第153話 方針転換
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重秀は羽柴屋敷に戻ると、堀秀政の屋敷へ向かう準備をした。この後、堀屋敷では酒井忠次と大久保忠世を饗す酒宴が開かれる予定があり、その手伝いをするためであった。しかし、その堀秀政が羽柴屋敷にやってきた。
「堀様。如何なされました?」
そう言う重秀に、やってきた秀政が予想外のことを言い放った。
「安土城の天主で上様がお呼びだ。本丸御殿に着いたら、乱殿(森乱丸のこと)が案内してくれるから、後は乱殿の指示に従ってね。あ、今宵の酒宴の手伝いはしなくていいよ」
そう言われた重秀は、大谷吉隆の手伝いで改めて身だしなみを整え、安土城の本丸御殿へと向かった。
本丸御殿の玄関ではなく、家臣用の出入り口から入った重秀は、その場で待っていた乱丸の案内の下、本丸御殿から天主へ抜け、更に天主の中にある階段を登った。長い螺旋状の階段を登ると、そこは天主の5階、信長が仕事をするための書院があった。
重秀が乱丸に促されて書院に入ると、そこには信長と数名の小姓がいた。信長は書院の上座に座り、そこには盃と何か食べ物が乗っている皿を載せたお膳が置かれていた。さらに、下座の信長に近い場所にも同じ様なお膳が置かれていた。
重秀は書院に入ると、書院の入り口で一旦座り、平伏しながら信長に言う。
「羽柴藤十郎、お召により參上仕りました」
「大義。近う寄れ」
信長にそう言われた重秀。取り敢えず作法に従い、書院の下座、真ん中辺りに座ると再び平伏した。しかし、そんな重秀に、信長がさらに声をかける。
「そこではない。膳の前まで来い」
「は、ははっ」
そう言われて重秀が再び立ち上がり、今度はお膳の前に座った。すると、書院の左右に控えていた小姓達が、側においてあった銚子を持って重秀と信長の側に寄ってきた。
「今宵は汝と酒を酌み交わしたいと思ってな。酒と肴を用意した」
「上様と酒を共にするなど、勿体なき事にございます。しかし、よろしいのですか?今宵は酒井様と大久保様を饗す酒宴があるのではありませぬか?」
重秀がそう言うと、信長は自虐的な笑みを浮かべながら重秀に言う。
「余のようなおっかない者がいては、左衛門尉(酒井忠次のこと)達も気楽に飲めぬであろう。それに、余はそれほど酒は好きではないからのう」
「はっ・・・」
その割には私と酒が飲みたいのか、と思いつつも、重秀はそう返事をした。信長は更に話しかける。
「それに・・・、今宵は婿殿と酒を酌み交わしたい気分なのよ。今安土にいる婿殿は藤十郎、お主しかおらぬでの」
そう言う信長の顔は、少しさみしげな表情を浮かべていた。信康という女婿の裏切りで心を痛めている信長への同情と、実の娘ではなく養女を娶った重秀を『婿殿』と呼んでくれた事に嬉しさを感じつつ、信長を慰めるように重秀は言う。
「それがしでよろしければ、喜んでお供いたしまする。父と違って気の利いたことは言えぬ身ではございますが・・・」
「あれは気が利き過ぎじゃ。まあ、こんな時に居てくれると助かるのは間違いないのじゃがのう」
信長はそう言うと、小姓から酌をされた信長が酒をグイッと煽った。別の小姓から酌をされた重秀は、ゆっくりと酒を飲みつつ話を聞いていた。そんな重秀に信長が話しかける。
「時に、縁とは上手くいっておらぬと帰蝶から聞いたが、真か?」
信長の言葉に、思わず酒を吹き出しそうになった重秀。何とか酒を飲み込み口内を空にすると、重秀は帰蝶に話した弁明を信長にもした。
「・・・という訳で、決して縁とは不仲ではありませぬ」
「しかしな、一年以上も会っていないのはさすがに異常と言わざるを得ないぞ。こう言っては何だが、播磨へ戻る前に長浜に寄ってはどうだ?少しは顔を見せてやれ」
「もとよりそのつもりにて。また、折を見て兵庫城へ縁を移そうとも思っております」
重秀がそう言うと、信長は「で、あるか」と頷いた。更に信長が重秀に言う。
「そう言えば、兵庫城はどうなった?」
「すでに本丸御殿は完成し、天守も外装は完成したとのこと。ただし、御座所については、内部の装飾に遅れが出ております。襖絵を狩野一門に頼みましたが、職人が足りずに遅々として進んでおりませんでした。しかし、安土城の内装が完成し、狩野一門にも余裕ができました。こういった職人達も兵庫城の作業に参加する予定でございます」
播磨平定に出張っておきながらも兵庫城の築城をきちんと把握している重秀に、信長は内心驚いていた。信長が更に尋ねる。
「京の公家衆から聞いたが、須磨に御殿を造るとか?」
「はい。当初は月見山に城を築き、その中に御殿を造るつもりでございました。しかしながら、父筑前と相談の上、銭を寺社に寄進したうえで御殿を造らせようかと思っております。ただ、播磨平定に忙しく、まだ建造の目途は立っておりませぬ」
『須磨に御殿を築き、そこに京から公家を呼び寄せて遊んでもらう』という構想は、重秀が播磨平定に行って以降頓挫していた。
「で、あるか。京の公家共の間では噂になっているのだがな。まあ、発想としては面白い。公家衆が喜びそうなことは積極的に行うが良い。・・・そうじゃ。良いことを考えた」
信長はそう言うと酒を呷った。そして小姓に酒を注がせつつ、話を進める。
「兵庫城の『御座所』な。儂が兵庫城へ行かぬ限りは誰も使っておらぬのじゃろう?」
「御意」
「ならば、もし公家が須磨へ行きたいと願うならば、『御座所』を宿泊に使うことを許そう。その旨、公家衆には儂から話しておく」
信長がそう言うと、重秀は驚いた表情で信長に尋ねる。
「よろしいのでございますか?」
「構わぬ。これも公家衆を飼いならすための策よ」
信長がニヤリと笑いながら答えた。重秀が「有難き幸せ」と言って平伏した。
「これで羽柴の・・・いえ、上様の面目を保てるというものにございまする。上様のため、公家衆を精一杯饗したく存じまする」
重秀の言葉に、信長は「で、あるか」と答えるのだった。
そんな話をしていた信長と重秀。ある程度酒が入り、肴もあらかた食べ尽くしたところで、信長は重秀に尋ねる。
「・・・藤十郎。三郎(徳川信康のこと)のこと、どう思う?」
そう言われた重秀は、少し困惑しながらも自分の意見を信長に言う。
「・・・おかしいと思いました。果たして、武田と手を結んだところで徳川に勝ち目があるとは思いませぬ。武田と敵対する北条が背後にいるのに、織田と敵対すれば、徳川は東西より攻められると思われます」
「しかし、徳川には今川治部(今川氏真のこと)がおる。北条との繋がりがあるあ奴を使えば、徳川は武田と北条の仲を取り持つことが可能になる」
そう言われた重秀が「なるほど」と頷いた。しかし、重秀は更に自分の意見を信長に言う。
「しかしながら上様。徳川が武田に寝返り、武田と北条が再び手を結んだとしても、一体何を恐れることがありましょうや。尾張に殿様(織田信忠のこと)がおわします。殿様の麾下には美濃の河尻肥前守様(河尻秀隆のこと)、森武蔵守様(森長可のこと)がおります故、武田であろうと徳川であろうと、負けるはずがございませぬ。さらに、越前の佐久間右衛門尉様(佐久間信盛のこと)の兵が無傷の状態で残っております。上杉が跡目争いで揉めている以上、我等に手出しはできますまい。東の護りは盤石であると愚考いたしまする」
重秀がそう言うと、信長が感心したような表情をした。が、すぐにその表情は消え、難しそうな表情を顔に浮かべると、そのまま黙ってしまった。
重秀が「何か変なこと言ったか?」と内心焦りながらも黙っていると、信長の口が開く。
「・・・小姓共は席を外せ。以降は呼ぶまで部屋に入るな。また、誰も部屋に入れるな」
そう言うと、左右にいた小姓達は頭を下げて書院から出ていった。信長と二人っきりになった重秀は、緊張の面持ちで信長を見つめた。信長が重秀に話しかける。
「・・・これから話すこと、他言無用。父である筑前にも話すな。もし、これから話したことが他に漏れるようであるならば、汝が流したと見做して羽柴家の一族尽く根切り(皆殺し)と致す」
「は、ははっ!」
信長から低い声でそう脅された重秀は、思わず平伏した。その様子を見た信長が、再び話し出す。
「・・・佐久間信盛を追放する」
「は?」
思わず聞き返した重秀に、信長が信盛追放の計画を話し始めた。
「・・・という訳で、あの牛(佐久間信盛のこと)を追放する。金柑(明智光秀のこと)が策を練っているが、越前一国を持つあの牛のこと。必ずや抵抗するであろう。
・・・ここまで言えば、聡い汝のこと。城介(織田信忠のこと)の軍勢を東の護りに使えぬことぐらいは分かるだろう?」
「はい。越前平定のために殿様の軍勢を動員する必要があると。それ故、東国の護りが薄くなる恐れがあると言うわけでございますね」
「で、あるな。それ故、三郎の処分は三河守(徳川家康のこと)に任せた。三河守は余との盟を重視しておる。あ奴が三郎を廃嫡し、徳川が織田の盟友で居続ける事が明らかになれば、東国は一先ず安泰じゃ」
「上様の適切な判断、この藤十郎感服仕りました」
そう言って重秀は信長の考えに賛同した。が、重秀は内心では困惑していた。
―――拙いな。このままだと殿様の軍勢が播磨に来なくなってしまう。実際に来なくていいんだけど、宇喜多調略の圧力に殿様の軍勢を利用してたからなぁ・・・。もし宇喜多に殿様の軍勢のこと、いや佐久間様追放の事が露見したら、こっちは強気にいけなくなるぞ―――
そう思いながら盃の酒を見つめていた重秀に、信長が声をかける。
「如何いたした、藤十郎。そのような思い詰めた顔をして」
「あ、申し訳ございませぬ。つい考え事を」
「良い。それよりも何を考えていた?申してみよ。汝は婿殿。我が子も同じよ。子の悩みを聞くも親の努めよ」
信長の言葉に対し、重秀は「そう言われても」と心の中で呟いた。宇喜多調略は信長に内緒で行われている調略である。言えるわけがなかった。なので、重秀は嘘を言うことにした。
「・・・毛利が、備前と播磨の国境にあります上月城、そして英賀城に兵力を集中しているとの報せがありました。毛利の大軍を我等羽柴勢で防ぐは難しく、最悪の場合、上様に殿様の軍勢を援軍として向かわせてもらえないかと、父と話をしておったところでございました」
実際のところ、毛利は上月城にも英賀城にも兵力は派遣していた。しかし、宇喜多への疑心暗鬼と、英賀城内での抗戦派と和平派の内紛のせいで、上月城と英賀城の毛利勢は動くに動けない状況であった。
そんな真実を織り交ぜた重秀の嘘を、信長は見破れなかった。
「で、あるか・・・。石山本願寺との和議が結ばれれば、権六(柴田勝家のこと)と勝三(池田恒興のこと)の軍勢を播磨に送り込めるのだが・・・」
「・・・そう言えば、石山本願寺との和議はどうなったのでしょうか?全く話に聞いておりませぬ故、父も気になっておりました」
重秀がそう質問すると、信長は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「顕如自身は受け入れを表明しておる。すでに紀伊の鷺森御坊へ移ることに合意しておる。が、石山御坊にいる一向門徒、特に雑賀衆の扱いで揉めておる。彼奴等は退去の条件として十万石の米と十万貫の銭を要求してきておる」
「十万石の米と十万貫の銭、ですか?無理難題ふっかけてでも出たくないという意思を感じます」
「汝もそう思うか。まあ、払えぬ額ではないので払って追い出しても良いが、唯々諾々と従えば公方や上杉、武田などからは織田の弱腰と見るじゃろう。彼奴等の我儘のせいで半年経っても和議が結べぬのよ。間に入っている先関白様(近衛前久のこと)も頭を抱えておったわ」
「ならば、柴田様と池田様は動かせられませぬね」
重秀の言葉に、信長は頷きながら酒を煽った。重秀が置かれた銚子を持ち上げ、信長の盃に酒を注いだ。
「・・・藤十郎よ。もし、毛利の大軍が播磨に来た場合、羽柴は防げるか?」
「それは・・・」
信長の質問に重秀は何と答えようか迷った。しかしその時だった。頭の中にはらりと何かが舞い降りた。そして、重秀の脳を活性化させ、酔いを覚まさせた。舞い降りたものが天啓だったのか、それとも脳の奥底にしまわれていた記憶なのかは重秀には分からなかった。しかし、今頭の中にあるそれを信長に言うのは、これが最初で最後の機会であることは重秀も理解していた。
「・・・防ぐ策が一つだけございます」
「ほう?面白い。『今孔明』の薫陶を受けた汝の考え、申してみよ」
信長が興味本位で聞いてきた。重秀は最初は戸惑った。果たしてこれから話すことを聞いて信長がどう出るか分からなかったからだ。
しかし、ここで言わなければこの先、信長に知られることを怯える毎日を迎えることになる。もし露見すれば、信長は重秀に裏切られたと思うだろう。こうして声をかけてもらい、酒の席まで用意してくれる義父の信長を、裏切るような真似をするのは申し訳ない。いっそ、思い切って話すべきだ。
そう思った重秀は、盃の酒を一気に煽ると、自分の考えを信長に伝える。
「恐れながら申し上げます。備前と美作で蓋をすればよろしいのです」
重秀の言葉に、信長は露骨に嫌そうな顔をする。
「・・・それは、宇喜多を寝返らせるということか?」
「御意」
「ならぬ。裏切り者の宇喜多を寝返らせても、どうせ余を裏切るのは必定。裏切り者を信じても碌なことにならぬ」
「信じなくてもよろしいのでは?」
重秀がそう言うと、信長は思わず「何だと?」と高い声を上げた。重秀が話を続ける。
「殿様の軍勢が動けないのは佐久間様の抵抗を抑えんがため。ならば、佐久間様の処分が終わるまでの間だけでも宇喜多が毛利を抑えてくれればよろしいのです。寝返ればそれでよし、寝返らなくても毛利が宇喜多が織田に寝返ったと勘違いして兵を動かさなければ十分なのです。信じる必要はありません」
重秀の言葉に、信長は唖然とした。重秀は更に話す。
「それに、宇喜多は織田に寝返った場合、もう織田を裏切ることはできぬと思います」
「・・・何故そう思う?」
思わず聞いた信長に、重秀が答える。
「和泉守が我等織田に寝返った後、やっぱり毛利に寝返りたいと思ったところで毛利は許さないでしょう。毛利の力を得られない宇喜多なんぞ織田の敵ではありませぬ。その頃には佐久間様の事は終わってますでしょうし、殿様の軍勢をもって播磨から備前、美作、そして更に西へ攻め上ること可能になるかと。和泉守がそれを防ぐには、ただひたすら上様のために戦わざろう得ないでしょう」
「・・・で、あるか」
重秀の言葉に、信長はそう言って考え込んだ。長く長く考え込んだ。そのあまりの長さに、重秀の顔に焦りと不安の表情が出るほどだった。
そんな中、信長はその場で立ち上がった。重秀が慌てて姿勢を正して少し頭を下げた。そんな重秀の頭上から、信長の高い声が降りてくる。
「藤十郎。羽柴筑前守に伝えよ。宇喜多を寝返らせる調略を始めよ、と。良いな?」
信長の命を受けた重秀は、平伏しながら「羽柴藤十郎重秀、確かに上様の命、承りました!」と声を上げた。しかし、すぐに頭を上げると、信長に話しかける。
「ときに上様。宇喜多調略のご命令、書状にていただけませぬでしょうか?私めが口頭で父上に申し上げても『いい加減なことを言うな!』と言って信じてもらえなさそうなので・・・」
重秀の図々しいお願いに、信長はその場に座り直すと、顔を顰めながら言う。
「・・・そうだな。余は猿めに宇喜多調略をするなと命じておるからのう・・・。改めて書面で命じることにしよう。明日発布する故、本丸御殿まで取りに来い」
「上様のご配慮、有難き幸せ」
「ところで、宇喜多をどのように寝返らせる気だ?」
信長が興味本位で重秀に尋ねてきた。重秀が答える。
「宇喜多は佐久間様の処分と殿様の軍勢の温存を知りません。そこで、この二つの軍勢が播磨に配属されると申し渡します。この軍勢で毛利の上洛軍を打ち破り、更に備前と美作に攻め入ることを申し上げます。織田の大軍勢をもって宇喜多を攻めると脅しつつ、交渉を行おうと思います。
また、領地については割譲を望まず、所領安堵を約束しようと思います。知行は減らさないほうが、壁として分厚くなりますから。
更に、交渉については和泉守の嫡男、八郎の質入れを要求致します」
「・・・まあ、所領安堵については良いとして、質を取るのか?どうせ裏切るのであろう?人質を殺す手間がかかるだけであろうが」
「和泉守も上様が己を信じていないことは百も承知。上様が和泉守を信じるに値する人物であることを証明する条件を言わなければ、相手はこちらの交渉に対して本気にしてくれませぬ」
すでに小西行長と話をしていることについて、これから宇喜多に提案するような物言いで言う重秀に、信長は「で、あるか」と答えた。
「相分かった。汝がそこまで考えているなら、やってみるが良い。ただし、佐久間信盛の追放が終わったらそれを報せる故、その報が伝わるまでと致す。もし、それまでに寝返らせることできなければ、宇喜多は一族郎党尽く滅せよ。良いな?」
信長がそう言うと、重秀は「承知いたしました」と言って平伏した。顔には、成功した喜びと、信長に隠し事をしなくて済んだという安堵の表情が入り混じっていたのだった。