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第147話 宇喜多との交渉(中編)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


PV数300万突破しました。ユニーク数95万人突破しました。ご愛読いただきありがとうございます。


メッセージをいただきました。あたたかいご声援ありがとうございます。個別返信は控えさせていただきますが、しっかりと拝読させていただきました。

まずは『大坂の幻〜豊臣秀重伝〜』をエタらせないよう、頑張っていく所存です。

 天正七年(1579年)六月中旬のある日。阿閇城に一隻の船がやってきた。船の名は『八幡丸』。塩飽の船である。

 その船の船頭である()()は、手下の男達に指示を出しながら、阿閇城の近くの砂浜に船を寄せようとしていた。しかし、男共は阿閇城の方を見ながら作業しており、作業に集中していなかった。


「ほら!そんな風にボーッと作業していたら、怪我するよ!」


「でもよぉ、お嬢。あんな奇っ怪な形をした船や、あんな大きな船を見せられたら、誰だって見とれちまうわなぁ」


 ()()の叱責に対し、()()より年上の水夫がそう反論した。確かに、阿閇城の近くには、水夫が言ったような奇抜な船や巨大な船が浮かんでいたのである。


 ()()と配下の水夫達が見たのは、羽柴水軍の一部であった。奇っ怪な船とは関船の『村雨型』最新船である『梅雨つゆ丸』と『驟雨しゅうう丸』で、巨大な船とは第二次木津川口の戦いで名を挙げた『龍驤丸』であった。

『梅雨丸』と『驟雨丸』は兵と水夫の補充がやっと終わり、訓練を兼ねて阿閇城に来ていた。また、『龍驤丸』は織田信包の水軍より羽柴水軍へ正式に配置換えとなった。木津川口砦と楼の岸砦が石山本願寺から織田に奪われたことにより、九鬼の大安宅船六隻で十分難波沖と木津川河口の封鎖が可能になった。その結果、余剰となった織田信包の大安宅船は事前の信長の命により、羽柴へ譲られることとなった。

 ()()達が見た船は、『梅雨丸』『驟雨丸』『龍驤丸』だけではなかった。他の『村雨型』が数隻、阿閇城沖をゆっくりと航行していたし、三角形をした帆を掲げた小早がそこかしこを走り回っていた。()()達が驚いたのは、横風や向かい風でも艪を漕がずに走っていたことだった。


「・・・あれが噂になっている羽柴水軍か」


 いつの間にか横に来ていた小西行長がそう呟いた。それを聞いた()()が「知っているのかい?」と行長に尋ねた。


「噂でしか知らないが、少なともあの巨大な安宅船の噂を聞かない日はなかった。あれで村上水軍を打ち破ったらしいからな」


「へぇ・・・」


 ()()は言葉少なげに呟いた。あまり驚いていない様子に、行長が訝しげに尋ねる。


「なんだ。驚かないのか?」


「別に。そりゃあ、あんだけでかい船が作れる織田の資金や技術には驚かされるけどさ。瀬戸内じゃあ、あのでかさはかえって船が動かしづらいよ。潮の満干具合ではあのでかい船が通れないところもあるからね。

 ・・・むしろ驚くなら、あの三角形の帆を持つ船だね。横風でも艪を使わないで進んでいるし、向かい風の方向に蛇行しながら進んでいる。あれは驚きだね」


 帆走は順風でないとできない、という常識を目の前で打ち破っている羽柴の小早を、()()は苦々しい想いで見つめていた。


「そんな目で見なくても・・・」


 行長がそう諫めるが、()()は首を横に振りながら言う。


「羽柴の舟手衆は琵琶湖の舟手衆が中心だって羽柴の若君から聞いたことがある。あの時は内心、連中を舐めていた。海を知らない連中に何ができるのかと。しかし、こうやって実際に羽柴の舟手衆が上手くやっていることに、アタシ等塩飽の船乗りは今まで何やってたんだ、って思わざるを得ないんだよ」


 塩飽の舟手衆は確かに航海技術は素晴らしいものであった。長い間、潮の流れが複雑な塩飽諸島で鍛え上げられた船乗りたちの潮の読み常に的確であった。しかし、長い時間で培われた航海技術は、あくまで船乗りの経験で支えられるものであり、船そのものの改良には繋がっていなかった。

 しかし、羽柴の舟手衆は南蛮船の技術を使って海を自在に行き来するようになっていたのだ。()()にはそれがショックであった。新参者が難なく瀬戸内の荒潮に適応できていれば、古参の船乗りからすれば面子を潰されたと思うだろう。


「アタシ等塩飽の船乗りと、羽柴の船が一緒になれば、塩飽は瀬戸内の海運を牛耳れるかも知れないね・・・」


 ふと呟いた()()の言葉は、潮風に邪魔をされて行長の耳には入っていかなかった。





 阿閇城にやってきた小西行長と付き添いの部下数名を城門で待っていたのは、尾藤知宣であった。


「小西弥九郎殿でございますね。尾藤甚右衛門にござる。お見知りおきを」


「ご丁寧な挨拶痛み入りまする。小西弥九郎にございまする」


 挨拶を交わすと、知宣は行長達を城内に案内した。阿閇城本丸御殿の広間に案内された行長達。しかし、そこにいたのは、事前に交渉役として聞いていた竹中重治ではなかった


「小西殿、よくぞ来られた」


 広間の上座に鎮座していたのは、重秀であった。行長達は内心驚きながらも、その驚きを表には出さなかった。一行が下座の真ん中に座って平伏すると、行長が代表して挨拶をする。


「・・・若君におかれましてはご機嫌麗しく」


「ご挨拶痛み入る。此度の交渉はそれがしが行います。故に、若君など堅苦しくなく、気軽に藤十郎とお呼び下さい。また、人を介しては面倒なので、直言直答を許します。ここにいるは羽柴の若君ではなく、羽柴筑前の家臣、藤十郎とお思い下さい」


 重秀が穏やかな声でそう言うと、行長は「恐れ入ります」と言って再び平伏した。


 広間の左右に知宣と外峯四郎左衛門が控えて見守っている中、さっそく重秀と行長との間で交渉が始まった。


「羽柴様、いや、前右府様(織田信長のこと)にとり、毛利は倒すべき敵ながら、安芸、周防、長門、備後、備中、石見、出雲、隠岐を領し、豊前、伊予、伯耆、因幡、但馬、讃岐、淡路の国衆が右馬頭様(毛利輝元のこと)に従っております。そして、我が宇喜多は備前、美作そして備中と播磨の一部を領しております。公方様(足利義昭のこと)の下で副将軍を務めし右馬頭様を討ち滅ぼすは、いくら前右府様でも無理というものにございましょう」


「我が義父ちち上様(信長のこと)は尾張、美濃、飛騨、伊勢、近江、越前、若狭、山城、河内、和泉、摂津、丹波、丹後を領し、播磨と但馬は我が父筑前守と叔父小一郎が切り崩しております。更に言えば、土佐、阿波の長宗我部宮内少輔様(長宗我部元親のこと)と三河、遠江の徳川三河守様(徳川家康のこと)と盟を結んでおり、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後、日向の大友宗麟様とは長年の誼があります。

 ・・・更に言えば、我が義父上様は長年京の護りを心血注いで行い、結果、帝や関白殿下を始めとした朝廷の信任厚く、従二位右大臣の任を授かりました。今は右大臣の職を辞しておりますが、未だ従二位でございます。いづれ従二位に相応しき官職を授かるものと聞いております。そのうち、我等は官軍として各地の朝敵を打ち破ることになるでしょう」


 行長が毛利の凄さをアピールしたのに対し、重秀は信長の今の実力をやや誇張気味に言った。豊後の大友宗麟は去年行われた耳川の戦いで島津に大敗しており、また肥前の龍造寺に西から圧力をかけられていた。六カ国を有していた大友は、衰退の一途を辿っていた。

 また、信長が従二位に相応しき官職が与えられるかどうかについてはこの時点ではまだ不透明であった。いわゆる『三職推任問題』が発生するのはもう少し後の話である。


「しかしながら、前右府様は毛利だけではなく、周囲を上杉、武田、北条と囲まれておりますれば、毛利だけに全軍を投入することは不可能なのでは?」


「ご心配なく。徳栄軒(武田信玄のこと)や不識庵(上杉謙信のこと)ですら前右府様を討つこと能わず。ましてその息子や養子に討つことができましょうや。それに、北条は自分の領地以外に興味は持ちませぬ。我等まで攻めてこないでしょう。更に言えば、例え上杉や武田が我が背後を討ったとしても、武田には徳川様が、上杉には佐久間様が対応したします。二人共歴戦の猛将なれば、負けはしますまい」


 行長が織田の後背にいる上杉、武田、北条の存在を指摘したものの、重秀は織田は背後を気にしていないと行長に伝えた。すなわちそれは西国に主力を向かわせることができる、と述べているに等しかった。

 行長はここで気が付いた。織田は宇喜多を高く買う気はないのだと。しかし、ここで高値で宇喜多を売らなければ、あの直家に何をされるか分からない。


「・・・織田全軍が毛利と決戦を挑むのであれば、我等宇喜多は毛利と共に戦うこととなりましょう。我が主和泉守(宇喜多直家のこと)は戦巧者。必ずや備前美作を守り切る所存にて。それに、毛利には名将の誉れ高い両川(吉川元春と小早川隆景のこと)がいらっしゃいます。織田もただでは済みますまい」


 行長は毛利の実力を強調した。それに対し、重秀は困惑しつつも話し出す。


「・・・我が父筑前守を愚弄する気はないのですが・・・。我が父筑前守は織田家では重臣っぽく見えておりますが、実は戦が不得手でして。こと槍働きという点では義父上様よりあまり評価はされておりませぬ。ただ、敵の数を調略や謀略で減らすのと、内政が得手なだけです。こと戦という点で言えば、柴田修理亮様(柴田勝家のこと)を始め、惟任日向守様(明智光秀のこと)、惟住五郎左衛門尉様(丹羽長秀のこと)、滝川伊予守様(滝川一益のこと)、池田紀伊守様(池田恒興のこと)、河尻肥前守様(河尻秀隆のこと)、森武蔵守様(森長可のこと)、長岡兵部大輔様(長岡藤孝のこと)などなど、綺羅星の如き戦巧者が数多くいらっしゃいます。彼等がいたからこそ、我等は天正五年(1577年)の危機を乗り越えられたのです。更に言えば、義父上様を包囲せんとした勢力は多くありました。しかし、義父上様を討ったとか、織田家が滅亡したということはついぞありませんでした。

 ・・・毛利と宇喜多の二家だけで、織田家を滅ぼせると思っておいでですか?」


 重秀が困惑した顔を見せた時、行長は自分が有利に立ったと思った。しかし、困惑顔の重秀が話した内容は、行長に自分が有利な立場にあったことなど幻覚でしか無いことを分からせるだけであった。


「・・・本気で毛利と戦って勝てるとでも?毛利も弱くはありませぬ。必ずや織田を返り討ちになさるでしょう」


 行長が力強くそう言うと、重秀は黙り込んでしまった。両腕を組み、両目をつぶって瞑想する重秀の姿を見て、行長は心中で「これなら上手く行くか?」と呟いた。

 しかし、瞑想を止めた重秀の口から放たれた言葉は、行長の予想を超えるものであった。


「義父上様は和泉守を絶対に許しません」


「はっ?」


 思わずそう声に出した行長。それに対して重秀は行長の目を見ながら話を続ける。


「そもそも備前と美作は、義父上様と公方様が浦上遠江守様(浦上宗景のこと)の所領安堵をしておりました。その所領を和泉守は奪ったのです。和泉守は公方様と義父上様の面目を失わせたのです。まあ、その後は公方様は鞆へお移り致しました故、そこで和泉守を許されたかも知れませんが」


 そう言うと、重秀は一呼吸置いた。そしてまた話し始める。


「義父上様は面目を重んじるお方。面目を失わせた和泉守を許しはしないでしょう。義父上様は許さないと決めたらとことん根切り(皆殺し)をされるお方です。私はそれを初陣の長島一向一揆平定戦で目の当たりにしました」


 思い出すかのように遠くを見るような目をしながら言う重秀。視線を行長に戻すと、行長に穏やかな口調ながら断言するかのように話す。


「義父上様は必ず、宇喜多一門を根切りにいたすでしょう。いや、越前一向一揆のように、備前美作の二カ国を根切りいたすでしょう」


 重秀の物言いに、行長は思わず息を呑んだ。しかし、行長も負けてはいられなかった。


「・・・その様な脅しに屈する宇喜多家ではございませぬ。毛利は必ずや我等と共に戦ってくれます。そうしなければ、次は毛利だと考えるからです」


「次が毛利と、何故分かるのですか?」


 行長の反論に、重秀が間髪を入れずに尋ねてきた。重秀が更に言葉を重ねる。


「意外に知られていないのですが、我が父筑前守は毛利家との取次を義父上様より命じられております。それ故、毛利方の安国寺恵瓊様とは昵懇の仲にございます。筑前守と安国寺様とで話し合いが持たれれば、毛利と織田が和議を結ぶことも可能です。そうなれば、宇喜多は単独で織田と戦うことになります」


「馬鹿なっ!ありえない!」


 行長が思わず立ち上がった。それを見た四郎左衛門と知宣が刀を持ちつつ、片膝をついて立ち上がろうとした。しかし、重秀がそれを止める。


「二人共落ち着け!小西殿は刀を持っておらぬではないか!」


 若造とは思えないほどの鋭い声を上げた重秀。その声を聞いた四郎左衛門と知宣、そして行長が腰を下ろした。行長が平伏する。


「ご無礼仕りました。平にご容赦を」


 行長の謝罪を重秀は黙って頷くことで受け入れた。行長が重秀に言う。


「こう言っては何ですが、毛利と織田が和議を結べるのですか?すでに干戈を交えている中で、そう簡単に和議を結べるとは思えませぬ」


「長年抗ってきた石山本願寺も朝廷を介して和議を申し出てきました。また、義父上様は元亀元年(1570年)、勅命をもって浅井・朝倉と和議を結びました。先程も申し上げたように、朝廷は織田への信頼厚く、必ずや和議の勅令は出されるものと考えております。毛利もよもや帝の命令である勅令を拒否いたしますまい」


 重秀の言葉に、行長は再び詰まってしまった。もし、織田と毛利が和議を結べば、宇喜多は梯子を外された形となる。そうなった場合、宇喜多単独で織田と立ち向かわなければならない。そうなればどう頑張っても勝てるわけがなかった。

 もっとも、行長は知らなかったが、天正五年(1577年)に荒木村重と松永久秀が毛利に寝返った時、信長は朝廷を動かして石山本願寺と和議を結ぼうとしたものの、石山本願寺の拒否によって和議が結ばれなかったこともあった。朝廷が動けば必ず和議が結ばれるというわけでもなかった。


「・・・織田が宇喜多との戦を望んでいるのはよく分かりました。しかし、その先頭に立つは羽柴様でございます。羽柴様は三木城の別所を攻めておられますが、更に宇喜多を相手にすれば、羽柴の損害は大きいのではありませぬか?」


 行長が更に食い下がるが、重秀が「そんな馬鹿な」と一笑に付した。


「義父上様は戦巧者。そんな無茶をなされる方ではございませぬ。いや、傍から見れば無茶に見える戦法を取ることもございますが、裏では十分策を練っておられますよ。そもそも、義父上様や三位中将様が御出馬と相成れば、三木城はあっという間に陥落いたします。羽柴もそれほど被害を被らずに宇喜多と戦えます」


 その後、行長は羽柴と織田が宇喜多と戦えば、羽柴や織田は必ず毛利との全面戦争になる、ということを強調した。一方、重秀は織田と毛利の決戦を辞さず、という強い意志を伝えた。重秀は「毛利と刺し違えてでも、織田は宇喜多を殲滅する」とまで言って行長を震え上がらせた。


 ―――拙い。織田は本気で宇喜多を潰す気なのか?いや、ここまで強硬策が取れるのはおかしい。なにか裏があるのかもしれぬ・・・。まさかとは思うが、大局が読めずに適当なことを言っているのではないだろうな?もしくは、若気の至りで武功を挙げんがために視野が狭くなっているのか?―――


 目の前の羽柴の嫡男は齢十八。この時代の平均的な十八歳は大人の分別が付きつつあるが、それでも冒険したいお年頃である。

 しかし、行長は父である小西隆佐から重秀の話を聞いている。竹中半兵衛の薫陶を受け、内政では領地を豊かにしようと自ら率先して養蚕や畜産、造船に力を入れていると。

 歳が若いからと言って、『今孔明』と呼ばれた竹中半兵衛の薫陶を受けた羽柴の嫡男が、そんな思慮の浅い考えをするのだろうか?

 行長がそう考えた瞬間、行長の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。行長がその疑問をぶつける。


「そう言えば、それがしと会談をすることになっていた竹中様は如何なさいましたか?」


 行長がそう言った瞬間、重秀の顔に初めて動揺の表情が一瞬だが現れた。しかし、すぐに平静を装うような表情になる。


「・・・半兵衛殿は御着城にて官兵衛殿(黒田孝隆のこと)と今後の策について話し合っておられる」


 そう言う重秀に対し、行長は「策とは?」と思わず聞いてしまった。それに対して重秀は答える。


「知らない。ただ、あの二人も謀略や調略を得手としているから、何か突拍子もない策を考えているやも。

 ・・・そう言えば、浦上遠江守様はどこに行ったのやら」


 重秀の言葉に行長は渋い顔をした。竹中半兵衛と黒田官兵衛が浦上宗景を探していると考えたのだ。宗景は去年十二月の蜂起に失敗して以降、行方不明となっていた。しかし、死んでいないことだけは直家も行長も知っていた。


 ―――さては、遠江守を担いで備前と美作の国衆を寝返させるつもりだな?織田が本格的に攻めるとなれば、当然備前と美作の国衆に調略をかけるつもりだろうからな―――


 行長が思いを巡らせていると、不意に右から声がしてきた。知宣の声だった。


「若君。そろそろ・・・」


 知宣の声に反応した重秀が、行長に話しかける。


「小西殿。長い時をかけて話し合いましたが、まだまだ条件が折り合いませぬ。ここは一旦休みを置いて、改めて仕切り直しませぬか?それに、もう夕刻です。腹をすかせては頭も働きませぬ。今日はここまでに致しましょう」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 一昨日から読み始めました。おもしろい! [気になる点] 面白い! [一言] 応援応援
[良い点] 若干十八歳とは思えないタフネゴシエーター。父・秀吉、叔父・秀長、師匠、竹中半兵衛、そして前田夫妻の教育の成果が充分以上に発揮されてますね。 [一言] > ここで高値で宇喜多を売らなければ、…
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