第144話 北播平定
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天正七年(1579年)四月。秀吉の本陣が置かれている御着城に、信長からの援軍が到着した。伊勢からは滝川一益の軍勢、若狭から丹羽長秀の軍勢、そして美濃から森長可の軍勢が御着城に集結した。これに前々から派遣されていた堀秀政、蒲生賦秀、中川光重、織田信包(分部光嘉は信包と合流)、北畠信意、神戸信孝と、羽柴の軍勢と黒田孝隆を中心とした織田に与する播磨の国衆が御着城に集結することとなった。総勢三万人強の大軍である。
「やあやあ皆様方!此度のご助力、この筑前感涙の極みにて!これだけの軍勢を見れば、三木城の別所だけではなく、西の宇喜多や毛利も上様の武威に恐れをなしましょうぞ!」
秀吉の明るい声に対し、諸将の反応は様々であった。勝利へ向けて気合を入れる者、勝利を確信して力強く頷く者、そして秀吉が調子に乗っていると見て冷ややかな目で見つめる者、なのである。
そんな中、秀吉は竹中重治に作戦の概要を説明するよう命じた。重治が咳き込みながらも作戦を説明する。
「まずは毛利の援軍を防ぐ必要がございます。従いまして、御着城にて上総介様(織田信包のこと)の指揮の下、西播の赤松孫次郎様(赤松広英のこと)、赤松左京大夫様(赤松則房のこと)、そして黒田官兵衛殿は各々の居城である鶏籠山城、置塩城、姫山城にて守備についていただきまする。また、小河三河殿(小河良利のこと)と江田善兵衛殿および旧小寺家中の方々は御着城にて西播への援軍として待機していただきます」
重治の言葉に対し、信包が「うむ、任せよ」と鷹揚に頷いた。重治の説明はまだ続く。
「続きまして、小一郎殿と若君には北播磨を平定していただきます。小一郎殿は姫山城を始点に但馬道を北上。但馬道沿いの城を落として下さい。若君は阿閇城から加古川城へ移動した後、井ノ口城攻めに参加して下さい。それから加古川沿いを北上、加古川沿いの城を落として下さい。
・・・小一郎殿も若君も、播磨の国境まで平定していただきます」
重治の言葉に、小一郎と重秀は同時に「承知致しました!」と声を上げた。
「そして残りの方々は我が主、筑前守の指揮の下、三木城周辺の支城を攻め落としていただきます。と言っても、残っている有力な支城は井ノ口城と北の豊地城だけです。その後、皆様には附城を作っていただきます」
重治がそう説明した直後、丹羽長秀が手を挙げて発言の許可を求めた。
「附城を作る、と言うことは、三木城への力攻めは行わないのか?」
「現段階での力攻めは行いませぬ。三木城は堅牢な城にて、ただ力攻めをしてもこちらの被害が大きくなります。更に言えば、毛利が上洛のために当主自ら大軍を率いてやってくるとの報せもありました。その様な場合、三木城で無駄に兵を減らすのは得策ではないと存じます」
重治の淀みない返答に、長秀は満足そうに頷いた。しかし、不満そうな顔をした将達が声を上げる。
「城を攻めないのか?では播磨まで来た意味がないではないか。別所の首を挙げるのを楽しみで来たのに」
「志方城では兄上の邪魔が入って武功を挙げられなかったから、三木城では気合を入れようと思ったのに・・・」
「志方城では我等北畠勢が武功を挙げた。だから三木城でも北畠が武功を挙げるのです」
森長可、神戸信孝、北畠信意が不満を表した。そんな三人に秀吉が声をかける。
「いやいや、お三方!別所は東播でも勇猛果敢なお家柄。支城を攻めているうちに向こうから援軍がやってくるやも知れませぬ!それに、三木城には知将の誉れ高い淡河弾正(淡河定範のこと)が居りますれば、必ずや策を講じて打って出ること間違いなし!その時にはお三方の武勇で何卒ねじ伏せてやってくだされ!」
秀吉の言葉に気を良くした三人。それぞれが満足そうに頷いた。その後、さらに詳しい策の説明がなされた後、その日の軍議は解散となった。
御着城での軍議のあった日から5日後。播磨の織田軍は一斉に動き出した。まず姫山城から小一郎が率いる但馬派遣軍が出陣。小一郎直轄の軍勢の他、宮部勢、木下勢、荒木勢、尼子勢が但馬道を北上した。
同じ日、阿閇城から加古川城へ移動した重秀の軍勢が、御着城から移動してきた秀吉本隊と、魚津城や林ノ城にいた堀尾勢、中村勢と合流した。
そして次の日、井ノ口城へ向けて出撃。その日のうちに井ノ口城を攻めることとなった。
井ノ口城はこの頃、志方城の櫛橋家の家臣である依籐氏の居城であった。志方城の櫛橋家は去年羽柴に降伏していることから、最初秀吉は降伏勧告を出した。しかし城からの返答は拒否であった。
「致し方ない。鬼武蔵の恐ろしさ、とくと味わってもらおう」
秀吉がそう言うと、森長可勢に攻撃を命じた。更に滝川一益勢と丹羽長秀勢がサポートに回った。
織田家随一の猛将が疲弊していない兵と共に攻め込んできたのだ。しかも滝川勢も丹羽勢も豊富な鉄砲と弾薬を持っていた。当然井ノ口城は一溜まりもなかった。依籐氏は一族郎党、尽く城と運命を共にした。
秀吉達が井ノ口城を陥落させた直後、軍勢は2つに分かれて進軍を開始した。1つは秀吉率いる本隊。これは三木城を攻めるために南と西、東に附城を作りに行く部隊である。もう1つは丹羽長秀を大将に、滝川一益、別所重宗等からなる別働隊で、まずは加古川沿いにある池尻城を落とし、その後三木城の北にある豊地城を攻略、さらにその後三木城の北に附城を作っていく部隊である。
そしてこの別働隊と共に池尻城を攻めるのが重秀率いる部隊である。重秀の他、福島正則、加藤清正、加藤茂勝、大谷吉隆、前野長康、山内一豊、尾藤知宣、浅野長吉、堀尾吉晴、中村一氏らが手勢を率いて参加していた。
ちなみに外峯四郎左衛門・与左衛門親子は阿閇城にて留守居役を務めていた
「出陣!」
若いながらもすっかり部隊の指揮が様になってきた重秀の号令の下、重秀勢約二千が井ノ口城から出陣した。重秀勢は重宗の手勢の後ろをついていくように池尻城へと向かった。
「長兄、新しい馬は如何ですかな?」
馬上の清正が、隣りにいた馬上の重秀に声をかけた。
「ああ、良いね。大きくて、頑丈だ。安定しているから乗り心地も極上だ」
そう言うと、重秀は自分が乗っている馬の首元を軽く撫でた。
重秀が乗っている馬は信長から阿閇城の戦いで勝利したことに対する恩賞であった。とても素晴らしい名馬だったので、当初は実際に戦って敵の兜首を討ち取った一豊か清正に与えようとした。しかし、二人からは拒否された。
「恐れ多くも若君が上様よりご拝領の名馬を、それがしが頂く訳には参りません。若君が乗って然るべきかと」
「伊右衛門殿(山内一豊のこと)の言うとおりです、長兄。大体、年長者の伊右衛門殿を差し置いて若造の俺が上様の名馬を貰える訳無いでしょう」
そう言って固辞する二人に対して、重秀は「ならばこの馬を売って銭に変え、その銭を二人に分け与えよう」と言い出した。当然二人は反対した。
そんな押し問答があったため、この件は秀吉に持ち込まれることとなった。そして秀吉の結論は、
「馬は藤十郎に。そして藤十郎は馬を売った金額を見積り、もってその金額もしくは米を伊右衛門と虎之助に与えよ」
であった。重秀は秀吉の言うとおりにしたのだった。
「んで、池尻城ってのはどんな城なんだ?」
重秀を挟んで清正の反対側にいた正則がそう尋ねてきた。重秀が答える。
「孫右衛門尉殿(別所重宗のこと)が言うには、丘の上の小さな城らしい。昔からある城で、土塁と空堀、それに板塀のみの城だそうだ」
「・・・大した城じゃなさそうだなぁ」
つまらなさそうに言う正則に、重秀が「油断するなよ」と注意した。
「我々は大した城じゃない阿閇城で、大軍を撃退したじゃないか。同じことが無いわけではないだろう」
「まあね。ただ、向こうには竹中半兵衛様はいないでしょうに」
気楽に言う正則に、重秀も苦笑しながら「まあな」と答えた。
「まあ、池尻城攻めは惟住様(丹羽長秀のこと)の指揮の下、孫右衛門尉殿が先陣を務める。我等は後詰め故、あまり活躍はできないな」
重秀がそう言うと、正則も清正もつまらなさそうな顔をした。重秀がそんな二人を見て苦笑する。
「我等の本番は加古川沿いの多数の城の接収だ。今から気合入れろ、とは言わなけど、あまり油断するなよ?何が潜んでいるか分からないし、下手したら百姓達に寝首をかかれるかも知れない。ここが敵地だと忘れるなよ」
重秀がそう言うと、正則と清正がギョッとしたような顔をした。
「そうか。百姓が敵になるということもあるのか。考えても見なかったぜ」
「よくよく考えたら、播磨にも結構な一向門徒が居りました。彼等が敵となって襲ってくること、確かに考えるべきでした」
正則と清正がそう言って表情を引き締めた。その様子を見た重秀は、二人が油断しなくなったことに内心ホッとしたのであった。
次の日。池尻城を取り囲んだ別働隊は、重宗率いる別所勢を先頭に池尻城に総攻撃を加えた。
池尻城には少数の兵がいたため、多少の抵抗があったものの、丹羽長秀、滝川一益、そして織田方として多数の実戦を経験した別所重宗といった歴戦の武将に率いられた兵の敵ではなかった。
戦いは一刻で終わり、城兵は全滅。池尻城は陥落した。
「惟住様。勝ち戦、おめでとうございます」
池尻城に入城し、陣を構えた長秀に重秀が挨拶をした。
「おう、藤十郎か。もうお主の軍勢も池尻城に入れたのか?」
「いえ、我が手勢は城外に留めたままにて。これより北上し、垂井城を攻め落としまする」
重秀の発言に、長秀だけではなく側にいた一益や重宗も驚いたような顔をした。長秀が重秀に聞く。
「今日攻めるのか!?早くないか!?」
「皆様が池尻城を攻めている間、物見を出しました。兵はほとんどいなかったとの報せを受けております」
淀みなく答える重秀に、長秀は何も言えなくなってしまった。その横で、一益が首を傾げながら重秀に言う。
「行くのは別に構わぬと思う。事前にそう決めておったからな。しかし、今から軍勢を率いて、今日中に落とせるのか?垂井城には少し敵兵がいるのであろう?」
「実は池尻城が陥落する半刻前より、堀尾勢と中村勢を先に行かせました。今頃は垂井城の近くまで進出しているはずです。彼等には大手門と搦手門を押さえるように命じておりました。これで降伏してくれれば良し。降伏していなくても、今から行けば半刻で垂井城には行けます。まだ日は高いですから、日没までには決着は着くかと」
これまた淀みなく答える重秀に、一益も黙ってしまった。長秀が横から口を挟んでくる。
「そこまでやっているなら大事なかろう。許す故、早急に垂井城を落として参れ」
長秀の命令に、重秀は「承りました」と言って頭を下げると、踵を返して陣から出ていった。
その後姿を見ながら、長秀は一益に声をかける。
「見事な若武者よ。殿様(織田信忠のこと)が側に置きたくなる気持ちも分かるというものよ」
「しかしながら、筑前の息子は確か今年で十八歳。若い割にしっかりし過ぎて逆に不気味なのですが」
眉を顰めながらそう言う一益に、長秀は「ああ・・・、うん」と意味深な返事を返した。
「そう言われると、上様は十八歳で亡くなられた先代(織田信秀のこと)の跡を継いだが、まだまだ『大うつけ』であったなぁ・・・」
「いや、そこで上様を例に出されても・・・。ただ、それがしが十八歳だった頃は賭博場で大暴れしておりました故、筑前の息子のようにいい子ではありませんでした」
「儂は十九歳で初陣を迎えた。それまではずっと織田家と丹羽家の内政ばかりしておった。よく年上の家臣や一族から務めのことで叱られてばっかりだったのう」
そう言って昔を思い出しつつ話をする一益と長秀。長秀が更に話を進める。
「まあ、筑前のところは一族の層が薄い。使える者であったら、息子も使わなければならなかったのだろう。あそこは正室を早くに亡くしているからな。息子も幼き頃より使わなければならなかったのだろう」
「なるほど。使わざるを得なかったと」
「羽柴にとって運が良かったのは、その息子がちゃんと使える人材だったということ。もしあれが暗愚な息子だったら、一体どうなっていたことやら・・・」
長秀の言葉に、一益はただ黙って頷くのであった。
重秀が垂井城に到着した時、垂井城はすでに開城していた。吉晴と一氏の手勢によって大手門と搦手門が押さえられた時点で、兵達は降伏してきたのだった。
「どうやらここの城主は前々から三木城に入っていたようで、ここにいたのは老兵かまだ子供のような兵ばかりでした」
吉晴の報告を聞きながら、大手門の側に並べられた数人の死体を見た重秀が尋ねる。
「これはなんだ?」
「大手門を占拠した際に抵抗してきた兵です」
「ここに置いては邪魔だ。近くの寺から僧を呼んで引き取ってもらえ」
「すでに手配しております」
吉晴の返答に、重秀が「うん」と答えると、重秀は大手門をくぐって城内に入った。ここからが重秀にとっての戦いが始まるのであった。
城を接収した重秀達がやることは、まずは城内にいた敵方の人間を全て城の一角に集めることだった。それは兵士だけでなく、侍女や小者、そして城主の家族も含まれていた。
垂井城には城主の家族はいなかった。三木城に行ったのか、それともどこかに落ち延びたのかは、今後行われる捕虜への尋問で明らかにされるであろう。
次に城内に残っている物を改める。すでに罠等は重秀が入城する前に吉晴と一氏の兵によって確認、解除がなされていた。後は金銭や兵糧、その他の物を改めるのである。
これらは全て記録された後、羽柴軍の物として接収される。新たな兵糧や軍資金になることもあれば、百姓達を懐柔するためにばら撒かれることもあった。
次は垂井城の城主の領地を調べる。改められた城内の物の中には年貢や労働などの課役を記した書類がある。その書類を元に支配地域を調べ、支配地域の村々に人を派遣して、今後は羽柴の支配地域になったことを宣言するか、村の代表(大体は庄屋である)や商人や職人の代表(大体は座のメンバーの中で有力な人物である)を垂井城に呼びつけて重秀が宣言する。このときに禁制の話し合いがなされる。
更に寺社の代表を集め、守護不入などの確認や禁制の話し合いもなされる。城の修理も同時に行われることになる。
当然こういったことは1日では終わらない。重秀は5日間かけて行うと、検地で残る浅野長吉に後事を託すと、次の攻略目標である来住城へと軍を率いて向かって行った。
重秀が平和裏に接収、もしくは武力で制圧した城は、記録に残っているものだけでも垂井城、来住城、阿形城、葉多城、鯰坂城、河合城、堀井城、小堀城、笹倉城である。他にも地元の伝承であるが、天神山城、鳴尾山城、西脇城、満久城が重秀によって落とされたと言われている。
これらの城で、重秀に馴染みのある城といえば河合城、堀井城、小堀城の三城であろう。この三城は至近距離にあり、この時代には難攻不落の城郭群として有名であった。
秀吉を主人公とした軍記物では、別所長治の家臣で小堀城城主の三枝治吉が立て籠もる三つの城を、重秀が計略と力攻めの硬軟織り交ぜた城攻めで落とし、最後には正則と清正の助けを借りつつも一騎打ちで治吉を重秀が討ち取った事になっている。
しかし、当時の資料によれば、重秀が攻め込むだいぶ前に、治吉は小堀城に火を放って家臣や兵、家族を連れて三木城へ移動していたことが記されている。
史実では恐らく、無人となった三城は重秀によって平和裏に接収されたものと思われる。
重秀の加古川北上は播磨国多可郡にある比延山城への到達によって終了している。比延山城主の本郷好種は前々から織田方の国衆であり、別所とは袂を分かっていた。
好種は重秀の軍勢を快く迎え入れると、周辺の城で逼塞している弱小国衆を集め、重秀の前で織田への忠誠と羽柴への協力を誓った誓紙を差し出させた。
こうして重秀による北播磨平定は終了したのであった。