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第138話 第二次木津川口の戦い(前編)

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


PV数280万突破しました。ご愛読ありがとうございます。

誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。


連休中の更新について、活動報告にてお知らせがあります。ご一読いただけたら幸いです。


 天正六年(1578年)十一月五日未明。淡路国南部にある福浦泊(現代の福良港)では、日が昇る前から騒がしかった。

 古代より天然の良港として栄えた福良泊には、児玉、粟屋といった毛利直属水軍、山形、香川といった旧安芸武田水軍、乃美を中心とした小早川水軍、能島、因島、来島にそれぞれ拠点を持つ村上三家が率いる村上水軍。そして同盟の誼で派遣された若干の河野水軍の軍船と、石山御坊へ送るための兵糧物資を積んだ弁財船が集結していた。

 これらの船に、日の出前にも関わらず多くの兵が乗っていった。そして、十隻前後の船が一つのまとまりとして福良泊を離れると、一旦東に出た後に淡路島沿いに北上、洲本城を目指していった。

 淡路洲本城は元々は淡路の国衆、安宅あたぎ氏の居城であった。しかし、この頃には三好家から送り込まれた安宅神五郎(安宅清康のことだと言われているがよく分かっていない)が城主として毛利家に従っていた。

 当時の洲本城は山城で海からもよく見えたため、今度の毛利水軍の集結地点のランドマークとして使われることになっていた。なお、洲本城に集結していたのは毛利水軍だけではない。紀伊からは雑賀水軍も集結していたし、菅水軍を中心とした地元淡路水軍も集結していた。


 さて、洲本城近辺の海域に多くの船が集まっているのを、遠くから見ていた船が一隻あった。羽柴水軍の小早『油風丸』である。

 油風とは東海地方から瀬戸内地方の船乗りが言う風の一種で、晩春に吹く南寄りの穏やかな風の事を指す。地域によっては油真風あぶらまぜとも言う。

 羽柴水軍、というより重秀は小早に『松風丸』と付けて以降、風の付いた名前を小早に付けていた。当初は和歌に詠われる風の名前を付けていたものの、大量に作られる小早の数に対応できず、そのストックは底をついてしまった。重秀は和歌から取るのを諦め、皆を集めて宣言した。


「何でも良いから『風』が付く言葉を考えて!それを船の名前にするから!」


 こうして出てきた数多くの『風』が付く言葉が小早に次々に付けられていった。『油風丸』もその一隻であった。


 後日談となるが、羽柴水軍、後の豊臣水軍は多くの小早や関船を抱えることになる。しかし、名前の付け方が面倒になったのか、中には「こんな名前の風や雨、雪なんてないよね?」という名前の船が多く史料に残されている。


 話は戻って、『油風丸』は洲本城沖に続々と船が集結しているのを確認すると、すぐに舳先を北に向けると、三角帆を張って北へと向けて走り出した。この時期の風向きは西、時間帯によっては西北からの風であったが、どちらにしろ帆走できない風向きではなかった。

『油風丸』はひたすら北へ走った。向かうは兵庫津であった。





 その頃、重秀は兵庫津に集結していた関船『村雨丸』にいた。


「なあ、兄貴。城に戻らなくて良いのか?」


「淡路の毛利水軍がいつ出るか分からないんだ。城にいるより船にいたほうが良いだろう」


 重秀は福島正則から何度も同じ質問をされては同じ答えを繰り返していた。


「しかし若。これからは休める時はほぼ無いっす。休める時に城で休んだほうが良いのでは・・・?」


 加藤茂勝の言葉に、これまた重秀は首を横に振った。


「休めるならば船で休んだほうが良いだろう。城まで行って帰ってくる時がもったいないではないか」


「それはそうだけど・・・」


 重秀の予想外の理屈に、茂勝の言葉が詰まった。重秀の言葉は更に続く。


「それに戻ったとしても、奥座敷に俺一人だからなぁ。かえって気が休まらぬ。ここで皆と休んだほうがよっぽど良い」


 兵庫城の奥座敷にはゆかりを始め、重秀の家族はまだ来ていなかった。小一郎が長浜から兵を率いて来る際についていく予定だったのだが、色々調整が取れなかったため、縁達は未だ長浜城にいた。

 そんな訳で、兵庫城の奥座敷には誰もいない。そんな中に重秀が一人休めば、寂しい気持ちも湧き上がるというものであった。もっとも、武士として弱音を吐くことを恥と思う重秀本人は、「寂しい」とは口に出すことはもちろん、態度にも出さないだろうが。


 そんな中、一人の足軽が重秀の側に走り寄ってきた。


「申し上げます!『油風丸』が戻ってまいりました!船長がお目通りを願っております!」


「来たか!」


 そう言って床几から立ち上がった重秀の前に、『油風丸』の船長達がやってきた。船長達は片膝をついて跪くと、重秀に言う。


「申し上げます。毛利水軍が洲本城沖に集結しつつあります」


「洲本城?あいつら洲本城に向かっているのか?今までどこにいたのだ?」


 正則がそう声を上げると、重秀が分かっているような口で話す。


「恐らく福良泊だろう。だが、この時期は西風が強い。恐らく木津川まで帆走できる地点まで移動し、西風を受けて一気に帆走して木津川へ向かおうとするのだろう。そうすれば、木津川口での戦まで水夫の体力を温存できる」


 当時の日本の水上戦では帆走はしない。帆は畳んで人力で船を動かして戦うようにしていた。なので水夫の体力維持や管理は重要であった。


「で?兄貴。俺等はどうする?もう出るか?」


 正則のどこか期待げな質問に対し、重秀は「出る」と即答した。


「恐らく毛利水軍が木津川に現れるのは明日だろう。今出帆すれば、恐らく連中より早く木津川口に着くことができる」


「待って下さい若君。我等は毛利水軍の背後を突くんじゃなかったんすか?ならば、毛利水軍が木津川口に来てから出帆しても遅くはないっす」


 茂勝がそう言うと、重秀は首を横に振った。


「それだと戦に間に合わない恐れがある。それに、いくら陸地に囲まれた難波沖とはいえ、広い海で毛利水軍を見つけ出すのは難しい。ならば、確実に来ると分かっている木津川口に行ったほうが確実だろう。後は少し離れて敵が来るのを待てば良い」


 そう言うと、重秀は正則と茂勝に凛とした声で命じる。


「市、孫六。全関船に出帆を命じる。全船、木津川口へ向かう!」





 摂津国木津川河口。その北側に『龍驤丸』はいた。龍驤丸の役目は木津川河口の南側にいる滝川水軍の白い大安宅船と共に、木津川河口を毛利水軍が遡上させないようにするための最後の砦であった。

 ちなみに九鬼水軍は大安宅船を二隻、木津川河口沖に配備し、残りの四隻は本願寺勢が籠もる木津川口砦の前の海にいた。


 十一月五日の日没前、『龍驤丸』に乗り込んでいた松田利助が沖合から見慣れた三角帆を持つ船の集団を見つけた。彼はすぐに脇坂安治を呼んだ。


「どうした?」


 近づいてきた安治に、松田が海の方へ指を指しながら言う。


「三角帆をつけた船がこちらに近づいております」


 安治が松田の指差す方向に視線を向けると、確かに遠くから特徴的な三角帆を横にして進む複数の船が見えてきた。


「・・・若君か。来るのが早いな」


 安治は一昨日に来た小早の伝令から、「関船隊が兵庫津に到着。毛利方の出方を見て兵庫津から出帆する」との伝言を聞いていた。なので、もう少し来るのは後だと勝手に考えていたのである。


「毛利方は淡路を発したのでしょうか?」


 松田の言葉に、安治は「そう見たほうが良いな」と答えた。そして松田に指示を出す。


「どちらにしろ、あの船が味方だと知らせたほうが良い。九鬼勢はともかく、真鍋勢は羽柴の軍船を見たことがないからな。勘違いされると厄介だ」


 安治の言葉に、松田は頷くと、側にいた兵に「鐘で味方だと知らせろ」と命じた。それから少しして、『龍驤丸』からリズミカルに叩く鐘の音が海に広がった。


 重秀率いる羽柴水軍が合流したことは、すぐに九鬼嘉隆に伝わった。重秀が使者として福島正則を嘉隆のいる大安宅船まで伝馬船で送り込んだからである。


「羽柴殿が加わったか。しかし、やっと真鍋水軍との連携が取れるようになったと言うのに、これに羽柴が加われば、また連携のし直しをしなければならぬな・・・」


 嘉隆がそう言って困った顔をした。しかし、正則がその心配を払拭するかのように語りかける。


「恐れながら、兄・・・我が主も連携については懸念しておりました。そこで、九鬼様のお許しさえあれば、我が羽柴勢は九鬼勢や真鍋勢とは別行動を取りたいと申しておりました」


 そう言うと正則は重秀の考えを嘉隆に説明し始めた。


「・・・なるほど。一旦この海域から離れ、我等と毛利勢が戦っている時に敵の背後を襲うか」


「御意。あくまで我等は助っ人にございますれば、九鬼様の船軍ふないくさの指揮を邪魔する訳には参りませぬ故」


 正則の言葉に、嘉隆が「相分かった」と頷いた。


「羽柴殿にお伝えあれ。背後を襲う時機は貴殿におまかせすると」





 重秀率いる関船隊が『龍驤丸』らと合流した頃、毛利水軍六百隻が淡路に集結したことを報せる秀吉からの書状がやっと信長と織田家の各軍勢に届いた。

 信長はこの報せを受けると、即座に奉行の一人である菅屋長頼を通じて各方面に報せると同時に、信忠に尾張と美濃の軍勢をまとめて安土に来るように命じた。


 尼崎城の池田恒興に秀吉の報せが届いた時には、すでに前々から兵庫城からの情報を受け取っていたため、すでに動員を済ませていた。そして、毛利水軍が洲本城沖に集結中なこともすでに重秀からの早馬で知っていた。


「毛利の水軍六百隻が石山御坊へ向かうことはこれで明白。我等はこれを機に楼の岸砦を攻め落とす!」


 尼崎城の本丸御殿の広間で行われた池田家と摂津の国衆による軍議で、恒興がそう宣言した。側にいた長男の池田元助が恒興に尋ねる。


「父上。楼の岸砦は未だ大勢の一向門徒が立て籠もっておりますが・・・」


「何、実際に攻め落とすわけではない。牽制よ牽制。楼の岸砦から敵兵が出ないようにするのが我等の目的よ」


 恒興の言葉に、元助が「そうですか」と安堵の表情を浮かべなが言った。恒興が話を続ける。


「とは言え、儂等は摂津守(荒木村重のこと)とは違うということを示さねばならぬ。実際に楼の岸砦を攻める必要はある。さて、瀬兵衛殿、右近殿」


 そう言うと恒興は軍議に参加している中川清秀と高山重友の二人に視線を送る。


「両名には楼の岸砦攻めの先陣をおまかせしたい。よろしいかな?」


 恒興の言葉に、清秀と重友は「承りました」と言って平伏した。その直後、元助が声を上げる。


「父上!それがしも中川殿、高山殿と共に先陣を賜りとう存じます!」


「・・・どうした。お主にしては珍しいではないか。武蔵(森長可のこと)でも乗り移ったのか?」


 普段はあまり父親の陣立てに意見を言わない元助の発言に、恒興が訝しんだ。


「父上。大松・・・藤十郎が阿閇城にて武功を挙げました。小姓の先輩としては、負けていられませぬ!」


 元助の発言に恒興は驚いた。あまり他人と戦功争いをするようなことのない息子が、あからさまに他人を意識した発言をしたからだ。


 ―――ふむ。年下で、しかも父親が武士の出ではなかった藤十郎の活躍に焦ったか?発奮するのは構わぬが、あまりにも危なすぎるな―――


 息子の焦りを感じ取った恒興がそう言って眉をひそめた。しかし、それとは別の考えも同時に浮かんできた。


 ―――しかし、元助はいつも先陣を勝蔵(森長可のこと)に奪われてきた。本人も勝蔵の補佐ばかりでは不満であろう。それに、儂の下で実戦経験は積んできた。今後のことを考えて、先陣を任せても構わぬか―――


 そう考えを改めた恒興は元助に命ずる。


「相分かった。勝九郎にも先陣を命じる。手勢を率いて瀬兵衛殿と右近殿と共に楼の岸砦へ攻め込め!」


 恒興の命令を聞いた元助が「承知!」と言って頭を下げた。しかしすぐに頭を上げると、恒興に質問する。


「して父上。いつ攻撃をしますか?」


 恒興が腕を組みながら答える。


「今夜中には野田城と福島城に入っておきたい。また、尼崎の舟手衆も野田城に移し、野田の海から物見をしてもらう。そして九鬼と毛利が戦い始めたら、我等も楼の岸砦へ攻め込もう」





 同じ頃、もはや城と化している天王寺砦でも、柴田勝家が秀吉からの報せを受けていた。もっとも、毛利水軍が淡路に集結していることは、すでに恒興や九鬼嘉隆から警報が前々から来ていた。


「筑前から毛利の水軍が淡路に集結した旨を報せてきた。その数六百隻」


 天王寺砦内の本陣にて、柴田勝家が軍議に参加している者達にそう告げた。しかし、損場にいた者達の反応は薄かった。


「・・・今更その様な報せを貰っても。すでに紀伊守様(池田恒興のこと)からある程度の報せは受けておりますからな」


 佐久間盛政がそう言うと、隣りにいた柴田勝安(のちの柴田勝政)も頷いた。


「・・・筑前はわざと養父ちち上への報せを遅らせたのでしょうか?」


 柴田勝豊が勝家にそう聞いたが、勝家は首を横に振った。


「それはあるまい。西国からこの天王寺まで来る場合、最短距離では石山御坊を通らなければならぬ。そんな事ができぬ以上、京を経由して石山御坊を迂回せねばならぬからな。それで時がかかったのであろう」


「どうだか。筑前は我等に武功を挙げさせたくないのではござらぬか?」


 勝安の言葉に諸将は頷いた。勝家自身は心の中で「それはあるまい」と呟いたが、それが声になることはなかった。


「して、殿。我等は如何致しまするか?」


 勝家が最も信頼を置いている毛受勝照が勝家に尋ねた。勝家ははっきりとした声で答える。


「決まっておろう。これを機に木津川口の砦を奪取する」


 木津川口の砦は柴田勢と石山本願寺勢との間で取ったり取られたりの攻防が続けられていた。しかし、去年の松永久秀、荒木村重の寝返り以降、柴田勢が攻勢に出なかったのを幸いとし、毛利水軍の支援の下、木津川口砦は石山本願寺勢の支配下に置かれ、かつ毛利水軍の出張所と化していた。


「紀伊(池田恒興のこと)から楼の岸砦を牽制のために攻めると言ってきた。さすがは紀伊よ。荒木村重とは違う。我等もこの機に乗じて木津川口砦を奪い、本願寺門主(顕如のこと)の喉元締め上げてくれようぞ」


 勝家の決意を聞いた諸将は、「応っ!」と声を上げて頷いた。


「陽舜房殿」


 勝家が側にいた筒井順慶に声をかける。


「陽舜房殿には天王寺をおまかせしとうござる」


「それは構いませぬが・・・。柴田勢だけで木津川口砦を落とすことはできましょうや?もしよろしければ、我が子藤四郎(筒井定次のこと)を増援に遣わせましょうか?」


 順慶の提案に、勝家が首を横に振る。


「いやいや。それには及びませぬ。陽舜房殿の嫡子は上様の女婿むすめむこ。そのような方を危険な目に合わせることはできませぬ」


「阿閇城にて一千の兵で八千の毛利勢を打ち破った羽柴殿のご子息も上様の女婿ではござらぬか。しかも聞けば藤四郎と同い歳だとか。藤四郎も信貴山城で初陣を迎えましたし、ここで武功を挙げさせても良いかと」


 順慶の話を聞いた勝家は思わず顔を顰めた。順慶の言葉の端々に重秀を小馬鹿にしているような想いが含まれているのを感じ取ったからだ。


 ―――こいつは阿呆か。筑前の息子の初陣は長島一向一揆平定だぞ。その後は設楽原や岩村城、霧山城に紀州遠征、有岡城に花隈城の戦いにも参加しているのだぞ。しかも此度の播磨平定では水軍を率いているんだぞ。最近の信貴山城で初陣を迎えた奴とは実戦経験が違うわ―――


 百姓の出の秀吉に対して思う所のある勝家にとって、重秀の存在は前々から気になる存在であった。信忠のお気に入りで、嫌がっていたお市の方が茶々を嫁がせる気持ちに変えさせる程の男である。ますます気になっていた。

 茶々の乳母達が調べていたことと、可愛がっていた前田利家が重秀のことをよく知っていることから、重秀の詳しい情報は勝家も知っていた。秀吉の息子ということで、勝家はもたらされた情報を話半分に聞いていたが、それでも織田家の次世代を担う優れた若者であることは間違いなかった。

 そんな勝家から見た順慶の物言いは、何も知らない者の戯言にしか聞こえなかった。それ故、順慶に対する回答はあまり友好的なものではなかった。


「陽舜房殿、これは石山本願寺攻めの総大将たる修理亮の命である。陽舜房殿はご子息と共に天王寺砦を守られたし」


 そう言われた順慶は一瞬だけ勝家に対して不満げな表情を浮かべた。


 ―――相変わらず不遜な男よ。前右府様(織田信長のこと)の義弟だからといって調子に乗りおって。そんなことだから摂津(荒木村重のこと)や霜台(松永久秀のこと)は毛利に寝返ったのに―――


 そう思いつつも、勝家と諍いを起こしたくない順慶は、表情をすぐに元に戻すと、黙って頭を下げた。

 その様子を見ていた勝豊は、一抹の不安を感じざるを得なかったのだった。


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[良い点] 本願寺を追い詰めた柴田陣営で不穏な影が
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