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第152話 徳川からの使者

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


多忙のため、6/18(火)の更新は控えさせていただきます。次の更新は6/21(金)です。よろしくお願いします。


追記 本文内の酒井忠次のセリフと信長の心中のセリフが間違ったものをアップしてしまいました。訂正したものをアップいたします。大変失礼いたしました。

「・・・藤十郎殿の言い分はゆかりしちの文に書かれている内容と同じ。あれが藤十郎殿の本心と考えて間違いないのう」


 安土城本丸御殿の『奥』にある部屋の一室で、文机ふづくえ(書き物や読書をするための和風の机)に広げた状態の書状を見ながら、お濃の方は独りごちた。

 文机の上に広げられている書状は、縁とその乳母でお濃の方より派遣された七からの手紙であった。縁の手紙については時節の挨拶と日常に起きた出来事が書かれているが、七からの手紙は、ただの手紙ではなかった。

 七からの手紙。それは、重秀の夜の性活が余すことなく書かれており、また、藤十郎と縁のことだけでなく、()()や照の関係も書かれていた。


 お濃の方は織田信長の正室として織田家の『奥』の統率を担う役目を負う、という表の顔があった。しかし、一方で娘(全て実の娘ではないが)を他家に嫁がせ、それに付いていった乳母や侍女を介して嫁ぎ先の情報収集を行い、分析して信長に伝えるという裏の顔を持っていた。

 当時の武家、特に大名家では、婚姻は政治的思惑で行われるものである。そして、内情を探る情報収集要員、つまりスパイを堂々を送り込む大義名分にもなり得た。

 まあ、結婚して真剣に夫を愛したり情が移ることもあるので、娘そのものがスパイとして役に立つことはあまりない。しかし、娘に付けられた乳母や侍女にはそう言ったことがあまりないので、彼女らが主にスパイ活動を行っていた。


 さて、お濃の方にはこういった他家に送り込んだ乳母や侍女から他家に関する報告がもたらされてきた。その中で、お濃の方を驚かせる報告があった。それは、縁の乳母としてお濃の方から派遣された七からもたらされた情報であった。


「夫である羽柴藤十郎は、妻である縁姫とあまり目合まぐわいを行わない。それどころか一年以上も会っていない」


 この報告に、お濃の方は仰天した。婚姻してからさほど時が経っておらず、うら若い二人が長い間会っていないということに、お濃の方は藤十郎と縁の仲が悪いのではないか、と考えたのであった。

 そこでお濃の方は縁と七に手紙を出した。本当に仲が悪いのかを確認したのだった。しかし、縁からの返答は否定の内容であったし、七も藤十郎が縁が16歳になるまで子作りを控える理由を報せてきた。

 そこでお濃の方は重秀を呼び出して、真相を訪ねたのであった。


 しかし、お濃の方は何故戦で忙しい重秀を安土にまで呼び出して夫婦仲の真偽を聞いたのであろうか?

 それは、羽柴以上に織田の姫と嫁いだ先の夫との仲が悪い家があったからである。お濃の方は、書状の入った箱から一通の書状を取り出すと、その書状を開いた。


「徳(信長の長女)と三郎殿(徳川信康のこと)の仲は修復できませんでしたか・・・」


 その書状は、三河岡崎城からもたらされた書状であった。内容は天正七年(1579年)六月五日に徳姫と信康の不仲を聞いた徳川家康が、岡崎城を訪問して二人の仲裁に乗り出したものの、不調に終わったことを報せるものであった。


「・・・徳が男児を挙げること叶わず、そのために婿殿より遠ざけられるは徳の責。しかしながら、徳の許しなく側室を迎えるは、徳の正室としての面目が立ちませぬ・・・」


 お濃の方はそう独り言を呟くと、溜息をついた。


 徳姫が跡取り息子を産まず、女児しか産まなかったことに信康は不満を持っていた。とはいえ、信康自身はその事を理由に徳姫をないがしろにする気はなかった。しかし、男児を産むのが女の務め、という現代では考えられない価値観がまかり通る時代である。周囲からのプレッシャーが徳姫を追い詰め、徳姫は子育てのイライラも相まって信康と喧嘩するようになっていった。

 徳川信康という人物は、武勇優れた武将である一方、気性が荒く、粗野な部分があったとされている。そんな信康が、徳姫を優しく包み込むなんて芸当ができるわけがなく、二人の関係は悪化の一途をたどるようになる。

 そんな中、二人の様子を知った母親の築山殿が、信康のために側室を送り込んできた。当然男児を産ませるためである。築山殿にして見れば、徳川のために親切心でやったことなのだが、『奥向は正室の管轄』という当時の常識を破る築山殿の行為に、徳姫の面目が潰されたのは言うまでもない。


「・・・そう言えば、明日には徳川殿より酒井殿がお見えになるとか。三河守様(徳川家康のこと)の使者故、妾が会って徳の事を尋ねるのは難しいと思いますが・・・。できれば話だけでも聞きたいものです・・・」


 お濃の方にとって、徳姫は実の娘ではない。しかし、自分と同じように政略結婚で他家に嫁がされた徳姫の境遇を良くしたい、という気持ちは本物であった。お濃の方の、徳姫を憂う想いは、実の母と同じ真剣なものであった。


 しかしながら、すでに事態はお濃の方がどうこうできる段階ではなくなっていたのだった。




 次の日。重秀は堀秀政の屋敷で秀政と共に、徳川家康の使者である酒井忠次と大久保忠世をもてなしていた。秀政が催した饗しは茶事であり、重秀はその手伝いであった。

 さすがに酒で茶を点てるようなことはせず、秀政は完璧な茶事を主催した。そして、その手伝いをした重秀も、余裕を持って秀政をサポートした。


「・・・いや、見事なお手前でございました。さすがは『名人久太郎』。ここまでの饗しは三河ではありえませんな」


 忠次がそう言うと、忠世も頷きながら話し出す。


「左様左様。いや、それがし実は茶の湯は武士のやるものではないと思いましたが、中々どうして。礼儀を持って心を鍛えるという点で言えば、禅を行うのと同じに思えました」


「・・・茶は元々栄西禅師(臨済宗を開いた僧侶)がからの国(当時は南宋)から禅の教えを日本ひのもとへもたらした際、茶も持ち込んだとされます。禅と茶の湯の親和性はそこから来ているのではないでしょうか」


 重秀がそう言うと、忠次と忠世は驚いたように目を丸くした。重秀は失礼なことを言ったと勘違いし、平伏した。


「これは、差し出がましいことを申し上げました。お許しくだされ」


「いやいや。そのようなことは決して。さすが羽柴筑前守殿のご子息、弥八郎(本多正信のこと)の言うとおり、才能あふれる若人であると改めて思った次第」


 謝る重秀に対し、忠世がそう言った。忠次も言葉をかける。


「羽柴殿の噂は儂も耳にしておる。聞けば、阿閇城の戦いでは十倍の敵に先陣を切って突撃し、二十以上の首を獲ったとか。お若いのに大したものだと、我が家中でも評判でござる」


「・・・誇張がすぎまする。それがしは何もしておりませぬ」


 渋い顔をしてそう言う重秀であったが、忠次も忠世も真剣には受けてくれなかった。


「謙遜するとは、お若いのに大したものだ。三河の若い連中は大言壮語する輩が多くて困る」


 そう言って笑い合う忠次と忠世。それを見ていた重秀はますます苦虫を噛み潰したような顔をするのであった。

 一頻ひとしきり笑った忠次と忠世に、秀政が真剣な面持ちで話しかける。


「時に酒井殿、大久保殿。明日上様は正午過ぎにお戻りになりまする。上様への拝謁はその後になりまするが、よろしいですかな?」


 そう言うと、忠次も忠世も緊張した面持ちで頷いた。そして「明日は何卒良しなに」と言うと、二人は秀政に平伏したのであった。





 次の日。安土城に帰ってきた信長と、忠次・忠世がいよいよ面会することとなった。場所は安土城本丸の天主二階にある広間・・・と言っていいのか分からない場所であった。何故ならば、そこは畳敷きであるが上座は階段状の段差となっており、上段の間の真ん中には、南蛮の王が座るような豪華な椅子がしつらえていた。

 下段の間には忠次と忠世が並んで座り、その左右には織田の家臣が並んで胡座で座っていた。その中には重秀もいた。

 本来、重秀は出席できる立場ではなかった。しかし、出席できる家臣が一人急病で欠席したため、秀政に出ろと言われて出たのであった。要するに数合わせである。

 待つことしばし。小姓が信長が来たことを告げると、皆が一斉に平伏した。そして、信長が部屋に入り、椅子に座ったところで「一同、面を上げよ」と言うと、平伏した者達が一斉に顔を上げた。そして、南蛮人の服装を身に着けている信長を見て、重秀など事前に見たことのある者以外は、唖然とした顔つきになった。当然、忠次と忠世も唖然とした者達である。しかし、忠次が気を取り直して信長に挨拶を述べる。


「う、上様におかれましてはご機嫌麗しく。此度、我等の拝謁を許して頂き、恐悦至極に存じ奉りまする」


「大義」


 信長の短い返事に恐縮しながらも、忠次はさっそく要件を話し始めた。その内容はその場にいる者全てが驚く内容であった。

 それは、徳川家康が嫡男信康を廃嫡することと、それに伴い徳姫と離縁させるということであった。


「つきましては、徳姫様の身柄を織田家にお返ししとう存じます故、何卒ご承知の程をお願い致しまする」


 そう言って忠次は平伏し、続けて忠世も平伏した。


「・・・久太郎、左衛門尉に伝えよ。何故嫡男を廃するのか、と」


 信長が下段の間で一番近くにいた秀政にそう尋ねると、秀政が「上様は、岡崎様の廃嫡に疑問を持たれておられる」と忠次に言った。忠次が声を上げる。


「恐れながら申し上げます。三郎(ぎみ)は父である三河守様、そして上様への逆心をお持ちでございます」


 その言葉に、信長はもちろん、重秀を含むその場にいた者達に衝撃を与えた。周囲がざわめいている中、秀政が「岡崎三郎君、逆心の心あり、とのことでございます」と信長に伝えた。

 信長は両目を瞑って唸った。自分の女婿むすめむこが自分や家康に叛意を持っていることが信じられなかったのだ。


「・・・何か、証拠があるのか?直答を許す故、存分に申してみよ」


 信長がそう言うと、忠次が緊張の面持ちで話し始めた。


「・・・実は三郎君が武田と手を結び、我が主三河守を追放することを画策しておりました。さらに、武田と共に上様に弓引く考えでもございました」


 忠次の発言に、その場にいた者達が一斉に驚きの声を上げた。重秀も「はあぁあ?」と叫んでしまった。そんな中、信長がいち早く冷静になり、忠次に尋ねる。


「・・・にわかには信じられぬ。それは真のことか?」


「・・・真にございまする」


 忠次がそう返事をした後、信長は何か思案するような顔つきでしばらく黙っていた。そしておもむろに口を開く。


「左衛門尉。何か隠してはおらぬか?余に知られたくはない、何か事情があるのではないのか?」


「い、いえ、それは決してありませぬ」


 そう言う忠次であるが、信長の視線が恐ろしいのか、目が彷徨っていた。


「・・・怒らないから、正直に話してみよ」


 信長が若干高い声を出した。相手を安心させるように声を高めにしたのだが、かえって忠次は怯えてしまった。しかし、忠次は勇気を振り絞って信長に言う。


「・・・申し上げます。実は三郎君の振る舞い、粗暴にして凡そ徳川家の嫡男に相応しからず。例えば、祭で踊っていた百姓を『踊りが下手だ』と言って弓で射殺したり、また、鷹狩に向かう際に僧侶と出くわした際、『坊主に会えば獲物が獲れぬ』と言って撫で斬りにしたり、お諌めした家臣を斬りつけるなど致しております。我が主三河守様も、この所業に大変激怒されております。しかも織田と縁を切り、武田と手を結ばんとしております。もはや、徳川の嫡男たる資格はない、と我が殿はお考えにございます」


 忠次の発言に、再びその場がざわめいた。そんな中、重秀は長篠の戦いの後に出会った信康の姿を思い出していた。


 ―――なんとなく、武蔵殿(森長可のこと)に似ているなぁ、と思ったけど、そこまで似ていたのか・・・―――


 森長可は以前より奉公人や他の同僚と諍いを起こしては刃傷沙汰を起こしていた。この事は重秀の書いた『長浜日記』にも書かれている。

 そして、歴史的資料としての信憑性の高い『長浜日記』には、信康が長可に似ている旨の記載があるため、現代でも信康の異名が『三河の鬼武蔵』だったり、インターネット上では『戦国DQN四天王の5人目』とか『戦国時代のヤバい人第2位タイ』と書かれてしまっているのだった。


 さて、忠次の話を聞いた信長であったが、正直悩んでいた。ここで信長の心の内を探ってみよう。


 ―――三郎めが粗暴なのは割とどうでも良い。そんな事は余にしてみれは些末な事よ。それよりも由々しきは織田と縁を切り、武田に寝返ろうとすることよ。ただでさえ帰蝶からは『徳姫が三郎から邪険に扱われている』と聞かされているからな・・・。始めは徳が女腹故に邪険にされているのかと思ったが、武田に寝返らんがために我が娘を邪険にしているというのであれば・・・。これは余に対する明確な裏切りぞ。

 ・・・三郎め。余の善意を仇で返すか。許せぬ・・・!余の手で誅してくれようぞ!―――



 信長は一昨年から色々な者達に裏切られてきた。松永久秀、荒木村重、別所長治、小寺政職、そして裏切ってはいないが思い通りに動いてくれない佐久間信盛。これに女婿むすめむこの信康が加わったのである。信長の堪忍袋が切れても仕方がなかった。


 ―――しかし、三郎めは徳川の嫡男。そして徳川は我が家臣にあらず。本来三郎の処分をするのは当主たる三河守(徳川家康のこと)が成すべきこと。他家たる織田が口を出すことではない―――


 力関係に歴然の差があるとしても、信長は家康との同盟関係を重視してきた。決して臣従させるようなことはしてこなかったのである。もっとも、上下関係は明らかにしてきたが。


 ―――だが、三郎が武田に内通していたことに対する処分が廃嫡のみ?それはいくら何でも軽すぎるであろう。その武田ですら、嫡男を死に追いやっているのに?三河守は、廃嫡だけで済まそうと考えているのか?ならば、余が討ったほうが良いか?―――


 武田信玄は永禄八年(1565年)十月に嫡男である武田義信を廃嫡し、寺に幽閉した。その後、永禄十年(1567年)十月に死去している。病死とも自殺とも言われているが、信長は信玄が義信を殺害したと考えていた。

 信玄が嫡男を廃嫡にしたのは、今川義元亡き後、駿河に進出したい信玄と、今川の姫を正室に迎えて今川と誼を通じていた義信との対立が原因とされている。また、この時に義信の傅役である飯富虎昌が信玄の暗殺計画を立てたとされており、後に信玄によって処刑させられている。

 信玄の義信への処分に比べたら、家康の信康への処分は甘すぎる、と信長は考えたのだった。


 ―――いや、待て。三郎が武田と内通していることを理由に、儂が信康を処刑した場合、いくら三河守と言えども面目を潰されたと思って激怒するだろう。そうなれば、徳川が織田に反感を抱き、武田に寝返ることになるやもしれぬ。そうなれば、尾張を守るために城介(織田信忠のこと)の軍勢を尾張や美濃に張り付けなければならぬ。・・・拙い。そうなったら、牛(佐久間信盛のこと)の奴を追放する際に、牛の軍勢を抑えるための兵がいなくなる―――


 信盛の追放を実行する際、必ず越前にて信盛の一門か家臣が抵抗するものと思われた。そうなった場合、鎮圧する軍勢が欲しい。しかし、信盛は北国方面を担当する軍団長である。織田家屈指の兵力を持つ信盛の軍勢を抑え込むには、織田家当主として大軍団を有する信忠しかいない。

 そんな信忠を、徳川への抑えに使いたくはなかった。


 ―――それに、三河守の下には今川治部(今川氏真)がいるからな。せっかく武田と北条の仲が決裂している中、徳川と武田が手を組んだら、徳川が今川を使って北条と武田の仲を取り持つかもしれない―――


 今川氏真は天文二十三年(1554年)に今川義元・武田信玄・北条氏康によって結ばれた甲相駿三国同盟に基づき、北条氏康の姫を娶っている。その後、今川家が戦国大名ではなくなった後も北条の姫は離縁せずにいたことから、氏真と北条家の結びつきはとても強い。

 実は、武田との敵対関係になった北条は、徳川との同盟を模索しており、徳川もまた武田に対抗するべく北条との同盟を望んでいた。という訳で、家康の保護下にあった氏真が、その窓口となっていたのである。

 信長は当然その動きを知っていた。なので、徳川が武田に寝返った場合、北条が徳川と敵対するのではなく、徳川を介して武田と北条が再び手を結ぶ可能性を危惧したのであった。


 ―――だとするならば、余が直接三郎を処分するのは止めたほうが良い。ここは、三河守に全て委ねるか―――


 そう結論づけた信長は、長い時間保っていた沈黙を自ら破った。


「左衛門尉」


 信長の発した言葉に、忠次と忠世だけではなく、重秀を含めた全ての者達が姿勢を正した。緊張感がその場を支配する中、信長が甲高い声を上げる。


「全て、三河守殿の存分次第」


 信長がそう言うと、忠次と忠世は「ははぁ!」と言って平伏した。


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― 新着の感想 ―
[一言] 信長、自己完結し過ぎだなぁ… 考える過程を家臣と共有しないから、信長の意図を勘違いする人も出てきそう
[一言] 今は理性的に考えて抑えることができてるけど晩年は衰えて無理だったから明智に裏切られたんだろうな
[良い点] 帰蝶さんが更にお労しいことに
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