第148話 宇喜多との交渉(後編)
感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。
行長との会見を終わらせた重秀は、行長が広間から居なくなったのを見計らって広間の襖を開けた。普段は家臣が控えるその部屋では、竹中重治が布団を敷いて横になっていた。
「半兵衛殿。お加減はどうですか?」
近寄ろうとする重秀に対し、重治は上半身を起き上がらせつつも右手を上げて重秀の動きを止めた。
「若君。伝染るやも知れませぬ。あまり近づかないように」
しかし、重秀はあまり気にせずに近づいた。重秀が重治の布団の縁近くまで近づくと、座りながらも話しかける。
「部屋に風を入れさせています。余程近づかなければ大事無いでしょう」
当時の医療では細菌やウイルスによる感染なんてものは分からなかった。ただ、患者と同じ悪い空気を吸うと病が伝染る、という知識はあった。そこで部屋の空気を入れ替えたり、風通しを良くしたりして悪い空気を無くそうとしていた。
ありがたいことに、高温多湿な日本の夏を考え、当時の家の部屋は大体風通しが良いものであった。なので障子や襖を大きく開いただけで、風通しが良い部屋がすぐに出来上がった。
「しかし、少しは顔色が良くなりましたな。阿閇城に来た直後に血を吐いて倒れたと聞いた時には焦りましたよ」
重秀がそう言うと、重治は「ご迷惑をおかけして申し訳ない」と頭を下げた。
元々重秀は阿閇城へ来る予定ではなかった。重秀は御着城で西播への睨みを効かせている予定であったが、重治が小西行長との交渉のために阿閇城へ来た直後に、血を吐いて倒れたと言う報せを受け取り、急遽阿閇城にやってきたのだ。
重秀が阿閇城に着いた時には重治は回復していたものの、布団から出るのが難しい容態であった。
交渉は体力や精神力を多く使うため、病人の重治にやらせる訳にはいかない。しかも、宇喜多との寝返り条件を知っているのは重治の他に重秀、前野長康、山内一豊のみであるため、急遽阿閇城に来た重秀が担うことになったのである。
「正直言って、それがしも寿命が尽きたと覚悟しておりました。ただ、何故か容態が軽くなったのは、やはり天はまだまだそれがしに働けと言っておられるのでしょうな」
重治がそう言うと、重秀は笑いながら重治に言う。
「やはり、日頃から『薬喰い』を行っていたからではありませぬか?」
『薬喰い』とは獣の肉を食べることを言う。肉食に抵抗のあった当時の日本人も、滋養強壮のために獣の肉を薬と称して食べていたのだ。特に、冬の食料の乏しい時期に鹿や猪を食べたことから、現代では冬の季語となっている。
さて、羽柴では南蛮人向けに牛や豚、鶏を飼育し、その肉を提供していた。当然、羽柴家中でも他家よりは肉が食されていた。そして家臣達も、量に差はあれど肉食を嗜んでいた。
重治はと言うと、鶏肉はともかく牛と豚の肉にはやはり抵抗があった。秀吉も重秀も牛や豚の飼育を始めた頃は重治に肉食の強制はしていなかった。
しかし、天正五年(1577年)の七月に重治は病で倒れた。この時、倒れた重治の回復を待つために羽柴は播磨への出兵を1ヶ月も先延ばしせざるを得なかった。実はこの時の重治の症状はとても重いものだった。
そう言う事もあって、重治が回復して以降、秀吉は重治に肉食を命じていた。当然『薬喰い』としてである。この頃には『琵琶湖の鯨肉』という名称で牛や豚の肉が出回っていたので、秀吉は「鯨は魚だから、半兵衛も食えるじゃろ!」と屁理屈を言って牛や豚の肉を重治の屋敷に送りつけていた。
また、重秀と飯を一緒にする時は必ず肉料理も出た。これは秀吉が重秀に「半兵衛に肉を食わせよ」という命令を忠実に実行したためである。
この事は、重治の息子である竹中重門の書いた秀吉の一代記にも記されており、後に、秀吉の軍記物では、肉を食べさせたい秀吉と食べたくない半兵衛との間で高度な頭脳戦が繰り広げられるシーンが描かれている。
「まあ、『薬喰い』はともかく、長浜にいた頃から海の魚を食していたことも今になっては良かったのではないかと思いまするが」
重治が言うように、長浜では海の魚が出回っていた。とはいえ生魚ではなく干物の魚であったが。
長浜では琵琶湖の魚が主に食されており、特に鮒の鮨は保存食として重宝されていた。そんな長浜に、伊勢安濃津城主織田信包の娘である縁が重秀に嫁いできた。羽柴家の食事をする縁も、当然鮒の鮨を食するようになった。独特の匂いを持つ鮒の鮨に対し、重秀は平気だったのだが縁は苦手であった。そこで縁は実の母である長野夫人に慣れた伊勢の魚の干物を送ってもらうよう、手紙で頼んだ。
手紙を受け取った長野夫人は娘の危機(?)に過剰に反応した。安濃津の全ての魚問屋に長浜へ魚の干物を送るように命じたのだ。それからというもの、長浜城には伊勢の魚の干物が大量に送りつけられるようになった。
さて、縁に魚の干物を持ってきた安濃津の商人達は、長浜で十日に一回、市が開かれていることを知った。長浜城下町以外の地域の商人が参加できるこの市に目をつけた安濃津の商人達は、さっそく海の魚の干物を売り出した。
長浜城下町に住む庶民にとって、海の魚の干物は珍しいものであった。魚といえば琵琶湖の魚(鮒や鯉、鰻など)であった。また、越前敦賀港から長浜経由で京へ向かう日本海の物産の中には鰊や鮭、鱈の塩漬けなどが含まれていたが、長浜を素通りするため、庶民の口に入る代物ではなかった。
しかし伊勢の魚の干物(主に鰯や鯵、鯛など)は、市での絶妙な価格統制のお陰で庶民でも手に入れやすい食材であった。そのため大変人気の食材となった。そして儲かることを確信した安濃津の商人達は、魚の干物だけではなく海老や鯏や蛤、ついには本物の鯨の干し肉まで売り出すようになっていった。
なので、当時の資料によれば、天正年間の長浜では『琵琶湖の鯨肉』(牛や豚の肉のこと)の他に『伊勢の鯨肉』(本物の鯨の肉のこと)が売られていたようである。
話がずれたが、重治も長浜にいた頃から海の魚の干物や貝を食していた。その後、重治は重秀が兵庫に移ったので一緒に移っていった。兵庫では当時の流通手段や保存方法が貧弱であったため、肉があまり食べられなかったものの、海に近いということで海の魚を積極的に食べていた。
肉と魚を食べるようになっていた重治は、結果的に体力と免疫力が上昇したらしく、多少の体質改善にはなったようである。
「肉と魚を食し、湯山温泉(有馬温泉のこと)で湯治したり兵庫や阿閇城で潮風を浴びたりしたことで、どうやらそれがしの身体は多少なりとも病に相対するようになったようですな」
重治が弱々しくもはっきりとした声でそう言うと、重秀はホッとした表情を浮かべたのであった。
「して、一日目の交渉は終わりましたが、聞いていてどう思われましたか?あれで良かったのでしょうか?」
重秀の表情が安堵から不安に変わると、そう尋ねてきた。重治が「あれで上々です」と答えた。
「それがしの期待以上の交渉でございました。特に、毛利の脅威を否定し続けたのは見事でした」
「何となく『戦国策』の『虎の威を借る狐』の故事を思い出しました故、虎の威を無くす策を思いついて言ってみただけです」
「だが、若君のその策は有効です。そもそも、自国を守るのに他国の力を前提にするのが誤ちなのです・・・っ」
そう言って話をしようとした重治は咳き込んで話を止めてしまった。重秀が重治の背中を擦りつつ、重治に話しかける。
「半兵衛殿、興奮なさらずに・・・。それよりも、こちらの要望は言わずじまいでしたが」
「初日でこちらの要望を言えないことはよくあることです。どうぞお気になさらずに。それよりも今後です。恐らく明日からは具体的な条件を話し合うことになるでしょう」
重治の言葉に、重秀は頷く。
「となると、明日はいよいよ和泉守(宇喜多直家のこと)の安土行きと嫡男八郎の質入れ、そして播磨の領地と美作の割譲を申し入れることになりますね」
重秀の言葉に、今度は重治が頷く。
「はい。ただ、それを受け入れることはないと思いますので、あとは如何に譲歩するかです」
「譲歩の限界は、前に御着城にて話し合った内容でよろしいのですか?」
「和泉守の上洛と、誰でも良いので人質を差し出すこと。そして領地の割譲はなし、ということでお願いします。特に、領地保全は必ず保証して下さい。それが宇喜多の願いですので」
重治の言葉に、重秀は「承知致しました」と言って頭を下げた。重治が「若君が家臣に頭を下げるんじゃないですよ」と笑った。
重秀が部屋を出た後、重治は身体を横たえようとした。直後、激しく咳き込んだ。思わず口を右手で抑えると、掌に温かいものを感じた。重治が右手を口から離して見ると、掌が真っ赤に染まっていた。
「・・・何とか若君には誤魔化せたが、これがいつまで誤魔化せるか・・・」
阿閇城に来た直後にあった咳の酷さや胸の痛みは今はない。しかし、咳をするたびに血が、しかも血の混じった痰とかではなく、鮮やかな赤い血が吐き出されているのだ。どう考えても身体の限界が近づきつつあった。
「・・・三木城の落城は見れなくても、宇喜多の寝返りだけは何としてもやっておきたい・・・。これが、殿や若君への最後のご奉公になるかも知れないのだから・・・」
そう呟きながら、重治は身体を横たえて目を瞑った。明日も無事に起きることができるように祈りながら。
重秀が自室に戻り、そこで加藤茂勝と大谷吉隆と夕餉を取っていた時だった。障子の向こう側から声が聞こえた。
「兄貴。ただ今戻った」
「おう、入れ」
重秀がそう返事をすると、障子が開いて福島正則と加藤清正が部屋に入ってきた。二人は重秀の前に来ると、座って平伏した。
「『八幡丸』のくま殿に、例の話をしてきたぜ」
「そうか。というか、播磨の酒を送ったのだから、一緒に飲んで・・・きたみたいだな」
二人の帰りは遅くなると想像していた重秀が、真っ赤な顔の正則の顔を見ながらそう言うと、正則ではなく清正が笑いながら重秀に応える。
「市の奴、結構飲んでましたよ。お陰で話をしたのはそれがしですが」
「嘘つけ!お前だって飲んでたじゃねーか!」
「肝心な話ができなくなるまで飲んでないぞ」
抗議した正則を一蹴した清正は、重秀に報告を続ける。
「長兄の予想通り、くま殿を始め水夫達は長兄の提案である三角帆の提供に興味を示してきました。また、塩飽への養蚕や牛の飼育、油桐の栽培については『そこまでやる人手が足りぬ』と申しておりました。島の男共は船の漕手に取られますし、女子供は少ない田畑の世話と海女としての役目があります故、とのことでした」
清正の言葉に重秀は「ふむ・・・」と答えた。少し考えて口を開く。
「ただ、三角帆を自在に扱えるようになれば、船の漕ぎ手は減らせるから、その分の人手は回せるんじゃないか?」
「兄貴よ。そもそも連中は羽柴の配下になる気はさらさら無いぜ。多分そう言ったところで『余計なお世話だ』って言われるのがオチだぜ」
そもそも正則と清正がくま達と接触したのは、ただ単に一緒に酒が飲みたい、という訳ではなかった。重秀の命を受け、塩飽の舟手衆を羽柴の傘下に組み入れようとしたのである。
羽柴水軍にとって水夫がいないのが悩みの種であった。長浜や菅浦、大浦、塩津の水夫を連れて来ているが、やはり湖と海では勝手が違うため、即戦力にはなっていない。そこで、即戦力として塩飽の舟手衆に目をつけたのであった。
「長兄。塩飽の連中は菅浦以上に他からの支配を嫌っています。もし、羽柴に組み込むのであれば、誰かの領地とせず、惣を認めるしか無いと思いますが」
「福田某という代官が不慮の事故で亡くなって以降、塩飽の島々ごとの島民をまとめる年寄が集まって話し合いをしているようだぜ」
清正と正則がそう言うと、重秀は「う〜ん」と唸った。
「・・・なるほど、それぞれの島々の年寄が集まって話し合うのか。本当に菅浦の乙名衆みたいなものだな・・・。ならば、いっそ菅浦のように年貢だけ貰ってあとは年寄の集まりに丸投げするか」
「しかし長兄。あそこは田畑が少ないから、米ではなく塩で年貢を納めてると聞きましたが」
清正がそう言うと、重秀は首を横に振った。
「塩も悪くないが・・・。俺が欲しいのは『人』だ」
重秀の言葉に、正則や清正だけではなく、茂勝や吉隆も首を傾げた。重秀が説明する。
「ほら、父上が長浜城を築城した際、周辺の百姓に年貢の免除を条件に、長浜城下に住まわせて築城を手伝わせただろう。それと似たようなことを考えているんだ。具体的には、若い男を二、三年ほど羽柴の軍船で水夫とか案内人をさせるんだ。数年経てば塩飽に帰ってもいいし、そのまま足軽として水軍に登用しても良い」
重秀の説明に皆は唖然とした。そんな中、吉隆が恐る恐る声を上げる。
「・・・恐れながら・・・。若い男が水軍に取られますと、残された女子供、老人が食えなくなると思いますが」
「だから蚕や牛、油桐を育てさせるんだろうが。残された者でも稼げそうな物を与えるんだ」
重秀の即答に皆が「ああ」と納得したような声を上げた。重秀が話を続ける。
「市、虎。そのことをくま殿に話してきて欲しい。そして、塩飽を治める年寄?そう言った指導的な立場の人達に伝えて欲しいと。そして、機が熟したら、この羽柴藤十郎が島に出向いて話し合いがしたいと、な」
次の日。重秀は行長との交渉に再び臨んだ。今回も広間で行われており、上座に重秀が座り、下座に行長が座って対峙していた。広間の左右には四郎左衛門と知宣が座っている。行長の付き添いの部下達は行長の後ろに座っていた。
「昨日は美味い牛の肉を頂き、大変ありがたく。また、その後の酒や寝所の提供などの心遣い、誠に恐悦至極」
そう言って頭を下げる行長に、重秀は笑顔で答える。
「日頃お世話になっている小西隆佐殿のご子息をどうして粗略に扱えましょうか。とはいえ、阿閇城は何も無い城故、大した心配りもできずに申し訳なく思っております」
重秀の言葉に、行長は「いえいえ、十分な饗しでございました」と恐縮した。
しかし、穏やかなムードはそこまでだった。いざ交渉となると、やはり場の空気は緊迫したものとなった。
「和泉守様の安土行きと嫡男八郎の質入れ、そして播磨の領地と美作の割譲ですと!?そのような条件飲めるとお思いか!?」
重秀が先手として仕掛けた行長が怒鳴り声を上げた。しかし、どことなく芝居がかっているように見えた。一方、重秀も顔に嫌悪感を滲ませながら声を上げる。
「赤松家の守護の座を和泉守に認めろと?播磨の守護まで求めるなど、盗人猛々しいと言わざるを得ません」
重秀がそう言って拒絶の意志を示す。その後は喧々諤々の議論が始まった。
互いに譲り合わない議論が延々と続いて二日目が終了した。行長達が広間から居なくなって少しした後、重秀は立ち上がると控えの間に繋がる襖を思いっきり開けた。
「半兵衛殿!」
「落ち着いて下さい、若君。声が大きゅうございますぞ。それがしがここに居たことが小西殿達に露見してしまいます」
重治にそう言われた重秀は、思わず右手で口を押さえた。重秀が重治が座っている布団の縁の近くに座ると、小さな声で話しかける。
「・・・しかし半兵衛殿。播磨の守護はあまりにも要求が過大すぎます」
「そうですね。しかし、宇喜多は佐用郡と赤穂郡を領有しておりますれば、その領有を理由に播磨の守護を要求するのは当然でしょう」
「そんな要求飲めるわけ無いでしょう・・・」
重秀が渋い顔をしながらそう言うと、重治は「我等も過大な要求をしているでしょう」と笑いながら言った。この言葉で、重秀はあることに思いが至った。
「・・・向こうも譲歩前提の過大な要求をしてきている?」
重秀の言葉に、重治が「ご明察」と言った。
「恐らくですが、宇喜多は佐用郡を失いたくないのでしょう」
「・・・とするならば、こちらとしても譲歩しようがありますね」
元々宇喜多の領地は保全することに決まっていた。なので、播磨の一部を宇喜多領のままとすることは特に問題はなかった。
「それよりも、小西殿は和泉守の安土行きと八郎君の質入れについては何も言ってきませんでしたな」
重治の言葉に、重秀が「最初の方で拒否してましたが」と答えた。しかし、重治が首を横に振る。
「ここで漏れ聞いた話によれば、小西殿は領地の話に対しては理論整然と対応しておりましたが、安土行きと質入れについてはあまり力を入れずに拒否しておりました。恐らくこの件についてはあまり考えていなかったのではありませんか?相手の思考の隙をつくのも交渉の手段でござる。ならば、むしろそこを重点的に攻めるべきかと」
重治の言葉に、重秀は頷く。
「確かに、父上の話では上様は和泉守を信用していないとか。ならば、小西殿には和泉守が上様を信用させる必要があることを説明したほうが良いかも知れませんね」
そう言うと重秀は右手を拳にして口元に当てながら考え込んだ。そして重治に視線を移すと、意気込むように話す。
「分かりました。小西殿が阿閇城に居られるのは明日のみ。ここで一気に和泉守の安土行きと嫡男の質入れを説得しましょう」