースは持っていなかった。そして庄屋や商人の屋敷も借りることはできなかった。

 この事を知った重友が高槻城に泊めてくれたから良かったものの、最悪は農家を複数件借りるか野宿することを覚悟したほどであった。


「京より西の宿は京に入ってから手配していたからな。押さえるのがちと遅くなってしまった。そして、高槻での宿の手配に時を食ってしまったおかげで、京の滞在日数が延びてしまった。

 ・・・まあ、この後の宿については茨木城主の瀬兵衛殿(中川清秀のこと)や伊丹城主の勝九郎殿(池田元助のこと)の紹介で寺を借りることができたので、苦労することはあるまい」


 重秀の言葉で、縁達は安堵した表情を浮かべたのであった。


 八月十日に高槻城を出立した縁達はその日のうちに茨木城の城下町に到着。中川清秀の紹介してくれた寺にて二泊している。

 そして八月十二日、日が昇る前から茨木城下町を出立。一路伊丹城下町まで一気に向かっている。この旅で一番の強行軍である。

 なぜ強行軍なのかと言うと、元々茨木城と伊丹城との間には瀬川という宿場町があった。本来ならばここで泊まるのだが、この宿場町は百人以上の団体客を泊める旅籠や寺がないのである。近くに天児屋根命あめのことやねのみこと神社(瀬川神社とも言う)があるのだが、借りることができなかった。ここが西国街道の有力な宿場町として本陣屋が置かれ、さらに隣村の半町村まで拡張された宿場町になるのはもう少し後の時代である。

 なので、重秀は瀬川の宿場町を飛ばすため、茨木―伊丹間を一気に突破することにしたのであった。茨木城下で二泊したのは、体調を万全とするために、休みを多く取ったためである。

 ありがたいことに、西国街道は信長の命により池田恒興によって拡張工事が行われており、通りやすい街道となっていた。おかげで、重秀達も日没までには伊丹城下の泊まる予定であった寺に入ることができた。


 八月十四日、強行軍の疲れを癒やすために二泊した伊丹を出立。その日のうちに西宮に到着した。そして次の日、縁達は西宮の廣田神社と西宮(えびす)社を参詣している。

 元々廣田神社の末社であった戎社は、最初は南宮戎社だったのがいつの間にか西宮戎社となっていた。そして、海に近いところに建てられたこの戎社は、最初は漁師たちに信仰された後、商業が発展していくに連れて商売の神様としても信仰を受けるようになっていった。これが現代にまで続く西宮神社である。

 天文三年(1534年)に戦火で燃えてしまったものの、今ではある程度の復興が終わっており、縁達も参詣していったようである。当然、縁と重秀の歌が残されている。


 八月十六日、兵庫津へ向けて出立。その日のうちに兵庫城に到着した。『兵庫記』によれば一人も脱落せずに一行は兵庫城へ到着できたようである。





『兵庫記』に書かれている縁の長浜から兵庫までの旅路は、縁にとってはとても楽しいものであったようである。行く先々で多くの歌を詠んでおり、その数は300首に迫るものであった。また、数は少ないが夫である重秀の歌を載せていることからも、二人が仲良く旅行をしていることが窺い知れる。

 さて、『兵庫記』であるが、兵庫に着いて終わりではない。重秀は兵庫に着いた五日後に三木城へ向かったが、その後、兵庫城に残された縁は念願の須磨に一度だけ足を運んでいる。そして須磨周辺の名所を巡っては歌を詠んでいる。そういった須磨での紀行も『兵庫記』には記されており、当時の兵庫津や兵庫城、須磨の様子が分かる貴重な資料となっている。


 余談ではあるが、『兵庫記』は別名『兵庫日記』とも言われている。なので『兵庫記』の著者が『長浜日記』『大坂日記』と同じ豊臣秀重であると勘違いされることが多い。なので一時期『兵庫日記の著者は誰か?』という問題が、受験やクイズ番組での定番の引掛け問題となっていたことがある。

 今では教科書では全て『兵庫記』で統一されており、受験の問題でも『兵庫記の著者は誰か?」という形で問題が出されているが、それでも『長浜日記』『大坂日記』のイメージが強いせいか、未だに解答欄に豊臣秀重と書く受験生が多いようである。


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[良い点] 当時の情景が残る書を遺してくれるなんて、歴史家が感涙にむせびますね
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