第13話 ノブナガ・スクール
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天正元年(1573年)十月。大松は岐阜城内にいた。小姓見習いとして犬千代や同じ年代の少年達と寝食を共にしていた。この中には、京の奉行職を務め、秀吉や明智光秀らと共に仕事をした中川重政の嫡男である梅千代(のちの中川光重)や、前田利家の馬廻衆時代の同僚、佐々成政の嫡男である松千代丸もいた。
小姓見習いの朝は早い。寅の刻(午前4時頃)にはすでに起床して身支度を整え、掃除を行う。ここまでは城に上る前と同じ。しかし、掃除する範囲が桁違いであった。岐阜城全てが掃除対象だからだ。
無論、全部を全部隅々までやらないが、さりとて手を抜くわけには行かない。朝の掃除には、掃除の他に夜中に忍びや盗みが入っていないかの確認になるからだ。だから、何かおかしいことがあれば、すぐに先輩の小姓に知らせた。
「私が小姓見習いだった頃は、先輩の小姓が訓練だと称して、怪しい仕掛けとかをしたもんだ。しかし、先輩小姓同士の話のすり合わせがないと、誰が仕掛けたか分からなくなって城中が大騒ぎになってね。結局、小姓による訓練は御屋形様によって禁止されたんだ」
ある日、小姓の仕事を教えていた堀秀政が小姓見習い達に語った。
「では、今ではそういう訓練はやってないんですね?」
大松が質問すると、秀政は首を横に振った。
「いいや、やってるよ。だからお前さん達も気をつけてね」
「分かりました。でも誰が仕掛けてるんです?堀様ですか?」
大松がそう聞くと、秀政はニッコリと笑って答えた。
「いいや、御屋形様さ」
掃除が終われば、朝飯である。朝飯は大体卯の刻(午前6時頃)に摂っていた。これも城に上る前と同じである。違うと言えば、織田信長と一緒に朝飯を摂ったことぐらいであろう。
当時、戦国武将は主君とともに朝飯を食べることが多かった。これは、一日の予定を話し合うためである。つまり、現代で例えるならば、アメリカの企業でよく行われているブレックファーストミーティングのようなものである。
さて、小姓はその仕事の性質上、当然このブレックファーストミーティングに参加しなければならない。ここで信長から色んな仕事を割り当てられたり、信長の一日の予定を知らなければならない。そして、小姓見習いは先輩の小姓の仕事を手伝うことになる。
ちなみに、すべての小姓見習いが一同に信長と一緒に朝飯を食えるわけではない。流石に座敷に全員は入れない。そこで、何人かの組に分けて、日毎に組を変えつつ、信長と朝飯を一緒にしていた。
朝飯が終わると仕事である。先輩の小姓についていって仕事を覚える。小姓の仕事は多彩だ。信長の身の回りの雑務をしたり、城を出て遠方の家臣や領主に使者として赴いたり、領内から上がってくる問題を信長に報告したりもした。信長が鷹狩や領内視察に出るなら護衛として付いて行くし、中奥(信長のプライベート空間)に渡るならそれに付いて行って信長の夜のお仕事の側にいなければならない。
「大松、今日は俺についてきてもらうぞ。仕事の内容は覚えているな?」
「はい、長谷川様。今日は津島より商人の方々が参りますので、その接待です」
「商人の接待には必ず茶の湯が入る。茶道具は何を使って饗すかによって違ってくる。俺が御屋形様と相談して茶道具を揃えるから、お前は茶室の掃除と茶道具の持ち運びだ。分かったな」
こんな感じで先輩小姓の仕事を覚えていった。
仕事が割り当てられなかった小姓見習いは勉学と武術の鍛錬を行った。信長は家臣の子弟を小姓として城で育て上げている。なので勉学も武術も一流の師匠が教えていた。
ここで言う勉学は、寺で学んだこと(読み書き、算術、儒学、漢籍)はもちろん、和歌、連歌、古典、医学、軍学、茶の湯、有職故実などが学ばれた。そして先生も、京から公家や高僧が呼ばれて講義していた。
数多くいる教師の中、特に有職故実を熱心に教えたのは長岡藤孝であった。名門細川家の養子として、その名に恥じぬように厳しく学んできた藤孝は、他者に対しても厳しく教育を施してきた。反発する小姓達には己の知識や己の家名だけではなく、時には己の力(物理的な意味で)によって反発を抑え込んでいった。おかげで大松達は知識を深めていかざるを得なかった。もっとも、大松は後に公家衆と付き合いが深くなるので、この時学んだことが大いに役に立つことになる。
さらに、勉学と同時に武術の鍛錬も行われてきた。織田家中の中でもその道のエキスパートが小姓見習いたちに武術を教えていた。剣術、槍術、弓術、馬術。それに最新鋭の兵器である鉄砲も教えていた。
武術として、水練(水泳の練習)も積極的に行われた。特に、具足を身に着けての水練は徹底的にやらされた。これは、川で溺れないようにするためのものであり、よく岐阜城の水堀で行われていた。
仕事、勉学、武術は晩飯の時間である未の刻(午後2時頃)まで続けられた。晩飯はさすがに信長と一緒ではないが、小姓見習いの仲間たちと一緒に食べることとなる。食べ終わると就寝の時間である酉の刻(午後6時頃)までは思い思いの時間を過ごすことになる。自習したり、仲間と話したり、先輩に相談したりといろんなことをしていた。
「おーい、大松。暇か?」
「万見様?いかがなされましたか?」
「他の奴から聞いたんだけど、お前将棋が強いんだって?」
「はあ、浅野の叔父上から囲碁将棋は習いましたが、囲碁よりは将棋が得意です。強いかどうかは分かりません」
「じゃあ、やろうぜ。他の小姓見習いは弱くて弱くて」
「分かりました。ではお手柔らかに・・・」
そして酉の刻(午後6時頃)に就寝となる。もっとも、一部の小姓見習いは夜の番に付かなくてはならない。夜の番とは要するに宿直である。就寝中の信長の警護にあたったり、お相手したり、城内の夜の見回りをするのである。小姓見習いはこれも先輩小姓と一緒になって手伝うのだが、夜の番はそれだけではない。
「池田様、失礼致しまする。夜食をお持ちしました」
「なんだ、大松か。そこに置いといてくれ。皆で後で食う」
「では後ほど下げに来ますので」
この時代、戌の刻(午後9時頃)に夜食を摂っていたので、小姓見習いは宿直の先輩小姓や、警固の馬廻衆に夜食を持っていくことも仕事であった。
そんな夜の番で、小姓や小姓見習いを震え上がらせたものがあった。それは織田信長との談話である。談話と言っているが、実際のところは信長による戦自慢である。これを聞かされるのだが、なぜかこの話を聞かされる小姓や小姓見習いは、皆眠くなってしまうのだった。別に信長に催眠魔法が使えたわけではない。本来、信長の地声はやや高いものであった。しかし、信長は威厳を見せるため、わざと声を低くして話すのだ。この作られた声がまた抑揚のない単調なものだから、日中、仕事や勉学、鍛錬で疲れている小姓や小姓見習いにとって、信長の話し方は眠くなってしまう話し方になっていたのだ。
大松も、信長が誘う睡魔と常に戦いながら話を聞いていた。戦の体験話なので、辛うじて興味が睡魔を上回っていたが、正直、竹中半兵衛の話より面白くないと心の中で悪態をついていた。もっとも、悪態をつきまくったせいで眠ることを回避できてもいたのだが。
さて、元服前の多感な時期の少年達による集団生活である。仕事や勉学、武術などやることが多くてとても他に何かをやっている場合ではないのだが、やはりあるのがいじめである。
小姓は主君に気に入られれば出世が約束される。なので小姓は常に主君の寵愛を受けるべく努力していた。そして、寵愛を受ける小姓への僻みや嫉妬なんてのもあった。中には色小姓(主君の性的なお相手をする小姓)が痴情のもつれから同僚を殺害する、なんてこともあった。それでなくとも出世が絡むし、出世はお家の大事でもある。なのでどうしても足の引っ張りあいが出てくるのが組織である。そして、大体足を引っ張られる側になるのが低い身分からのし上がってきた者、もしくはその組織内で繋がりの薄い者である。
大松はこの二つに当てはまった。父の秀吉は百姓上がりだし、羽柴家は他家と婚姻関係を杉原、浅野両家以外と結んでいないので、血縁による結びつきが薄い。だからどうしても岐阜城内では孤立してしまう立場であった。しかも母親似の大松の顔はどうしても女っぽく見えるため、そういった意味での嫌がらせも受けていた。
むろん、秀吉はそれが分かっていたからこそ、信長の寵愛を受けている優秀な堀秀政を紹介して、大松の後見人にしようとしていたし、堀秀政もなるべく大松が苦労しないように目を掛けていた。しかし、秀政は多忙の身、どうしても大松だけ見ているわけにはいかない。
ちなみに、犬千代は尾張の前田一門の端くれ。小姓や小姓見習い、馬廻りなどの近習に親戚がいるのでそこそこ血縁のつながりで守られていた。
ある日、些細なことで大松と別の小姓見習いが喧嘩した。ちょっかいを仕掛けた相手を最初は大松は無視していた。しかし、無視が気に入らなかったのか、その小姓見習いは扇子で大松の頭を叩いてきた。さすがに舐められては武門の恥、大松は相手の股間めがけて足蹴りをした。見事ヒットしたのだが、その時の相手の悲鳴を聞いた近くの他の小姓見習い達が集まって大松に殴りかかってきた。実は、集まった人間全てがちょっかいを掛けてきた小姓見習いの一門衆だったのだ。
こういう場合、いつも一緒にいる犬千代が前田一門を召喚してにらみ合いでお終い、というのがパターンであったが、運悪く犬千代は先輩小姓と共に城外に出てたので、この場にはいなかった。結果、にらみ合いではなく集団リンチが始まった。
実はそんなに喧嘩慣れしていない大松。幼少の頃は犬千代と口喧嘩はしたものの、暴力を伴う喧嘩をしようものなら幸姉なりまつが飛んできて喧嘩両成敗として拳骨かお説教が待っていたし、市松と夜叉丸とは喧嘩したこと無いし、市松らと一緒にいて城下のクソガキグループに因縁をつけられた時は、大体キレた夜叉丸と冷静ながらも腕っぷしの強い市松が叩きのめして大松の出番はない。なので今回も大松は何もできずに集団にやられてしまった。
「おい!何をしている!」
殴られたり蹴られたりして朦朧としている大松の耳に、鋭い声が飛び込んできた。
「なんだ。お前には関係ないだろう」
リンチに加担した一人の小姓見習いが言うのが聞こえた。
「小姓同士の喧嘩はご法度だ」
「喧嘩じゃないね。生意気な猿を躾けてやったのよ」
「どうみても人だが?貴殿らの目は節穴か?」
「こいつは羽柴の猿の子だ。人じゃない」
「そうか。羽柴か。じゃあ仕方ない」
「そういうことだ。分かったなら・・・」
「このこと、御屋形様に直に申し上げる」
「はぁ!?なんでだよ!御屋形様関係ねーじゃん!」
「羽柴は北近江十二万石の重臣。その子に手を出せば、家臣同士の争いになるぞ!貴殿ら織田家中で内紛を起こす気か!?」
それを聞いた小姓見習い達は黙りこくってしまった。
「彼の治療はそれがしが行う。貴殿らは沙汰があるまでおとなしくしておれ」
大松を助けた人が言ったその時、小姓見習いの誰かがボソリと呟いた。
「人質だったくせに偉そうに・・・」
助けた人は一瞬だけ鼻白んだが、すぐに言い返した。
「今は御屋形様より禄を頂く直臣ぞ。無礼であろう!それとも、そんなに暴れたいのなら、大河内城以来、野村(姉川の戦いのこと)、越前、小谷で敵と渡り合ったそれがしが相手してもよいのだぞ?」
実戦経験なんか一欠片もない小姓見習い達はその人の気迫に押され、ぶつくさ言いながら去っていった。
助けに入った人は、大松に近づくと「しっかりしろ」と言いながら抱き起こした。大松は気を失っているらしく、返事がなかった。その人はざっと体の様子を見た。額と口脇から血が流れていたが、骨が折れたり目が潰れているということはなさそうだ。
「待っていろ、今治療してやるからな」
そう言うと大松を担いで適当な部屋に入っていった。
大松が目をさますと、そこは知らない天井だった。最も、岐阜城内の建物の天井を全て見る機会など今まで無かったので、知らないのは当然だ。
「・・・?」
庭で集団暴行されたのは覚えているが、その後どうなったかは覚えていない。そして、なぜ室内で寝かされているのかも分からなかった。
「目が覚めたようだな」
天井を見ていた大松の目に、いきなり美丈夫の顔が飛び込んできた。
「・・・ここはどこです?」
「岐阜城内の屋敷の一室だ。怪我の治療はすでに済んでいる。気分はどうだ?」
「悪くはないです・・・」
そう言って大松は起き上がろうとしたが、全身が痛い。しかし、それを我慢して上半身だけ起こした。
「治療して頂き、ありがとうございました。えーっと」
その美丈夫に礼を言おうとしたが、顔を見て大松は困ってしまった。今まで見たこともない顔だったからだ。
「それがしは近江日野城主、蒲生左兵衛大夫が息、蒲生忠三郎賦秀(のちの蒲生氏郷)と申す」
「こ、これは失礼致しました蒲生様。お助け頂きかたじけのうございました。私は近江小谷城主、羽柴藤吉郎の息、羽柴大松と申します」
大松はそう言うと賦秀に頭を下げた。
「ときに、不躾なことをお伺いしますが、あのようなことはよくあるのですか?」
「ちょっかいを出されるのはよくありましたが、あそこまで殴られたのは初めてです・・・。いつもなら犬千代・・・、前田殿と前田の方々に助けていただいておりましたが・・・」
賦秀の質問に素直に答えた大松。それに対して賦秀は憤慨した。
「なんということだ・・・。御屋形様に仕えし小姓が仲間内にて争いを起こせば、いずれ織田家に害をなすでしょう・・・。分かりました。それがしが御屋形様に直にお報せ致す」
「そ、それはあまりにも大袈裟ではありませんか?」
賦秀に大松が慌てて止めようとした。しかし、賦秀は首を横に振った。
「いいえ、羽柴殿。これは由々しき問題です」
そう言うと、賦秀は説明を始めた。
織田信長の小姓になるのは家臣の子弟だけではない。国衆の子弟や同盟相手や隷従してきた他国の子弟も含まれるのだ。こういった子弟は人質としての役割も果たしている。
そんな人質がいじめられて、万が一死亡した場合、どうなるだろうか。原則人質が殺されるのは、人質を出した側が約束を違えた場合である。しかも、些細な約束破りではなく、敵側に寝返るとか、反乱を起こすとか、そういった重大な違反を行った場合である。そういった重大な違反が無いのに人質が死亡すれば、受け取った側が重大な違反をしたことになる。
「そうなれば人質を出した側は敵側に寝返るか、反乱を起こすか、いじめた者の家に報復をするでしょう。そうなれば、御屋形様の面目が潰れますし、織田家に損害が出ます。それ故、御屋形様には隠さずにお報せした方が良いのです」
賦秀が説明を終えると、大松が「なるほど」と呟いた。
「羽柴殿はここでしばしお休みを。羽柴殿が休んでいることは仙千代(万見重元のこと)か竹(長谷川秀一のこと)か勝九郎(池田元助のこと)にそれがしが伝えておきまする。ではこれにて」
そう言うと、賦秀は立ち上がって部屋から出ていった。
その後、蒲生賦秀は手続きに従い、織田信長と面談した。信長からしたらお気に入りの娘婿。アポ無しでも会ってもらえるのだが、元々真面目な賦秀はそういった特権を使うのを嫌っていた。
賦秀から大松の件を聞いた信長は、即座に動き出した。堀秀政を呼びつけると調査を命じた。秀政は後輩小姓だった賦秀の証言を得ると、大松や他の小姓に聞き取りを行った。そして調査結果を信長に報告した。
信長は秀政の調査を元に処分を下した。喧嘩両成敗の掟に従い、大松と、大松を集団リンチした小姓達に罰が与えられることとなった。最も、賦秀の証言により大松は手を出していない(出せなかったとも言う)ので、自宅謹慎三日間となる。一方、集団リンチした側は、大松より年上の者も含めて、全員「幼い故、未だ城勤めの任に耐えられず」として実家に送り返されたのだった。
注釈
中川光重の幼名は資料に残っていないため、小説オリジナルとして梅千代とした。今後、通称や幼名が確認できない人物については小説オリジナルの名前をつけることがある。
注釈
蒲生氏郷の初名の賦秀については、”やすひで”と読むか”ますひで”と読むかで争いがある。この小説では”やすひで”としている。




