第151話 安土への呼び出し(後編)
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後世、信長の苛烈な施政の一つとして伝えられている、重臣佐久間信盛の追放。長年の功臣を追放したこの出来事の裏はなんであったのだろうか。
まず、佐久間信盛は越前から加賀の侵攻を行わなかった。もっとも、これには理由があった。
この時期、加賀の尾山御坊には石山御坊から追放された教如とその側近が匿われていた。結果、信盛は加賀への侵攻計画を中止した。何故計画を中止したのかは現代になっても不明であるが、教如によって団結した一向一揆勢を侮れないと考え、一旦作戦の練り直しを計ったのではないか、というのが後世の歴史家達の通説である。
ただし、この事を事前に信長に伝えていなかった。少なくとも伝えた形跡がないし、織田側の史料にも記載がない。従って、信長から見れば、信盛の行動は命令違反、いや叛意と捉えられてしまった。
また、信長の内政事情も影響していた。信長は加賀平定に失敗した簗田広正を更迭し、加賀南部の領地を召し上げた。広正を更迭しておいて信盛は更迭しない、では他の家臣への示しがつかなかった。
実際、勝家の家臣を始め、織田家中では信盛に対する不満の声が多くなっていた。特に府中三人衆(前田利家、佐々成政、不破光治のこと)からの報告は、与力でありながらも信盛への不満を隠すことなく書き記すほどであった。
さらに、石山本願寺が石山御坊から退去した場合、石山本願寺と積極的に戦ってきた柴田勝家に与える恩賞としての領地がないことから、信長は信盛を追放した後、勝家に越前一国を与えることを考えていた。
そして、秀吉が播磨を平定しそうだということも影響していた。秀吉が播磨を平定した場合、秀吉には播磨を与えることになる。そうなった場合、先輩格である勝家よりも先に秀吉が国持大名になるのだ。いくら秀吉が有能だからといって、勝家より先に秀吉を国持大名にした場合、勝家本人はともかく柴田家一門が納得しないであろう。また、秀吉嫌いのお市の方が何を言ってくるか分かったものではない。
信長は、こういった不満の声を放って置くわけにはいかなかった。
「金柑。北近江の羽柴勢がいなくてもやれるか?」
「はい。むしろいない方がよろしいかと。少なくとも、血を流さないようなやり方を考えとうございます。また、例え血が流れようとも、我が軍勢と柴田様の軍勢、そして惟住様(丹羽長秀のこと)の軍勢、そして越前内の与力衆のお力添えがあれば、越前の制圧は可能と存じまする」
信長の質問に、光秀が冷静に答えた。一方、勝家は信長に平伏しながら言う。
「上様。どうか、どうかお考え直しできませぬか?右衛門尉殿(佐久間信盛のこと)が怠惰故責められることについては異存はございませぬ。しかし、それがしの加増のために右衛門尉殿を追放したと見られるは、柴田家にとっても本意にあらず。例えそれがしの加増がなされなくても、一門や家臣を抑えて上様への不満を待たぬよう致しまする」
「汝が良くても余が良くないのだ。分かるか?権六。余が牛(佐久間信盛のこと)を罰せなければ、世間がなんと思うか。余が権六を加増しなければ、世間がなんと思うか。加賀や越中の一向門徒共を成敗しなければ世間がなんというか。
・・・もはや、権六の願いを受け入れている場合ではないのだ」
結局、勝家の願いは信長によって却下された。勝家もそれ以上のことは信長には意見しなかった。
その後、勝家は自分の領地へ帰るため、早めに信長の前から座を辞した。部屋から出る間際、勝家は信長と光秀をちらりと見た。嬉々として自らの考えを述べる光秀と、興味深そうに聞き入る信長を見た勝家は、不安と嫌悪の気持ちを胸に抱くのであった。
次の日。重秀は大谷吉隆を連れて京に居た曲直瀬道三の屋敷を訪れた。運良く道三は屋敷に滞在しており、すぐに会ってもらえた。そして、秀吉からの書状を渡した。竹中重治の治療をお願いするために、兵庫に来て欲しい旨が書かれた書状を道三本人に渡した重秀は、更に重治の容態と昨日の信長の言葉を伝えた。
「・・・後で村井長門守様(村井貞勝のこと)から使者が参ります。上様からのご命令として、半兵衛殿の治療を仰せつかるかも知れませぬ故、予めお報せいたしまする」
そう言って頭を下げる重秀に、道三は「わざわざご丁寧な物言い、恐縮にございます」と言って頭を下げた。
「先程のお話の内容から、予断は許さない状況と拝察致しました。さっそく弟子を引き連れて、兵庫へ向かおうと思いまする。村井様へは私めが兵庫へ行く際に屋敷へお寄りし、正式な命を受ける前に出立することをお報せいたしまする」
道三の言葉に、重秀は「かたじけのうございまする」と言って再び頭を下げたのであった。
道三の屋敷から戻った重秀達は、その日は宿に泊まると次の日の未明には安土に向けて出立した。京から安土までは半日の道のりである。重秀達が安土の羽柴屋敷に着いたのは、その日の昼過ぎであった。
そこで休むことなく、重秀は安土城内にある堀秀政の屋敷を訪れた。
「やあやあ、藤十。意外と早く来たんだね」
秀政がそう言いながら書院へ重秀と吉隆を招き入れた。相変わらず散らかって足の踏み場もない書院を、重秀は何ともないように、吉隆は目を白黒させながら入っていた。
「まあ、そこら辺に座ってくれ。茶はいるかい?」
「いえ、結構です」
秀政の言われたとおりにそこら辺に適当に座った重秀は、強い口調で断った。重秀にとって、秀政は何でもできる兄貴分であり、尊敬すべき人物であったが、酒で茶を点てた事以来、茶に関してだけは尊敬できなくなっていた。
「さて、安土に呼び出された理由は分かるかい?」
そう聞いてきた秀政に、重秀は答える。
「京で上様に拝謁しました。その時に聞いたのですが、呼んだのは御方様だとか」
「うん。そうだね。御方様が藤十に色々聞きたいがために呼び出したのさ」
「一体、何を聞きたいのでしょうか?」
首を傾げる重秀に、秀政がずばり答える。
「それはね、藤十が正室殿と仲良くやっているのか聞きたいのさ」
「そ、そんなことを聞きたいのですか?」
驚く重秀に、秀政は肩をすくめる。
「みたいだねぇ」
正直、縁との仲は上手くいっていると考えていた重秀にとって、お濃の方の呼び出しは予想外だった。
縁が養母であるお濃の方や実母である長野夫人に手紙を出していることは重秀も知っていた。その中に何か不満でも書いてあったのだろうか?
そんなことを思っている重秀に、秀政が重秀を安心させるような口調で語りかける。
「まあ、そんなに緊張することはないよ。藤吉殿からは藤十と正室殿が仲良くやっていることは聞いているからね。正直に申し上げれば、御方様も分かってくれるさ」
次の日、秀政に連れられて安土城本丸御殿にやってきた重秀は、本丸御殿の『中奥』にある書院にて、お濃の方と面会した。
「羽柴藤十郎、お召により參上仕りました」
書院の下座の真ん中で平伏しながら重秀がそう言うと、上座に座っているお濃の方が微笑みながら頷く。
「播磨で忙しい中、よくぞ来られた」
そう言うと、お濃の方は右手を右斜め前方にかざした。指先の方向、お濃の方から見て右側の下座には、一人の壮年の男性が座っていた。随分と派手な着物を来ており、如何にも傾奇者といった感じの男性であった。
「この者は上様の弟御で、源五郎殿(織田長益のこと)じゃ。存じているな?」
「はい。縁との婚儀の際の宴にて、お会い致しました」
そう答えた重秀は、織田長益に「お久しゅうございます」と頭を下げた。それに対して、長益は軽く頷いた。
「源五郎殿は安土城の留守居役を仰せつかっておるが、此度は妾のために同席してもろうた。堀殿から話は聞いておろう?」
「はい。私めと縁の仲について聞きたいそうですが」
重秀が頷くと、お濃の方は頷いた。
「うむ。縁からは文を貰うておるが、藤十郎殿からも直接聞きたいと思ってのう。これから聞くことについて、正直に答えてほしいのじゃ」
お濃の方からそう言われた重秀は、「承ります」と言って頭を下げると、姿勢を正してお濃の方の質問を聞こうとした。
そんな重秀に、お濃の方が尋ねる。
「去年の七月十五日の夜、縁と目合ったかの?」
「・・・はい?」
思わず聞き返した重秀に、お濃の方が真面目な顔で尋ねる。
「去年の七月十五日の夜、縁と目合ったか?と聞いたのじゃ」
「えーっと・・・」
いきなり夫婦の営みについて聞かれた重秀は、混乱しつつも何とか思い出して答える。
「た、確か兵庫に向かう前に一度だけ・・・でしたので、確かその頃に・・・シたのは確かです」
俺は一体何を答えているのだろう、と思いながらそう言う重秀。そんな重秀に、お濃の方は更に尋ねる。
「その前に縁と目合ったのは去年の一月十四日じゃが、それに相違はないか?」
「えーっと・・・」
正直覚えていない重秀は首を傾げながら思い出そうと唸った。その様子を見たお濃の方が、重秀に更に尋ねる。
「・・・初めて妻を抱いた夜を覚えてないのかえ?」
「・・・ああ、思い出しました!確かに去年の一月でした!そうそう、あれは確か安土から戻って小一郎の叔父上に子がいたことが分かって・・・」
重秀がそう言うと、お濃の方が「そこまでは聞いておらぬ」と重秀の発言を止めた。重秀はハッとした顔になり、口を噤んだ。
「・・・まあ、筑前殿を支える弟御の子については、興味はあるが此度は聞かぬ。で?縁と目合ったのがその二回のようじゃが、それに相違ないな!?」
何故か責めるような口調で詰問するお濃の方に、重秀はしどろもどろになりながら答える。
「は、はい・・・。それ以外はシてないと思います・・・」
重秀の回答を聞いたお濃の方は、視線を長益に向ける。
「源五郎殿。藤十郎殿の話を聞いてどう思う?」
「左様ですな。目合う回数があまりにも少のうございます。藤十郎殿の歳を考えれば、毎日目合っても良いはずなのですが・・・。それがしが藤十郎と同じ齢の頃は、一日に二、三人の女子と複数回目合っておったものです」
「そこまで聞いておりませぬ」
「これはご無礼を。しかしながら、藤十郎の場合は不仲と思われても致し方ないことかと」
「しばらく、しばらくっ!」
長益とお濃の方の話を遮るかのように声を上げる重秀。重秀はお濃の方に必死に釈明する。
「恐れながら申し上げまする。我が母は私めを齢十五にて産みました。しかしながら、産後の肥立ち悪く、日を置かずに亡くなりました。私は縁に早死させたくなく、縁が十六になるまで手を付けぬと決めたのです!しかしながら、縁とその乳母達の強い望みによって、去年の一月に初めて目合ったのでございます!しかし、やはり子を成した場合の母子の身体を考えまするに、縁が十六になるまで、控えたほうが良いと考えております!それに、そもそも私めは播磨への出陣している最中にございます!子を成す暇など、あろうはずがございませぬ!
・・・それに、確かに目合いは数少のうございますが、寝所を共にし、夜遅くまで話し合っております!何卒、何卒縁にお聞きくだされ!」
重秀の釈明を聞いていたお濃の方は、しばらく重秀を見つめていたが、おもむろに口を開く。
「・・・藤十郎殿。ようく分かりました。確かに縁の文でも、よく寝所にて話をしていると報せてくれております。また、そなたの母・・・ねね殿でしたか?その方が亡くなられたことについては上様からも聞いております。
・・・少なくとも、縁のことを大切に思うておることは分かりました」
「ご、ご理解いただけて恐悦至極にございまする」
安堵した顔で平伏しながら重秀はそう言った。しかし、お濃の方の質問はまだ終わらない。
「縁についてはこの辺で良いでしょう。・・・藤十郎殿には側室が一人、愛妾が一人おりますね?側室とは目合らず、愛妾とは一度、確か去年の七月九日から十日にかけて目合っておるな?」
「・・・は、はい。確かそのくらいだったかと・・・」
「この時は縁の時よりも長く目合っておったそうじゃのう。しかも、黄蜀葵のネリを使用したとか?」
お濃の方の言葉に、重秀は顔を赤くし、長益が「ほう・・・」と興味深そうな笑みを浮かべて呟いた。
お濃の方が言葉を続ける。
「その愛妾、藤十郎殿のお気に入りか?」
「・・・その、あの、父上より、早う子を成せと命じられております故、縁の許しを得て目合った女子にて、特に気に入っているというのは・・・」
そんなことを聞かれても、と言いたげな顔で答える重秀を、お濃の方はじっと見つめた。なにか言いたげな顔をしていたが、溜息を一つつくと、別の質問をし始める。
「・・・側室は蒲生家の姫であったな?」
「御意。ですが、縁の許しも得ております。さらに言えば、羽柴と蒲生それぞれから上様へお許しを得られております」
「蒲生の姫とは目合っていないのだな?」
「まだ十三にて、手を付けてはおりませぬ」
「蒲生の姫を、今後正室にするつもりは?」
「ありませぬ。正室は如何なる事が起きても縁にて」
今までしどろもどろであった重秀であったが、この回答だけははっきりと答えた。その答えに、お濃の方は満足げに頷いた。
「相分かった。・・・わざわざ安土まで足を運ばせてすまぬな。妾の聞きたいことは聞けた故、もう下がって良いぞ」
そう言われた重秀は、平伏した後、お濃の方の前より下がった。そして、疲れ切った身体を引きずるように、書院を出ていったのだった。
「やあ、骨折りだったね。藤十」
安土城本丸御殿の『表』にある部屋。普段は奉行である秀政の執務室である。そこに重秀が戻ると、待っていた秀政にそう声をかけられた。
「ただいま戻りました・・・」
疲れ切った身体を重力に任せて座り込む重秀に、吉隆が心配そうに声をかける。
「若君。大事ございませぬか・・・?」
「ああ、だが、疲れた・・・」
そう言うと重秀は大きな溜息をついた。そんな様子を見た秀政が話しかける。
「御方様から聞かれたのは、夫婦の夜の営みのことかい?」
「・・・なんで分かるのですか・・・?」
首を上げて尋ねる重秀に、秀政は笑いながら答える。
「惟住様(丹羽長秀のこと)や忠三(蒲生賦秀のこと)にも聞いていたからね。二人の正室は共に上様の娘だから、夫婦仲が気になっていたのだろう。特に忠三には何度も尋ねておられてたからね。おかげで御方様が怖くて、未だに忠三は側室を持とうともしない」
秀政の言葉に、重秀は納得したような顔つきで言う。
「ああ、忠三殿が側室持たないのはそのせいですか」
「ま、本人は正室の姫君を心から好いているから、それ以外の女子に手を出さない、とは言っていたが、果たしてどこまで真なのやら」
そう言うと、秀政は何かを思い出したような顔をすると、重秀に尋ねる。
「そう言えば、藤十はこの後どうするんだい?」
「明日には安土を出立し、播磨に戻ろうと思っていましたが、その前に長浜城へ寄ります。此度の御方様の詰問は、どう考えても縁から御方様へ告げ口があったからに相違ありません。帰って縁を詰問しようと思います」
怒った表情でそう言う重秀に対し、秀政は「それは止めた方がいい」と重秀を諌めた。
「武家の婚姻は往々にして政だ。夫婦仲が悪くなれば、それだけで多大な影響が周辺に及ぶことになる。特に、織田と羽柴は主従関係。ここで藤十が正室殿を責めれば、織田と重臣の羽柴の仲が悪くなるということだ。そうなれば、良からぬ者達によって羽柴の立場が悪くなるぞ」
秀政がそう言うと、重秀は黙ってしまった。理解はしたようだが、納得していない顔をしていた。それを見た秀政が、重秀に再び話しかける。
「藤十は長浜に戻る前に頭を冷やした方がいい・・・。そうだ。実は頼まれて欲しいことがあるんだけど」
「・・・なんでしょうか?」
「いや、実は明日、徳川から酒井左衛門尉殿(酒井忠次のこと)と大久保七郎右衛門殿(大久保忠世のこと)が使者として安土に来ることになっているんだ。そして明後日には安土に戻った上様と会見することになっている。そして、明日、私はお二方を饗すことになっているんだ。その手伝いをしてくれないか?」
「酒井様と大久保様が来られるのですか?まあ、それくらいならやりますが・・・」
そう言うと、秀政は「頼んだよ」と微笑みながら重秀に言うのであった。